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高野房太郎とその時代 (65)




6. 労働運動家時代

労働組合期成会の創立

労働組合期成会発起会寄附簿

 職工義友会主催の最初の演説会が予想以上の成功をおさめたことで、房太郎らは、ただちに次の活動を開始しました。6月25日の演説会の後で、会場に残ってもらった有志の人びとに約束した「労働組合期成会の発起会」の開催準備です。
  たぶん「鉄は熱いうちに打て」という気持ちだったのでしょう、演説会からわずか10日後の7月5日の夕方、発起会は開かれました*1。会場は京橋区北槇町の貸席「池の尾」、ここに71人が集まりました。25日の演説会の後で会場に残ったのは40人ほどでしたから、新たに30人前後が加わったわけです。発起会では、鈴木純一郎の演説があった後、会の規約について討議決定し*2、最後に高野房太郎、城常太郎、沢田半之助の3人を「仮幹事」とし、規約にもとづく役員選出までの運営を委ねました。ここに労働組合期成会は正式に発足し、房太郎の長年の夢もようやく実現に向けて第一歩を踏み出したのでした。
  なお、「労働組合期成会」を日本最初の労働組合と理解されている向きがありますが*3、これは誤りです。労働組合期成会は、その名のとおり労働組合の成立を期する会、労働組合運動に関する宣伝啓蒙団体だったのです。会員は労働者が主でしたが、知識人も正規の会員として参加していました。

 さて、ここで時間的にはちょっと逆行しますが、発起会開催にいたるまでの準備状況を確認しておきたいと思います。労働組合期成会の創立者は誰であったかを明らかにするためには、不可欠の作業だからです。高野『日記』の関連箇所を見ておきましょう。

 6月26日(土)
  此日午前沢田方ニ至リ、夫レヨリ鈴木氏ヲ訪ヒ期成会発会式ニ附キ談話シ、后七時気車ニテ出濱ス。

 6月30日(水)
  此日午前十時片山氏及沢田氏ヲ訪ヒ、后一時半仝行鈴木氏ヲ訪ヒ、期成会発起会ヲ五日池ノ尾ニテ開クコトニ定メ、求友亭ニテ晩餐シ、后九時帰宅す。

 7月3日(土)
 期成会員ヘ通知書ヲ出ス。
 沢田氏方ヘ至ル。

 7月5日(月)
  此日午后布川孫市氏来ル。閑話数刻ニシテ去ル。直ニ沢田氏宅ニ至リ、五時ヨリ相携ヘテ牛肉店ニテ晩餐シ、池ノ尾ニ至ル。
  此夜期成会発起会ニ列スル者七十名。

 この日記を見てちょっと気になるのは、城常太郎の名が見あたらないことです。6月25日の演説会の準備まで、城は高野とともに積極的に動いていたのに、なぜ肝心の「発起会」準備の最終段階でその名が出てこないのでしょうか。もっとも、発起会では高野、沢田と並んで城も「仮幹事」に選ばれていますから、当日はおそらく出席していたと思われます。いずれにせよ高野『日記』では、6月25日の演説会以降、城の名は目立って少なくなります。ことによると病気だったのか、あるいは平野永太郎とともに東京を離れ、神戸へ移住する計画がすでに進展しつつあったのかもしれません。もうひとつの可能性は、期成会の発足にともない、その事務所が沢田半之助方に設けられたことの影響でしょう。これまで『日記』に「城氏方ニ至リ」が頻出したのは、職工義友会の事務所が城の家に置かれていたからだったのでしょう。

 同時に、この『日記』の記述で注目されるのは、房太郎が期成会設立の相談相手として鈴木純一郎をたいへん頼りにしていた事実です。演説会の翌日には、彼を訪ね発起会についての相談をしており、またその開催日や会場も、鈴木と相談した上で決めています。
  これまで労働組合期成会の創立者として高野房太郎とともに名があげられて来たのは、もっぱら片山潜でした。しかし、これはかならずしも正確ではありません。もっとも、房太郎は6月30日には片山潜を訪ねており、期成会発起会について事前に片山に話していたことは確かです。また8月1日に開かれた第1回定例会では、片山は5人いる幹事の1人に選ばれており、さらに1897年12月以降『労働世界』の主筆として期成会の中心的指導者となって行きますから、労働組合期成会の創立者の一人して片山の名をあげるのが誤りだと言っているわけではありせん。ただ、期成会の創立者として名をあげるとすれば、まず高野房太郎、ついで沢田半之助と城常太郎、鈴木純一郎の順にすべきで、片山潜の名をあげるとすれば、この後に来るべきだと考えているのです。

そのことは片山自身も認識しており、『自伝』において次のように述べています*4

 近世日本に於て労働問題の声を揚げた者は、皆米国帰りの三人、即ち高野房太郎(高野岩三郎博士の兄)沢田半之助(銀座の洋服店)及城常太郎(靴工ママ)で、此等の尻押しをした者は鈴木純一郎と云ふ男であつた。〔中略〕
  予はキングスレー舘の主人株ではあつたが別に之と云ふ定まつた職業もなければ、また金まうけもて居無いし、何も演説が上手と云ふ訳でも無く或は労働問題の専門家でもなかつたが、演説家の頭数には利用されて、何時でもきまつて出席して演説した。で段々其の労働社会に知られるに至り……到頭労働問題の専門家と成るやうに成つた。
  其の頃の予はあらゆる労働問題に関した演説会に出席したが、相談会にも加わっただけで別に之が幹部の一人でも何でもなかつた。〔中略〕
  予が労働運動に身を入れて尽力し始めたのは『労働世界』を発行する様になってからである。

 つまり、労働組合期成会が発足するまでの片山は、応援弁士のひとりとして運動を支援する立場に留まっていたのです。片山は、アメリカの宣教師から毎月25円の給与を受けるキングスレー舘館長という本業をもち、キングスレー舘を本拠にキリスト教の布教につとめ、種々の社会事業を発展させる責務を負っていたのでした。彼の労働組合期成会に対する態度は、あくまで受動的なものだったのです。片山潜が、自らの意思で労働運動に力を入れるようになるのは、本人も認めているように、1897年12月に創刊された『労働世界』の主筆となった後のことなのです。

 これまで、多くの歴史家は、片山が『労働世界』の主筆として労働組合期成会の中心的指導者となった事実と、片山が期成会の創立時から会員であった事実から、ただちに彼を高野と並ぶ労働組合期成会の創設者の一人と位置づけがちでした。なかには、片山潜の名を高野房太郎より前に出す筆者さえいます。しかし、高野房太郎と片山潜とでは、労働組合期成会の結成に際して、その果たした役割に決定的な違いがある点を見落としてはならないでしょう。
  労働組合期成会の構想は、高野房太郎が在米時代から考えぬいてきたものでした。1894(明治27)年に、彼がアメリカ労働総同盟の会長に宛てて最初に手紙を出した時には、この構想はすでに固まっており、この構想に対するゴンパーズの意見を求めていたのでした*5。また、6月25日夜、期成会結成を決意し、提唱したのも他ならぬ高野房太郎でした。一方、片山潜はといえば、高野房太郎の提唱を受け、賛同者のひとりとして会に加わったのでした。その意味で、労働組合期成会の創立者として高野と片山の名を並べて記すのは、まして片山の名を先に出すのは、歴史的評価として不正確であると言わざるを得ません。
  もうひとつ忘れてならないのは、鈴木純一郎の存在です。鈴木は、房太郎が帰国直後から、公私にわたって相談にのってもらい、支援を受けてきた人物でした。すでに見たとおり、発起会開催について、房太郎は鈴木と相談した上で、日取りなども決め、さらに当日は、鈴木だけが演説しています。また、発起会の費用も鈴木の寄附によってまかなわれた部分が大きいのです。冒頭に掲げた写真は発起会費用を寄附した人びとについての記録です。

            寄付金控
 明治三十年七月五日開会ノ発起会費用トシテ寄附セラレタルモノ左ノ如シ
一 金三円       鈴木純一郎君
一 金一円五十銭  高野房太郎君
一 金五十銭     沢田半之助君 

  見られるとおり、発起会開催費として5円の寄附のうち、その半ば以上を鈴木が負担しているのです。このように、労働組合期成会の創設を語るとなれば、片山潜よりは鈴木純一郎が果たした役割の方が大きいことは明らかです。ただ、なぜか鈴木純一郎は、佐久間貞一ほどにも、日本の労働運動史に名を残すことがありませんでした。彼はその生没年さえ明らかでなく、その経歴も多くの不明箇所を残しています。この機会に、この謎の男・鈴木純一郎の事績を少しでも掘り起こすことが出来ればと考えています*6


【注】

*1 労働組合期成会発起会の開催日、つまり労働組合期成会創立の日は、史料によって違いがあり、7月3日、同4日、同5日と3つの異説がある。すなわち、横山源之助『内地雑居後の日本』は7月3日、『労働世界』の「労働組合期成会成立及び発達の歴史」が7月4日、片山・西川『日本の労働運動』は7月5日説である。私は7月5日が正しいと考えている。その根拠は、高野『日記』6月30日および7月5日の記述、および『労働組合期成会 寄付簿』の記録である。
 もちろん『日記』は、当日執筆したとは限らず、後日に記入した場合などに日を間違えた可能性は皆無ではない。しかし、『日記』6月30日の項には「期成会発起会ヲ五日池ノ尾ニテ開クコトニ定メ」と記されており、ここで日にちを間違える可能性は低い。さらに本稿冒頭の写真は『労働組合期成会 寄付簿』の第1ページであるが、「明治三十年七月五日開会ノ発起会費用トシテ寄付セラレタルモノ左ノ如シ」と明記されている。以上から、労働組合期成会の発起会は1897年7月5日に開催されたとして、間違いないであろう。

*2 労働組合期成会の規約は片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』に収録されている。ただし、第3条に「本会は事務所を東京市日本橋区本石町壱丁目十二番地に置く」と記されていることから分かるように、創立時に制定された規約そのままではない。鉄工組合が事務所を本石町に買い求めたのは1899(明治32)年5月のことである。したがって、『日本の労働運動』に収録されている規約は、これ以後のものである。

*3 たとえば、インターネット上で公開されている百科事典サイトのウィキペディア「労働組合」の項には、次のような解説があります。

日本最初の労働組合は、アメリカで近代的な労働組合運動を経験した高野房太郎や片山潜らによって1897年に結成された職工義友会を母体に、同年7月5日に創立された労働組合期成会である。

 この短い説明の中には、何と3つもの誤りがあります。第1は職工義友会の創立者に片山を加えていること、第2は、高野や片山を「アメリカで労働組合運動を経験した」としていること、第3は労働組合期成会を労働組合の嚆矢としていることです。片山は職工義友会に加わったことはありませんし、アメリカの労働組合運動を経験してもいません。また、労働組合期成会は労働組合ではないのです。

*4 片山潜『自伝』(岩波書店、1954年刊)、216〜217ページ、219ページ。

*5 詳しくは、第43回「東部への旅(2) ─ グレイト・バーリントン」参照。

*6 この課題については、本稿執筆後、第68回「鈴木純一郎のこと」、および第85回の「鈴木純一郎再訪」で、不十分ながら取り上げた(この注は、2017年4月1日追記)。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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