横山源之助「労働運動卒先者の死」


● 労働運動卒先者の死(上) 
                   横山 源之助

 友人高野房太郎君は、支那山東省膠洲湾に於て、肝臓病を以て死せり。刻下(こっか)〔現在〕我国は、帝国主義発展の絶頂に在り。此時に於て、我が高野君の死の如きは、一兵卒の死よりも、世人の重んずる所とらず。しかれども欧州諸国の例を以てすれば、戦争が常に其の結果に於て、労働問題を喚起せるを思へば、余輩は今日君の死を聞いて、無限の感慨なき能はあたわざるなり。
 かえりみれば、最近三四年、我国に於ても、労働問題を論議するの声、年一年、増加し来れり。其の解決方法として、或は社会主義を言ふ者あり、社会改良主義を称ふる者あり、しこうして政府は工場法案を発布せんとし、労働者自身も、長夜の夢よりめて、団結の必要を認め来れる者の如し。かもくの如きは、日清戦役以後の現象にして、戦捷の景気を受けて、各地に諸種の工業勃興したる際、偶々たまたま君が、北米労働団体の代表員として、運動を開始せしに初る。しこうして一年ならずして、早くも労働演説行はれ、労働組合起り、遂に今日の如く、社会の一角に、一條の潮流を示すに至れるなり。
 けだし君が労働運動に従事せるは、北米に在りし頃よりにして、労働に従事せるかたわら商業学校に学生たりし時、既に志を労働問題に潜め、明治二十三年〔正しくは明治二十四年〕同志七八人を集めて、職工義友会を組織し、米国移民局の吏員と為るや、深く移民問題に心を寄せ、大に移民の為に尽す所あり。後桑港サンフランシスコを去つて沙都シアトルに赴き、農業者の間に入り、次いで紐育ニューヨークの労働運動者ガントン氏〔ゴンパーズの誤り〕の率ゆる労働団体に入り、親しく其の運動に従事す。
 之を以て明治二十九年、欧州各地を巡視して帰朝するや、しばらく横浜の英字新聞、アドブアタイザの記者と為りて、操觚そうこ〔文筆に携わる仕事〕に従事せしが、翌三十年、在米の同志にして、帰りて東京に在る者と語り、麹町区内幸町に義友会事務所を設け「職工諸君に寄す」と題して
一 一郡市内同業者七人以上ある職業者集りて地方聯合団を設くべし
二 一郡市内に在る種々の同業組合聯合して地方聯合団を設くべし
三 全国処々に在る地方同業組合聯合して全国同業聯合団を設くべし
四 全国処々に在る全国聯合同業団を聯合して大日本同盟団を設くべし
 と呼号して、無数の印刷物を府下の労働社会に配布し、我労働社会の迷夢を覚破かくはす。是れ我国に在りては、労働問題の提供せられたる最始の声にして、同六月、君は片山潜氏を誘ひ、神田青年会館に、故佐久間貞一氏等と共に、演説会を開けるもの、恐くは我国に於ては、労働者を相手とせる演説会を見たる濫觴らんしょうなるべし。
 (『毎日新聞』明治三七年五月四日付)

● 労働運動卒先者の死(下)
 言論社会に新面目を示したる君等は、翌七月、「労働は神聖なり、団結は勢力なり」の二言を信条とせる労働組合期成会を創立して、労働運動は一歩を進め、同十二月、千百八十四名の鉄工を翕合(きゅうごう)〔=糾合〕して、鉄工組合を組織せるなり。余の君を知りたるは、実に此の労働運動発酵の時と為す。
(当時、余、関西地方の工場視察を終りて、帰京、偶々片山氏の招きに応じ、晩餐を共にせる際(たつ)〔とびら〕を排して、君の来り会せるを以て初めと為す。アヽ今や片山氏は、北米に在り、君は長へ(とこしえ)に去つて天上に逝けり、茫として夢の如し)
 加之(しかのみならず)、君は労働者を翕合(きゅうごう)するを以て安んせず、翌三十一年「会員及組合員の間に日常消費する物品を配布し其生計上の便宜を得せしむるを目的」とせる共働店──消費組合を起せり。啻に之を労働者に奨励せるのみならず、身自ら前垂に筒袖を着け前には横浜に、後には石川島造船所の職工を中心として、京橋八丁堀に共働店を起こし、君之を主宰す。けだし消費組合は、君の最も心血を凝せる所にして、君は、共働店と生死を同ふすべしとさへ言へることあり。
 当時君の前垂的奨励は、着々として効を奏し、各地其の風に倣ふならう者多く、福島、原ノ町、平、黒磯、仙台、青森等の東北地方最も盛大を致せり。
 是れ我労働運動勃興当時の状況なり。騎虎の勢を以て増進したりし労働運動も、一二年にして頓挫とんざを示し、君が心血を注ぎたる消費組合も、亦失敗に終り、遂に君をして再び実業の人と為るの已むを得ざるに至らしめたり。当時余、を養ふて〔病気療養のため〕故郷に在り、君、一書を送りて余に其の衷情ちゅうじょうを語り、「今十年隠忍して、おもむろに労働者の為に尽す」べきを約して去れるなり。
 然かも君、清国に赴きて、五年、其の半に達せるのみ。而して生年、僅に三十七。君は封建時代破れ、新時代に入りたる明治元年を以て、長崎に生れ、日露戦争開かれたる明治三十七年を以て、逝けるなり。
 令弟、高野大学教授、悵然(ちょうぜん)〔恨み嘆いて〕として曰く、「兄は失敗の人なりき」と。然り一己の事業に於ても、社会の事業に於ても、君は何等の成功を見ずして、世を去れり。然れ共君が二三年の活動は、労働運動史の第一頁を作れり、一の成功ならずとせじ。特に在米十幾年間、労働の傍、中学校を経て、商業学校を卒業し、其の間身を節し、毎月故国に十弗宛の金額を送りつヽありしが如きは、最も余輩の服する所、活する立志編中の人といふ、亦不可なからん。日露戦役後、澎湃ほうはいとして起るべき労働運動の上に、君の如き活動の士を今日に失へるは、最も余輩の惜しむ所なり。
  (『毎日新聞』明治三七年五月九日付)



 ここではほぼ原文通りに翻字しているが、適宜読点を句点に改め、漢字は現行の字体に直している。




Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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