二村 一夫
全国坑夫組合の組織と活動(3)
目 次
1. はじめに
2. 全国坑夫組合の結成
3. 組織構想の検討
4. 本部の活動
5. 組織の実勢
6. 地方組織の実態──夕張聯合会を中心に
6. 地方組織の実態
これまで、2回にわたって全国坑夫組合の組織と活動を、主として本部レベルで見てきた。これによって、全国坑夫組合の指導者たちがどのような構想によって組合を創立し、どのような活動を展開したか、その結果どれほどの組織勢力をもちえたか、といった点については、ある程度明らかにすることができたと考える。しかし、これで全国坑夫組合の全容を明らかにしたと言うにはほど遠いことも、また確かである。少くとも、佐野学、河合栄蔵ら本部の指導者たちの構想が、下部でどのように具体化されていったかについて検討することが要求されるであろう。だが実際には、この課題にこたえることは容易でない。全国坑夫組合に限ったことではないが、下部組織や一般組合員は文書記録を残すことが少なく、手がかりとなる材料に乏しいからである。したがって、本稿もきわめて不充分なものとなることは避けがたいが、出来る限り支部レベルでの組織と活動の実態を復元し、そこにおける問題点のいくつかについて検討を加えてみたい。
対象には、主として夕張聯合会をとりあげることとする。そして、同聯合会とともに全国坑夫組合の2大拠点であつた足尾支部についても、夕張と比較するために、若干ふれることとなろう。対象をこの2組織に限り、とくに夕張を選んだ理由は、主として資料上の制約によるものである。ただ、夕張と足尾がともに全国坑夫組合創立当初からの支部で、しかも3組合の合同の時点まで組織を維持していた数少ない支部であり、組合員数でも他支部にぬきんでていたこと、また全日本鉱夫総聯合会においても足尾と夕張は2大拠点であったこと、とくに夕張聯合会は、大部分、全国坑夫組合の組織をひきついだものであったことを指摘しておきたい。
夕張聯合会は、当時、三井三池炭鉱につぐ日本第2の大炭鉱であった北海道炭礦汽船株式会社(以下北炭と略す)夕張鉱の労働者を中心に結成されたものである。その組織化のきっかけを作ったのは、本部員の坂口義治であった。彼は夕張炭鉱高松坑の支柱夫・坂口角蔵の子で、夕張には兄の鶴治、その義父の渋谷杢次郎などもおり、彼等の働きかけによって夕張聯合会は成立したのである。全国坑夫組合の本部も、夕張を中心に北海道の炭坑の組織化には力を入れた。このことは、前回紹介した「本部会計支出」(第1表)からもうかがうことができる。すなわち、支出のなかで最大のものは地方運動費で、総額1005円90銭と支出全体の20%に達しているが、このかなりの部分は坂口義治、河合栄蔵、石渡春雄らが夕張などに遊説した際の費用である。これとは別に1919年12月と1920年1月に北海道運動の費用として25円と150円の計175円が支出され、さらに、翌2月には夕張支部上京費として125円を支出している。また、支部常任者に対する補給として、1920年1月から7月にかけ、毎月25円か35円、総額で215円が支出されているのであるが、これはすべて夕張聯合会に対する援助であったとみられる。
こうした本部のテコ入れも、あずかって力があったのであろう、夕張の組織化は順調に進んでいる。この間の事情を坂口義治「北海道礦山労働運動の過去及現在」(『労働同盟』大正11年4月号)は次のように記している。
「当時此運動に第一に参加したのは、安田為太郎、田中芳作、鈴木武太郎、藤岡文吉、等の諸君と僕の父とであった。これ等の諸君は極力奔走宣伝に努め旬日を出でずして、実は(ママ)会員数百名の組織を得て支部を第一より第四迄編成し一面各支部の聯合により夕張聯合会の組織を完成するに至った。後尚発展と共に支部を十支部に増加し茲に建設的着実の発展を遂げ一面事業の大成に努力した。
越へて大正九年一月早々私達は夕張を中心として、各炭山に大宣伝を敢行した。会長河井氏副会長石渡氏等も大挙遊説の途に就き宣伝の目的を達したのである。先づ近山大夕張炭山を手初めに万字炭山国富鉱山鹿部鉱山等に続々として支部は設立せられ恰も燎原の火を焼くが如き状勢を遂ふに至った。
また、渡辺惣蔵『北海道社会運動史』(1966年、レポート社)は、全国坑夫組合について次のように記している。
「全国坑夫組合は、大正八年十月七日、河合栄蔵を会長に、佐野学、石渡春雄らによって創立され、夕張の出身であり、早稲田大学の学生であった坂口義治らの活動家をふくみ、夕張、足尾、伊豆蓮台寺鉱山などを組織していた。
坂口義治の父角治〔ママ〕は夕張の坑夫であった。またその兄鶴治は、もと「夕張小憎」という徒名がついていたほどの義賊と称された前科者であり、盲目であったが、改心して労働運動に加わり、これらの親子が協力して夕張の組織活動にあたったことは余りにも有名である。従って夕張炭鉱を組織したのは友愛会鉱山部ではなく、坂口を中心とする全国坑夫組合であった。
夕張の組織活動は、大正八年九月二十九日坂口がオルグ活動を行って、たちまち三百名を組織し、同年十一月二十五日、本部から副会長の石渡春雄、幹事花輪義教、柏村稔三が来山して、十一月二十七日に夕張本町の演芸場で支部結成式を挙行し、事務所を高松に置いた。その後、組織は各地区に拡大したので、大正九年四月に夕張聯合会を結成したのである。結成当初の役員は次の諸氏である。
全国坑夫組合夕張支部役員
▽高松第一支部長、安田為太郎▽高松第二支部長、田中芳雄〔芳作〕▽高松第三支部長、鈴木武太郎▽幹事、坂口角治〔角蔵〕、坂口鶴治、松本徳松、蟻通佳明、姉川仁平(新夕張)、亀山利義、伊藤壮之助、矢内民蔵、石和田周作、今崎音吉
全国坑夫組合夕張連合会
大正九年四月結成、八支部、組合員二千余名
▽会長、安田為太郎▽理事、坂口角治(ママ)、鈴木源重、渋谷杢太郎〔杢次郎〕、田中芳雄(ママ)、藤岡文吉、渋谷久三郎、鳥山源五郎(以上〔 〕内は引用者)。
坂口の記述だけを読めば、運動を開始して10日もたたないうちに、数百人の組合員を集め、4支部で夕張聯合会を結成し、1919(大正8)年の末までには、加盟支部が10に達したようにとれる。一方、『北海道社会運動史』によれば、19年9月末に運動がはじまり、11月に高松第一から第三までの支部が結成され、聯合会は翌年4月、八支部で発足したことになる。一般的にいえば、当事者がその直後に記した記録に、より高い信頼性があると見るべきであろう。しかし、他の資料と照合してみると坂口の記述には疑問がある。たとえば1919年末までに加盟支部が10に達したとは、とうてい考えられない。
第7表は、夕張聯合会の本部会費納入状況である。一見すれば明らかなように、20年2月までは会費の納入高は低落を続け、はっきりと増勢に転ずるのは5月以降のことである。さらに、『労働新報』第47号(1920年8月20日付)の記事には、20年7月8日の第6回労働問題講演会の際に、「演説に先だちて今回新たに増設された第九支部第十支部の設立承認並に両支部員選任式を挙げた」とある。
一方、「北海道社会運動史」の記述は、この2つの資料とかかなりよく合致している。ただ問題は、この記述が何に拠っているかが明らかでなく、役員の氏名にも若干の誤記があることである。また、組合員2000余名というのも会費の納入状況からみれば過大ではないかと思われる。会費納入額は最高時の20年8月でも120円で、これは会費納入人員に換算すれば600人に過ぎない。備考欄に会費3分の1不納と記されている点を考慮しても組合員数は900人程度であったと思われる。
ともあれ、夕張聯合会が3組合の合同の時点まで急速な発展をとげ、北海道の拠点として周囲の炭坑に積極的に働きかけていたことは確認してよいであろう。
ところで、全国坑夫組合の機関紙『労働新報』第47号には、「夕張聯合会組織規約書」と「足尾支部会則」が掲載されているほか、20年6月から8月にかけての夕張聯合会の活動が比較的詳しく報じられている。そこで、以下「夕張聯合会組織規約書」を手がかりに、同聯合会の組織、活動などについて見ていこう。この「規約書」は、組織、財政、基金、事業、附則の5章からなり、それぞれ4条から6条の規定を設けている。
I 組織 まず、組織の第1条を見てみよう。
「全国坑夫組合夕張聯合会は左の諸支部及日役会鮮人部より成る
賛助会員は聯合会直属のものとする
夕張第一支部 高松第一区方面
同 第二支部 同 第二区方面
同 第三支部 同 第三区方面
同 第四支部 丁未第三区方面
同 第五支部 社光の上全部
同 第六支部 錦ケ岡冨岡方面
同 第七支部 東山市街地方面
同 第八支部 丁未第一区方面
同 第九支部 丁未第二区方面
同 第十支部 鹿の谷方面
高松、丁未、社光はいずれも町名で、支部が居住地別に組織されたことを示している。第九支部までは、いずれも夕張鉱の労働者の居住地区であるが、第十支部の鹿の谷は新夕張鉱の所在地である。新夕張鉱は1920年1月に北炭が石狩石炭株式会社を合併した結果、北炭の経営に移ったばかりであった。ところでこの規約第1条で注目されるのは、地域別の支部のほかに、日雇労働者を対象としたものと思われる「日役会」と朝鮮人労働者によって組織された「鮮人部」の存在である。
「日役会」について明らかなことは、1)20年7月16日、第七支部と日役会の会員総会が開かれ、「一、会員にして稼働現場に於て死亡重傷を被りたる場合は本組合は終始組合員の権利の擁護に任ずること 二、組合員にして会社より無理由の解雇を受けたる場合には其不当行為を会社当局に抗議し徹底的に不合理の成立せざることに努力すること」の二項を決議していること 2)同8月1日に鮮人部の発会式に続いて日役会主催の講演会を開いていること 3)日役会から夕張聯合会の理事に井本種次郎、副理事に本山健太郎を送っていることなどである。日役会が第七支部と合同で会員総会を開いていることは、日雇労働者が東山市街地方面に数多く居住していたことを推測させる。
「日役会」以上に重要な意義をもっているのは「鮮人部」である。これについては、後にあらためて論ずることとして、ここでは、その発会式について報じた『労働新報』第47号の記事を紹介しておこう。
「〔1920年〕八月一日午前十時より本町四丁目神田館に於て夕張聯合会鮮人部の発会式を行った。安田理事長開会を宣し鮮人部代表梁在珪君(ママ)逍炳一君金順撲君立会の上理事長より支部承認状及役員選任状を授与し、梁在珪君(ママ)(支部長)之を受け式を終った。式後引続き夕張日役会主催の講演会に移り井元種次郎君有道義明(ママ)〔蟻通佳明〕君松本徳松君江良英雄君渋谷久三郎君逍炳一君松下竹次郎君金順君渋谷杢次郎君梁在珪君(ママ)和田軌一郎君安田為太郎君等の熱烈なる演説あり午後一時閉会。夫れよりニ港事件遭難者遺族慰問の演芸会小福寺神田館独特の名活動写真数番あり盛会裡に同三時五十分閉会解散す。」
夕張聯合会の組織でもう一つ注目されるのは婦人部である。婦人部は規約書には規定されてはいないが、聯合会役員氏名のなかには婦人部選出の副理事として曾我千代子の名があり、彼女は講演会でも「坑夫の妻としての私の覚悟」「婦人も共に立ちましょう!」などの題で演説している。演題が示すように彼女は坑夫の妻で、自身は炭坑で働いていたのではなく髪結いをしていたといい「当時すでに四十前後であった」(渡辺惣蔵『北海道社会運動史』(1949年、白都書房)
いずれにせよ、夕張聯合会が日雇労働者、朝鮮人労働者、婦人を組合の正規の構成員として認めていたことは見落すことができない。
全国坑夫組合の創始者である佐野学らは、労働組合の模範としてイギリスの労働運動史をふりかえり、まず職業別労働組合を確立することを主張し、友子同盟の再編を構想したのであるが、実際に組織されたものは、熟練労働者だけではなかったのである。また少くとも夕張の場合には、友子同盟が直接全国坑夫組合の組織基盤となったとはいえないようである。何故なら、友子同盟の構成員は採鉱夫、支柱夫など熟練職種の鉱内夫が中心であり、日雇労働者、朝鮮人労働者、婦人などが友子同盟に加入を認められた事例は皆無といってよいからである。もっとも、夕張の事例から、全国坑夫組合が全体として友子同盟と無関係であったと結論することができないが。
組織規約書の第2条は「夕張聯合会は本組合夕張に於ける最高機関とす」、第3条は「聯合会の役員は左の人より成る」として役員についての規定、第4条は「聯合会理事会は次の事務を行う。財政、宣伝、記録、通信、調査、交渉」となっている。第2条はこのままでは全く無内容な規定である。夕張聯合会のあとに理事会を補って読むべきであろう。この点は、合併後の全日本鉱夫総聯合会夕張聯合会の規約では「理事会ハ本聯合会最高意思決定機関トス、事務執行ノ最高権ハ理事長ニ属ス」と改められている。(『鉱山労働者』第3巻第1号)。第3条の役員としては、理事長、副理事長各1名、理事、副理事各12名、顧問、会計、会計監査役各2名、専務理事および専務理事助手各1名をおくことになっている。規約書は役員の選出については全く規定していないが、規約書のすぐあとに掲げられている聯合会役員氏名から見ると、各支部および日役会、鮮人部および婦人部から理事および副理事を各1名ずつ選出し、理事長および副理事長は理事の互選によったものと思われる。
なお、各支部の組織については、全国坑夫組合会則第59条に「支部ニ支部長一名、幹事、会計、会計監査役及委員若干名ヲ置ク」と定められており、『労働新報』第47号の「現在役員報告」欄に記されている各支部の役員氏名を見ると、委員を除いてほぼこの規定どおりのところが多く支部長、幹事長各1名、会計係、監査役各1、2名、幹事4、5名を置いている。夕張聯合会の各支部も同様で、第9支部および第10支部の役員選任式に関する記事によれば、支部長、幹事長、監査役各1名、幹事数名が選任されている。ただ足尾支部のような大支部では、会則の規定にはない幹事長補佐(1名)、方面部長(4名)、相談役(11名)、顧問(2名)がおかれ、幹事も47名の多数が、通信、記録、宣伝、事業、財政の各係と購買部仕入方などの任務を分担している。
ちなみに、全日本鉱夫総聯合会になってからは、夕張聯合会は10支部を、丁未、高松、斜坑、旭、鹿之谷の5支部に減らし、足尾では、足尾支部を本山、通洞の2支部に分割し、小滝支部とともに足尾聯合会を組織している。全国坑夫組合時代の支部は、夕張では組合員数が少なすぎ、足尾では地理的に広すぎたためと考えられる。
組織について見たところで、夕張聯合会の役員氏名とその出身支部を掲げておこう。出身支部は他の資料によって推定したものが含まれている。一般に支部長が理事を、監査役あるいは幹事長が副理事を兼ねたのではないかと思われる。
★理事長 安田為太郎(第一)
★副理事長 笹 松次郎(第七)
★理事 田中芳作(第二)、藤岡文吉(第四)、中易〔会務報告では中島〕真一(第五)、笹松次郎(第七)、渋谷久三郎(第八)、江良英雄(第一〇)、井本種次郎(日役)、梁在珪(「鮮人」)
★副理事 佐藤壮之助(第一)、今崎音吉(第二)、斉藤慶作(第五)、笹 武次郎〔他の資料では竹次郎〕(第七)、鈴木文之丞(第八)、棚井勇次郎(第一〇)、本山健太郎(日役)、逍烙〔逍烙一?〕、金順撲(「鮮人」)、曾我千代子(婦人)、
★顧問兼会計監査役 坂口角蔵(第一)、
★会計係 田中芳作(第二)、
★検査役 安田為太郎(第一)
★専務理事 渋谷杢次郎
なお、この役員氏名表では、第一、第三、第六、第九の各支部および婦人部の理事と、第三、第四、第六、第九の各支部の副理事が空欄のままである。このうち第一支部の理事が安田為太郎であることは確実であり、婦人部からは理事は選出されていなかったとみられる。第三支部および第六支部の役員が空白になっているのは、このときに聯合会内で「除名処分」が問題となっていたことと関連があると思われる。これについて8月11日の理事会の記録は次のように記している。「第二第三第六支部長除名処分の件 第二支部長は尚奮闘努力すべきことを再考を促すこと 第三支部長鈴木武太郎第六支部長鈴木源重両君に対しては実行委員を挙げ事実組合の体面を穢すが如き又不誠意なる行動の有無を実地調査の上処分すること可決」
第三支部選出の理事は鈴木武太郎、第六支部は鈴木源重であったとみてよかろう。第九支部の役員は支部長作田米蔵、幹事長二階堂孫太郎、監査役五十嵐寅吉であるから、第九支部選出の理事は作田、副理事は二階堂か五十嵐であったと思われる。
明文の役員の選出規定がないことは既に述べたとおりだが、「除名処分」を問題とした理事会は、これに続いて「会員大会に於て各支部役員の改選を行い怠慢と認むる者は解職の件」を可決している。また、第10支部の役員の改選を承認している。すなわち、役員の選出は大会でおこなわれその結果を理事会が承認するという方法がとられているのである。
II 財政 「夕張聯合会組織規約書」の第二章は財政である。ここで規定されていることは、(1)会費の徴収は各支部で、支部会計および検査役がこれにあたり、一括して聯合会会計に納入すること (2)本部費は聯合会会計で納める (3)聯合会会費のうち規定外の支出は理事会の過半数の決議を要する (4)毎月15日までに前月の収支決算を公表することなどである。肝心の会費の額については、なんら規定されていないが、合同後の全日本鉱夫総聯合会夕張聯合会の規約では、「本聯合会ハ其費用トシテ各支部ヨリ組合員一人金拾銭ノ割合ヲ以っテ連合会費ヲ徴収ス」となっており、全国坑夫組合の場合も同額であったとみてよいのではないか。鉱夫総聯合会夕張聯合会の会計記録では本部費、聯合会費の他に支部費を10銭徴収している。結局、組合費の総額は、1人あたり毎月40銭であったと思われる。ただし、このほかに夕張聯合会の「基金」として、年3回(4月、8月、12月)30銭を積立てることが、これは「規約書」に明文で規定されている。
なお「足尾支部会則」では「当支部は本部費卅銭(ママ)支部費二0銭を会員より振替にて徴収す」となっている。本部費の卅銭は20銭の誤りではないかと思われるが、いずれにせよ本部費とは別に20銭の支部費が徴収されている。この「足尾支部会則」で注目されるのは「振替にて」という点で、全国坑夫組合足尾支部および小滝支部では、会社側が組合費のチュック・オフを行っていたのである 何故このようなことが可能であったかは、あらためて検討を要するが、足尾支部が全国坑夫組合最大の支部たりえた理由の一つはこの点にあることは明らかである。また、組合の組織単位である支部が夕張にくらべてはるかに大きかったことも、これと無関係ではあるまい。逆に言えば、夕張では会計係が集金可能な範囲が支部の大きさを規制したのではないかと思われる。
III 基金 「組織規約書」の第3章は基金である。ここでは「聯合会基金は左の項目より成る」として、(1)本部よりの寄附 (2)聯合会会費の剰余金の積立 (3)毎年3回(4月、8月、12月)金3十銭宛の積立 (4)有志の寄附、の4項があげられている。これと同様の規定は足尾支部会則にもあり、「当支部の基本金は左の収入より成る 一、本部よりの寄附 二、有志の寄附」と記されている。ともに「本部よりの寄附」が最初に掲げられていることから見て、本部の指導によって設けられた規定と思われる。基金はともに郵便貯金とすることなど、保管、使用に際しての手続きが規定されているが、使途については明記されていない。「夕張聯合会組織規約書」では、「聯合会基金の使途は聯合会理事会会員三分の二以上の決議を以てこれを行ふ」とされ、「足尾支部会則」では、「幹事会の決議によらざれば使用することを得ず」とされているのみである。ただ、本部の指導者たちが、この基金の使途としてストライキを考えていたであろうことは、ほぼ確かである。前回も引用したところであるが、会長の河合栄蔵は『我国坑夫の行くべき道』と題するパンフレットで、ストライキを肯定して、つぎのように述べているのである。
「運動方法中、最も普通なるは同盟罷工である。我国の法律は同盟罷工を一の罪悪視しているが、本来の同盟罷工は労働者が自衛上採用する手段であって毫も罪悪ではない。……我が全国坑夫組合は成るべく同盟罷工を防ぎたいのであるが已むを得ざる場合には勿論之を行ふことを辞しない。勿論我々は暴動的同盟罷工を排斥する。また突発的に同盟罷工を行はない」(傍点引用者)。
IV 事業 「規約書」の第四章は事業であるが、これは更に共済、餞別、宣伝及講演の3節にわかれている。共済および餞別についての規定は次のとおりである。
一、共済
一、本組合員病気三週間以上に渉りたる場合は見舞金一円、一ケ月半以上に渉りたる場合は同金二円(但し支部長全責任を以て(ママ)三週目に証明書及病気届を持参し見舞金を受取り本人に交附すること)
二、公業負傷の入院中の者に一回一円限り見舞金を贈呈す
三、死亡の時 本人の場合は金五円、家族の場合は金 (ママ)円(但し生後百ケ日以上経過せるもの)
四、火災の時 火災に罹りたる場合は見舞金三円(但し会員三名以上一度に罹災せる場合に於ては理事会を開きて決定すること)
二、餞別
一、会員現役入営の場合は金一円(但し非常の時入営の場合は理事会を開きこれを決定す)
足尾支部会則にも同様の規定があり、組合員が「負傷施療の場合は二ケ月間毎(ママ)に金五十銭」、死亡の場合は金五円、組合員の「親及妻死亡の場合同二円、小供死亡の場合は同一円」などのほか、「組合会員奉願帳の場合金十円、同寄附帳の場合同七円」を贈ることが定められている。また、組合員が「永暇退山の場合金五十銭」「軍隊へ入営の場合は金一円」の餞別を贈ることがきめられている。
前回見た本部の共済事業は、癈疾者に対する救済に限られていたが、その欠は地方聯合会や支部でうめられていたのである。ただ、3週間以上の病気欠勤者に日給の半額程度(2)でしかない1円の給付では生活保障にはほど遠いことは明らかで、相互救済というよりは親睦的な性格が強いものであった。それだけに、支部単位の「共済」は根強く、全日本鉱夫総聯合会では本部の共済活動は全くおこなわれなかったが、多くの支部のそれは続けられた。なお、全日本鉱夫総聯合会夕張聯合会では、聯合会としての共済はおこなわれなかったようである。同聯合会の規約は、「本聯合会ハ次ノ事業ヲ行フ」として、「講演及出版、労働条件ノ維持改善、職業紹介、消費組合」の4つをあげているにすぎない。しかし、聯合会を構成する各支部においては、独自の共済活動がおこなわれていたことが、同聯合会登川支部などの会計報告(『鉱山労働者』第2巻第2号)からうかがえる。
事業の3は「宣伝及講演」で、「本部の主義主張を旨として大に活動する事講演会は時々理事会の協議を(ママ)決定す」とされている。聯合会主催の講演会は、1920年6月13日に第5回、同7月8日に第6回が開かれており、第5回は「聴衆二千名劇場狭隘のため遺憾ながら数百名の人を入場せしむるを得ず」、第6回は「当日は聴講料として金十銭を徴したるに拘らず聴衆無慮千三百名を越え」と記されている。もっとも「第六回講演会会計報告」では、聴講料収入は6拾円となっており、有料入場者は600人に過ぎなかったとみられるのだが。
これらの演説会では河合会長、石渡副会長、坂口本部員ら本部役員のほか、聯合会理事クラスの活動家が演説しており、『労働新報』第47号には、その演説内容の簡単な紹介がある。
講演会は聯合会主催のものだけでなく、支部や日役会主催でも開かれている。また夕張砿だけでなく、萬炭礦などでも開かれ、夕張聯合会から応援弁士がかけつけている。
組合の宣伝としては、講演会のほかにデモがおこなわれている。これは、20年5月の夕張祭(山神祭)を利用して、神社参拝デモをおこなったもので、神社参拝デモでは有名な川崎・三菱両造船所争議の1年余り前のことである。『北海タイムス』(大正9年5月16日付)は、これを次のように伝えている。
「お祭に一際目立つたのは全国坑夫組合の宣伝で数百名の赤襷隊は高松事務所に集合して鎗光閃めく赤色の旗を押立てて神社に参拝し、支部長(ママ)の坂口義治君は祭文を奏上し、之より市街地を一巡して各所万才の声を動揺し終始乱れず巧みに目的の宣伝をなし得たのは幹部の統率の鮮やかな所を見せた」
V 附則 「規約書」第五章の附則は、「会費不納者には(ママ)会員としての特権を失ふものとす」「正規の手続を了し入会したるものの外は会員と認めず」という2カ条の他は、組合員やその家族の会葬などに関する規定である。同様の規定は「足尾支部会則」や、「全日本鉱夫総聯合会真谷地支部会則」などにも見られる。これは、全国坑夫組合が友子同盟の再編を意図していたためとも考えられるが、同時に、葬儀が鉱山労働者の日常生活の上で大きな比重を占めていた事実を反映していると解すべきであろう。労働災害や職業病、あるいは不衛生な居住条件による伝染病の流行などは、彼等に絶えず「死」を意識させずにはおかなかったであろう。また鉱山や炭坑は、彼等の労働の場であるだけでなく、生活の場でもあった。しかも、限られた地域に人口が密集しているとなれば、葬儀はきわめて日常的な出来事であったに相違ない。
「規約書」の検討の最後に、「足尾支部会則」にあって、「夕張聯合会組織規約書」にない規定についてふれておこう。役員の問題や、会費の振替制については、すでに述べた。支部の共済での奉願帳、寄附帳についての規定も紹介したが、これは、夕張聯合会とはちがって足尾支部の場合は友子同盟の影響を強く受けているためと考えられる。その他注目されるのは、足尾支部の「事業」に関する規定のなかに、「当支部は組合員の労働条件の維持を監督す」「当支部が労働条件の改善を雇主に要求する場合は要求以前本部にその内容を通知し其命令を俟って行ふべし」の2ヵ条があることと、「当支部附随事業として共同購買会を組織す」と規定されている点である。
(1)渡辺惣蔵氏にうかがったところ、鈴木源重氏からの聞きとりと、全日本鉱夫総聯合会の機関誌『鉱山労働者』に拠ったとのことであった。渡辺氏の御好意で同誌の合本を借覧し、また当研究所の蔵本にも目を通したが、該当箇所を発見することはできなかった。ただ日時や支部役員名など単なる聞きとりによったとは考えられず、まだ未見の資料があるのではないかと思われる。
(2)「我国石炭鉱夫の賃金は、明治初年以来年々増加の趨勢を辿り、明治末九州に於ける是等平均賃金は正確なる統計なきも、大体六、七十銭見当なりしが、世界大戦開始後少しく増加し、大正六年の炭価暴騰と共に急激なる騰貴を示し、一躍一円以上となり、大正九年には平均二円内外となり、採炭夫の如き一日五円以上の所得を得し者少からず。」(鉱山懇話会『日本鉱業発達史』中巻、213ページ。傍点引用者)
7. 夕張聯合会に関する二、三の問題
以上「規約書」を中心に夕張聯合会の組織と活動をみてきた。ここでは、同聯合会について検討を要する二、三の問題点をとりあげてみたい。その第一は、「鮮人部」について、第2は20年6月の夕張北上坑ガス爆発事故をめぐる活動について、第三は、聯合会の活動家についてである。
「鮮人部」 さきに引用したように、「鮮人部」が正式に発会式をあげたのは、20年8月1日のことであった。しかし、実際には正式の発会式に先だって「鮮人部」が活動を始めていたことは明らかである。発会式より約2週間前の7月16日、夕張に隣接し、同じく北炭が経営する萬字炭山において、全国坑夫組合の二見沢支部、相生沢支部の合同発会式兼労働問題講演会が開かれ、夕張聯合会から五、6人の応援弁士がかけつけているが、その中に「鮮人部の逍炳一」の名が見られるからである。また、この日結成された二見沢支部の役員氏名のなかに「幹事李正福」の名があるところを見れば、同支部にも一定数の朝鮮人労働者が参加していたと推定される。
ところで、この「夕張聯合会鮮人部」や二見沢支部への朝鮮人労働者の参加は、日本人労働者が朝鮮人労働者との組織的連帯を示した事例として、また在日朝鮮人労働者の労働組合運動としても、最も早い時期に属するのではないかと思われる。松尾洋氏は、日本の労働組合運動が何時ごろから中国、朝鮮労働者との連帯を意識しはじめたかについて、主として日本労働総同盟を対象に検討された結果、「総同盟が中朝労働者との連帯を意識しはじめたのは、一九二二年末から二三年にかけてである」と結論されている(『労働運動史研究』特別号、1964年8月)。在日朝鮮人労働者の独自の団体である東京朝鮮労働同盟会や大阪朝鮮労働者同盟会が結成されたのは、1922年の11月15日と同12月1日のことである。全国坑夫組合への朝鮮人労働者の参加は、これに先だつこと約2年半である。「夕張聯合会鮮人部」は、3組合の合同後も存続し、『鉱山労働者』第2巻第1号(1921年1月)には、「鮮人部」選出の聯合会理事として河応図、金南周の名があげられ、全日本鉱夫総聯合会夕張聯合会の第1回理事会の出席者として、河応図のほかに金南周の代理として崔錫祚の名が記録されている。
このように、全国坑夫組合が他の労働組合に先がけて朝鮮人労働者との組織的連帯を表明し、夕張聯合会が朝鮮人労働者の組織化に成功したのは何故であろうか。
その第一の要因は、当時、北炭に、それも特に夕張礦に多数の朝鮮人労働者が雇傭されていたという事実である。第8表に見るように、1920年現在、北炭には703人の朝鮮人労働者が雇傭され、このうち309人が夕張礦で、262人が万字礦で働いていたのである。おそらく、一経営、一事業所における朝鮮人労働者数としては当時の我国では最大であったのではないかと思われる。しかも、言語や習俗の関係から、朝鮮人労働者は特定の宿舎、特定の職場に集中した。こうした条件は、彼等に対するさまざまな差別、抑圧ともあいまって、朝鮮人労働者の団結をうながしたにちがいない。事実、全国坑夫組合の結成以前の1917年6月11日には、若鍋(若菜辺)礦の朝鮮人労働者165人が「現場係員の不親切と、言語の通じないこと」などが原因でストライキを起している(『新夕張と共に』285ページ)。なお、この人数は第8表の数字の2倍以上であるが、どちらが正確であるか、はっきりしない。
全国坑夫組合に「鮮人部」が結成されえたもう一つの要因は、組合本部の指導者となった新人会員が、その後援者である吉野作造の影響もあって、朝鮮問題に関心をいだいていたことによるものであろう。「鮮人部」の結成を報じた『労働新報』には、「日鮮労働者の握手」と題する河井栄蔵の論稿が掲げられている。この論稿は、「日鮮同祖論」的な立場をとり、「日鮮融合」といった言葉を用いて日本帝国主義の朝鮮支配の基本原則である「朝鮮人同化政策」に無批判であることなどの問題を含んでいるが、「苦しむ者は苦しむ者と手を握るべきである。労働する者は労働する者と手を握るべきである」と労働者階級相互の連帯についてのべ、全国坑夫組合への朝鮮人労働者の参加を歓迎している。6月に河合らの北海道遊説がおこなわれ、7月に「鮮人部」が生まれていることも、単なる偶然ではなく、そこに河合らのイニシァチブを見ることができるのではなかろうか。
参考までに、「日鮮労働者の握手」の全文を引用しておこう。
「私は嘗って朝鮮を旅行した人の話をきいた。其人曰く『朝鮮では内地人が楽な労働をし、朝鮮人が苦しい労働をする』と。これ実に驚くべきことである。凡そ世界の歴史を通観するに、戦争に勝ちたる征服者は常に苦痛な労働を被征服者に強制するのである。我が日本人は朝鮮に於て朝鮮人を被征服者扱ひにして苦しい労働を強ふるのでなかろうか。是れ実に由々しきことである。
古代より日本と朝鮮とは密接の関係がある。日本と朝鮮との民衆が相親しんでゐたこと、両国の民衆には親密な共通の血液の流れてゐることは歴史の明白に立証するところである。
今日と雖も日本の民衆は毫も鮮人も被征服者として扱ってゐない。我々は以前にも増して我々が兄弟たらんことを欲する。
我が全国坑夫組合夕張聯合会に鮮人坑夫諸君が来り投じたことは実に我々の歓喜するところである。これ両国民衆の心よりの結合の第一歩と謂ふべきである。比事実は正に内鮮労働階級の親善の為めに吾人は大に歓迎するのである。米国労働者が有色労働者を駆逐したり、濠州人が白人濠州を主張するが如きは甚だしき狭量の沙汰であって、ソリダリテーとか文化運動たる労働運動の使命本質に背反するものである。
朝鮮人坑夫諸君よ。苦しむ者は苦しむ者と手を握るべきである。労働する者は労働する者と手を握るべきである。真の日鮮融合は両国民衆の自覚ある握手ありて初めて完成されるのである。日本坑夫諸君は必ず諸君を兄弟として相親しみ相携へ進み行くであろう。諸君も亦心より労働運動の根本目的を胆銘(ママ)じて如何なる困難をも恐れず鉄石の心を以て進み行かれよ。真の生産者文化真の民衆文化は斯くの如き平和の握手によりて初めて完成さる。私は切に諸君の奮闘を希望する次第である。」
ガス爆発事故をめぐる活動 全国坑夫組合夕張聯合会の活動で、注目されるのは、ガス炭じん爆発事故の際に、抗議と救援の大衆行動を組織したことである。事故が起ったのは、1920年6月14日午後5時10分、夕張炭礦丁未坑所属の北上坑であった。もともと夕張炭礦は「坑内到る処に爆発性瓦斯の噴出ある」(高野江基太郎『日本炭礦誌』)ことで知られ、開坑以来、大小の変災が頻発していた。(第8表参照)とくに北上坑(第二斜坑)は爆発事故が多く、「殺人坑内」の異名をもつほどで、1912年には4月29日と12月23日の2度にわたって大爆発をひきおこし、267人と216人の計483人もの死者を出していた。20年6月のガス炭じん爆発はこれにつぐもので、209人の死者を出したのである。しかも、入坑者の救出にほとんど手がつかないままに、坑内火災を消すため坑口の密閉がおこなわれたのである。
このような労働災害は、労働者が自らの地位を自覚し、運動に参加する契機となることが少なくない。たとえば、南助松とともに1902年、この同じ夕張炭礦で大日本労働至誠会を創立した永岡鶴蔵は、自伝「坑夫の生涯」のなかで、至誠会の成立について次のようにのべている。
「炭山は鉱山と違いて危険なことが一層甚い毎月の如く死傷者がある日によると三四十人も一度に瓦斯爆発で死骸を並べることは珍らしく無いアア資本家の利益の為めに幾多の労働者は犠牲となって葬れ行くを見て実に憤慨に堪へなかった。労働至誠会は此の必要に迫られて生れたのである」
また、全国坑夫組合結成のきっかけを作った高島信次も、落盤事故で不具となり資本家に激しい怒りをいだいたことが、運動参加の大きな理由であったとは、麻生久の自伝的小説『黎明』の記すところである。亀戸事件の犠牲者、北島吉蔵も、日立鉱山で「機械に足を噛じられてゐた」(相馬一郎「北島吉蔵君」、『潮流』第3号所収、1924年6月)。このほか、全国坑夫組合夕張聯合会の第六支部長で、後年、北海道における左翼労働組合運動の中心人物となった鈴木源重も、死者422人を出した1914年11月28日の新夕張若鍋坑のガス爆発で兄を失っている(『無産運動総闘士伝』)。夕張の組合員のなかには、同様な体験を持つ者が少なくなかったであろう。
しかし、それにしては、労災事故に対して、労働者が組織的な闘争を展開した事例は、第二次大戦前には予想外に少ない。あるいは、少ないというより、知られていないというべきかもしれない。実際には、労働災害が起きたとき、さまざまな救援活動がなかったとは考えられない。また遺族や同僚が、経営者や職制の責任を追求することもおこなわれたであろうから。
ただ、1920年の夕張北上坑のガス爆発事故の場合は、すでに労働組合が組織されていたこと。しかも事故の当日まで中央の指導者が夕張に来ており、講演会その他で労働者の意気があがっていたことが、事故の責任追求や救援運動を組織的、大衆的なものとしたのである。
全国坑夫組合は、事故勃発とともに現場近くに臨時事務所を設けて活動を開始した。聯合会役員は、入坑者の安否を気づかう家族らと応接する一方、河合会長一行を送って万字炭山に赴いていた坂口義治に急を知らせた。翌15日、午前11時坂口本部員の帰着をまって幹部会が開かれ、会社側に対する要求条件について協議した後、役員約10名が丁未鉱事務所に赴き、会社側責任者との会見を求めた。結局、夕張礦長、直原佐平がこれに応じ、坂口義治との間で問答が交された。組合側の質問は、(1)罹災者の収容が終らないのに密閉した理由 (2)変災の前兆はなかったのか (3)今後の遺体収容について (4)遺族に対する救護について (5)葬儀について (6)係員風の男が鑑札を持ち逃げしたとの説について〔正確な趣旨はわからないが、会社側が犠牲者数をごま化すのではないかとの疑いによるものであろう〕 (7)犠牲者数の発表が再三変った理由などについてであった。直原礦長はこれに答え、約1時間半で会見を終えた。このあと、組合側は遺体収容所で家族に会見の模様を報告した。
翌16日、夕張聯合会理事会は、(1)遺族慰問のため慈善興行をおこなうこと (2)遺家族の戸別訪問をおこなうことなどを決定した。この慈善興行は6月23日から25日まで3日間、劇場登り座で活動写真、浪花節、喜劇などがおこなわれ、純益700円は慰問金として「会社の手を経て」遺族に贈られた。
これより先、6月17日には、午前中、炭礦病院で前々日の礦長との会見の模様について報告会が開かれた。「坂口本部員の報告ありて後安田理事長簡単に今後の覚悟を述べ閉会、此時来院中の多数患者(坑夫諸君)は熱狂感泣するありたり」。つづいて同日午後5時から、夕張聯合会主催の「北上坑大惨害経過報告労働者大会」が丁未小学校に2000人を集めて開かれた。この大会の模様を『労働新報』は次のように報じている。
「鈴木源重君の熱烈なる開会の辞に次ぎ木田会員椎原会員両君の熱弁あって後安田理事長登壇今回の大変災と組合の活動に就て最も熱烈なる演説あり満場拍手裡に降壇次は坂口本部員前回報告せる如く対直原礦長問答の報告の後今回の変災より得たる教訓団結の必要自覚の急務を説き大喝采の中に降壇。此時鈴木源重君の緊急動議提出せり満場一致左記の決議をなす、尚附帯件議(ママ)として質問建言書を附す
決議
一、吾人会衆は全国坑夫組合員と共に協力して罹災者遺族に対し扶助料及び慰籍料等遺憾なく給与せしめ尚徹底的救済方法を講ぜしむる事を会社に交渉努力する事
二、会社係員にして不当なる所為ある者を直に罷免せしむべく会社に交渉する事
三、全国坑夫組合に信頼し今回の突発事件に対し細大漏らさず調査公表し一は以て会社に警告を与へ一は以て吾人労働者の自覚の資に供する事
右の三件を決議し明六月十八日本源寺に於ける罹災者会葬席上より実行着手し実行委員として会衆一同之に当る
大正九年六月十七日
大惨害経過報告労働者大会会衆一同」
この決議に附された「質問及建言書」の主な内容は、(1)遺族扶助料、慰籍料について (2)不当な係員の罷免問題 (3)一心会についての3点であった。
(1)の遺族扶助料、慰籍料に関する質問に対して、会社側は「未だ詳細の内容決定せず」としながらも、「扶助料は賃金の百七十日分以上支給するのであるが尚之れ以上支給したく思ひ居れり」、慰籍料については「法律上には全々(ママ)なし。然れども会社は罹災者諸氏に対し誠に御気の毒なるが故に何等かよろしき方法を取ることに努力する事でありましょう支給方法未定」と回答した。「扶助料は賃金の百七十日分以上」というのは、1916年9月、工場法と同時に施行された「鉱夫労役扶助規則」第21条の「鉱夫死亡シタルトキハ鉱業権者ハ遺族ニ賃金百七十日分以上ノ遺族扶助料ヲ支給スベシ」との規定によるものである。
この質問、回答のほかにどのようを交渉がおこなわれたか否かは明らかでない。しかし最終的に支払われたのは、遺族扶助料として賃金の170日分、慰籍料として130日分の計300日分であった。基準となった賃金日額は死亡前3カ月の平均であった。これは金額にすると『労働新報』によれば、「最高約金三千円最低約七百円」であり、『北海タイムス』7月5日付によれば、最高2573円、最低700円であった。『北海タイムス』7月14日付は支払総額を約27万円とつたえており、これを犠牲者1人当りになおせば1291円余となる。同年の全国的な統計数字は見出し得ないが、2年前の1918年度の全国炭坑鉱夫公傷死亡者1人当りの扶助金額、361円69銭(1)とくらべれば、実に3・3倍である。
『労働新報』が、この成果をつぎのように高く評価したのも当然といえよう。
「以上会社は前代未聞の大傑作的行動に出でたのである之要するに時代の進歩はさる事ながら吾人が労働運動をすることによる処又実に多いのである。こころみに今日迄数日(ママ)〔百?〕の大小変災害に際し其手当は如何実に微々たる者(ママ)にて僅に三百円内外より数百円を出なかったのである。然るに今回の如きは労働者の実に自覚団結の威力が効を奏したのである。」
ところで、さきの「決議」にも「不当なる所為ある」係員の罷免要求が掲げられていたが、「質問及建言書」の第2のポイントもこの問題であった。組合側は質問書で「十指の指す処十目の見る処故意的将又無能的に吾人労働者に不当行為ある係員あるを耳にす、会社は罷免解職する意思なきや」とただした。会社側はこれに対し「係員にして不都合の行為ある者は罷免を実行しつつある此上も励行すべし」と回答している。組合がさらに、「全国坑夫組合記名にして係員の不正行為を申告する時には会社は之に対し充分責任ある回答と手段に出づる事」との「附帯建言」をおこなったところ、会社の答は「承認可決」であった。
組合が、係員のどのような行為を「不当」としたのか、その具体的内容は明らかでない。「大惨害経過報告労働者大会」での決議に加えられていることからすれば、災害に直接関連した行為、たとえば鑑札の持ち逃げ、とも考えられる。しかし、災害が起った前日に開かれた労働問題大講演会の席で、聯合会専務理事・渋谷杢次郎が、「『江戸の仇を長崎で討つ哉』と題し会社内に於ける不義不正なる係員の人格上の欠陥を一々実例を拳げ一は会社最高幹部の厳重な監督を要求し、一は不正分子の謝罪反省を促し満場の同意(ママ)を熱狂を受け喝采中に降壇」している事実があり、係員の不正行為はもっと日常的な問題であったと思われる。日常的な不正行為として最もありうるのは、検炭や切羽の割当てなどの権限にからんだ賄賂であろう。あるいは、次の「一心会問題」とも関連して、組合を圧迫するためにこれらの権限を用いて活動家に不利なとりあつかいをしたことも考えられる。「江戸の仇を長崎で討つ哉」という演説の題も、こうしたことを指しているのではなかろうか。いずれにせよ、係員の不正の糾弾が、多数の会衆から「熱狂を受け」ている事実は、この問題がかなり広汎に存在していたことを示しているとみてよい。
「質問及建言書」の第3のポイントは一心会に関するものである。この一心会は、1919年12月5日、北炭が、その傘下の各礦ごとに設けた「労資の意思疎通機関」である。これについて、北炭の『七十年史』は次のように述べている。
「大正八年十二月他社にさきがけて創設された当社の一心会は、英国の工場委員制度に着意したものである。この制度は当時の険悪な社会思想にかんがみ、労資相互の意志疎通、連絡調整をはかるため、社員および労務者選出の委員と会社側委員によって組成され、就業面、生活面のいっさいの事項を議題にのぼせ、懇談裡に審議を行い、諸般の創意改良策を実行に移し、斯業の発展に寄与するところ大なるものがあった。
しかし当時の労働運動者は、これについて深い理解がなく、多くは『労働組合の侵入を防ぐための、資本家の企図による御用団体』として白眼視したものである。
本会の目的は、労働者が資本家にとってかわろうとする、いわゆる革命的思想を排除し、他面、資本家も労働を商品視する思想を改めて相互対等の人格のうえにたち、尖鋭化せんとする労資の対立感情をやわらげ、社会連帯、産業平和理念を扶植し、相互に経済的、社会的利益を享受せんとするところにあった。」
1919年から21年にかけては、重工業大経営を中心に「工場委員会」制が広汎に導入されたが、鉱山業の場合には工場委員会制に共済組合的機能を加えた「会社組合」の形態が一般的であった。三井鉱山の各事業所に設けられた共愛組合、三菱系各山の親和会、共栄会、日立の温交会、住友の親友会、北炭の一心会などがそれである。これらの「会社組合」は、会社側の指名による委員(多くは職員)と労働者側の選出による委員によって委員会を構成し、「労資の意思疎通」をはかることをうたっていた。一心会も同様で、会長には各礦の礦長が就任し、委員(10人〜20人)の半数は会長指名、半数は1年以上勤続の成年男子の投票によって選出された総代(3年以上勤続の成年男子)の互選によるものであった。会の日常運営にあたる幹事(2人あるいは4人)は、職員 委員、労働者委員の中から同数づつ、会長が任命した。この役員の構成、選任手続きからも明らかなように、一心会の運営の実権は完全に会社側が握っていた(2)。これらの「会社組合」の第一の目的が、自主的な労働組合を経営内から閉め出すことにあったことは明らかである。北炭の一心会が、1919年12月に設置されたのも、まさにそれに先だって結成された全国坑夫組合夕張聯合会への対応策の一つであった。おそらく全国坑夫組合夕張聯合会は、その運動のなかで一心会の委員との間でさまざまな対立を生じていたのであろう。北上坑爆発事故に対する救援、抗議の運動を組織するなかで、全国坑夫組合はその有利な情況を利して、会社側に組合の承認を迫ると同時に、一心会の解散を要求したのである。『労働新報』によれば、その応答は次のようなものであった。
「一、決議書第三項に基き無為無能なる一心会の組織を解散し全国坑夫組合を信頼共力(ママ)善後策に努力すべし。
会社答 一心会は労資の協調機関なれば尚充分(ママ)の点は改良して諸君の意志に副ふようにすべし尚全国坑夫組合は会社に於ても之を承認するは勿論現在信頼すればこそ只今も諸君と会見協議するものなり御了承を乞ふ尚将来に於ても一心会なり全国坑夫組合たり(ママ)両立し行くべきものにして何れにしても、健全なる発達を逐ぐるものを以て信頼するに足るものとす
附帯建言 一心会を除名せられしに依り会社は雇傭関係を解くことなき何奈
会社答 一心会を除名せられしと云ふ名目に依りて雇傭関係には絶対に触れず。」
このように、一心会の解散要求こそ容れられなかったが、全国坑夫組合の存在を認めさせることには成功したといえよう。会社側との、少くとも二度にわたる「問答」に加え、6月18日に挙行された犠牲者の社葬でも、全国坑夫組合は会旗を掲げて参列し、坂口義治が組合本部を代表し、安田聯合会理事長が夕張聯合会を代表して弔辞を捧げている。これらの事実は、会社側が全国坑夫組合を承認したものと一般に受けとられたであろう。この闘争を機に、夕張聯合会が一段と発展したことは、さきに掲げた第7表からもうかがえる。3組合が合併して成立した足尾聯合会とならんで、全国坑夫組合中心の夕張聯合会が、全日本鉱夫総聯合会の二大拠点となり、さらに道内の他の諸炭鉱に組織を拡大しえたのも、この闘争の成功が大きな力となったに違いない。
しかし、こうした事態は永くは続かなかった。3組合合同後、3ヵ月もたたない1921年1月、北炭は不況を理由に2割の賃上げをおしつけ、一心会はこれを承認した。夕張聯合会は、賃下げを1割にとどめ、分配所の物品を時価より1割引下げること、労働条件について「全労働者及本組合の委員と」協議決定すること、事件に関する一切の責任を問わないことなど6カ条の要求を提出し、ストライキで対抗した。1カ月余の争議の後、一旦は常務取締役で北炭夕張支店長の高城規一郎と全日本鉱夫総聯合会理事の麻生久との間の交渉で妥結をみた。しかし、その妥結内容が、「今回の要求条項の主意ある処は善く諒解せり、是等の条項は支店長を信頼して支店長に一任せよ」(『鉱山労働者』第2巻第3号)といったきわめてあいまいな形であったため、実質的には要求は容れられず、活動家はさまざまな口実をつけて解雇された。しかも、麻生は会社に買収されたとの噂が流され、さらに、全日本鉱夫総聯合会は、もう一つの拠点である足尾で争議中だったこともあって有効な反撃を組織しえず、夕張から組合組織は一掃されてしまった。
夕張聯合会の活動家 労働組合史研究では、その構成員の性格の解明が重要な課題である。しかし、一般に、その検討のための材料はきわめて少ない。夕張聯合会もその例にもれず、一般組合員や役員の職種構成、年令構成など全くわかっていない。残されている手がかりは、さきに見た役員と講演会の出演者など約30人ほどの氏名だけである。こうした限られたデータで組合の担い手の性格について論ずることは困難なので、ここでは、活動家のなかでその経歴の一部でも明らかな人々について列記して、今後の検討の材料としたい。
坂口義治 坂口についてはこれ迄もしばしばふれた。坑夫生活2十余年の経験をもつ夕張の支柱夫、坂口角蔵の子で、当時2十4、5才であった。全国坑夫組合結成直前の1919年5月に友愛会本部の書記補に就任している。全国坑夫組合では本部員で庶務主任であったが、夕張聯合会の中心的な指導者として夕張に滞在することが多かった。佐野学と親しくその強い影響を受けていた。聯合会主催の講演会では、資本主義制度の矛盾を攻撃し、労働者は「理想国家を建設するの先駆者でなければならぬ」述べ、また「労資協調は実行至難にして、結局資本階級と労働階級との抗争となり紛争の後初めて平和の日来る」と断言している。全日本鉱夫総聯合会では副理事、のち理事となり、麻生久を助けて夕張・足尾・尾小屋などの争議を指導した。21年7月には北炭の協定不履行に抗議するデモで逮捕され、15日間の禁錮刑を課せられた。22年6月には対露非干渉同志会の発起人に名を連ね、同年11月にはひそかに訪ソし、山本懸蔵とともにプロフィンテルン第2回大会に日本の労働組合代表として出席した。23年1月、渡辺春男にともなわれ帰国している。同年6月、共産党の第一次検挙のきっかけは兄の鶴治、渋谷杢次郎らが警視庁のスパイであるのを知らず佐野学が党の秘密書類を預けたためといわれ、以後、坂口義治も運動から姿を消した。
坂口鶴治 義治の兄、盲人でありながら、運動に参加する前は、「夕張小僧」の異名をもつ泥棒であったという。鉱夫ではないが夕張聯合会に参加し、聯合会顧問・同会計検査役である父の代理として、聯合会理事会にも出席している。全日本鉱夫総聯合会では、地方宣伝員として、娘に手をひかせて街頭演説などを行っている。『鉱山労働者』第2巻第6号(21年6月)に寄稿した「絞り取る階級と絞り取らるる階級」の一節に、「私の叫ぶ社会主義は無政府共産主義に非ず、私は国礎を危きに導くものに非ず国家をその危始(ママ)〔殆〕より救はんとするものである。政府の蒙を開き資本家の罪悪を絶滅せんとするものである」とのべている。
渋谷杢次郎 夕張聯合会専務理事 坂口鶴治の義父。20年12月結成の日本社会主義同盟に、和田軌一郎、松本徳松、鈴木源重らと参加している。同盟の名簿にある和田、松本の住所は、ともに夕張炭山高松二区24一、渋谷方である。夕張争議で解雇された後上京し、一時は常磐炭田にオルグに入っている。23年6月、警視庁が共産党の第一次検挙にふみ切ったのは、巣鴨庚神塚の渋谷の家から、佐野学に託された党の秘密書類が発見されたためで、警察発表では家宅捜索を受けた理由は、渋谷らが革命歌を高唱したからであるということになっている。
安田為太郎 全国坑夫組合から全日本鉱夫総聯合会を通じて、夕張聯合会の理事長。1907年の足尾暴動の体験者である。夕張争議で解雇されたため上京し、22年10月に結成された南葛労働会に参加している(南巌「生き残りの記」、『亀戸事件の記録』所収)。
鈴木源重 鈴木の経歴は、『無産運動総闘士伝』、渡辺惣蔵『北海道社会運動史』に詳しい。1891年、山形県の農家の生まれ。高等小学校卒業後、代用教員などをしていたが、1914年ガス爆発による兄の死を機に夕張に移った。北炭夕張礦で、はじめは巡視をしていたが、全国坑夫組合結成のころ巡視をやめて支柱夫となり、積極的に組合活動に参加し、第六支部長となった。爆発事故の際は組合の先頭に立って活躍しているが、何故か、その直後に彼の除名処分が理事会で問題にされている。「事実組合の体面を穢すが如き又不誠意なる行動の有無を実地調査の上処分すること」が決められているが、全日本鉱夫総聯合会でも活動しており、除名はされなかったと見られる。夕張争議で解雇された後、小樽に行き港湾労働者となった。1925年8月、小樽総労働組合(のち小樽合同労働組合)の結成に参加した。同組合は評議会に加盟し、彼は北海道地方評議会の常任委員、評議会本部の中央委員として活躍した。また、境一雄の後任として小樽合同労組の委員長となり、1927年の「小樽港湾ゼネスト」を指導した。また、無産政党運動にも参加し、1930年には小樽市議に当選した。戦後は北海道議会の副議長となった。1971年8月死去。
姉川仁平 全国坑夫組合役員としては、本稿のはじめに引用した渡辺惣蔵『北海道社会運動史』に夕張支部幹事として記されているだけであるが、全日本鉱夫総聯合会では鹿の谷支部長、夕張聯合会理事、同会計係をつとめている。姉川は全国坑夫組合に参加する以前の1916年1月に、長崎県香焼炭坑で、友愛会長崎分会を創立し、その分会長をつとめた経験をもっている(覆刻版『労働及産業』(3)参照)。彼は測量技師で「香焼炭坑のインテリゲンチャであった」が、組合活動のため解雇されたという(今村等「友愛会の結成と私」『労働』1969年1月号所収)。
蟻通佳明 全国坑夫組合では支部の幹事に名を連ねているだけであるが、全日本鉱夫総聯合会では、夕張聯合会の専務書記をつとめた。大杉栄らの第2次『労働運動』第13号(21年6月)に、夕張に労働運動社の支局が出来たことを報じ、「北海道夕張町本町4丁目、北海夕張新聞社内 蟻通佳明」の名が記されている。
和田軌一郎 夕張聯合会の役員ではないが、同聯合会主催の講演会に「元美唄炭山にて本組合員」であったとして出演している。21年1月の第二次『労働運動』第1号に「夕張から」という地方通信を寄稿しており、半年以上夕張に滞在していたと見られる。その後上京し、同年4月には、高尾平兵衛らと黒飄会をつくり、橋浦時雄、渡辺満三らの北郊自主会にも参加している。21年4月、労働社の結成に参加し、その機関紙『労働者』の同人に名を連ね、第5号から7号まで同紙の編集発行人となっている。同年の第2回メーデーで公務執行妨害に問われ、禁錮2ヵ月の判決を受けている。同年10月、高瀬清、北村英似智とともに「極東民族大会」の日本代表としてソビエトに渡り、大会終了後も留ってクウトベで学び、さらに大庭柯公の後任として東洋語学校の日本語教師をつとめた。『ロシア放浪記』(1928年、南宋書院)、『若きソヴェートと恋と放浪』(1930年、世界の動き社)などの著書がある。近藤栄蔵『コムミンテルンの密使』は、彼について、次のようにのべている。
「和田軌一郎は大男で、腕力もあり大胆でもあった。体の小柄な和田久太郎と区別するために、私等は軌一郎を大和田と呼んだ。彼は、後で詳しく語るが、第一期ソ連見学生の一人でモスクワに三年ほど居ったが、なかなか一徹なところのある男で、とうとうボルシェヴィキに改宗することを拒んで追ひ返されて来た。彼の欠点は酒に溺れることだった。快活な開っけぱなしの男で、仁義にも固かったが、酒で身をもち崩した。帰ってからは、同志の間で彼を相手にする者が殆んどなく、一時は真正のルンペンに墜ち込んでしまってゐたが、その後どうしたか知らぬ。彼には『ロシア革命運動史』と題した一冊の著書がある。筆も決して立たない男ではない。性来の放逸と酒癖とが彼を運動圏外に投げ出してしまったことは惜しむべきだ。」
(1)三菱鉱業株式会社採炭課「死傷者1発生ニ因ル炭坑ノ損害」(同社『鉱業資料』第3巻第10号、1920年9月)
(2)「会社組合に於て実際上その指導、統制に携はる人は大抵は会社の労務係員である……」(前田一『新産業道読本』全産連事務局、1941年)。なおこの本での前田一氏の肩書きは北炭の労務課長である。ちなみに「会社組合」というのも、前田氏の造語であり(『社会政策時報』1932年7月号)、氏は「一心会」での経験をもとに、会社組合の理論家として積極的に活動した。
(未完)
初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』185号(1972年8月)
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