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二村 一夫

全国坑夫組合の組織と活動(1)




    目 次

  1. はじめに
  2. 全国坑夫組合の結成
  3. 組織構想の検討
  4. 本部の活動
  5. 組織の実勢
  6. 地方組織の実態──夕張聯合会を中心に




1. はじめに

 小論の対象は、第一次世界大戦直後の日本に生まれた労働組合のひとつ「全国坑夫組合」である。全国坑夫組合といっても、その名を知る人は多くないであろう。それも当然で、この組合が存在したのは1919(大正8)年9月から翌年10月にいたる僅か1年余にすぎず、しかもその間に目立った争議などに関係していないからである。にもかかわらずこの組合を研究の対象としてとりあげたのは、つぎのような理由によっている。
 1) 日本労働運動史上、1919年は〈労働組合簇生の年〉として知られている。渡部徹氏の研究によれば、この1年間に設立された労働団体は総数211にのぼっており、とくに同年7月以降の半年間で160の労働団体が結成されている(1)。これらの労働団体についてはようやく研究がはじまったばかりで、個々の労働団体の内容についてはまだほとんど明らかになっていない。本稿の1つの目的は1919年後に「簇生」した労働団体の1つである全国坑夫組合の検討を通じて、第一次世界大戦後の労働組合の実態をいささかなりとも明らかにすることにある。
 多数の労働団体のなかからとくに全国坑夫組合をとりあげたのもいくつかの理由がある。すなわち、全国坑夫組合それ自体は前述のように僅か1年余の存在でしかなかったが、同組合はそこで消滅してしまったわけではなく、1920(大正9)年10月、友愛会鉱山部、大日本鉱山労働同盟会と合同して、戦前では数少ない産業別労働組合である全日本鉱夫総聯合会を結成しているのである。全国坑夫組合の研究は全日本鉱夫総聯合会史の前史としての意味をもっている。今後は全日本鉱夫総聯合会に参加した他の2組合についても検討をすすめる予定である。なお、この2組合はいずれも全国坑夫組合と同じく1919年9月に結成されているが、その成立の経過も異なり、組合の性格についてもそれぞれ独自のものがある。これら三組合を比較検討することによって、第一次大戦後の鉱山業における労働組合の特質を明らかにすることができると考える。
 2) 全国坑夫組合でもう一つ注目されるのは、それが新人会(前期)の〈ヴ・ナロード〉の成果であったことである。これまで新人会が労働運動に及ぼした影響として知られているのは、棚橋小虎、麻生久らによる友愛会への働きかけであり、渡辺政之輔の全国セルロイド職工組合の結成を援助したことなどであって、全国坑夫組合について問題にされたことはほとんどなかった。しかし、実際には全国坑夫組合の方が新人会員の果した役割りは大きい。すなわち、全国セルロイド職工組合に対しては、新人会の学生会員は演説会への参加や争議応援が主で、直接組合を指導していたのは渡辺政之輔ら労働者会員であった。これに対し、全国坑夫組合の場合は佐野学が中心になって創立され、組合役員も新人会員や新人会関係者が多数を占めていた。全国坑夫組合の研究は、同時に前期新人会の活動の重要な一側面に光を当てることになるであろう。
 3) 全国坑夫組合研究にはもう一つ重要な意味がある。それは、全国坑夫組合が鉱山労働者の間に古くから存在した自主的共済組織である「友子同盟」を手がかりにして組織化を企てたものであることに関わっている。
 かつて友子同盟についてこれは飯場制度の補完物であり、飯場頭や資本家の労働者支配の道具であると主張されたことがある(2)。しかし、これは主として昭和期に入ってからの友子同盟の実態を基礎とした評価であって、明治期の友子同盟はむしろ鉱山労働者の闘争にとって積極的な役割りを果していたのではないかとみられる。この問題については改めて別の機会に論じたいが、全国坑夫組合研究の意義を明らかにするために、ここで友子同盟が労働運動史で果した役割りについてごく大まかな見とおしを示しておこう。
 明治期の労働運動において鉱山労働者の占めていた比重はかなり高いものがある。労働争議についていえば、1907(明治40)年の足尾銅山暴動、別子銅山暴動をはじめいくつかの大争議が記録されている。これ以前の時期にも、かなりの数の争議、それも暴動化しない同盟罷業があったとみられる(3)
 労働組合についても、いくつかの企てが記録されているが、とくに治安警察法のもとで夕張炭坑や足尾銅山に結成された大日本労働至誠会はよく知られている。そこでは、永岡鶴蔵や南助松らの労働者出身の指導者が中心となって全国の鉱山労働者の組織化をめざして活動し、中央の社会主義者とも接触を保っていたのである。
 このように鉱山業での労働運動が明治期の運動全体のなかでも大きな比重をもっていたことには、一定の根拠がある。一つは客観的な条件である。すなわち、労働運動の主力となる成年男子労働者が鉱山業に比較的多く、しかも鉱山業の場合は一経営あたりの規模が大きかったことなどである(4)。同時に運動の主体的条件も無視できない。すなわち金属鉱業は徳川時代から長い歴史を有し、その間に労働者が友子同盟という自主的な共済組織をつくりあげていたことである。しかし、友子同盟が労働運動に積極的役割りを演じたことを直接示す資料はあまり多くはない。何故なら、友子同盟自体があまり多くの資料を残していないからである。
 そうしたなかで、つぎに掲げる一鉱業家の論稿は注目に値する。これは1891(明治24)年6月の『日本鉱業会誌』に掲載された在黒森・直居駒吉の「敢テ鉱業家ノ一顧ヲ煩ハサン」と題する一文からの抜き書きである。

 「鉱業家ガ使役スル多類ノ労働者中其ノ尤モ甚ダシク軽々同盟罷工ヲ企テ易キモノハ坑夫ニ如クナキニ似タリ…故ニ類ニ触レ事ニ関シ朝ニ夕ニ聊モ意に介セサルアレバ…忽チ同盟罷工ノ悪手段ヲ利用シ鉱業家ヲ窘困セシメ以テ自己カ欲望ヲ充サントス…是等ノ事実啻ニ当山ノミナラス各所ノ小鉱山ニ毎時実際ニ見聞スル所真ニ長大息ノ至リト謂フベシ…」と直居は嘆息して、鉱業家に「黒律法」(ブラック・リスト)の締結を呼びかけている。さらに彼は何故坑夫がストライキを起しやすいかについて次のように述べているのである。
 「彼レ坑夫ハ同シク職工中ト雖トモ自ラ特権ノ労働ニ属シ或ル順序ヲ経テ而シテ坑夫トナリタルモノニシテ他職工ノ如ク只ニ自己カ経験手練ノミニ頼テ以テ得ベカラサル一箇ノ式法ヲ踏ミシモノ即チ所謂某先輩ノ推挙ニ依リ得タルノ地位或ハ親分アリ兄第分アリ常ニ容易ニ一致シ易ク又団結セサルヲ得サル仲間ノ義務アリ(仲間ノ義務トハ親分兄第分ニ随従スルハ勿論自然同盟罷工徒党ノ中ニアリテ節ヲ屈スルノ輩アレバ各鉱山ニアル同族ニ通牒シ反背ノ者ヲ目シテ狸ト称へ以テ再ヒ同族中ニ入レサラシム」

 ここで坑夫と呼ばれているのは採鉱夫のことである。友子同盟の構成員は、本来、金属鉱山の採鉱夫、支柱夫など比較的高度の熟練を要する職種に限られていたのである。友子として取立をうけた坑夫は3年3月10日の徒弟期間を経て、はじめて一人前の扱いを受けたのである。このように見てくると友子同盟が一種のクラフト・ユニオン的性格をもっていたことは明らかである。ただし、友子同盟の場合は熟練労働力の供給を独占する力は持っていなかったと見られる。この点は友子同盟研究の重要な一論点であるが、ここで詳細に論ずる余裕はない。ただ指摘しておきたいのは、友子同盟の規制力の弱さは単に鉱山業における資本主義の急速な発展の結果であっただけでなく、急速な技術的変化を可能にした前提条件でもあったことである。
 友子同盟が同盟罷工などの闘争の組織的基盤となった明らかな事例は、1907(明治40)年の足尾銅山争議である。足尾暴動そのものは、大日本労働至誠会の急速な発展をおそれた飯場頭の挑発によってひき起された疑いが濃い。しかし暴動以前に至誠会が急速に組織を拡大しえていた一つの理由は、永岡らが友子同盟の役員である「山中委員」を味方につけることができたことにある(5)
 ところで、友子同盟の労働運動における積極的役割りは、単に同盟罷工などの闘争の組織となったことだけではない。離職した友子同盟の構成員は、いわゆる「浪人」として他鉱山におもむいた際には一宿一飯を保障され、わらじ銭を与えられるのが常であった。これはまさにクラフト・ユニオンの旅行手当であり、失業した鉱山労働者に求職の機会を与えることによって賃金水準の低落に対し一定程度、阻止的に機能したと思われる。同時に、この渡り歩きの慣習は鉱山労働者の間の連帯感を強めたに違いない。
 永岡鶴蔵は1903(明治36)年暮に「全日本坑夫組合」を組織するために全国遊説に出発する決意を固めるのであるが、この事実は、永岡が友子同盟の一員であったことと切り離しては考えられない。また彼のような労働組合の組織者が他鉱山で容易に受けいれられ、活動しえたのも、この「渡り歩き」の慣習があったためである(6)
 ところで、友子同盟のこのような側面は明治末年以降、次第に弱まっていったのではないかと見られる。その原因の一つには、共済組合など企業の救済制度が次第に充実し、友子同盟の共済機能が相対的に低下したことがある。これと同時に、友子同盟の最も基礎的な単位である親分・子分関係にゆるみが生じ、これが友子同盟の弱化を促進した。本来、友子の親分・子分関係の結びつきの基盤には技能の伝習があったと考えられるが、採鉱技術の変化、とくに鑿岩機の使用は親分・子分関係の形骸化をもたらした。
 さらに資本の側でも友子同盟が闘争の母体となるのを避けるため、その運営の主導権を飯場頭に握らせるなどして、友子同盟の自主性を奪うことに努めた。暴動後の足尾銅山で山中委員制度が廃止され、「坑夫飯場申合規則」を制定して友子同盟の財政を完全に飯場頭にゆだねたことは、まさにこのような狙いをもっていた。
 ここでの問題は、全国坑夫組合の結成の時点で、友子同盟がどれほど自主的な労働組合運動の基盤となる可能性をもっていたかという点にある。これに対する答は全国坑夫組合の組織と活動の実績を検討するなかで与えられるであろう。




2. 全国坑夫組合の結成

 全国坑夫組合が結成されたいきさつを直接示す資料はない。あるのは結成にあたって出された宣言書、趣意書、全国坑夫組合会則を新聞紙大の紙一枚の表裏に印刷したものだけである。ただし、この間の事情を推測させる材料が全くない訳ではない。とくに、麻生久の自伝的小説『黎明』は有力な手がかりとなり得る(7)。『黎明』は小説とはいっても、著者自身〈はしがき〉で「ここに描かれた中には事実に根拠した事が多く、現はれてくる人物も実在の人が多いのであるが、それかと云って必しも事実ばかりでもなく仮想の人物も無いではない」と述べているように細部は別として、事実の大筋は伝えていると考えられる。このことは、新人会機関誌など他の資料で裏付けられ、関係者のきき取りによっても確認できるので、他の直接資料と照合しながら『黎明』を使うことは許されるであろう。ちなみに『麻生久伝』の1918年から19年にかけての事実はほぼ全面的に『黎明』と一致している、というよりほとんど『黎明』に依拠して書かれたもののようである。
 そこでまず、全国坑夫組合の結成に直接関連する叙述を要約して記しておこう。なお『黎明』の登場人物はすべてローマ字の頭文字で呼ばれ、異なった人物に同一のイニシャルを使っている場合もあるが、大部分解読可能である。
 1)1919年2月、足尾銅山の坑夫Tが労働運動を始める希望をもってAを訪れた。Tは落盤により片腕を失い、そのため資本家に激しい怒りをいだいていた。(289−298ぺージ)
 2)AはTを仲間の一人であるSに紹介した。SとTは月島の労働者街で共同生活をはじめた。(298−324ページ)
 3)このSとTとの共同生活の間で鉱山の運動が計画された。「そして其の運動は既に着手されて、近いうちに其の旗があげられようとしている。足尾銅山から出て来て彼と一諸に暮している坑夫のTは、鉱山の事情や坑夫の生活の有様を彼に詳しく訴へた。そして一度そこに手が下されさへすれば、鉱山労働者の偉大な革命的勢力が出現することを予言した。」(392ページ)
 Aが著者の麻生久であることは九州の生まれで三高出身、1917年帝大法科を卒業後、新聞記者をしているといった経歴だけでなく、夫人とともに最初に目白の新人会本部へ入ったことなどからも明瞭である。またSが佐野学であることもAと同郷で七高出身、同じ帝大法科を卒業して、M社(満鉄)に勤め、後には共産党事件の首脳者と目せられシベリアに亡命したと噂されているといった叙述から確認できる。足尾銅山の坑夫Tが高島信次であることは、棚橋小虎、平貞蔵両氏からの聞き取りで明らかである。なお棚橋小虎氏談によれば、高島信次が最初に訪ねたのは麻生ではなく、当時友愛会関東出張所主任であった棚橋氏のもとであったという。また風間丈吉『雑草の如く』によれば、高島は片腕がない訳ではなく片手の指四本を失っていたのだという。
 いずれにせよ全国坑夫組合結成の直接のきっかけをつくったのは高島信次であり、彼から鉱山労働者の状態や友子同盟について聞かされた佐野学が中心になって組合結成の準備をすすめていったことは確実である。
 佐野についてはここで改めて述べるまでもないだろう。もう一人の高島だがその前歴は足尾銅山の坑夫であったという以上に詳しいことはわからない。上京した時は「未だ二十才の上を幾つも出まいと思はれる…」と『黎明』には書かれている。組合結成後、高島は本部員となり共済主任となっている。全国坑夫組合の最大の組織基盤は、後で見るように足尾支部であったが、これは高島の力によるところが大きかったと思われる。しかし、彼は、全国坑夫組合が他の二組合と合併した際これに参加せず、足尾支部の一部を率いて全国坑夫組合を称していた。その後高島は月島で平貞蔵が経営していた第二印刷所の責任者をしていたが、関東大震災で死亡したという(8)。なお高島は組合結成直前の1917年7月、新人会機関誌『デモクラシイ』第1巻第5号に坑夫・高島信蔵の署名で「全国の坑夫諸君に与ふ」と題する一文を発表している。その内容は、後で見る佐野学の「鉱山の過去現在及び将来」とほぼ同一で、徳川封建制下の鉱山を一種のユートピア的自治共同体として描き、資本制社会の改造を呼びかけたものであった。
 佐野、高島のほかにも、全国坑夫組合には何人かの人が参加している。設立宣言書に組合役員として名を連ねているのは、つぎの人々である。
 会長    法学士         河井栄蔵
 副会長   弁護士 法学士     石渡春雄
 共済主任              高島信次
 庶務主任              坂口義治
 会計主任              中村英作
 地方主任              田山正
 顧問    帝大教授 法学博士   吉野作造
 同     法学士         佐野学
 同     皮膚科 医学士     河田茂
 同     内科 医学士      藤本武平
 同     外科 医学士      大槻菊男
 同     衆議院議員 法学博士  今井嘉幸
 評議員   法学士         赤松克麿
 評議員               宮崎龍介
 同                 新明正道
 会長の河井栄蔵は1891年、愛媛県の生まれで、佐野と同じ七高の出身である。1917年東京帝大独法科を卒業、弁護士となった。彼は佐野より先に「木曜会」(9)に参加していた。三組合の合同後、河井は麻生と二人だけ全日本鉱夫総聯合会の本部理事となったが、間もなく運動から離れ、大阪市で弁護士事務所を開いた。
 副会長の石渡春雄は赤松克麿 宮崎龍介とともに新人会の創立者である。1892年、東京浅草に生まれ、佐野、河井と同じく七高に学んだ。1919年、東京帝大英法科を卒業したばかりであった。全国坑夫組合では各地へ遊説するなど活躍したが、合同後は労働運動から離れた。
 庶務主任の坂口義治は高島とともに全国坑夫組合の中心的な活動家である。正確な生年は不明だが、1923年8月、足尾ダイナマイト事件に証人として出廷したとき、年令は29才と陳述しているところから1895年前後の生まれと思われる。夕張の炭坑夫、坂口角蔵の子である。渡辺惣蔵『北海道社会運動史』によれば早稲田大学の学生であったというが、同大学の卒業生名簿にはその名は記されていない。資料の上で坂口義治の名が最初にあらわれるのは1919年5月、友愛会本部の書記補に就任したときである(10)。次いで新人会の『デモクラシイ』第6号(同年9月)に、坑夫・坂口義治の名で「労働問題と吾人の覚悟」と題する一文を寄稿している。この論稿は「人類解放、階級皆無の公平なる平等運動」のために労働者だけでなく、政府も資産階級も努力すべきことを主張したものであった。坂口の家族、父・角蔵、兄・鶴治、弟・梅治、妹、鶴治の妻の父の渋谷杢次郎らはいずれも夕張にあって全国坑夫組合夕張聯合会の中心的活動家となった。3組合の合同後、坂口義治は全日本鉱夫総聯合会の副理事から理事となり、組織活動を担当した。また1922年には、山本懸蔵とともにプロフインテルンに派遣されている(11)
 坂口の家族はいずれも1921年の夕張争議で解雇されて上京してきたが、大家族をかかえて彼の生活は苦しかったという。そのためか、義治の兄・鶴治は警察のスパイとなり、第一次共産党検挙の端緒をつくったといわれている(12)。以後坂口の姿は労働運動から消えた。
 高島、坂口以外の本部員、中村英作、田山正の2人の経歴などはほとんどわかっていない。
 全国坑夫組合の顧問、評議員は、佐野学を除けば、いずれも単に名を連ねているだけであったと思われる。吉野作造、今井嘉幸は新人会の後援者、評議員の赤松、宮崎、新明の3人は新人会の中心メムバーである。顧問に3人の医学士が委嘱されているのは全国坑夫組合が、廃疾者の収容および治療を組合の重要な機能の一つとしてかかげたことに関連している。
 問題は全国坑夫組合結成の日時である。従来の運動史年表が、これを1919年3月としているのは、『日本労働年鑑』大正10年版の誤った記述によっているもので訂正の要がある。では正確な日時は何時かと云うと、これ迄活字になったものでは、1919年9月と同年10月7日の二説ある。前者は坂口義治「北海道炭砿労働運動の過去及現在」(『労働同盟』1921年4月号)で、後者は麻生久「鉱山運動小史」(『鉱山労働者』第5巻第11号)の記述である。実はこの両説はどちらも誤りとはいえない。何故なら形式上の結成は9月のことであるが、正式に発会式をあげたのが10月7日だからである。すなわち「全国坑夫組合会則」を見ると、その付則に「本組合ハ大正8年9月一日ヨリ以上ノ会則ヲ施行スルモノナリ」とある。形式上はこれが全国坑夫組合の創立日であろう。一方、『デモクラシィ』第7号(1919年10月15日発行)の新人会記事欄には「佐野君は支那労働者と交を訂して満州より帰朝、6日全国坑夫組合の発会式のために河井、石渡二君とともに足尾に出発した」との記事が見える。「鉱山運動小史」は、この発会式の日をもって全国坑夫組合誕生の時としているのである。




 

3. 組織構想の検討

 全国坑夫組合で注目されることの一つは、佐野学、河井栄蔵、石渡春雄ら知識人の果した役割りが大きいことである。同様のことはのちに全日本鉱夫総聯合会を構成した友愛会鉱山部、大日本鉱山労働同盟会の場合にも見られ、第一次大戦後の鉱山労働運動に共通の特徴ともいえる。友愛会鉱山部が結成されたのは1919年8月31日から9月2日にかけて開かれた友愛会第7周年大会においてである。この大会は、一般に友愛会が協調主義から脱して「名実ともに労働組合として新生した」(松尾尊兊「大日本労働総同盟友愛会の成立」)画期的大会として知られているように、いくつかの重要な改革をおこなっている。鉱山部の設置もその一つで、その推進者は棚橋小虎、麻生久らであり、棚橋が初代の鉱山部主任に就任した。1920年の3月からは麻生が鉱山部主任となっている。
 また1919年9月に結成された大日本鉱山労働同盟会でも東京帝大出の法学士、福田秀一、綱島正興の2人が顧問として活躍している。
 しかし、3組合のなかでも全国坑夫組合の場合はとくに知識人の果した役割りが大きい。すなわち、友愛会鉱山部はすでに各地でつくられていた支部、分会を再編したもので、どちらかといえば自然成長的であったし、大日本鉱山労働同盟会は結成直後に大争議を経験し、そのなかで労働者出身の活動家の比重が急速に強まっていった。これに対し、全国坑夫組合の場合は、はじめから運動についての一定の展望を持ち、組織形態、組合の機能についてもあらかじめ詳細な計画を有していた点に一つの特徴がある。
 そこでまず、佐野学を中心に作られた全国坑夫組合の構想から見ていこう。もちろん、この構想が、すべてそのまま具体化した訳ではない。計画と現実とのずれについては後であらためて検討する。
 1) 組織形態
 全国坑夫組合の組織形態について設立宣言書はつぎのように述べている。
 労働者の団結は先づ同職労働者の団結を以て第一要件とする。漫然、多種雑多の労働者を集合し、是に向って無責任なる煽動的言辞を弄するとも、そは労働者にとり百害ありて一利無き也。吾人は労働者の真摯なる向上を根本目的とす。吾人は同職労働者の団結を欠く労働組合を無価値なりと信ず。是れ我が全国坑夫組合が堅く会員を坑夫に限る所以也。
 全国坑夫組合は全日本の鉱山及び炭山に労働する坑夫の総同盟也。労働者の団結は決して一地方に限局すべからず。必ず全国の同職労働者の大同団結ならざるべからず。英国、独逸、仏国、米国等の坑夫組合を見るに常に全国的に相結合して統一的連絡を保ちて活動しつつあり。我が全国坑夫組合も亦全日本の坑夫の統一的機関たることを目的とするもの也。
 ここで問題となるのは「同職労働者の団結」を強調し、「堅く会員を坑夫に限る」と述べていることの意味である。当時の用例では、採鉱夫だけを坑夫と呼んでいることが多く、また、友子同盟の構成員も本来的には採鉱夫に限られていたから宣言書で見る限りでは全国坑夫組合は採鉱夫のみの単一職能別組合を志向していたものとも考えられる。しかし、会則を見るとこの解釈は成り立たない。
 第三十一条 本会ハ次ノ三種ノ会員中(ママ)ヨリ成ル
 一 正会員
 本組合ノ主義理想並ニ会則ニ賛同シタル全国各地ノ自坑夫、渡リ坑夫、村方坑夫及ビ坑上労働者但シ村方坑夫トハ自坑夫渡リ坑夫以外ノ坑内労働者ヲ謂フ(後略)
 明らかにここでは、坑夫は鉱山労働者一般を指している。全国坑夫組合が組織の対象としていたのは、技術者や職員を除いた鉱山業に働くすべての労働者であった。
 2) 組合の機能
 組合の機能について趣意書は「労働者は漫然と団結しても、何にもならない。一旦、団結した上は必ず事業を行ひ、団体員の社会的地位の増進を計らねばならない」として、つぎの5つの事業を行なうことが組合の「根本目的」であると述べている。
 (1)共済 (2)法律事務 (3)職業紹介 (4)労働争議調停 (5)教育
 なかでも、全国坑夫組合が最も重視したのは共済であった。組合員募集のために作られたビラ「全国坑夫組合案内」は、ここの点についてつぎのように述べている。
 「本組合は共済、法律事務、職業紹介、労働争議調停、教育の五大事業を行ふのであるが、就中最も力を注ぐのは共済制度である。従来、奉願帳といふ共済制度があるが、それはもう時代遅れで色々弊害がある。我組合は此制度に大改革を加へて新しい共済制度を行ふのである。共済は相互扶助の心の発現である。此制度が完全でなければ到底立派な組合とはなれぬ」
 では、この「新しい共済制度」とはどのようなものであったのか「全国坑夫組合会則」は、これをつぎのように規定している。

 第九条 本部ハ本組合ニ加盟セル支部若クハ聯合会ノ代表者ガ作成セル一定様式ノ証明書ヲ所持スルモノニ対シ其ノ文面ノ範囲内ニ於テ責ヲ負ヒ医療収容等完全ナル保護ヲ講ス、但シ証明書ニ代ルヘキ奉願帳又ハ寄附帳ヲ所持スル者亦同シ

 この規定にある奉願帳というのは、友子同盟の共済制度の一つであって「交際坑夫ニシテ不具廃疾ノ為ニ生涯労役ニ従事スルコト能ハサル者ニ対シ各地鉱山ニ稼業スル友子ノ救助ヲ得シムヘキ目的ヲ以テ山中友子一同ヨリ本人ニ交附スルモノニシテ之ヲ受ケタル者ハ全国鉱山ヲ遍歴シテ友子ノ救助ヲ求ム」ものであった。また「寄附帳トハ奉願帳ヨリ軽微ナルモノニシテ一鉱山ニ於テ救済シ得サル大病人又ハ不具廃疾ナルモ未タ生涯全治ノ見込ナキノ程度ニ達セサルモノニ附与ス 其ノ来訪ヲ受ケタル鉱山ノ寄附モ奉願帳ヨリモ些カ軽」いもので期間を限って与えられていた。(13)
 全国坑夫組合の共済制度は、不具廃疾者の生活を生涯保証するという友子同盟の機能を生かし、しかも奉願帳制度の欠点である「重病の人が一々山を訪ねたりしてゐては却て病気を重くする。また小さい山では此奉願帳のためになかなかの入費がかかる」(趣意書)のを改善するため、組合本部で不具廃疾者のために収容所を設けてその生活を保証し、同時に医療をおこなわんとするものであった。
 ただし、これには暫定規則があり収容所が設置されるまでは、疾者に対し、入会後の年限に応じて20円から500円までの共済金を支給することになっていた。
 このように、全国坑夫組合の共済制度は廃疾者に対するものに限られ、疾病による休業手当や失業手当、死亡者に対する弔慰金、火災見舞などを欠いていたことは注目される。

 3) 組合の性格
 会則の第二条および第三条は、いわば綱領にあたる規定であるがつぎのように記している。
 第二条 本組合ハ鉱山労働ニ従事スル全国坑夫ノ総同盟ニシテ自治的相互扶助ヲ根本精神トス
 第三条 本組合ハアラユル方法及ヒ機会ニ於テ全国坑夫ノ智識ノ研磨、社会的地位ノ向上並ニ技術ノ進歩ニ努力ス

 以上の規定からも全国坑夫組合の性格がきわめて「穏健」なものであることはうかがえるが、「宣言書」ではさらにこの点を強調してつぎのようにのべていた。
 今や労働問題解決の声、全国に漲り、諸種の険悪なる思潮は全[労?]働者階級を襲はんとす。吾人は労働者を解せず、また労働者を益することなき空想家の奇矯の言辞を排す。労働者は実利的に向上し発達し行かざるべからず、此秋に当り堅実なる同職組合を設立することは実に焦眉の急たる也。
 全国坑夫組合がその五大事業の一つとして「労働争議の調停」をあげていることにも、組合の「穏健」な性格は示されているといえよう。ただし、この点からただちに全国坑夫組合が全くの労資協調主義であったと見ることはできない。会則第二十五条は「労働争議ニ際シ本部ハ組合員ノ正当ナル権利ノ完全ナル擁護ニ任ス」と定めているのである。また趣意書では「賃金や労働時間や設備等の労働条件に関して坑夫側で鉱山主と折合はないとき、本組合は坑夫側に立って鉱山主と交渉し正当の要求の貫徹に努力する。即ちなるべく同盟罷工などの起らぬやうに、その前に円満な解決を遂ぐることに尽力するのである」(傍点引用者)と述べている。
 以上で確認しうるのは、全国坑夫組合の構想それ自体は、友子同盟を基盤に組織化をすすめようとした一点を別にすれば、特に新らしいものは見られないことである。共済活動を中心とし、職業紹介、労働争議調停、法律相談、教育等の諸事業を企てることは、明治の鉄工組合以来、友愛会、職工組合期成同志会、さらには信友会にいたるまで、従来の主要な労働組合のほぼ一致した方針であった。
 ここで当然おこる疑問がある。それは、このような全国坑夫組合の構想が、はたしてこの時点における佐野学らの思想と整合的でありうるかということである。周知のように、この頃佐野学、河井栄蔵らは麻生久、棚橋小虎、野坂参三らとともにロシア革命や共産党宣言についての研究会(木曜会)を開いていた。彼等はまた労働運動とくに友愛会の急進化について論じ、野坂、棚橋、麻生らは実際に友愛会に参加して、その労資協調的な性格を内部から改革すべく努力していたのである。この間の事情を麻生久はつぎのように記している。
 「棚橋君並に私は吉野博士を通じて鈴木氏と知り合いになり従って野坂 久留 酒井 三君とも知己となり、労働運動の事を語り合ふに至った。当時私共の話題は友愛会を内部より動かして協調主義を脱せしむるか、又は別個な労働団体を起すかといふ事であったが、諸種の事情殊に吉野博士と鈴木氏と我々との関係は我々を友愛会に愈々接近せしめた」(14)
 また、赤松克麿も、1925年に当時を回想して、つぎのように述べている。

 「我国の代表的労働組合たる友愛会を如何にすべきかといふことは、其頃我々の間の一個の大問題であった。麻生君等はかねてから友愛会を戦闘組合にするがために種々画策し、棚橋君は使命を帯びて司法官から転じて友愛会に入ったのであった。併し棚橋君は会内で不愉快な日を送ることが多かった。友愛会を如何にすべきか?此の問題が目白の新人会本部で日夜議せられた。或る人々は友愛会に見切りをつけて、別に我々の力で労働運動を起さうではないかと主張した。他の人々はあくまで友愛会を我々の手で改造しなければならぬと主張した。)」(15)

 これらの証言から推して、また当時の麻生や佐野の主張からみても、全国坑夫組合の結成は「友愛会に見切りをつけて」「協調主義から脱した」「労働運動を起さう」としたものであったと考えられる。
 この時点における麻生の労働組合論については渡部徹氏の研究がある(16)。そこで渡部氏はつぎのように結論しておられる。
 「麻生は、あきらかにトレードユニオニズムを否定し、社会改造=革命を労働組合の目的として打ちだしたのである。ここでは改造の方法を明示しなかったが、このとき彼が、ロシア革命や過激派に相当な共感をしめしていることからして、彼の意図としてはそのような革命を想定していたと推測される。」
 麻生がロシア革命を評価しレーニンに心酔していたことはよく知られた事実だが、彼が日本の革命をロシア革命と同様のものと想定していたとするのは若干疑問がある。渡部氏も引用されているが、麻生は「労働運動の真意義」において、つぎのように述べているのである。
 「之を要するに、真実なる労働問題の解決は、其区々たる工場主との争議にあるのでもなく、社会政策的、改良主義的、賃金値上時間短縮にあるのでもなく、世界を挙って現在の不合理なる社会組織をより合理なる社会組織に変改することにあるのである。其合理的社会組織を、社会主義に求むるか無政府主義に求むるか、サンジカリズムに求むるか、IWW主義に求むるか、ギルドソシアリズムに求むるか、過激主義に求むるか、或は我等自身に創造するかは実に刻下の重大なる急務である。我々は猥りに盲動して直ちに是らの何れかの主義を採用して之を実現せんと欲する如きは充分慎まねばならぬ。何となれば是等の総ては、未だ決して完全なるものではなくして、其中に幾多の欠陥を包合してゐるからである。」(17)
 麻生はまだ日本の社会改造の方法については一定の結論を見出すところまで行っていないと言わざるを得ない。
 佐野学の場合は、麻生にくらべれば、はるかにマルクス主義に接近していた。彼は新人会機関誌、『デモクラシイ』の創刊号と第2号に「無資産階級解放の道」と題する論文をのせ、プロレタリアートの解放運動は「今日の経済組織の必然的所産」であるとして、プロレタリアートの解放の方法を六つあげ、それぞれについて論評を加えている。この論稿で、佐野はおそらく検閲に対する配慮からでもあろう。「私は社会主義者ではない。私は無資産階級の解放に、もっと善いものがあるやうに感じて居るものである」とのべ、またどの方法を「最も是認せねばならぬかの問題は後日に譲る」とも言っている。(現実に、この論稿が一つの原因で『デモクラシィ』第2号は発売頒布を禁止されたのである。)しかし、ここで佐野は明らかに社会主義=マルクス主義、それもとくにボルシェヴイズムを積極的に評価し、他に批判的な見解をのべているのである。
この論稿であげられた六つの方法、社会政策、国家社会主義、職工組合主義、サンジカリズム、アナキーズム、社会主義のそれぞれの評価にかかわる部分を以下に引用しておこう。
 (1)社会政策=「吾人は社会政策がそれ自身深き哲学を有せざるを遺憾とする。…社会政策を合理づける哲学は何であるか。社会改良なる観念は如何なる理論的背景に依りて荘厳となるのであるか。現在の組織の合理化に如何なる科学的構成を持つか。資本家的制度の下から簇生する諸害悪は社会政策に依り其の全部を緩和しうるのであるか。以上の諸点を説明せざれば社会政策は一の過渡的なるものとして終るべき当然の運命を擔うと思うのである。
 (2)国家社会主義−「本来の意義に於て国家社会主義とは国家が在来の国家組織の原則には、一指(ママ)を染めず、ただ社会主義の提供する諸手段中、自己に適する部分のみを採用する法策を指すのである……福田博士は此国家主義を以て国家なる蕩児が社会主義なる処女と通じて生んだ私生児となし到底健全の発達をなす望み少なきを断言せられた。」
 (3)職工組合主義−「職工組合は今日の組織を是認するものであって他の自主的解放運動の如く之を否認するものでは無い.即ち今日の私有財産制度を是認し賃金制度を是認し、階級の対立を是認し此組織の下に於て自己の階級的利益を促進せんとするものである。戦闘的に非ずして妥協的である。」
 (4)サンジカリズム−「サンヂカリズムの価値如何。私は自己のしいたげられた地位に対する無資産階級の憤怒の感情を充分了解するがサンヂカリズムを肯定しやうとは思はぬ。私は無政府主義に対すると同じく、社会発展の傾向は未だ無権力社会への分解にまで達しないことを信ずる。社会組織は猶未だ中央集権的であることを傾向とする。またサンジカリスムの謂ふが如く議会主義が必ず他階級との妥協を発生するとも考へ得ない。」
 (5)アナーキズム−「兎に角私は無資産階級解放の方法としてアナーキズムに反対するものである。何となれば社会組織は猶、中央集権的であることを必要とすると思ふからである。然し其提供する無権力的自由社会の概念が遠き将来に対する論理的想定として価値あるは謂ふまでも無い。」
 (6)社会主義−「私には社会主義が科学的構成を有する世界観であり資本主義に代るべき此世紀の勢力であることを否認する勇気がない。…社会主義はマルクスに至って科学的近世的となった。……『資本論』三巻は資本家社会の深刻な批評であり分析であるとと共に歴史の必然的進行が無産階級の勝利を展開すべきことを論理的に証拠立てた名著である。今日の組織の否定的方面におかれた無資産階級は此資本論から無限の希望と激励を汲むことが出来る。……所謂修正派社会主義は学問的には興味があるが実際運動としては社会主義の堕落である。戦争当時及び革命以来の多数社会党の態度は此感が深い。議会主義の弱点はここにあると考へる。斯くの如くんば無資産階級は社会主義を一蹴して了ふこと必要である。反之マルクスのコムニスト的精神を純粋に忠実に行ひつつあるものは露国のボルシェヴィキである。私は最近に於てマルクスは大なる復活をなしたと思ふ。」
 この時点において佐野がマルクス主義、それもロシア革命を成功させたボルシェヴィキに最も高い評価を与えていることは疑いえない(18)。では、佐野学は何故、全国坑夫組合を「穏健な同職労働組合」として構想したのであろうか。その答は、佐野が全国坑夫組合の機関紙『労働新報』第47号(1920年8月20日付)に書いた「英国坑夫の労働運動」のうちに見られる。佐野は日本の鉱山労働者の労働組合運動が「出来る限り無用の犠牲を避け、また一時も早く、堅固なる団体を作らねばならぬ、それには英国の坑夫組合が実にいい手本なのだ。その目的の為に私は此小文を書いた」として、まず英国の労働運動史を概観している。その中で彼は産業別の新組合主義が先進国の労働運動の原則になりつつあることを指摘し、つづいてつぎのように述べているのである。
 「想ふに新労働組合主義は旧労働組合の発達した後に当然起ってる性質のものである。労働運動は勿論産業別の新労働組合を目的とせねばならぬが、其 健全に発達する為には職業別の組合は是非「遠(ママ)通らねばならぬ関門であらう」−傍点引用者−
 また同じ論稿の中で佐野は、「百年前の英国と今日の日本の労働状態は実によく似てゐる。今日の日本では資本家が労働者を解傭するに絶対自由の権利を持ってゐる。団結をすればすぐにらまれて真面目な組合も厳格な圧迫をされる労働条件の改善も犯罪のように思はれて居る」と論じている。
 要するに、佐野は産業別労働組合主義が現代の労働運動の原則であることを承認した上で、労働組合運動の歴史の浅い日本では、まず職業別労働組合を確立する必要があると考えていたのである(19)



【注】


 (1) 渡部徹「第1次大戦直後の労働団体について」、『人文学報』第26号(京都大学人文科学研究所、1968年3月)。
 (2) たとえば風早八十二氏はつぎのように主張された。
 「友子制度は、経済的には鉱山主の当然的負担の坑夫への転嫁の手段であり、収取率増大の手段であり、闘争の見地からは封建的主従関係と其のイデオロギーによる抗争力の虚勢(ママ)の手段たる機能を営んでいるのである」(『日本の労働災害』101ぺ−ジ)
 (3) 『日本労働運動史科』第1巻、第2巻、隅谷三喜男『日本賃労働史論』、『木村長七伝』、永岡鶴蔵「坑夫の生涯」などにいくつかの事例がある。
 (4) 坑夫数についての統計がある最初の年である1899(明治32)年を見ると、民営および官営の労働者数は、女子が26万6272人、男子が18万4559人である。これに対し金属鉱山は5万1141人、石炭山が6万0964人、その他も含めた総鉱夫数は11万9667人である。鉱夫については、この時点での男女別人員は不明だが金属鉱山の場合は圧倒的に男子が多く、炭坑でも約3対1の割で男子が多い(『日本労働運動史料』第10巻、82ページおよび174ぺ−ジ参照)。
 (5) くわしくは拙稿「足尾暴動の基礎過程」(『法学志林』第57巻第1号)および「足尾暴動」(『日本労働運動の歴史』三一新書所収)を参照ねがいたい。
 (6) 片山潜は、英語で書いた日本労働運動史『日本における労働運動」のなかで友子同盟を「鉱夫のギルド」と呼んで高く評価し、永岡鶴蔵らが鉱夫を組織できた理由を次のように記している。
 「日本の鉱夫は、歴史的に最も力強い労働者と考えられてきた。それで彼らは、実際に治安警察法に公然と反抗できたのである。我々の宣伝家は、鉄道や鉄工のような他の産業の労働者より容易に、彼らに近づくことができた。このことが日露戦争の間に、足尾銅山の鉱夫を組織できた理由である。」(岩波文庫『日本の労働運動』308−309ぺ−ジ、337ぺ−ジ)
 (7) 麻生久『黎明』1924年 新光社
 (8) 風間丈吉『雑草の如く』
 (9) 「木曜会」は麻生、棚橋、岡上守道、野坂参三、佐野学らが、ロシア革命をはじめ各国の社会運動について互に報告しあった研究会である。『黎明』では「水曜会」となっているが、棚橋小虎氏の日記では会合が水曜に開かれたことは一回もなく、むしろ木曜に開かれたことが多いとのことで(渡辺悦次、ヘンリー・スミス両氏の教示による)「木曜会」とした。  (10) 『労働及産業』第95号(1919年7月1日)
 (11) 徳田球一予審調書に「党成立直後、同志山本懸蔵及日本坑夫組合ノ一人ノ指導的労働者ヲ『プロフインターン』ニ派遣シマシ夕 日本ノ革命的労働組合ト『プロフインターン』トガ直接関係ガ出来タノハ之ガ嚆矢デアリマス」とある。「日本坑夫組合ノ一人ノ指導的労働者」が坂口であることは、渡辺春男『思い出の革命家たち』(1968年 芳賀書店)237ぺ−ジ参照。
 (12)山川菊栄『女二代の記』(1956年 日本評論新社)265ページ参照。
 (13) 農商務省 鉱山局『友子同盟(旧慣ニヨル坑夫ノ共済団体)ニ関スル調査』1920年
 (14) 麻生久「一九一七年前後」、麻生久編『新社会的秩序へ』所収、1922年、同人社書店
 (15) 赤松克麿「我国の学生社会運動」、『転換期の日本社会運動』(1926年、厚生閣書店)所収
 (16) 渡部徹「大正八年における労働組合論の検討」、『人文学報』第20号所収)
 (17) 麻生久「労働運動の真意義」、『労働及産業』大正8年7月号
 (18) 高畠通敏氏は、主として佐野の予審調書によって佐野学は1917年に社会運動に加わるが、当時の佐野は「生粋のサンジカリスト」であったと結論している(高畠通敏「一国社会主義者」,『転向』上巻所収)。しかし、見たとおり彼はサンジカリズムには明瞭に批判的であり、ポルシェヴイズムに最も高い評価を与えている。もっともこれだけで当時の佐野をボルシェヴィキであったとすることは誤りであろう。この頃の佐野には新カント派の影響が強くあとを残している。ついでに指摘すれば佐野が社会運動に関係し始めるのは1919年のことである。
 (19) さきの「無資産階級解放の道」でも、佐野はつぎのように述べている。
 「職工組合は無資産階級の解放方法として如何なる価値がある乎。之に関する私見は省略する。唯 英国風の職工組合は一日も早く我国に行ふ必要がある。井上辰九郎といふ法学博士は其資本家的見地から子供だましのやうな論法で職工組合尚早論を唱へた。また犬養毅という政治家は労働者の労働組合公認の希望に対し、我国の法則が組合の構成を妨害してゐることを顧慮せず、先づ組合を作らずにおいて公認せよといふのは可笑しいとの無情の言をなした。…
 私は一日も早く英国風の職工組合でもいいから、其構成を促進するやうな法制的保障の確立するのを希望する。」
 なお、トレードユニオニズムを批判しつつも、日本ではまず職業別組合の確立が必要だという考えは佐野だけのものではない。野坂鉄がすでに1917年につぎのように主張している。
 「不熟練労働組合主義を立派に行ふには、熟練職工組合が出来て居てからでなければならない。組合の基礎がないのに頭初から不熟練労働組合を作るのは却って労働組合の健全なる発達を害するものである、と。
 それであるから、僕は米国労働同盟会に向っては速かに平民化せよと忠告するけれども、日本の労働者に向っては速やかに熟練労働者組合を造り、以て資本労働の真の調和をはかる組合の基礎を築けよと言ふ。
 然し、繰返して曰ふが、貴族主義の組合は決して吾々の理想ではない、吾々の理想は労働者全体を含む団結を造るにある。たゞ此理想の組合を造る土台としてのみ貴族的組合が必要である。」(「労働者の貴族主義」『社会改良』1巻2号所収)






 初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』159号(1970年2月)。




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