高野岩三郎  「兄高野房太郎を語る」


 我現下の情勢の下に、我亡兄──我国最初の社会運動家、労働組合運動家としての高野房太郎を語るは、私にとって感慨の深さを覚えしめる。
 我国初期の労働運動は、我資本主義発展の初期たる明治二十七、八年の日清戦役後に於いて発生したることは人の知る所である。そしてこの運動そのものについては、西(ママ)〔西川〕、片山両君の共著として公にされた『日本の労働運動』に詳細に記述されて居る。且又この運動に関係せる主要人物については、輓近我国資本主義発達史の研究盛んなるにしたがひ、亦紹介さるゝに至った所である。
 ただ資本家側に於ける進歩的人物佐久間貞一氏と、労働組合側に於ける片山潜氏に関しては、比較的詳かに伝へられておるが、独り高野房太郎に関しては、甚だしく貧弱であって、其の結果高野の経歴について誤り伝へらるゝ所あり、又は彼の初期労働組合運労(ママ)〔運動〕に占むる地位が幾分歪曲されておるの感なきでない。例へば犀利なる社会評論家平野義太郎君の如きは、高野を目して低調なる労資協調論者のやうに看倣(みな)しておる。私をもって見れば、これは少なくとも高野の生立、少年、青壮年時代の経歴を熟知せざる所に起因すると云へるやうである。
 私は、日頃、手許に保存せる亡兄関係の史料を整理して、その伝記編纂の宿志を果たさんとしつゝあるが、ここに『明日社』の求めに応じて、従来欠如せる高野の経歴の部分を語って、いさゝか我国労働運動史の一材料を供したいと思ふ。
 初期の労働組合運動に於ける片山潜君は、むしろユートピック社会主義運動者であって、晩年に共産主義者になられたのである。
 兄高野は、自然発生的に労働運動に入って行ったのである。自ら労働の体験を経て、その上に立てられた彼の行動であったのであって、低調な労資協調論者になる筈がない。
 私は今も信じてゐるが、労働の体験を通じて来た人の労働組合運動程根強いものはないと思って居る。そこにねうちもあり光もあるし、本当のことが仕組まれて行くものだと思ってゐる。

幼年の頃

 さて、兄の名前は房太郎だが、十歳になるまで久太郎と呼んでゐた。明治元年一月〔十一月〕に長崎市の真中の町人の家に生まれ、明治三十七年三月に青島で、三十七歳の若さで世を去ってゐる。
 幼年の時期は長崎市で暮したが、この長崎と云う町で育ったと云う事が、後年の兄の運動に大きな関係を持ったのであった。それと云うのが、長崎は天領で当時幕府の直轄であり、わりあひに自由の土地であった。幕府の役人と町人だけで、藩主がないのである。丁度ドイツのフリー・シティーと同じで自由闊達(かったつ)な気風の町であった。その上に貿易港で日常外国人を多く見る国際都市でもあり、この環境に影響されて、兄は自由奔放な性格に育って行った。
 家系は、私の覚えてゐるのは祖父からだが世襲的な和服の仕立屋の親方であった。丁度ギルドの親方だ。数人の弟子をおき、山や畑も多少は持って、小市民の生活をしてゐた。
 祖父に子供が九人あり、四番目の子が父で仙吉と云ひ、祖父の業をついだが、体が弱々しくて卅九歳で死んでしまった。母はマスと云ひ、当時の風習がそうであったやうに、教育はあまりなかった。しかし仏教の禅宗の信仰を強く抱いてゐた。が、子供には決してそれを強いやうとはしなかったし、私供も既成宗教に捉はれる事がなくしてすんだ。
 又信仰と結びついて信念を持ってゐた。それは人間は正直でさへあればいゝ。至誠は天に通じるという信念であった。母は長生きの筋で、九十歳まで生き昨年死んだ。

東京へ移住の頃

 この父この母の下で育ったが、十歳の時、一家をあげて東京に転住した。何故東京へ移ったかと云ふと、丁度明治十年戦役のあった年ではあるし、不景気で仕事がやりにくゝなったらしい。丁度横浜に汽船問屋をしてゐる叔父がゐて、呼びよせたので、東京の神田に移り住むことになった。今の浅草橋の近所で、当時は貨物の集散地であったし、そこで回漕問屋と旅人宿を兼ねた店を出した。ところが十二年の八月に、私共、子供三人(姉十五、兄十二、私が七つ)を残して父が死んだ。母は困ったが、叔父の後見の下に店をつゞけて行くうち、又不幸が重なって来た。それは十四年の神田の大火災で、これは明治年間記録の大火事で、一萬四千軒焼けたものだ。もちろん私の家も焼けて、はだかになってしまったが、浪花町に移ってあくまで店をつゞけた。
 兄は浅草橋の千代田小学校から、つぎに〔東京市本所区〕江東小学校に転校し〔明治〕十四年に高等小学を卒業した。同窓生(ママ)は五、六人であった。兄の教育は小学校だけであった。
 かうして東京の真中で町人生活をしたと云ふこの事が、自由思想反抗精神を養ふのに良い条件であったと云へる。(当時はまだ軍閥、権力への反抗であって、資本主義への反抗までに発達してゐなかった)幼時長崎で育まれた自由闊達(かったつ)の精神が、東京の町人生活で、更に周囲の影響を受けて生長して行った。この事が非常に意味深いと思ふ。
 新聞も発行されてゐて、朝野新聞、報知新聞などに、犬養、尾崎が拠って、がくがくの論陣をはってゐるし、政談演説は日本橋を中心にさかんに行はれるし、小学生も自由に聞きにも行くし、子供達も政談をやったものである。その頃流行った小唄にこんなのがあった。
小さな貝ではしゞみ貝、大きな貝では(はまぐり)貝、この頃流行るは懇親会、なぜに国会たてぬかい
 丁度資本主義の勃興時代で、それに伴ふて、民権思想も高まり、二十三年に国会を開くことを宣言せしめた時であった。
 それが兄の十歳から十四歳までの頃で、丁度明治十年から十四年代の社会の状勢であった。

  

横浜時代

 兄は小学校を卒業した十四歳から十九歳までを横浜の叔父の家で育った。と云ふのは、兄は戸主だから、何か商売を覚えておかねばならぬので、前にも述べたが回漕問屋をやってゐた叔父の店で、事務見習を先ずさせられた。叔父は厳格な人で、兄は算盤で頭を殴られる事もたびたびであったし、他の店員とおなじやうに扱はれ、苦労な少年時代であったのである。
 その頃の横浜は、唯一の開港場であったので、毎日外国汽船を見てゐるし、外国人とも接しる折が多いので、横浜にゐる青年は、皆米国へ渡る夢を抱いてゐた。兄もその一人で、何時かは米国へ行って勉強したい希望を持っていた。
 横浜での兄の勉強は、昼間働いて、夜は商業学校へ通ってゐた。第一に勉強ずきの兄は、せっせと夜学に通った。或時学校で講演会を開かうと計画して、早稲田大学の創始者の高田早苗、天野など云ふ人達を呼んでゐる。兄の相棒に富田源太郎、伊藤仁太郎(今の伊藤痴遊氏であらうと思ふ)氏などと云ふ人がゐて、盛んに講演会を開いて向上につとめてゐた。かうして勉強方面では、朗らかに愉快な生活がつづいたやうである。そうするうちに兄が十九歳の時に、頼みとする叔父が亡くなった。叔母は鋭い人でもなく、あとを引受けてやる事も出来ないので兄は多年の希望であった米国行きをその年に決行した。
 これから兄の青年期──十九歳から二十九歳まで──が始まるわけである。私はまだ三田の幼稚舎へ通ってゐた。

   

米国へ渡る

 兄はアメリカへ行って、いい商売をさがしたが、なかなかないので、誰もが手取早く入るスクールボーイ(家庭労働の皿洗ひ)になった。其後一度東京へ帰り(私は第一高等学校に入ってゐた)、長崎にあった小さい山を二百円(今では二千円位にならう)で売りそれを資本に商ひをやるべく、再び渡航した。行きの船は三等で船賃は四十弗位であった。始めマーケットストリートに日本品の商店を出し、バザーなどをやったが美事に失敗して店をたゝんだ。ついで又皿洗ひをやって、その給料の一部を母の生活と私の学費に送って呉れた。金額は十弗内外で今の二十円内外位であった。給料は三十弗位とっていたらしい。この皿洗ひは夜の時間の余裕があるので便利で、夜学へ通った。学校は甲種コンマーシャルスクール(商業学校)で、良い成績で卒業してゐる。米国は書籍も廉価版があって、月賦だし、勉強する者にとって非常に便利に出来てゐる。
 兄の勉強は経済学が主であって、その頃ガントンの学説といふのがあって、それをずっと研究してゐた。(ガントンの説を一に云へば安い賃銀は、高い労働になると云ふのである。)
 米国では主にパシフックサイドで暮し、タコマ、シャトルなどでも働いてゐたし、転じてニューヨーク迄も行って、米国労働総同盟のゴンパーズとも近づきになり、晩年は桑港で、労働問題の研究会を作って、sきりに研究をつゞけ、日本へ帰ったら労働運動に入ろうと云ふ気持ちを、この頃抱くに至った。殊にゴンパーズからは、日本へ帰っての組織者に任命されてゐた。

  

労働運動に入る

 それからどういう縁故かで、某砲艦のコック兼ボーイに乗り込んで、遠く欧州をめぐりインド、アジアを通って、二十九年二十九歳の時日本へ帰って来た。こゝで兄の青年期が終る。この間約十年間の米国の生活を考へると、実に兄にとって、有意義の生活であったと云へる。米国は自由の国であり、丁度アメリカ資本主義の初期時代に遭遇したし、思想的にも、社会的にも、自由の空気の洗礼を受けて兄は帰って来たのであった。
 帰ってからは、一時横浜の外字新聞ジャパンアドヴァタイザーの記者になったが(私は二十八年に大学を卒業してゐた)三十年七月からいよいよ兄は労働組合運動にたずさわるやうになった。片山潜君と、当時秀英社を経営していた進歩的な資本家の佐久間貞一君達と共に、ついて消費組合共営社を八丁堀に開いたりしたが、三十三年の北支事変起るや芝罘(ちーふー)へ行き、青島(ちんたお)へ落ちついたのであった。(労働運動に入ってからのことは折を見て述べようと思ふ)。




Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
E-mail:
nk@oisr.org