2002年も残すところ、あと僅かとなってしまいました。アメリカから帰国してまだ8ヵ月しか経っていないのに、異国での1年は、はるか遠い昔のことのようです。遊歩道を一周すると45分もかかる広い自然保護林の縁に位置し、緑の大樹に囲まれた住まいでの暮らしと、今の、マンションという名のコンクリートの巨木の林のなかでの暮らしとの、その落差の大きさによるものかもしれません。9.11以降、異常な出来事がつぎつぎと起きたことも、経過した時間を長く感じさせているのでしょう。
この歳になればいたし方ないことですが、この1年というより半年たらずの間に、先輩、友人、知己の逝去の知らせが相つぎました。お通夜や告別式に参列する機会だけでも4、5回ほどになります。今朝の新聞も松島栄一さんの訃を報じ、数日前の新聞は旧知の内山尚三さん、佐藤秀夫さんの逝去を伝えていました。
松島さんとは一二度お会いしただけですが、内山さんとは法政大学法学部でごいっしょした時期がありました。もっともこちらは助手で内山さんは教授でしたが。学者としてだけでなく、「世界平和アピール七人委員会」事務局長や札幌大学学長としても活躍された方です。法社会学の立場から建設業の労働関係について研究され、『法学志林』に「家父長制労働関係の法社会学的考察」といった論文を発表されていました。私の処女作「足尾暴動の基礎過程」も同誌に載ったのですが、これをいちはやく読んで評価してくださったことは忘れられません。個人的に親しいという訳でもない私に、四十数年間、毎年欠かすことなく年賀状を送ってくださった律義な大先輩でした。
日本教育史の佐藤秀夫さんは、大学の一年後輩で、兄の佐藤誠三郎氏を介して互いに顔見知りだったという程度の知り合いです。肝臓癌だったとのこと。同世代の人の死は、さまざまな感懐を呼び起こします。
親しくおつきあいいただいた方の訃報も続きました。6月には鈴木徹三さん(79歳)と藤本武さん(90歳)、7月にロイドン・ハリソンさん(75歳)、8月には大羽奎介さん(67歳)が亡くなられたのです。
鈴木徹三さんは法政大学経済学部の先生でしたから、早くからお顔は存じあげていたのですが、親しくしていただくようになったのは、1975年はじめのことでした。戦前、内務省と財界が共同でつくった財団法人協調会の資料を大原社研で購入したいと考え、当時大学の財務理事であった鈴木さんにお願いしたのがきっかけです。鈴木さんの専門は経済政策だったのですが、ご父君の鈴木茂三郎の伝記をまとめたいとのお気持ちが強く、それだけに「協調会資料」の意義をすぐ理解され、当時としてはかなり多額の予算支出を認めてくださったのでした。「協調会資料」は、法政大学大原社会問題研究所が所蔵する多くの資料のなかでも、利用度がもっとも高いもののひとつですが、それを入手できたのは鈴木財務理事のおかげでした。
大学の理事をやめられた後、本腰をいれて茂三郎伝執筆の準備を始められました。目指されたのは息子の立場で父を描く回想記ではなく、社会主義運動の歴史のなかに鈴木茂三郎を位置づける、本格的な社会運動史研究でした。そのため、広く関連史料や研究書を集め、多くの関係者に会い、あるいは電話でインタビューして問題点をただす努力を重ねられ、1982年に『鈴木茂三郎(戦前編)──社会主義運動史の一断面』を刊行されました。そのもとになったのは、1977年10月から30回にわたって『月刊社会党』に連載された同名の論稿でしたが、その執筆期間中、月に1、2回は電話がかかってきました。内容はいずれも研究の現状や史料の所在についての質問でした。最初は初歩的な疑問もあったのですが、次第に即答できない難問がふえ、「調べてからご返事します」と答えることもしばしばでした。鈴木さんから電話がかかると、最低でも30分、平均1時間はかかりましたから、まず「ちょっとお待ちください」と断って、椅子を電話のそばにもって来て応答しました。今のように、子機をもちあるいて家のどこからでもかけられる時代ではなかったからです。おそるべき〈電話魔〉でした。〈魔〉といえば、私に「学界きっての〈資料魔〉」という栄誉あるあだ名をつけてくださったのは鈴木さんですが、実際に〈資料魔〉だったのは彼の方で、つぎつぎと新しい資料を発掘し、これを「鈴木茂三郎文庫」として大原社研に寄贈されました。
藤本武さんは労働科学研究所の社会科学部門を長年にわたって支えてこられた研究者でした。社会政策学会の大会の時にお目にかかる程度のおつきあいでしたが、「足尾暴動の基礎過程」で飯場制度の分析をした際には、藤本さんの「組頭制度の研究」に多くを学びました。
驚異的な筆力の持ち主で、還暦までに執筆した著書や論文、調査報告書は378点、総計1万3000ページにおよんだと記録されています。さらにその後30年間、旺盛な執筆活動をつづけられ、80歳台になっても毎年のように単行書を出されましたから、最終的にはその2倍にはなるだろうとのことです。労研で藤本さんと机を並べた研究者は皆、たえず隣席から聞こえる「カリカリ」というGペンを走らせる音にせき立てられたといいます。疲れた夜は執筆する気にならないので、横になってフランス語の雑誌を読んだといったエピソードとともに、藤本さんのおそるべき気力、勤勉さをつたえる逸話として、仲間内ではよく知られた話です。大学紛争の影響もあって、社会政策学会の本部校を引き受けるところがなく、機関誌の刊行も滞りがちだった時に、藤本さんが代表幹事に就任され、労研が本部となって、学会の建て直しに貢献されたことも忘れてはならない事実です。
ロイドン・ハリソン(Royden Harrison)は、かのE.P.トムソンが設立したイギリスはウォーリック大学の社会史研究センター(The Center for the Study of Social History, Warwick University)の2代目所長です。研究所といっても大学院的性格が強く、そこで数多くの研究者を育てた教育者でもあります。その愛弟子のひとり、〈秘蔵っ子〉が慶応義塾大学の松村高夫さんです。
知日派、親日家として知られ、ハリソン一家の世話になった日本人研究者は相当な数にのぼります。シェフィールド大学の社会人講座で労働者教育を担当されたあと、ウォーリックに移られました。夫人のポーリン(Pauline)もシェフィールド大学の分子生物学の教授として教えておられました。私が1976年から77年にかけて留学した際には、社会史研究所の訪問研究員として受け入れていただきました。私だけでなく、一家4人がシェフィールドのハリソン家に何回か泊まりがけで招かれ、ご夫妻だけでなく、2人のお嬢さん、フィオーナとシーラを含めた家族全員の暖かいもてなしを受けました。イギリスの料理はまずいという定評がありますが、その例外があることをポーリーン夫人の手料理で知りました。郊外のムーアへの散歩やシェフィールド・ウェンズデーのサッカーの試合で大声で声援した時のことなど、忘れがたい思い出です。
大羽奎介とは大学院や労働運動史研究会でいっしょでした。日本の労働運動史研究には方法がないと気炎をあげ、研究会のなかに小委員会的な集まりをつくった時の相棒でもありました。私がなんの気なしに吹いていた口笛を、「フランクのバイオリンソナタでしょう」と聞きとがめたことから、我が家に連れて来て、ジャック・ティボーとアルフレッド・コルトーの名演を聴かせ、それを機に急速に親しくなりました。彼がユーゴに留学した時には、横浜まで彼のお母さんも乗せて私が車で送りました。小柄なお母さんが「これの父も風来坊でしたから」と、もう二度とあえないことを予感したような口調で話されたことを印象深く覚えています。1974年、39歳のとき現地で外務省に採用され、セルボ・クロアチア語を駆使するバルカン半島スペシャリストとして活躍しました。ユーゴ崩壊後、初代のクロアチア大使に就任しましたが、現地採用者で大使となったのは彼が最初だったそうです。
大使退任後のことは知らずにいたのですが、新聞の訃報にれば脳腫瘍のためフィリピンのセブ市の自宅で亡くなったとのこと。「葬儀・告別式は遺言により行わない」と報じられていたのもいかにも大羽らしいと思ったことでした。また、ごく最近知ったところでは、「死後は愛着あるユーゴスラビアの地で眠りたい」との遺志によって、9月27日、その遺骨がベオグラードの中央墓地に、家族や友人たちによって葬られたといいます。大使として赴任中に、クロアチアに来るよう招かれたのですが、大使館を訪ねるのはなんとなく気が重く果たせなかったので、せめてお墓参りくらいはしなければと思っています。
みなさまのご冥福を祈って、合掌。
〔2002.12.19記、12.22〜12.24追補〕