高野房太郎とその時代 (41)4. アメリカ時代(19)ルーシーからのラブレター1892(明治25)年10月下旬、房太郎はタコマを発ち、5年ぶり2度目の一時帰国をしています。日本滞在中の房太郎へタコマのルーシー・クラークが出した〈ラブレター〉が残っているので、この帰国日時が分かります*1。この〈ラブレター〉は、房太郎が出した手紙への返事ですが、アメリカにおける房太郎の青春時代の秘められた一面をかいま見せてくれます。いろいろ言う前に、まずはその内容を紹介しておきましょう*2。 ワシントン州タコマ、1892年11月27日
何回もミス・ネリーの名が出てくることや、girls(女たち)などという言葉などから推して、ルーシーは、ミス・ネリーが経営する酒場、またおそらくは売春宿でもあった店で働いていた女性でしょう。問題は房太郎と、このネリーの店、それにルーシーとの関係です。顧客か、それとも彼自身がそこで働いていたのか、そのどちらかでしょう。こうした手紙が来るところから推すと、彼はルーシーの馴染み客だったとみるのがいちばん自然ですが、もしそうだとすると、ルーシーだけでなく、ミス・ネリーやパッド夫人ら他の人にも手紙を出している点が少々気になります。それにフランク、バーサ、エディ、チャーリー、テディ、アンダーソン夫人、パッド夫人などと、何人もの共通の知人の名が出てくるのも、客としては不自然です。やはり房太郎はこの店でウエイターなどとして働いていたものでしょう。したがって、この手紙も馴染み客を繋ぎ止めるために出した職業上のものというより、自分の気持ちを伝える〈ラブレター〉とみてよいと考えます。 二度目の一時帰国も文字どおりいっときの滞在でした。サンフランシスコで発行されていた日本語雑誌『遠征』がそのことを伝えています*3。「高野房君」と題する小文で、筆者はKANと署名しています。帰米後の房太郎の動静を知る大事な手がかりですし、在米日本人仲間の間で房太郎がどのように見られていたかを伝える点でも貴重ですから、以下に、その全文を引用しておきましょう。なお、文中にある「黙囀」は遠征社同人の竹川藤太郎の号で、彼は、房太郎が晩年に中国で貿易業にたずさわった時、パートナーとなった人物です。「黒沢国手」とは、サンフランシスコで数少ない日本人医師の黒沢格三郎のことで、彼の家は病院であると同時に、日本人の社交場的な役割も果たしていたのでしょう。かけことばのある戯文を現代語に直すのも芸のない話なので、句読点だけ加え、原文通りに記しておきます。 労働問題論者として、其名も高野君、客冬来音容絶て久しく空しかりしが、過頃吾等黙囀と伴ふて黒沢国手を訪ひしに、思ひ懸なく邂逅して、是れはこれはと久闊を叙しけり。君は昨臘タコマを去て暫らく故国に灌ぎしも、我侭の亜米利加育は窮屈の日本に尻据らず、又々飛んでタコマに渡り、今は流れて此地に来れりとありければ、黙囀例の通り、是は又去就往還の速なる電光石火、世に謂ふ電光伯とやらの御弟子には御座候ずやと駝洒落を吐て一同哄然。黙囀猶も語を続ぎ、君たり僕たり、イヤサ之は辷れり、敏活機智の才子が幾度も逡巡、去るかと思へば何の馬鹿ののっそりが得意の成功、偖も浮世は不思議で御座ると、除ろ々々煽で掛れば、談話ハ愈興に入りて、果ては本音の労働問題遠征第廿九号米国の悪政支那人放逐令は誰君の所説かハ知らねど、吾等一切心得へずとの難問。はてにぞと己も乗り出し、左様さ此男の様なる才智と云へる生意気の性分あるものハ、失敗に失敗を重ねでは業ハ亡びず、とどの結局八顛八起して□□なり。マー其間は遠征紙上に得意の労働問題でも持出して一花咲かせ玉へと惨々油を取りてグッドナイトの手を握りしか、間もなく君はシカゴへと雲霞。実にも須早ひ事なり。サルにても壁の耳海の底にも電信機の世の中、二仙の切手て音信の鳥は飛ぶものを、無音無信は罪で御座るぞ、高野房君
『遠征』は、在米日本人のうち、実業に志を抱いていた人びとが集まった海外実業同志会の機関誌で、主に非クリスチャンの論客が集まっていました。房太郎は、この雑誌を舞台に、同じくサンフランシスコで発行されていた日本語新聞『愛国』の記者に論争を挑み、〈労働問題論者〉として広く知られていたのでした。 それでは、今回の一時帰国の目的は何だったのでしょうか。その答は帰国1年前、1891年10月20日付の房太郎から岩三郎宛の手紙のなかにあります。 来年5月に商業学校を卒業した後どうすべきかは、この頃しきりに頭に浮かぶことです。まだ、これという決心はついていませんが、そちらの都合によっては、大きな決断をくだしたいと思っております。すでにこの国に来てから5年余り経ちますから、何とかしなければいけないと思うのですが、そちらへ仕送りをしなければならないことが、小生の行動の自由を束縛しています。望むらくは、貴弟が内職の口を見つけ、小生の責任を免除してくださることです。しかしこういうことは、きちんと計画をたてた上でなくては進めることは出来ません。そちらの都合が整った上で決心したいと考えています。一度、帰国するか、そうでなければ東部の諸州に行くか、あるいは南米かメキシコへ行くか、あるいは船乗りとなるかといったことを考えています。ついては、貴弟がもし内職の口があれば母上の生活をたてるのに差し支えないのか、あるいはまだ依然として小生からの送金を必要とするのか、お伺いしたいと思います。もちろん、小生の送金の義務を免れたいと考えている訳ではありませんが、今後のためにお伺いしておきたいと思っている次第です。
要するに、1892(明治25)年に帰国したのは、岩三郎と将来計画について話し合い、仕送りの義務を免れて行動の自由を確保することが主目的だったと思われます。この年7月、岩三郎は第一高等中学校を卒業し、9月には東京帝国大学法科大学に入学していました*4。年齢もすでに満21歳に達していましたから、「そろそろ仕送りに頼らず自立してくれ」と注文をつけられても当然の年頃でした。 【注】*1 彼の帰国日時を10月末と推定したのは、同年10月15日付でニューヨークの書店からの書簡がタコマの高野房太郎宛てに届いており、おそらく10月20日頃までは彼がタコマにいたことと推測されるからである。一方、ルーシーの手紙によれば、房太郎が日本から出した手紙は同年11月24、5日ころにはタコマに届いている。日本から出した郵便がアメリカに届くには最低15日はかかるから、房太郎が日本に着いたのは11月10日以前であることは確かである。一方、アメリカから日本への船旅の所要日数も17、18日前後である。つまり、10月下旬にはアメリカを発っていなければならない。 *2 ルーシー・クラークの手紙の原文はA Letter of Lucy Clark to Fusataro Takano, Nov.27, 1892を参照。
*3 『遠征』第31号、1893(明治26)年8月。 竹川藤太郎氏体躯短少〔ママ、短小〕を以て知られ、濱田房次郎氏豆男の名あり。石坂公歴氏、武藤武全氏、若くは在タコマ高野房太郎氏共に相伯仲す。而も皆是気概才鋒あるの士、余れ今にして『大男総身に智恵が廻り兼ね』の虚ならざるを知る。 *4 第一高等中学校は、1886(明治19)年4月に東京大学予備門を改組して設置された。予科3年、本科2年の計5年である。岩三郎は1887(明治20)年9月、同校の予科3級に入学した。1894(明治27)年の高等学校令によって第一高等学校(一高)となった。 |
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