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二村 一夫

全国坑夫組合の組織と活動(2)



    目 次

  1. はじめに
  2. 全国坑夫組合の結成
  3. 組織構想の検討
  4. 本部の活動
  5. 組織の実勢
  6. 地方組織の実態──夕張聯合会を中心に



4. 本部の活動

 前回述べたように、全国坑夫組合の特質のひとつは、上から組織化が進められた点にある。すなわち労働運動について一定の展望をもった知識人を中心に、組合の組織形態や機能についても一定のプランをもち、これにもとづいて組織されたのである。したがって本部の果した役割は、組合運動全体にとって大きな比重をもっていた。
 この本部の活動の全容を示す貴重な資料が法政大学大原社会問題研究所に所蔵されている。次に掲げる第1表「本部会計支出一覧」である。これは、後掲の第4表「支部別会費納入状況」とともに洋罫紙3枚をつなぎ合わせたものの表裏に記されている。誰が作成したものかは明らかでないが、大原社会問題研究所が行っていた労働組合調査のファイルに会則や趣意書とともに収められていたものである。おそらく3組合が合同した時点で、全国坑夫組合の本部員の手によってまとめられたものと思われる。これが全国坑夫組合のものであることは、2つの一覧表の間に次のように記されていることから明らかである。

 一、名称 全国坑夫組合本部
 二、全国的炭鉱山ニ於ケル坑夫同職組合
 三、事務所 東京都麻布区今井町九番地
 四、創立 大正八年九月三十日
 五、入会金弐拾五銭、会費毎月弐拾銭
 六、大正九年九月廿日ニ大日本鉱山労働同盟会、友愛会鉱山部ト合同 全日本鉱夫総聯合トナル(ママ)、産業的組合(ママ)

 この第1表を他の資料で補いながら、全国坑夫組合の本部の活動について見ていこう。

第1表 本部会計支出一覧(1)
摘要 大正8年
10月

11月

12月
大正9年
1月

2月

3月
徽章代100.00 100.00   
印刷出版費68.0030.0025.0051.90100.00135.40
俸給    120.00120.00
家賃  31.0031.00  
備品13.927.6218.6115.506.004.07
地方運動費170.00151.00120.00152.40110.0062.00
通信25.5023.9825.9820.5013.3820.00
消費9.607.507.1512.005.8014.00
共済(本部)     25.00
新報代(機関)      
失業手当(蓮台寺)     200.00
夕張支部上京費    125.00 
本部運動   19.00 20.00
支部上京宿泊 24.0024.60  5.20
足尾失業宿泊 22.00    
五月祭      
新聞雑費1.809.008.002.001.901.90
切抜雑誌  3.604.203.204.00
支部補給   25.0025.0025.00
支部印刷立替     4.00
北海道運動(横山)  25.00150.00  
家計其他144.5010.00 125.00  
足尾火災見舞 50.00    
小使ノ手当3.501.505.504.00  
切手会費    2.50 4.25 6.00
合計 586.82328.50*
(386.60)
394.45*
(394.44)
615.00514.53646.63*
(646.57)

第1表 本部会計支出一覧(2)
摘要大正9年
4月

5月

6月

7月

8月
合計備考
徽章代  150.00  350.00 
印刷出版費60.0050.00100.00 50.00670.30 
俸給120.00120.00120.00100.00100.00800.00 
家賃   31.0031.00124.00 
備品7.705.004.806.20 89.43*
(89.42)
小経ヒ加算シタルモノ
地方運動費 50.00105.0044.5041.001,005.90 
通信15.009.806.405.0010.20175.74 
消費5.208.009.102.202.2082.75 
共済(本部)100.00 50.0060.5015.00250.50会則ニヨリ、会社ノ手ヲ離レタル病傷者ニ
新報代(機関)   50.0080.00130.00労働新報機関紙二用ヒタルトキ
失業手当(蓮台寺)     200.00蓮台寺支部十八名解雇サル(運動ノタメ)
夕張支部上京費     125.00本部ヨリ三人呼タル際旅費及小使
本部運動 4.00 2.00 45.00 
支部上京宿泊 12.006.004.80 76.60支部員上京、本部へ泊ル(1日五十銭割)
足尾失業宿泊     22.00足尾解雇者九人二家族十四日間
五月祭 15.00   15.00 
新聞雑費1.901.900.900.90 30.20 
切抜雑誌5.206.202.203.604.8037.00 
支部補給35.0035.0035.0035.00 215.00支部常任者ニ対スル補給
支部印刷立替 25.00   29.00 
北海道運動(横山)     175.00北海道運動ヲ依頼シタル上京旅ヒ
家計其他     279.50 
足尾火災見舞     50.00 
小使ノ手当     14.50発送、其他ニ手伝タル際ニ
切手会費 3.002.80 2.203.604.02 28.37 
合計353.00 344.70 591.60349.30338.22 5,016.70*
(5,020.78)
 

【備考】*を付した数字は集計に誤りがある。( )内に正しい数値を入れた。


I

 総額で最も多く支出されているのは地方運動費で1005円90銭に達している。とくに最初の5カ月間は、毎月110円〜170円支出されている。これは、本部役員が地方オルグに出張した際の交通費や宿泊費であろう。これとは反対に、支部のメンバーを本部に呼んだ際の費用として、夕張支部上京費125円、支部上京宿泊76円60銭、北海道運動175円などが支出されている。これら本部と支部との往来に要した費用は合計1382円50銭で、総支出の27.5%を占めている。これは支部が地方に散在している鉱山労働運動の場合避けがたいことであった。
 ここで、本部役員が地方に出張した事例で明らかなものを列挙しておこう。
 (1)1919年10月6日、佐野学、河井栄蔵、石渡春雄、足尾支部発会式に出席。(『デモクラシイ』1巻7号)
 (2)1919年11月末〜12月、足尾争議に関連して河井栄蔵、田山正、足尾銅山に出張(『大正八年足尾銅山騒擾史』)
 (3)1920年1月、河井、石渡、坂口義治、夕張炭坑を中心に各炭山を遊説(『労働同盟』大正11年4月号、坂口「北海道炭礦労働運動の過去及現在」)
 (4)1920年3月 「佐野君、石渡君は全国坑夫組合の事務で客月中東奔西走の大活動をされた」(『先駆』大正9年4月号、「新人会記事」)
 (5)1920年5月ころ石渡春雄、栃木県日光背後の群小鉱山地方へ(『先駆』大正9年7月号)
 (6)1920年6月 河井、石渡、坂口、夕張炭坑などで演説会(『労働新報』第47号)
 (7)1920年8月 坂口、足尾銅山で3組合共催の労働問題大演説会で演説(『労働新報』第47号)
 以上の断片的な記録からも、全国坑夫組合の実践面は、佐野学よりもむしろ河井栄蔵、石渡春雄、坂口義治らが担っていたことがうかがえる。
 では河井、石渡、坂口らの本部員は、地方遊説でどのような内容を説いていたのであろうか。これについて坂口義治は、数年後の1922年につぎのように述べている。

 「資本家は労働運動を蛇蝎視した。従って運動者を忌み嫌ふこと想像外なのである。されば資本家に対し秘密に、しかも容易に覚醒せざる鉱山労働者を組合員にすることは仲々の難事業である。故に当時の宣伝方式は第一期としてしかも資本家を納得せしめる手段として労資協調主義であった。然れども内面に於ては、資本家の悪辣なる行動に対し批難すると共に、階級闘争の必要を説いたのである。………
 ……吾々は前文の如く外面協調を唱へ、一歩一歩労働者の中に奥深く突進んだ、一方内面には吾々の積年の怨は実に彼等資本家階級の無暴な(ママ)貪欲にあり、社会組織の欠陥あればかくも不合理を極めて居るのであることを説いたのであった。」

 この記述はほぼ事実と認めてよいと思われる。すでに見たように、全国坑夫組合設立宣言書は組合の「穏健」な性格を強調していた。しかし、実際に河井らの説いたところは、この宣言書とは必ずしも合致していない。たとえば1920年6月14日、万字炭山で開かれた講演会について『労働新報』は次のように報じている。

 「次は河井会長〈和製マルクス〉の如き雄姿を壇上に現はす。暫時拍手鳴も止まず。同氏は『治安警察法と労働運動』と題し同法第十七条が如何に労働者を迫害する悪法なるかを説明せらる。同法は同盟罷工を犯罪視するものである。然るに同盟罷工は実に労働者の正当防衛にして欧米諸国は同盟罷工権なる権利を認めてゐる。然るに我国の労働者は一も二もなくストライキを禁ぜらる。されば労働条件の改善は到底不能なり。己むを得ずしてストライキの挙に出づれば忽ち一家惨苦す。ああ諸君は奴隷にあらず。而も斯くの如きは治安警察法のあればなりと、河井会長の熱辯は声涙共に下るの慨あり。此悪法の廃止如何は諸君の努力にありと説き来り説き去る、満場恰も酔へるが如くであった。」

 趣意書では「なるべく同盟罷工などの起らぬように、その前に円満な解決を遂ぐることに尽力する」として争議調停を主たる機能のひとつに掲げているのであるが、実際には会長が講演でストライキ権を主張し、ストが禁止されていては「労働条件の改善は到底不能」と論じているのである(1)
 さらに、坂口義治にいたっては、同年7月8日の夕張聯合会主催の第6回労働問題講演会で、次のように労資協調が困難であることを主張している。

 「労資協調は実行至難にして結局資本階級と労働階級との抗争となり紛争の後初めて平和の日の来る事を断言し其場合労働階級たる吾人の覚悟は何奈、坑夫組合員たる諸君は如何に進むべきか」(『労働新報『第47号)。

 また本部員で共済主任の高島信次は、「全国坑夫組合の根本精神」と題する論稿(『労働新報』第47号)で、つぎのように言う。

 「我々は欧米の坑夫組合の共済事業を模範として一歩一歩是に近づかうとするのだ、然し共済は労働組合として勿論大切であるが夫れは組合が組織立ってから傷害保険の如き一種の事業として行っても遅くない。今や日本労働運動はそんな生温いことに大切な日時を無駄使いして居る時でない。我々は人間として何も得てない。寧ろ常に恥を知らぬ奴等から圧迫されつづけである。実に残念千万の地位に居るのである。我々は我々の生存権を獲得のため同時に理想の社会を作るためには勇敢なる感情と鋼鉄の如き意志を以て猛列に戦はねばならぬ時だ。」

 この論稿では、全国坑夫組合の事業のうち最も強調されていた共済は「そんな生温いことに大切な日時を無駄使いして居る時ではない」としてしりぞげられ、「理想の社会」建設のための闘争が前面に出されているのである。
 では、彼等が考えていた「理想の社会」とはどのようなものであったか。《全国坑夫組合叢書》第1篇として刊行された佐野学著『鉱山の過去現在及び将来』と題するパンフレットを見ると、ある程度これに答えることができる。佐野はまず現在の労働者状態についてつぎのように指摘する。

 「諸君は充分なる衣食住をなすほどの賃銀を得てゐるか。諸君の労働時間は長すぎるではないか。諸君の身体は過度の労働のために種々の病気に襲はれてゐはせぬか。諸君の子弟は充分の教育を受けることが出来るか。費用惜みをした坑道や工場の設備は果して諸君の負傷や病気をひき起すことは無いといへるか。諸君は疑ひもなく苦の世界に居る!諸君は恰も資本家の我利心を満たす道具である。」

 ついで彼は、労働者に問い、かつ答える。

 「然らば労働者は永久に苦の世界に沈み幸福の世界に出づることは出来ぬのであるか。否、否、決してそうではない。実に今日、労働者の地位の劣悪なのは現在の社会組織が不合理であるからである。また労働者が眠ってゐるからである。労働者は過去に於ては今日より余程幸福な生活をしてゐたのだ。そうして将来に於ても労働者が非常に幸福となる希望が十分に有るのである。」
 

そして佐野は「現在の社会組織の不合理」をつぎのように解き明かしてみせる。

 「今日の経済組織は資本主義経済組織である。此組織に於ては資本家が重要な生産機関を私有する。そして生産は少数の資本家がこれを左右し真に人間の生活に必要な物資の生産といふものは軽視せられて了ふ。また社会の階級が資本家と労働者とに分れ、貧富の懸隔が激しくなり、資本家は遊んでゐても富み労働者はいくら労働しても貧乏に追掛けられ、社会上の不安な状態が発生するのである。」
 したがって、労働者が「今日の奴隷的境遇」から脱出するためには、「社会組織の適当なる改造が必要である」。しかし「幸福の世界は怠惰に待ち受くるとも決して到来しない。社会の改造に対し労働者は眠ってはいけない」。

では、どうすればよいのか。

 「其れには先づ第一に労働者各自が自己の奴隷的境遇の原因、状態、打破方法を自覚せねばならぬ。そうして堅実な団結をなさねばならぬ。労働者が団結することは徒に多数、群を作り世を騒がすといふことでは無い。労働者の団結は自衛上の手段である。労働者は一人々々にては甚だ弱きが故に団結を作り自己階級の意思を外部に発表するのである。」また、「生産者たる労働者は、国家の重要なる分子である。従って労働者は自己の権利の認識を国家に要求すべきである。即ち外国に見るが如き労働者保護の諸法律の発布を国家に要求し、其下に於て徐ろに社会的地位の向上を計らねばならぬのである。」

そして、彼は将来の鉱山の姿を推測してつぎのように述べている。

 「第一に将来の鉱山では生産者が自覚して強固な団結を作るであらう。そして全国坑夫が立派に統一され実力を具ふるに至ったならば、社会は充分に坑夫階級に向って生産者たる名誉と権利とを与へるであらう。即ち賃銀、労働時間、衣食住等の改善は勿論、人として恥しからぬ生活をなすに至るであらう。私達の組織する全国坑夫組合の根本目的は此点に存する。
 第二に将来の鉱山では昔あったやうな自治が最も新しい労働運動の原則の下に磨き上げられて更に立派な制度となるであらう。即ち地方々々で立派な、しっかりした団結が出来るのみならず、その団結が更に全国的に結び付いて一大自治を実現するであらう。自治は自由の最完全な表現である。この時代に於て労働が快楽となることは言ふまでもない。
 第三に将来の鉱山では労働しない資本家の権利が余程制限せられるであらう。更に進んでは鉱山は、国家や生産者団体の手に移るであらう。これは夢を語ってゐるのではない。今日英米で盛に説かるる炭鉱国有論の如きは其兆候である。
 第四に、将来の鉱山では益々生産が盛になるであらう。今日、労働は苦痛であるから坑夫自身、自然に怠業を行ってゐるが、それが社会の損害であるのは明かである。将来労働が快楽となった暁には大に生産は増加するであらう。これは是非そうなくてはならぬ。
 第五に、将来の鉱山では坑内の設備が完全になるであらう。かくて坑夫は安んじて労働に親しむに至るのである。

 以上で、このパンフレットの中心テーマが「社会の改造」にあることは明らかであろう。改造の方法は必ずしも明瞭ではないが、労働者が現在の奴隷的境遇から脱出するには、団結して資本主義経済組織を改造しなければならないこと、鉱山の私的所有制を改めなければならないことを訴えている。
 このパンフレットが実際にどれほど読まれたかは明らかでない。しかし組合員には無料あるいは実費の半額ほどで配布されることが明記されている。
 資本主義経済組織の改造を主張するパンフレットが一般組合員に配られていた事実は、この組合を宣言書や趣意書だけで「労資協調的」で「穏健」な組合であったと結論するわけにはいかないことを物語っている。


II

 本部の活動で、次に問題となるのは、〈五大事業〉のトップに掲げられていた共済である。共済主任が、共済事業を軽視する論稿を発表しているほどであるから、おそらく所期の成果はあげ得なかつたものと予想されるが、ともあれその収支を検討してみよう。
 第1表、本部会計支出一覧を見ると共済の項目では250円支出されているだけである。一見、過少であるが、その主な理由は、共済金の受給資格が、入会後6カ月以上であるため、1920年2月以前は1銭の支出も要しなかったことにある。ただし、一覧表の共済の項は備考欄に記されているように「会則ニヨリ会社ノ手ヲ離レタル病傷者ニ」支給したものだけで、この他に蓮台寺支部の組合員18人が組合活動のため解雇されたのに対して、失業手当200円を支給しているほか、足尾火災見舞として50円、足尾銅山の解雇者の宿泊費として22円が計上されている。これらの総合計は522円で、総支出の10%を越えている。
 すでに見たように、全国坑夫組合の創立者たちが本来考えていた共済制度は、不具廃疾者を組合が経営する収容所に入れ、生涯その生活を保証し、同時に医療を行なわんとするものであった。しかし、この収容所はついに設立されないままで終った。もしかりに設置されたとしても1カ月の会費総収入が、平均340円程度では、とうてい経営がなりたたなかったにちがいない。
 ところで、先にふれたように、全国坑夫組合の会則には、つぎのような「暫定規則」が付されていた。

 本組合会則第二章第一款共済ノ部ニ規定スル収容所ハ目下其設立基金ヲ江湖ニ募リツツアリ右設立ノ完成ニ至ルマデ当分ノウチ右規則ノ施行ヲ中止シ左ノ共済方法ヲ暫行ス
 一 資格ノ一 疾病若クハ老衰ノタメ労働不能トナリ奉願帳ヲ作成セラレシ者
 一 資格ノ二 本会ニ入会シタル後六ケ月ヲ経過シ且ツ会費ヲ遅滞ナク納付シタル者
 一 共済割合 右ノ者ニ対シ本部ハ左ノ共済金ヲ支出ス
 入会後六ケ月以上ノ者          金弐拾円
 入会後壱年以上ノ者          金四拾五円
 入会後二年以上ノ者          金七拾五円
 入会後参年以上ノ者           金百拾円
 入会後四年以上ノ者          金百五拾円
 以後一カ年ヲ増ス毎ニ五拾円ヲ加へ五百円ニ至リテ止ム

 この暫定規則による給付金額は、他の労働組合には例のないほど高額なものである。たとえば、活版印刷工組合信友会の場合、1ヵ月20銭の会費に対し、給付は、「一、死亡者 金二円五十銭、一、疾病(休業一カ月毎)金一円(三回ヲ以テ止ム)一、出征 金一円五十銭 一、入営(現役)金一円」に過ぎなかった(「日本労働年鑑」大正9年版377ぺージ)。
 また友愛会の場合は、共済活動は各支部にまかされていたが、そのなかで「他の支部の給付とは比較にならない高額」な給付をおこなっていた紡織労働組合では、15銭の会費の他に20銭を徴収して共済活動にあてていたが、その給付内容はつぎのようなものであった(1918年7月現在)(2)

 一、死亡 本人三十円、配偶者 八円、家族 三円
 一、負傷・病気見舞 二十日休業二円、五十日以上五円
 一、火災見舞 五円

 全国坑夫組合の共済給付額は、他の労働組合のそれをはるかに引き離していただけでなく、資本家の補助金を得て運営されていた各企業単位の共済組合の規定より高額であった。
 足尾銅山の場合を見よう。ここでは足尾銅山共救義会と称する共済組合があり、会員の納付する毎月25銭の会費の他、鉱業所の補助金や工場見学者、山内行商人などの「義捐金」によって運営されていた。その割合は、大正8年下季の実績で会費収入、8588円余に対し、補助金・義捐金などが5710円余となっている(3)
 一方不具廃疾者に対する「救恤金」は疾病の程度によって異なっていたが、その最も重い場合「終身自用ヲ弁スルコト能ハサルモノ」でも在会年数1年未満は35円、最高の10年以上が150円であった。全国坑夫組合の支給基準と同じ「終身労役ニ従事スルコト能ハサルモノ」に対しては、在会年数1年未満は25円であり、10年以上の100円が最高額であった。
 このように見てくると、全国坑夫組合の共済規定は組合員にとってたいへん有利な内容をもっていたことは確かだが、実際は保険原理を全く無視した実行不能な無謀な計画だったのではないかとの疑問がおこってくる。
 そこで、この点をもう一歩つっこんで検討しておこう。まず問題となるのは鉱山労働者の廃疾率であるが、これをそのまま示す統計はない。ただし明治末年における、鉱業法による廃疾扶助料支給者についての統計が一つの手がかりとなる。第2表がそれである。年間514人に1人乃至892人に1人が廃疾者となっている。ただしこの場合はすべて業務上の傷病による者に限られ、いわゆる「私傷病」によるものは含まれていない。これを示すものが第3表である。傷病解雇者をすべて不具廃疾者と見ることはできないが、その多くは廃疾に近い状態と考えてもさしつかえないであろう。第2表と第3表は年次が異っているため、公傷病、私傷病の範囲も異なっていると思われるので、単純に加算することはできない。しかし一応の数字として、年間鉱夫1000人当りに5人から8人の廃疾者が発生したと見ることができる。しかも、この場合鉱夫総数には坑内夫だけでなく、比較的傷病率の低い坑外夫も含まれている。しかし実際に共済金に魅力を感じて組合に加入するのは、傷病率の高い坑内夫の方が多かったと考えられるから、組合員の廃疾発生率はこれより更に高いものになったであろう。事実、全国坑夫組合は1920年3月から8月までの5カ月間に250円余を共済金として支出しているのであるが、これを規定の共済金20円で除すと12.5人に達する。これは1年間では30人にあたる数である。一方、会費納入組合員数は最大限にみても2000人に過ぎない。結局、年間組合員1000人あたり15人をこえる廃疾者が出たことになる。
 もしかりに、給付をうける組合員15人がすべて入会後4年以上であれば、それに要する給付金総額は2250円、入会後5年以上であれば3000円となる。一方これをまかなう会費収入は、組合員1000人で年間2400円である。収入をすべて共済給付にあてたとしても、全国坑夫組合の財政は赤字となる。現実には、全国坑夫組合は創立1年後、共済金の給付開始後5カ月にして他の2組合と合併し、合併後の全日本鉱夫総聯合会は全く共済給付をおこなわなかったから、この共済規定の無謀さはそれほど目立たない。しかし、発足後1年ですでに1282円余の赤字を出していた全国坑夫組合が、もはやこの共済規定を停止せざるを得ない事態に追いこまれていたことは明らかである。
 共済活動を組合の最も中心的な機能として位置づけながら、その基礎となる財政についてこのような杜撰な計画しか立て得なかったことは、全国坑夫組合の創設者たちが比較的経済的に恵まれた生活を送ってきた知識人であったことによるものであろう。このような財政面における現実感覚の欠如は、本部会計支出のいたるところにあらわれている。たとえば失業手当や火災見舞は、会則には全く規定されていないものである。また廃疾者に対する共済金にしても、暫定規則では入会後6カ月以上は20円であるのに、実際は1回の支出額は25円、100円、50円というように1人について25円つづ給付したとしか考えられない額になっている。


III

 地方運動費についで大きいのは俸給の800円で1920年2月から6月までは毎月120円、7月〜8月は各100円支出されている。これは本部員の給与であろう。
 河井栄蔵、石渡春雄らは弁護士資格をもち、おそらく自分の生活費は自らまかなっていたであろうから、これを受けていたのは、高島信次、坂口義治、田山正、中村英作の4人と思われる。なお、1920年1月以前は俸給は全く支払われていないが、「家計其他」の項目がこれにかわるものとしてある,しかし、1919年11月には僅か10円だけであり12月には1銭も支出されていない。11ヵ月のうち4回しか支出していない家賃などとともに、おそらく佐野、河井、石渡らの負担でまかなわれたものと思われる(4)
 なお、支部常任者に対する補給として1920年1月から3月まで毎月25円、同4月から7月まで毎月35円が支出されている。この項の該当者として明らかなものは、夕張聯合会の専務理事、渋谷杢次郎だけである。

IV

 本部支出のうち俸給についで多いのは、印刷出版費670円余である。全国坑夫組合が出した印刷物で、現在も残っているのは宣言書、趣意書、会則、全国坑夫組合案内のほかは「全国坑夫組合叢書」2篇だけである。この叢書は菊判、本文20ページのパンフレットで、第1篇は佐野学の『鉱山の過去現在及び将来』(1920年2月刊)、第2篇は河井栄蔵『我国坑夫の行くべき道』(同4月刊)である。第1篇には予告として、つぎのものが掲げられているが実際に刊行されたかどうかは明らかでない。
 第3篇 副会長 石渡法学士著 我国坑夫の権利義務
 第4篇 顧問 吉野法学博士著 労働運動と民本主義
 第5篇 顧問 今井法学博士著 労働運動と普通選挙
 第6篇 顧問  伊藤医学士著 医学者の労働運動観
 第7篇 本部員 田山正、高島信次、坂口義治共著 飯場制度論
 また、これとは別に《労働運動叢書》の名で『労働運動と社会運動』『労働問題解決の諸思潮』『外国労働運動者列伝(1)(2)』『独逸に於ける労働運動』『英国労働運動の近状』の6篇の小冊子の発行が予告されている。この《労働運動叢書》は全国坑夫組合からは刊行されないまま終ったが、その一部、たとえば『外国労働運動者列伝』は、のちに全日本鉱夫総聯合会の機関誌『鉱山労働者』に連載されるという形で実現している。

 

V

 組合の教育宣伝活動で中心的な役割を占めるのは、いうまでもなく機関紙である。全国坑夫組合も機関紙を出していた。『労働新報』がそれである。もっとも、われわれが見ることができたのは、わずかに第47号だけである。しかし、『労働新報』が全国坑夫組合の機関紙として用いられたのは、この号だけか、多くてもあと1号(おそらくは第46号)であったとみられる。というのは、『労働新報』は本来は全国坑夫組合の機関紙ではなく、組合とは全く別個に発行されていた新聞を、その号かぎり借りきる形で機関紙としたものであった(第1表備考欄参照)。
 『労働新報』の発行所は、東京都麹町区内幸町1ノ5、労働新報社、編輯兼発行及印刷人は石塚信造である。『労働新報』は1916(大正5)年に石塚信造が『東京愛国新報』の名で創刊し、1919(大正8)年10月25日発行の第37号から『労働新報』と改題したものであった。『労働新報』は、この第37号と全国坑夫組合機関紙として用いられた第47号および1921年4月1日発行の第55号の3号しか見ることができないため詳細は明らかでないが、第37号では蔵原惟郭の立憲労働義会に関する記事と、何人かの「実業家」の提灯もち的記事で埋まっている。のちに全国坑夫組合の大部分が友愛会鉱山部と大日本鉱山労働同盟会と合同した際、足尾支部の一部と上磯支部などが高島信次を中心に全国坑夫組合に残留したが、石塚はこの残留組の指導者となっている(5)
 第47号はタブロイド版8ページで、一面以外はすべて全国坑夫組合の記事を載せており、足尾支部や夕張聯合会の活動をうかがいうる殆んど唯一の資料である。

  

VI

 第1表に五月祭とあるのは、1920年5月2日におこなわれた第1回メーデーに参加した際の費用であろう。新人会機関誌『先駆』第5号は「我国最初の労働祭」と題して、次のように記している。

 「二十世紀も二十年を経過した今年の五月二日、わが国最初の労働祭は上野公園に於て行はれたのである。風烈しく壮快な初夏の日の午後、停車場上の汽笛の響喧しき広場にとりどりの旌旗をなびかせて集った労働団体は十五、人員は約三千であらう。全国坑夫組合の石渡春雄君を最先に各団体の代表者の演説があった後に、決議せられた宣言は次の如くである。(後略)」

 このほか他組合との共同行動としては、1920年4月29日に、友愛会、信友会、啓明会などと連名で、次のような決議をおこなっっている。
 「吾人は今回交通労働組合の執りたる態度を是認し、市当局並に官憲が之に加へたる圧迫を弾劾す」(6)



5. 組織の実勢

 以上のような本部の活動は、実際にどのような成果をあげたであろうか。これが次の問題である。まず、組織人員について検討しよう。当時、全国坑夫組合が公称したところによれば、組合員約1万人である。たとえば、組合の宣伝ビラ「全国坑夫組合案内」は、「昨年九月創立せられて以来、僅々半年にして今や会員数一万人に達する盛況を見つつある」と述べている。また古河合名会社労働課が作成した「全国坑夫組合概況」(大正9年4月乙第9号報告)(7)と題するプリントでも、坂口義治談として次のような記述がある。

 「会員数 目下全国ニ亘リテ約一万人
  内主要ナルモノヲ挙グレバ
 足尾銅山 本山 約九〇〇
      小滝 小数
      通洞 小数
 夕張炭坑(三井)一〇〇〇
 大夕張炭坑(三菱)二〇〇
 美唄       一〇〇
 関西方面ニハ僅少ナレドモ大阪市木津大黒町ナル自由法律相談所ヲ関西出張所トシテ目下拡張計画中ナリト」

 1920年6月末現在、全国の金属山の鉱夫数は7万8842人、石炭山の鉱夫数は34万2873人で、計42万1715人である(8)。もしかりに、全国坑夫組合員数が約1万人であるとの坂口談話が正しいとすれば、僅か半年余の間に、組織対象者の2.5パーセントを組織したことになり、まことに目ざましい成果をあげたものといえよう。
 しかし、この〈公称人員〉には疑問がある。前記の「全国坑夫組合概況」を見ただけで、いくつかの疑問が出てくる。すなわち会員総数1万人に対し「内主要ナルモノ」としてあげられている足尾、夕張、大夕張、美唄の4山の合計は僅かに2100人余である。会員数100人の美唄が「主要ナルモノ」として特記されていることからすれば、残りの8000人近い組合員はいずれも100人に満たない支部に所属していることを意味するだろう。かりに、各支部平均50人とすれば、およそ160の支部数にならざるを得ないが、実際には全国坑夫組合の支部は延数でも34でしかなかった。この矛盾は、坂口義治が、古河合名の社員に組織の実勢を誇大に語ったものの、足尾支部では、会社側が組合費のチェック・オフを認めていたから、足尾支部の組合員数については事実を述べざるを得なかつたために生じたものと思われる。
 全国坑夫組合の組織の実勢を明らかにする上で決め手となるのは、すでにふれた支部別会費納入状況である。第4表がそれである。この表から読みとり得る事実は少なくないが、まず会費納入人員を推計しておこう。

第4表 支部別会費納入状況(1)
支部名所在地種別大正8年
10月
11月12月大正9年
1月
2月
足尾支部栃木県140.00154.00150.00108.00100.00
小滝支部栃木県8.2017.2015.0020.0021.00
夕張聯合会北海道34.0038.9030.0020.007.50
油戸支部山形県18.0020.0020.0018.0018.00
大夕張支部北海道25.0020.0020.0025.0018.00
上磯支部青森県5.004.008.002.505.60
小百支都栃木県18.2015.0012.00    
鹿部支部北海道12.6010.00      
赤柴準支部長野県2.502.002.002.002.50
彌生準支部北海道5.004.004.00    
美流渡支部北海道3.002.502.502.001.60
真木準支部栃木県3.002.402.40    
竹野準支部和歌山県5.004.00  8.004.00
松岡支部茨城県  19.0020.0025.00  
武尊準支部群馬県  5.25  8.00  
蓮台寺支部静岡県  25.0020.0024.5022.00
大杉支部和歌山県    3.8012.004.00
安良里準支部静岡県    10.508.602.00
個人申込各方面      4.206.253.80
岩谷沢支部山形県      17.5015.00
高取支部茨城県      18.6022.00
鰐淵支部島根県      15.0016.40
尾小屋支部石川県      3.602.80
美唄支部北海道        8.60
大正準支部栃木県        10.00
日光支部栃木県        25.00
相生沢支部北海県          
歌志内支部北海道          
利根川支部群馬県          
根府川準支部神奈川県          
二見沢支部北海道          
天頂準支部栃木県          
幌内支部北海道          
神岡支部岐阜県          
田老準支部岩手県               
会費収入  279.50343.25312.40
(324.40)
344.55309.80
本部支出  536.82328.50*
(336.60)
394.45*
(394.44)
615.00514.53
差引残金    14.75*
(6.65)
     
差引不足  257.32  82.05*
(70.04)
270.45204.73


第4表 支部別会費納入状況(2)
支部名3月4月5月6月7月8月合計備考
足尾支部 200.00141.00120.00 200.001,313.00
小滝支部4.00 8.00 12.009.00114.40
夕張聯合会61.0056.0072.5092.00117.00120.00648.90会費1/3不納
油戸支部16.5017.2015.30 20.60 163.60
大夕張支部      108.00
上磯支部3.20 8.006.004.004.2053.50*
(50.50)
 
小百支都      45.20
鹿部支部      22.60
赤柴準支部2.402.402.401.801.801.8023.60
彌生準支部      13.00
美流渡支部      11.60
真木準支部      7.80
竹野準支部2.802.802.00 4.20 32.80
松岡支部20.00     84.00会費1/3不納
武尊準支部      13.25
蓮台寺支部65.0018.0012.0012.0010.4012.20220.10*
(221.10)
大杉支部16.004.802.002.002.201.8048.60
安良里準支部12.004.004.506.405.802.4056.20
個人申込4.602.253.657.055.356.0543.20 
岩谷沢支部19.2018.6012.0019.2025.0018.00114.50*
(144.50)
高取支部19.6012.00 38.00  110.20
鰐淵支部10.0012.0016.0010.008.0011.0098.40
尾小屋支部2.80 4.202.202.201.8019.60
美唄支部8.00     16.60縮・脱
大正準支部8.00     18.00
日光支部21.0021.0018.9521.0015.0018.50140.45 
相生沢支部18.00 12.00   30.00会費1/3 不納脱
歌志内支部4.003.6003.20   10.80
利根川支部 11.2010.204.242.804.6033.04 
根府川準支部  8.202.409.60 20.20 
二見沢支部  2.008.40  10.40会費 1/3不納脱
天頂準支部  4.202.804.00 11.00
幌内支部   12.804.205.8022.80 
神岡支部    12.008.5020.50 
田老準支部            7.50 2.80 10.30   
会費収入318.10385.65*
(385.85)
360.30*
(362.30)
330.79*
(368.29)
317.05*
(273.65)
428.453,732.89*
(3,738.14)
 
本部支出646.63*
(646.57)
353.00344.70591.60349.30338.225,016.70*
(5,020.78)
 
差引残金 32.65*
(32.85)
15.60*
(17.60)
  90.23  
差引不足328.53*
(328.47)
  260.81*
(223.31)
32.25*
(75.65)
 1,283.81 


 会費納入額が最も多いのは、1920年8月の428円45銭である。会費は1人、1カ月20銭(会則第36条)であるから、この月の会費納入人員は2142人ということになる。しかし、入会者は入会月には入会金として25銭を納入させ、会費は徴収しない(「全国坑夫組合案内」)ので、実際の会費納入人員はこれより若干少ないとみられる。またこの月に足尾支部は200円を納入しているが、前月の7月は1銭も納めていない。同じケースが同年の3月と4月にも見られる。おそらくこの200円には前月の未納分も含まれているのであろう。かりにこの200円の半額100円を7月にまわすと、6月が最高で368円となる。
 なお在籍延人員を推計するため、各支部が納入した会費の最高額を合算すると671円余となる(9)。これを会費月額で除すと3355人となる。実際には、各支部ごとに組合員の出入があるから延数はこれより多いであろう。
 以上は、本部に納入された会費から割り出した人員である。これは各支部に加入した人員をそのまま示しているとはいえない。たとえば、足尾支部は、毎月100円から150円納入している。これは組合員数にすれば500人から750人にあたる。しかし、さきに引用した古河合名会社労働課「全国坑夫組合概況」によれば、足尾銅山は本山が約900、小滝、通洞は各小数となっている。この数字は、会社が組合費のチェック・オフをおこなっていたことから見て、ほぼ正確なものと思われる。したがって、同支部では、250人以上の組合員が組合費を本部に納入していなかったとみられる。さらに、第4表の備考欄には、夕張聯合会、竹野準支部、相生沢支部、二見沢支部がそれぞれ会費3分の1不納と明記されている。これらの点を考慮すると、全国坑夫組合の組合員数は、本部会費納入人員では最高約2000人、本部会費納入延人員で約3500人であるが、実際に支部に所属した組合員数はこれより多かったものと見られる。あえて推定すれば、最盛時で2500人から3000人、在籍延人員では4500から5000人程度であろう。
 組合員数とはちがって、下部組織、すなわち、聯合会、支部、準支部の数は第4表から正確に知ることができる。すなわち、結成当初は1聯合会、8支部、4準支部の計12であるが、最盛時の1920年5月には1聯合会、15支部、5準支部の計21に達している。なお、この他少数ながら「個人申込」として直接本部に会費を納めていたものがある。また、休・廃山や脱会により2、3カ月で消滅した支部も少なくない。このため延数では、1聯合会、23支部、10準支部の計34に達している。第5表は、支部および準支部の増減を月別にまとめたものである。
 なお、準支部については、会則に何等規定されていないが、「支部ハ正会員五十名以上ヲ以テ構成ス」(第4条)とあることからみて、組合員が50人に満たない場合を準支部と称したものと思われる。
 ここで注目されるのは、下部組織がかなり地域的に偏在していることである。とくに多いのは、北海道の10、栃木県の7で、この2つの道県だけで全地方組織の半ばを占めている。このように、支部が北海道と栃木県に集中している理由は、全国坑夫組合が夕張炭坑と足尾銅山に拠点をおき、ここから周囲に組織を拡げていったことによるものであろう。
 金属鉱山と炭坑の別では、前者が圧倒的に多く22、後者は10である。このほか工事場が2カ所ある。鉱山は北海道から島根県までかなり広い範囲に散在しているが、炭坑は北海道が大部分で、あとは山形県と茨城県に1つづつあるだけである。注目する必要があるのは、全国の鉱山労働者の半ばを占めていた九州には1つの支部もつくられていないことである。この事実は、全国坑夫組合が友子同盟を組織化の手がかりにしたこととかなり密接な関連があると考えられる。
 農商務省鉱山局が、1918(大正7)年末におこなった「友子同盟ニ関スル調査」によれば、「(友子同盟の)慣習ノ行ハルル鉱山ノ範囲ハ全国ノ金属山及硫黄山ノ殆ド全部及北海道常盤地方(ママ)ノ石炭礦ノ一部ニシテ石油山九州及山口県ノ石炭礦ニハ行ハルルコトナシ」であった。全国坑夫組合の組織基盤と友子同盟のそれとは、ほぼ合致している。ただし、このことから直ちに、全国坑夫組合がはじめの構想どおりに友子同盟を再編成することに成功したと結論するわけにはいかない。さきの農商務省鉱山局の調査は、各地方鉱山監督局管内別に「交際坑夫」〈友子同盟の構成員)の数およびその全鉱夫数に対する比率を示しているが(第6表)、それによれば、友子同盟の最大の組織基盤は東北地方の鉱山であった。これに対し、全国坑夫組合は、東北地方には上磯(青森)、田老(岩手)、油戸(山形)、岩谷沢(山形)の4支部を有するのみであった。
 ところで、地方組織の状況は、きわめて不安定であった。結成当初の一聯合会、8支部、4準支部のうち、11ヵ月間曲りなりにも存続したのは、足尾支部、小滝支部、夕張聯合会、上磯支部、赤柴準支部の5つだけであった。第1表の備考欄をみれば明らかなように、大部分の支部は脱会、あるいは休山と記されている。延10支部(聯合会、準支部を含む)を組織した北海道地方の場合、8支部は脱会しており、それも大部分は2、3カ月間しか組織を維持しえていない。残った2つのうちの1つは、1920年6月に結成されたばかりの幌内支部であり、結局、組織を確立していたのは夕張聯合会ただ一つであった。本州の2つの炭坑も脱会しており、炭坑で組織を存続しえたのも夕張聯合会だけであった。金属鉱山の場合は、炭坑にくらべれば存続期間は長い。しかし、こちらの場合は戦後恐慌による打撃で休山したものが22支部のうちの10支部に達し、さらに3支部が事業を縮少した鉱山に組織を有していた。結局、全国坑夫組合が一応組織を確立しえたのは、夕張炭坑と足尾銅山の2カ所だけであった。




 (1) 河井は全国坑夫組合叢書第2篇『我国坑夫の行くべき道』のなかでも、ストライキについて次のように述べている。

 「運動方法中、最も普通なるは同盟罷工である。我国の法律は同盟罷工を一の罪悪視しているが、本来の同盟罷工は労働者が自衛上採用する手段であって毫も罪悪ではない。……
 我が全国坑夫組合は成るべく同盟罷工を防ぎたいのであるが己むを得ざる場合には勿論之を行ふことを辞しない。勿論我々は暴動的同盟罷工を排斥する。また突発的に同盟罷工を行はない。同盟罷工の目的は労働条件の改善に存する。」

 (2)『総同盟五十年史』第1巻、210ページ

 (3)『足尾銅山鉱夫の友』第78号。なお、各鉱山の共済規定については、鉱山懇話会・石炭鉱業聯合会 共済又ハ救済ニ関スル規定』(1)(2)(1923年5月)に詳しい。

 (4) 佐野は「彼の取った金をよく運動の中に投げ出した。彼には、どちらかといえば貴族的である彼の生活が苦しくて堪らなかったのだ」(麻生久『黎明』305ページ)。

 (5)『鉱山労働者』第2巻第7号、11ページおよび、『労働団体及争議情報、大正10年』(中央労働学院所蔵)参照。〔なお、この文書をはじめ以下で「中央労働学院所蔵」と記しているが、これらはいずれも本稿執筆時点のもので、現在では法政大学大原社会問題研究所の所蔵となって、一般に公開されている。〕

 (6)『東京府下消滅労働団体』(中央労働学院所蔵)参照

 (7) 中央労働学院所蔵

 (8) 鉱山懇話会編『日本鉱業発達史』下巻、323ページ

 (9) ただし、本文中でふれた足尾支部のように、会費未納月の翌月が最高額である場合には、その半額を当月分とみた。また蓮台寺支部の大正9年3月分は第1表に記されているように、同支部の解雇者に解雇手当が支払われたという特殊事情があるので計算から除外した。

(未完)



 初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』159号(1970年2月)。




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