高野房太郎とその時代 (65)6. 労働運動家時代労働組合期成会の創立
職工義友会主催の最初の演説会が予想以上の成功をおさめたことで、房太郎らは、ただちに次の活動を開始しました。6月25日の演説会の後で、会場に残ってもらった有志の人びとに約束した「労働組合期成会の発起会」の開催準備です。 さて、ここで時間的にはちょっと逆行しますが、発起会開催にいたるまでの準備状況を確認しておきたいと思います。労働組合期成会の創立者は誰であったかを明らかにするためには、不可欠の作業だからです。高野『日記』の関連箇所を見ておきましょう。 6月26日(土) この日記を見てちょっと気になるのは、城常太郎の名が見あたらないことです。6月25日の演説会の準備まで、城は高野とともに積極的に動いていたのに、なぜ肝心の「発起会」準備の最終段階でその名が出てこないのでしょうか。もっとも、発起会では高野、沢田と並んで城も「仮幹事」に選ばれていますから、当日はおそらく出席していたと思われます。いずれにせよ高野『日記』では、6月25日の演説会以降、城の名は目立って少なくなります。ことによると病気だったのか、あるいは平野永太郎とともに東京を離れ、神戸へ移住する計画がすでに進展しつつあったのかもしれません。もうひとつの可能性は、期成会の発足にともない、その事務所が沢田半之助方に設けられたことの影響でしょう。これまで『日記』に「城氏方ニ至リ」が頻出したのは、職工義友会の事務所が城の家に置かれていたからだったのでしょう。
同時に、この『日記』の記述で注目されるのは、房太郎が期成会設立の相談相手として鈴木純一郎をたいへん頼りにしていた事実です。演説会の翌日には、彼を訪ね発起会についての相談をしており、またその開催日や会場も、鈴木と相談した上で決めています。 そのことは片山自身も認識しており、『自伝』において次のように述べています*4。 近世日本に於て労働問題の声を揚げた者は、皆米国帰りの三人、即ち高野房太郎(高野岩三郎博士の兄)沢田半之助(銀座の洋服店)及城常太郎(靴工 つまり、労働組合期成会が発足するまでの片山は、応援弁士のひとりとして運動を支援する立場に留まっていたのです。片山は、アメリカの宣教師から毎月25円の給与を受けるキングスレー舘館長という本業をもち、キングスレー舘を本拠にキリスト教の布教につとめ、種々の社会事業を発展させる責務を負っていたのでした。彼の労働組合期成会に対する態度は、あくまで受動的なものだったのです。片山潜が、自らの意思で労働運動に力を入れるようになるのは、本人も認めているように、1897年12月に創刊された『労働世界』の主筆となった後のことなのです。
これまで、多くの歴史家は、片山が『労働世界』の主筆として労働組合期成会の中心的指導者となった事実と、片山が期成会の創立時から会員であった事実から、ただちに彼を高野と並ぶ労働組合期成会の創設者の一人と位置づけがちでした。なかには、片山潜の名を高野房太郎より前に出す筆者さえいます。しかし、高野房太郎と片山潜とでは、労働組合期成会の結成に際して、その果たした役割に決定的な違いがある点を見落としてはならないでしょう。 寄付金控 見られるとおり、発起会開催費として5円の寄附のうち、その半ば以上を鈴木が負担しているのです。このように、労働組合期成会の創設を語るとなれば、片山潜よりは鈴木純一郎が果たした役割の方が大きいことは明らかです。ただ、なぜか鈴木純一郎は、佐久間貞一ほどにも、日本の労働運動史に名を残すことがありませんでした。彼はその生没年さえ明らかでなく、その経歴も多くの不明箇所を残しています。この機会に、この謎の男・鈴木純一郎の事績を少しでも掘り起こすことが出来ればと考えています*6。 【注】
*1 労働組合期成会発起会の開催日、つまり労働組合期成会創立の日は、史料によって違いがあり、7月3日、同4日、同5日と3つの異説がある。すなわち、横山源之助『内地雑居後の日本』は7月3日、『労働世界』の「労働組合期成会成立及び発達の歴史」が7月4日、片山・西川『日本の労働運動』は7月5日説である。私は7月5日が正しいと考えている。その根拠は、高野『日記』6月30日および7月5日の記述、および『労働組合期成会 寄付簿』の記録である。 *2 労働組合期成会の規約は片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』に収録されている。ただし、第3条に「本会は事務所を東京市日本橋区本石町壱丁目十二番地に置く」と記されていることから分かるように、創立時に制定された規約そのままではない。鉄工組合が事務所を本石町に買い求めたのは1899(明治32)年5月のことである。したがって、『日本の労働運動』に収録されている規約は、これ以後のものである。
*3 たとえば、インターネット上で公開されている百科事典サイトのウィキペディアの「労働組合」の項には、次のような解説があります。 日本最初の労働組合は、アメリカで近代的な労働組合運動を経験した高野房太郎や片山潜らによって1897年に結成された職工義友会を母体に、同年7月5日に創立された労働組合期成会である。 この短い説明の中には、何と3つもの誤りがあります。第1は職工義友会の創立者に片山を加えていること、第2は、高野や片山を「アメリカで労働組合運動を経験した」としていること、第3は労働組合期成会を労働組合の嚆矢としていることです。片山は職工義友会に加わったことはありませんし、アメリカの労働組合運動を経験してもいません。また、労働組合期成会は労働組合ではないのです。 *4 片山潜『自伝』(岩波書店、1954年刊)、216〜217ページ、219ページ。 *5 詳しくは、第43回「東部への旅(2) ─ グレイト・バーリントン」参照。 *6 この課題については、本稿執筆後、第68回「鈴木純一郎のこと」、および第85回の「鈴木純一郎再訪」で、不十分ながら取り上げた(この注は、2017年4月1日追記)。 |
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