《編集雑記》17 (2008年1月〜9月)
すっかりご無沙汰いたしました。新年のご挨拶以来ですから、ほとんど半年ぶりの《編輯雑記》です。
実は、この間、本著作集に連載した『高野房太郎とその時代』を活字本として刊行するため、その原稿のとりまとめに集中していました。今朝ようやく書きあげ、編集者に引き渡したばかりです。といっても、原稿用紙の束を渡したわけではなく、インターネットディスクにファイルをアップロードし、メールで連絡し、それに対する返信が届いただけです。便利な世の中になったと思う反面、いささか簡単すぎて、長年の宿題を片付けたというのに、達成感、というか充実感に乏しい憾みがあります。
ともあれ、順調にいけば、あと3ヵ月ほど、9月上旬には本になる予定です。タイトルは『労働は神聖なり、結合は勢力なり ─ 高野房太郎とその時代』としました。出版社は岩波書店です。判型は四六判二段組み、定価その他は、まだ決まっていません。
連載を終えたのは2年半前ですから、本来ならばもっと早く出すべきものでした。しかし連載終了直後に胃がんの手術を受けたこともあり、その後も改訂作業に気がのらず、ずっと放り出していたため遅くなりました。
正直のところ、6年間、といっても間で1年あまり中断しましたが、月2回たらずのペースですが、ほとんど休みなしに連載したので、終わってすぐにはとても手直しをする元気がわきませんでした。しかし、1年以上サボったおかげで、すこし元気が出て、せっかく活字本として出すなら、なるべく多くの読者に読んでもらえる本にしようと、大幅改稿を決意しました。
しかし、改訂作業を始めてみると、それほど簡単ではありませんでした。編集者のいない個人サイトは紙幅の制約がないため、思ったよりずっと長くなっていたのです。きちんと計算してはいませんが、ウェブ版のままだと、おそらく1000ページ前後になっているようです。そこで、注はぜんぶ省き、本文も引用箇所を中心に圧縮しました。書き直しとはいうものの、まずは削除、削除、削除でした。反面、最初から最後までを通して読み直してみると、いくつか書き漏らした問題があることに気づき、何項目か加筆しました。以上、活字本の刊行が遅れてしまった言い訳です。
いずれにせよ、研究論文としての情報量の多さではウェブ版『高野房太郎とその時代』の方がすぐれています。書籍版は、なによりもコンパクトで、読みやすいものとなることを優先しました。込みいった論証、典拠や事項に関する注記などは、活字本では、すべて削除しました。引用文献は100年以上昔のものですから、そのままでは、若い読者にはとりつきにくいので、活字本では、ほとんど現代語訳しました。
ウェブ版でも、引用はかなり現代語に訳していますが、原文を参照したいと思えば、すぐ見ていただけるように原資料のテキストや画像データへリンクをはっています。それに検索が容易であることや、カラー写真など画像の多さなども、ウェブ版ならではのメリットです。活字本の原稿を書き上げてみて、ウェブでの論文公開の利点、欠点もわかってきたようです。ひと言でいえば、読み通すなら活字本、調べるならウェブ版というところでしょうか。9月上旬、活字本の刊行までには、本サイトに「活字本を読むための相補的ウェブ本」を作成し、活字本を読む読者がさらに調べる手がかりをつくろうと考えています。活字本とウエブ版が、互いに補いあうものとして同時に公開されることは、これまであまり例がないようですから、そのモデルケースにしたいと考えています。双方ともご愛読いただければ幸いです。
〔2008.6.10記〕
すぐにもご報告しようと思いながら、上掲の『労働は神聖なり、結合は勢力なり』の校正に追われ、出遅れてしまいました。ご報告したかったのは他でもありません、先週の土曜日、7月12日に開かれた『Academic Resource Guide』創刊10周年記念イベント・第1回ARGカフェのことです。
本サイトの読者ならご承知の方が多いと思いますが、『ARG』は数少ない、というより社会科学、自然科学をともにカバーするオンラインジャーナルとしてはほとんど唯一の学術系メール・マガジンです。編集長は『これからホームページをつくる研究者のために』の著者でもある岡本真氏、激務の合間に独力で刊行を続けておられます。刊行は月に2、3回のペースで、最近号は本日未明に発行された第332号です。毎号、大量の、新鮮かつ貴重な学術関連情報を提供しつづけておられます。とりわけ、学術サイトの紹介とともに、サイトのあり方についての的確な批評をつづけておられる姿勢は高く評価されます。まだ購読されていない方は、ぜひこの機会に、読者登録をお勧めします。『ACADEMIC RESOURCE GUIDE』のブログ版から、あるいは直接「まぐまぐ」からでも、簡単に登録できます。
さて第1回ARGカフェでは、まず岡本編集長が「学術ウェブの10年を振り返る−ARGの10年と重ね合わせて」と題して語られました。その内容は、岡本さんご自身がブログで 「ARGカフェで話したこと−学術ウェブの10年−ARGの過去・現在・未来」として記録されていますので、ご参照ください。
ただ話の枕として、ご自分の歳についてふれ「四捨五入すれば40歳に手が届く35歳となったことに、この10年間という歳月の重さを感じます」と言われたのにはちょっとビックリ、また、当日の参加者ではおそらく最高齢の私としては、いささか閉口しました。何しろこちらは、その2倍以上、来年の2月には「四捨五入すれば80歳に手が届く」「後期高齢者」になるのですから。まあ、あまり歳のことは気にしない、口にしないことにしているので、この話はこれまで。
さて、その後は11人のスピーカーが、各人5分の持ち時間で、それぞれ言いたいことを語るライトニング・トークがおこなわれました。lightning talk、つまり稲光=イナヅマのように素早く話すということのようです。これは、なかなかに面白い試みで、ARGの読者層の広さをうかがい知ることが出来ました。その内容は、岡本さんのブログに、「ライトニングトーク登壇者を中心に参加者による記事」の紹介リンクがあるので、直接ご覧ください。ここでは、私が「ウェブ本のメリット、デメリット」と題して話したことを、紹介するにとどめます。もっとも、最後の方は駆け足になったので、メモから若干補っていますが。
予告では「ウエブ本と活字本──そのメリット・デメリット」と題していましたが、時間が限られているので「ウエブ本のメリット・デメリット」と改め、お話しさせていただきます。活字本のメリット、デメリットは、ウェブ本のデメリット、メリットを裏返せば、容易に推測していただけるでしょう。
私の個人サイトの名は『二村一夫著作集』です。サイトの開設を「刊行開始」と記したことからもお分かりいただけると思いますが、私は自分のサイトをウェブ本と考えてきました。その11年近い体験の中で知ったこと、考えたことをお話しいたします。当然のことながら、一歴史研究者がその研究成果を刊行する場合の体験にすぎません。ここでお話しすることが、どの分野にもあてはまるわけではないことを、あらかじめお断りしておきたいと思います。
メリット
ウエブ本のメリットをひと言でいえば「安い、早い、自由だ」ということになります。
1) 安い、というのは、出版コストが極めて低いことです。HTMLファイルの書き方さえ覚えれば、ほとんど、ただ同然で、研究成果を公開することができます。もちろんテキストのデジタル化が必要ですが、これはOCRなどを使えば、比較的容易にできます。
2) 早いというのは、思い立ったらすぐ公開出来るというだけのことです。おそらく自然科学の分野では、これはかなり大きな要素だと思いますが、歴史研究者にとっては、それほど大きなメリットではありません。
3) 最後の自由こそ、ウェブ本の最大のメリットです。ウェブは著者にとってさまざまな意味で自由度がきわめて高いメディアです。これは、活字本にはない特徴だと言ってよいでしょう。
第1に、レフリーとか編集者、売れ行きなどを気にせず、好きなことを書ける。とくに売れ行きを気にせず出せる点は、読者層が限られている学術研究出版にとっては重要です。
第2に、紙幅の制約がない。書きたいだけ、いくらでも書ける。
第3に、多様な表現手段をとることが出来る。なかでも色彩のある画像データを使えることは、活字本ではなかなかできません。
第4に、リンクで文書内、あるいは他のファイルへ飛ぶことができる。これは注や裏付け史料を参照してもらう上で、実に便利な機能です。
第5に、いつでも削除、訂正がきくことです。
4) もうひとつ追加すれば、思いがけない読者をえることが出来ることでしょう。活字本の読者層はあるていど予想できますが、ウェブは検索機能が発達しているので、私の研究分野とはあまり関係のない、予想外の読者がいて、感想を寄せてくれます。
デメリット
1) ウェブ本は、著者には自由度が高いのですが、読者には不自由なメディアです。何よりインターネットをしない人には読めません。また、インターネットをする人でも、パソコンを介してしか読むことが出来ません。活字本なら、電車のなかでもトイレでも、寝っ転がっても読めるし、線をひいたり、書き込みすることも出来ます。しかし、ウェブ本にはそうした自由はない。言うなれば、ウェブ本は「読書の楽しみ」には向かないメディアです。
私自身、「青空文庫」や国会図書館の「近代デジタルライブラリ」をわりあい良く使いますが、それは調べるためだけです。「読書の楽しみ」となるとウェブ本は不向きです。読書用のデジタル端末の良いものが出来れば事態はすこしは変わるかもしれませんが、活字本より良くなることはないでしょう。
2)最大のデメリットは、研究業績としての評価、社会的認知度が低いことです。活字本なら、誰かが、どこかで書評をしてくれますが、ウェブ本の書評は皆無といってよい。私が昔出した『足尾暴動の史的分析』という本は16点ほどの書評や紹介がありました。実は、私自身は、『二村一夫著作集』の第1巻に入れている『日本労使関係の比較史的検討』が私の主要業績だと考えています。そこに収録した個別論文は、すでに本や雑誌などの活字メディアに掲載していますから、引用されたり、論文として評価してくださる方はいます。しかし『日本労使関係の比較史的検討』を「本」としての扱ってくださる方はほとんどいません。書評などひとつもないのです。研究成果をウェブ本で公開しようという人が少ないのも、学問的な業績として認められ難いからでしょう。やはりウェブ本を、本として評価する社会的な仕組みが必要だと思います。
そうしたこともあってか、私のウェブ本に大幅に依拠して活字本を出された方がいますが、その本の10ページにもおよぶ「関連文献一覧」には私のサイトの名も『高野房太郎とその時代』という書名もまったく記されていません。その本は、おそらく私のウェブ本がなければ書けなかったと思われます。挿絵なども私のサイトにしかない画像を使っています。私の著書に大きく依拠していることは明瞭なのに、その事実をひとことも断っていないのです。仮に、私がこのウェブ本を活字の書物として出版していたなら、いくら何でもこうした真似は出来なかったでしょう。ウェブ本の社会的認知度が低いことを悪用した一例です。その本の出版社である彩流社は、自社のサイトをもっている企業ですから、編集者がインターネットについての知識が皆無であったとは考えられません。こうした事実を承知のうえであえて無視したのか、あるいは知らなかったのかまでは分かりませんが、仮に知らなかったとしても、今の時代の編集者としては失格でしょう。もちろん、いちばん責任があるのは、いかにもすべて自分で調べたような顔をしている著者ですが。
両者の共存
かつて、野村一夫氏が「二兎論」と題して、オンデマンド出版とオンライン出版を共存を提唱されました。私がいま考えているのは、それぞれのメリットを生かした両者の連携です。間もなく、オンラインで書き下ろした『高野房太郎とその時代』を活字本として出しますが、そこで活字本とウェブ本それぞれのメリットを生かしたものにしようと考えています。読む楽しみ、読みやすさにまさる活字本と、調べる道具、常に新しい情報を提供できるウェブ本の共存です。
5分間のトークは刺激的な体験でしたが、やはり、お喋りな私が、言いたいことを言うには、やや時間不足でした。このいささか腹ふくれる思いについては、いずれ詳しく書き留めておくことにしたいと思います。また、この「カフェ」と席をあらためての二次会で、これまでお名前だけでお目にかかったことがない多くの方と顔をあわせることができました。これについても、いずれふれることにいたします。
〔2008.7.21記、7.25追補〕
《雑記》の前々回でご案内したように、本著作集に連載した『高野房太郎とその時代』の活字本が、『労働は神聖なり、結合は勢力なり──高野房太郎とその時代』という書名で、間もなく刊行されます。「労働は神聖なり、結合は勢力なり」は、労働組合、生協運動の先駆
者である高野房太郎(1869−1904)が名刺の裏に刷りこみ、労働者に呼びかけていたスローガンで、「労働者はモノではない。組合を作り、われわれを人間として認めさせよう」という、日本労働運動の原点となった言葉です。
先週、本文の再校を終え、索引の原稿もなんとか期日までに仕上げ、私の責任範囲については、ほぼ終了しました。岩波文庫の『明治日本労働通信──労働組合の誕生』を担当された平田賢一さんに、今回もたいへんお世話になりました。
おかげさまで、作業は順調にすすみ、当初の予定より、ちょっとだけ遅くなりましたが、9月25日の発売と決まりました。四六判二段組み、320ページ、本体価格2800円、税込み定価で2940円になります。
『岩波書店の新刊』2008年9月号にも掲載されましたから、なにか想定外の事態がおきないかぎり、まず予定どおりに刊行されるでしょう。この発売予定日は、ちょうど本著作集の刊行開始11周年記念の日です。別にその日を意識して仕組んだわけではなく、たまたまそう決まっただけなのですが。
ここ2年続けて、年頭のご挨拶で、『高野房太郎とその時代』の活字本を出したいと書いてきました。ようやく、それが実現することとなり、今はちょっとほっとしております。
私は、一昔前までは、一般読者を想定して文章を書いたことはほとんどありませんでした。しかし、誰でもアクセスできるウエブサイトでものを書くようになると、はるかに多数の一般読者の存在を意識せざるをえません。それなりに、分かりやすい表現を心がけてきたつもりです。ただ『高野房太郎とその時代』は、丸6年の歳月をかけ、細部にこだわって書いてきたので、読み通していただくには、長くなりすぎてしまいました。おまけに、パソコンのモニターは長文を読むには向いていません。
そこで、このたびは、できるだけ読みやすく、読み通しやすいものにするよう、心がけました。全体として大幅に圧縮し、注はすべて省きました。当然のことながら、ウェブ版では詳論したのに、活字本では削除した項目があります。一方、あらためて読み直し、欠落している論点に気づいて追補した箇所も少なくありません。つまり、今回の本は、ウェブ版をもとにしてはいますが、別個の作品です。通読しやすさでは、かなり良くなったと自負しています。この機会に、全体を読み通していただければ、まことに幸いです。
読みやすくするため、章立ては、ウェブ版の7章プラス終章の計8章を、13章プラス終章の14章と、ほぼ2倍に近くに増やしました。以下はその総目次です。本サイトの『高野房太郎とその時代』目次と見比べてくだされば、その違いがわかると思います。
『労働は神聖なり、結合は勢力なり』総目次
はじめに
地図(高野房太郎が居住した土地を中心にしたもの)
1 文明開化の子―長崎時代―
高野家の人びと/誕生の地・長崎銀屋町/誕生日をめぐって/高野家は貧しかったか?/「自由奔放な性格」/学問好きのDNA/文明開化の子
2 若き戸主―東京時代―
明治初年の東京/長崎屋繁盛記/東京の小学生/父の死/長崎屋炎上/教育ママ 高野マス
3 諭吉の孫弟子―横浜時代―
二人の伯父/住みこみ店員の日々/草創期のY校/商法学校の同期生――富田源太郎/伊藤痴遊とその仲間たち/向学心にもえた若者たち/その後の高野家の人びと/姉の結婚/高田早苗「洋行論」の影響
4 桑港で日本雑貨店を開業―夢の実現と破綻―
ニューヨーク号の船旅/「横浜講学会の発起人である書生」/コスモポリタンホテルから福音会へ/スクールボーイになる/アルバート・ブレイトン家/開業準備のため一時帰国/日本雑貨店開業/サンフランシスコから「夜逃げ」
5 職工義友会を創立―日本労働運動の源流―
労働運動の百科全書/労働運動への関心と貧困体験/労働組合との出会い/焼け跡の街で――シアトル/タコマ・チョップハウス/ベンチャー起業家をめざして/房太郎「心の叫び」/見栄坊・房太郎/職工義友会、創立年の謎/義友会の三人組
6 アメリカからの通信―日本最初の労働組合論―
高野房太郎の「労働組合論」/読売新聞の「社友」となる/「労働者の声」の筆者は誰か/節目の年、一八九一年/一冊の本と出会う――ガントン『富と進歩』/高野房太郎の「富国論」/ルーシーからのラブレター/シカゴ万博の売り子/バークシャー高原の田舎町にて/ゴンパーズとの往復書簡/米海軍のお雇い水兵/労働組合に関する情報収集/ゴンパーズと会った「日本人学生」
7 アメリカ海軍の水兵―「戦時特派員」を装う―
砲艦マチャイアスの給仕/姉夫妻の叱咤激励/中国パトロール/英文通信「上海ストライキ」/「戦時特派員」に化けた房太郎/ゴンパーズ、房太郎を評価
8 職工諸君に寄す―組合結成の呼びかけ―
翻訳記者・高野房太郎/義友会再建をめぐる謎/「社会政策学会ニ列シ、遂ニ会員トナル」/佐久間貞一の知遇を得る/日本最初の労働演説会/『職工諸君に寄す』/日記から読み解く房太郎の日常/横浜船大工組合ストライキを支援/最初で最後──職工義友会主催の演説会
9 労働組合期成会の人びと―労働運動の応援団―
期成会発起会/期成会の労働者会員/皇太子の叔父、期成会を支援/忘れられた功労者――鈴木純一郎/片山潜と高野房太郎──その評価の偏り/片山潜、学位をめざして艱難辛苦/潜の旧友 伊藤為吉/怪躯精悍の飛将――演壇の房太郎/期成会の出版物――『労働者の心得』/会員が自発的にオルグ
10 鉄工組合の誕生―日本最初の労働組合―
人生最高の日/『労働世界』創刊/『労働世界』を担った人びと――横山源之助と植松考昭/鉄工組合の役員たち/年中無休の無給専従/活動家に監視の目/充実した一年/労働は神聖なり――鉄工の参加理由/他組合が期成会に加盟しなかったのは何故か?/資格の西欧、腕の日本――職人組合の不参加理由/鉄工組合は職業別組合ではない/期成会大運動会への禁止命令/煤塵まみれの強行軍――東北遊説/工場法案修正運動/草鞋履きの葬列――佐久間貞一の死/金子堅太郎、期成会応援の大演説
11 横浜で「共働店」開業―生協運動の先駆―
謎の決断――生協運動への転身/看板娘を射止める/ハマの新婚生活/生協運動の指導者は誰だったか
12 鉄工組合の衰退―治安維持法前後―
本部常任に復帰/まぼろしの工場法制定請願大運動/とんぼ返りで神戸演説会出演/熱しやすく冷めやすい人びと/金を払わぬ組合員――組合財政の悪化/砲兵工廠の「みせしめ解雇」/八丁堀の生協売店/「男の美学」――房太郎、手当てを返上/治安警察法公布
13 高野房太郎と片山潜―指導者としての資質―
片山潜、政治運動を提唱/救済制度の全廃──房太郎完敗/新年会に名を留めた鉄工組合/運動指導者としての資質――高野と片山
終章 「失敗の人」か?
運動からの離脱とその原因/動乱の中国へ/青島に死す/失敗の人/成功の人/横山源之助、友を偲ぶ/高野房太郎をどう評価するか/労働組合運動をめぐる日本の風土/遺された人びと/岩三郎を介して引き継がれたもの/デモクラット・高野岩三郎/経済学研究への思い
あとがき
主要参考文献・史料
高野房太郎略年譜
主要項目索引
刊行まであと1ヵ月、ちょっと待ち遠しい日々が続きます。
〔2008.8.25記〕
『労働は神聖なり、結合は勢力なり──高野房太郎とその時代』が、本日、ようやく校了となりました。あとは3週間後の刊行を待つばかりです。ようやく気持ちに余裕ができ、前から書こうと思いながら、延びのびにしてきたことを、追加することにします。
もはやいささか旧聞に属しますが、この1月にリクルートワークス研究所の機関誌『Works』の編集者のインタビューを受けました。その内容は『Works』No.87(2008 Apr.- May.)に、「三種の神器とは何だったのか」と題する特集の一環としてとして掲載されています。この特集は、日本の労使関係の三種の神器と称されてきた「終身雇用」、「年功序列」、「企業別組合」のそれぞれについて総括する企画です。私が聞かれたのは「企業別組合」に関してで、インタビューを担当されたのは同誌編集部の荻野進介氏でした。
私の話のなかみは下記の囲みのなかにいれておきますが、その「イントロ」で荻野氏は次のように解説されています。
我々は、労働組合は職種別あるいは産業別であるのが普通で、日本の企業別は特殊な形態である、という考えをしがちだ。これに対して、そうではない、組合の本来の機能を考えると、職種別や産業別であるほうが特殊と見るべきだ、という、まさにコロンブスの卵のような議論を紡ぐのが、二村一夫氏である。
ここで荻野氏が「組合の本来の機能を考えると、職種別や産業別であるほうが特殊と見るべきで」と言われているのは、私の論旨とはちょっと違います。私は、人間が組織をつくる際、日ごろ顔を合わせ、一緒に仕事をしている仲間と団結するのはごく自然なことで、なんの不思議もない。これに対して、同職であれば顔を合わせたこともない労働者と団結するクラフト・ユニオンのほうが特別な条件があるに相違ない、と主張しているのです。労働組合の機能論からの立論ではなく、人間が組織を作るときの自然なあり方について述べているのです。
戦後の労働組合は企業内組織である。
― 日本の労働組合の特徴は企業別組合というのが通説ですが、日本の労働組合の特徴を表わした言葉として、これは正しいでしょうか。
二村 正しいとは言えませんね。「企業別組合」では、歴史的な変化を無視することになるからです。戦前の組合は企業別組合でしたが、ブルーカラーだけの組織でした。戦後はホワイトカラーも含む「工職混合組合」です。また戦前の組合は事業所別、あるいは企業別組合でしたが、企業内で公然と活動することは出来ませんでした。組合事務所だってもちろん企業内には置けません。つまり戦前は「企業別ではあるが企業外組合」、戦後は「企業別かつ企業内組合」。この違いが持つ意味を割合みんな軽視しているわけですよ。戦前の労働組合は企業経営にとっては邪魔もの、戦後の組合は、良かれ悪しかれ企業組織の一部です。
また敗戦直後の大企業の労働組合は、企業別というより事業所別組合でした。その後次第に企業別に再編されて行きましたが。この時期の組織は「工職混合の企業内組合」、あるいは「従業員組合」です。その後、60年代なかば、高度成長の過程で、賃金を含め工職格差が縮小し、工職間の違いがなくなりましたから、今の組合は、「工職混合の企業内組合」というより「社員組合」と言った方が良いでしょう。同じ企業の中に働く者がいても、非正規従業員は組合員にしませんから。
世界でも珍しい工職混合組合
― 工職混合というのは世界でも珍しいのですか。
二村 たいへん珍しいと思います。なぜ混合組合になったかというと、敗戦後の民主化の過程でホワイトカラーが積極的に労働組合に参加したからです。2つのタイプがありました。ひとつはマルクス主義の影響や戦争体験から、社会変革を志向する人。彼らは組合を変革のための組織、自分たちも労働者階級の一員であると考え、工職混合組合を選択したのです。もうひとつは共産主義運動の台頭を危惧し、組合を穏健な方向に導かなければいけないと考えた人びとで、彼らもまた積極的に混合組合を支持し、それに身を投じたのです。
ブルーカラーの側も、イギリスの労働者階級に典型的に見られる「奴ら(経営者とその手先のホワイトカラー)と俺たち(ブルーカラー)」という階級意識が稀薄でしたから、ホワイトカラーと同じ組合を構成することに抵抗感がなかったんです。
― 経営側はどんな意識だったのでしょう。
二村 経営側も労働組合を企業内に閉じこめておきたかった。経営側は今でも、企業外の人間が自分の企業の労働組合の中に入り込んで、いらざる知恵をつけたり、他社の例を持ち出すことについては強い警戒心を持っています。企業外の人が組合の代表者だと団体交渉を拒否したり、逃げ回ったりとかね。これは戦後だけのことではなく、戦前から日本の労務管理者は「企業の枠を超えた組織は作らせない」と、この問題に強くこだわっていました。
― では職種別、産業別ではなく、なぜ企業別になったんでしょう。
二村 一番大きかったのは労働者側の事情です。戦後の混乱のなかで、とにかく生活しなければならない。そういう中で労働組合を作ろうと思ったら、1人1人を説得して組合員にするより、職場で顔合わせてる連中を集めて、「組合作ろうよ」と誰かが言って、「ああ、賛成」とやるのがごく自然なわけです。だから最初の組合は企業別組合というより、職場別組合であったケースが多い。
なぜ企業別になったかといえば、日本には企業の枠を超えた労働運動の伝統がなかったからです。それに、同じ職場の者同士で集まるのは、不思議でも何でもないでしょう。賃金の引き上げとか、解雇反対とか、皆が共有している問題を解決するために、いつも顔を合わせてる人たちが集まるのはごく自然なことです。むしろ、欧米の労働組合が企業の枠を超えて職種別に結集したのか。そちらの方がよほど不思議でしょう。
欧米の組合の原点は中世のギルドだった
― そうですね。なぜでしょうか。
二村 中世ヨーロッパの都市の支配者であったギルドの伝統が大きいと思います。王様を頂点に戴きながらも、都市は各ギルドの代表者が支配していたんです。ギルドは、1日にどれだけの商品を作るか、どれだけの値を付けるか、どれだけ働くか。全部自分たちで決めていました。一番の基本はメンバーの数を制限したこと。ギルドのメンバーになるには親方の下で一定年数修業し、親方試験にパスしなければなりませんでした。ある仕事をするには、こうした一定の手続きを経て獲得した「資格」が不可欠なのです。社会全体が、こうした仕組みを受け容れていたんです。この伝統がクラフト・ユニオンに引き継がれました。
ところが日本にはギルドがなかった。徳川時代の幕藩体制下では、城下町に町人や職人を集めましたが、武士の支配下に置き、職人の組織が自律的に労働条件を規制することは許さなかった。あくまで武士にとっての都合のいい組織を作らせただけです。税金を取りやすい組織ですね。職人の組織が勝手に手間賃を引き上げたりすると、それは駄目だと引き下げを命令し、場合によっては組織を解散させた。
要するに「資格の欧米、腕さえあれば一人前の日本」という原則は今日でも、非常に明確ですよね。なぜ欧米では就職になり、日本では就社になるか。日本では採用時、何の仕事をさせられるかということははっきりさせないまま入社させます。ホワイトカラーの場合、いくつもの仕事を経験させ、ジェネラリストを作るのが日本の人事政策の基本です。専門家よりジェネラリストのほうが出世する。エンジニアが社長になるのは非常にむずかしいという日本企業のあり方は、そういう資格軽視の社会から来ているんです。
ただ、企業別組合だからと言って、それが産業別に発展する要因がゼロということはない。現に韓国の民主労組のなかには、企業別から産業別へ移行しようとして組織があります。日本の先例があるから、「産業別でなければ駄目だ」と組合員が考えているんです。
1950年代、60年代には、日本でも企業別を産業別にしようとした労働組合がいくつもあったのですが、実りませんでしたね。企業の枠を超えた組織を作ろうという労働者の努力を経営がいろいろな形でつぶしていったわけです。組織は変えられないまでも、なるべく企業主義を克服し、企業と個別の組合が闇取引をしないようにするといった企てもいろいろありました。ある程度は成果を上げましたが、仕組みを変えることは出来ませんでした。
高度成長を可能にした日本型組合の成果
― 高度成長期、企業の躍進に「組合が企業別であること」が果たした役割は何でしょうか。
二村 経営側からすれば企業別組合は大いにプラスの働きをしました。一番は、日本の組合は新しい技術の導入に対して全然抵抗感を持たなかったことです。イギリスが「英国病」に陥った1つの理由は、労働組合が新しい技術の導入に頑強に抵抗したからです。かつては絶対に譲らなかった。技術こそが彼らの財産だったからです。仮に受け入れざるを得なくなってもタダでは認めない。必ず取引して、賃上げや労働時間の短縮を認めさせた。
クラフトユニオンは、自分の財産である技術=資格を代々受けついで、それをいかに希少価値にするかということを心がけて来たんです。組合員の数をなるべく少なくし、需要に応じて供給するよう、絶えず心がけて来た。それが彼らの行動様式です。資格のある人数が、需要以上に増えたら、組合が金を出してアメリカやオーストラリアに移民させた。病気や怪我した人を救済するのも、彼らが一人前に働けないから、労働力を安売りする危険があるからなんです。そこから値崩れを起こす。そこで組合が共済制度で、安売りさせないようにする。共済給付は、助け合いだけじゃない、労働力の安売りを防ぐ対策でもあったのです。
ところが日本はそうした伝統がないから、新しい技術をすぐ受け入れた。新鋭機械を入れることに労働者がほとんど抵抗しなかった。これが一番大きいでしょう。
もうひとつのプラスの要素は、「身分格差を撤廃せよ」という労働者の要求に応えて、ブルーカラーとホワイトカラーを同じ月給制にしたり、ボーナスを出すようにしたり、「終身雇用」と言われるほど強い雇用保障を認めさせていたことです。雇用保障があるから新たな技術の導入にも拒否感が少ない。また、工職格差の撤廃もプラスに働きました。おかげでQCサークルも、現場の労働者から技術者までが一丸となって取り組む。こんなことは欧米の工場ではとてもできません。設計や改良は自分たちエンジニアの仕事で、ブルーカラーが何を生意気なことを言うかと。ブルーカラーのほうも、それはお前らの仕事だろって言うわけですよ。まして自分たちの削減や労働強化につながることをやるはずがない。
ところが日本では一緒になって「カイゼン」に取り組む。それができたのは戦後の工職混合の労働組合が身分格差を撤廃させ、長期雇用を経営に認めさせていたからです。日本の伝統である「和の心」だとか集団主義とか言うけど、QCサークルなど、決して戦前の日本ではできなかったことです。日本的ではなく、戦後日本の労働組合が達成した成果の上で実現したことなんです。そのことで企業の競争力が上がり、高い賃金水準を獲得したから、内需が拡大し、国内市場も広がり、輸出競争力もついた。20世紀の初め、フォードが労働者に高い賃金を出して、自動車を買えるようにしたことで自らも成長したのと同じ図式が高度成長期の日本にあったわけですよ。戦後労働組合の成果の上に高度成長はあったんです。
社員組合ゆえに組織率の低下を招いた
― 企業別労働組合って、結構いろいろやったんですね。では企業別であったことのデメリットは何でしょうか。
二村 今の組合は冒頭でも言った通り「社員組合」です。それが自分たちの既得権を守ろうとして何をやったかというと、経営環境の変化のクッションとしてのパートや派遣を認めてしまった。自分の隣で、同じ仕事をしながら、賃金が安い人の存在を認めてしまったわけです。おまけに、そういう人には雇用保障もない。自分たちの雇用を保証し、賃金水準を守るために、そういう存在を認めたことが、組織率の低下につながっているわけです。
「社員組合」になり、正社員の既得権は守ったけれど、組織の基盤はやせ細っていった。正社員よりパートや派遣が多くなってしまえば、今度は賃金も上げられない状況になります。だって、「お前と同じ仕事をあいつは何分の1かの賃金でやっているんだぞ」って経営から言われたら反論できませんから。パートからも「あなたは私の何倍働いているんですか」と言われ、ボーナス出れば嫌み言われ、有休取れば嫌み言われ、という話になる。パートの女性たちが正社員の奥さんだけだった時代はそれですんだわけです。家計補助のために働いたわけですから。ところが、新卒の大卒まで派遣社員として働かざるを得ない段階で、本来ならば、一番労働組合が守らなければならない人を守れずにいる。そうなったのは企業別組合だったからで、産業別組合だったらそうはいかなかい。
企業別組合のもう1つの問題は、現に雇われている人しか組合員になれないことです。ヨーロッパの産業別組合は、定年で辞めた人も組合員です。だから、そういう人たちの利益も代弁することになる。ところが日本のように、若くて健康な年代の人だけでやっている社員組合は、賃上げといった一番おいしいところだけ要求するから、展望が近視眼的にならざるを得ない。そういう問題を持っているという自覚が、いまの組合には必要だと思います。
同誌は市販されているだけでなく、オンラインでも内容を読むことができます。ほかの10人近い専門家のご議論について、全文を読むことができます。内容は、総目次でご覧ください。なお、私の議論と同時に、企業別組合についての荻野進介氏による諸説の交通整理もあわせてご一読いただきたいと存じます。
〔2008.9.4記〕
|