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『無産者新聞』小史(上)

二 村  一 夫

目  次
   はじめに  4. 印刷および配布
 1. 創刊事情
 5. 財政状態
 2. 無産者新聞社の組織 6. 終刊事情
 以上、本ファイル。以下は別ファイル 7. 号数確定の根拠について
 3. 無産者新聞社の人びと  8. 発禁号の特定
 

はじめに

 ようやく『無産者新聞』の覆刻を終えることができた。また本巻をもって日本社会運動史料は75巻に達する。ここにいたるまで、いろいろ御援助・御協力くださった多くの方々に心からお礼を申し述べたい。〔注 本稿は、1979年6月に刊行した《復刻シリーズ 日本社会運動史料》の第75回配本『無産者新聞』(4)に収めた解題をもとにしている。〕
 『無産者新聞』は、1925年、普通選挙法と治安維持法が成立したその年、「コミュニスト・グループ」によって「全国無産階級の政治新聞たらんことを期」して創刊された。号外等もふくむ総発行回数は4年間に270をこえ、発行部数も2万から4万部、全国に百数十の支局を擁し、あらゆる点で戦前最大の社会運動機関紙である。また、その内容も無産政党の結成と分立、対支非干渉運動、議会解散請願運動、第一回普選、三・一五事件、労農党再建問題、新労農党樹立問題、等の政治問題、共同印刷、日本楽器、野田醤油等の労働争議や工代会議運動、木崎村争議をはじめとする全国各地の小作争議などを報道・論評し、方針の提起を行なうなど、社会主義運動史、労働運動史、農民運動史はもちろん、近代史一般、地方史、思想史等の重要課題を追求する上で不可欠の第一級史料である。
 それだけに、『無産者新聞』については各方面から覆刻を要望する声が強く、われわれとしても早期に刊行することを予定し、準備作業は今から11年前、本シリーズの第1巻刊行以前から始めていた。ただ、完全な底本を揃えることができなかったため、止むを得ず覆刻を延期していたのである。しかし、いつまで待てば欠号が埋まるという見とおしも立たなかったので、たまたま1975年が同紙の創刊50周年にあたるのを機に、若干の不備は覚悟の上で覆刻にふみ切ったのであった。
 幸いなことに、覆刻をはじめた後で、これまですべて官憲に押収され現存しないと考えていた第152号、第208号の各無削除版をはじめ、号外数点を新たに発見することができた。さらに発行状況について調査をすすめた結果、一部の号外等に若干未発見のものが残るが、本紙については全く欠号のないほぼ完全な覆刻版を提供し得ると考えるにいたった。この点についてはあとで詳しく述べたい。
 本書の底本として用いたのは、主として当研究所の所蔵紙(故村山重忠氏、故下坂正英氏旧蔵のものをふくむ)であるが、一部の欠号および印刷不良、破損等のため底本として用いるのに不適当なものについては日本共産党党史資料室、東京大学経済学部図書室、同志社大学文学部社会学科研究室、慶応義塾大学三田情報センターから借用した。どの号を借用したかは各巻巻頭の凡例を参照願いたい。
 また、印刷不鮮明な個所の修整のために京都大学人文科学研究所、同志社大学人文科学研究所の所蔵紙を参照させていただいたほか、発行状況を調査するため、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫、東北大学図書館、故鈴木茂三郎氏、向坂逸郎氏の所蔵紙を閲覧させていただいた。貴重な資料の貸与・閲覧を許してくださった各機関とその関係者各位に厚く謝意を表する。
 なお本解題の執筆にあたっては、浅野晃、石堂清俊、石堂清倫、故加藤勘十、門屋博、木下半治、佐藤一郎、志賀義雄、砂間一良、関根悦郎、高橋勝之、谷川巌、手塚英孝、徳田正次、直井武夫、永田周作、故難波英夫、西山武一、野坂参三、平井直、福本和夫、道瀬幸雄、山根銀二、山根和子、の諸氏に種々御教示いただいた。失礼をおわびし、御礼を申し上げたい。
 最後になったが、労苦をいとわず詳細な索引の作成にあたられた松尾多賀氏、原本よりも鮮明な覆刻本をつくるため、写植修整などに協力してくださった久保昭男氏、本シリーズの推進力である法政大学出版局の平川俊彦氏にもお礼を申し述べたい。



創刊事情

 『無産者新聞』の創刊は、1925(大正14)年1月下旬、上海においてコミンテルン極東部によって招集された上海会議で正式に決定された。これは上海会議の出席者であり、同紙創刊の中心人物であった佐野学、徳田球一が一致して述べているところである(山辺健太郎編『現代史資料』20、社会主義運動(7)、109ページ、204ページ、みすず書房)。
 しかし、実際には上海会議に先だって、同紙の発刊は計画されていたとみられる。これについては、1924年頃クートベの学生としてモスクワで佐野学に会っていた北浦千太郎が予審でつぎのように述べている。

  無産者新聞ノ発行ニ付イテハ曽テ佐野学ガモスコーニ居ツタ当時カラ全国的無産階級ノ政治新聞ヲ発行スル必要カアル事ヲ強ク主張シテ居リマシタ。其関係上佐野ガ大正十三年九月上海迄帰ツテカラモ盛ニ之ヲ主張シ、上海テーゼニモ其事カ掲ゲラレテ居ツタ様ニ覚ヘマス。先ニハ無産者新聞発行資金ノ件ニ関シ北原龍雄ノ費消問題カアリ早クカラ同新聞ノ発行ハ計画サレテ居ツタモノト思ヘマス。(『現代史資料』20、461〜462ページ)

 北原龍雄にヴォイチンスキーが「党ノ計画中デアツタ党ノ宣伝機関紙ヲ出来ル限リ早ク発行セヨト申シ、其資金トシテ支那貨八千両(日本金ニ換算シテ約一万円)ヲ交付」したのは、1924年12月10日頃のことで、上海会議の招集もこの時北原を通じて日本側に伝えられたのであった(佐野学第四回訊問調書)。
 ただ、いずれにせよ、上海会議で『無産者新聞』の発行について論議がかわされ、これが正式に決定されたことは確かである,その論議の詳しい内容はわからないが、佐野学は、彼と青野季吉との間で新聞の性格について若干の意見の相違があったことなどにふれ、つぎのように述べている。

  尚ホ機関新聞紙ニ付テハ青野君ハ、事実ノ報道ヲ主トスル新聞ニシタイト云フ意見ヲ述ベマシタカ、会議ハ其意見ヲ採用シナイテ、「テーゼ」ニ掲ケテアル様ニ煽動的新聞ニスル事ヲ決定シマシタ
  此機関新聞ニ付テハ、
 (一)之ヲ日本共産党ノ合法機関紙トシテ出ス事
 (二)新聞ヲ通シテ共産主義者ヲ養成獲得シ、以テ党ノ拡大強化ヲ計ル事
 (三)最初ハ週刊トシ、後ニ日刊トスル事
 (四)資金ハ最初ノ費用ハ「コミンターン」カラ支給サレ、後ハ日本共産党カラ支出スル事
 (五)日本ニ帰ツタラ早速其経費ノ見積ヲ立テテ知ラセル事
 (六)大体ニ於テ前ニ北原君が「ボイチンスキー」ヨリ交付ヲ受ケタ約一万円ノ金ヲ新聞発行ノ資金ニスル事。(『現代史資料』20、198ページ)

 ところで、この会議で採択された「上海会議一月テーゼ」(『現代史資料』14、37−45ページ)を見ると、「合法的プレス」と同時に「非合法的プレス」の発行の必要性を強調している。しかし、この会議の出席者、佐野学、徳田球一、佐野文夫、荒畑勝三、青野季吉の供述では、合法的機関紙の発行が決定されたことについては一致しているが、非合法機関紙の発行問題は誰一人としてふれていない。その理由は明らかでないが、日本側出席者が非合法機関紙の発行をさほど重視していなかったことがうかがえる。実際、非合法機関紙が創刊されたのは、上海会議から3年後の1928年2月のことで、これは上海会議一月テーゼの実践というより二七年テーゼにもとづいて決定された「組織テーゼ」によるものであった。
 非合法機関紙の発行だけでなく、合法機関紙の発行、「ビューロー」の改組、共産主義グループの組織テーゼの発表など「上海会議一月テーゼ」の決定は容易に実行に移されなかった。その原因の一つは、「第一次共産党」の委員長(総務幹事長)であった堺利彦がこれに反対の意向を表明し、事実上の指導者であった山川均も「テーゼ」の実行に消極的な態度をとったためであった。また、「テーゼ」の決定に参加していた佐野文夫、青野季吉も「ビューロー」を離れてしまった。さらに、直接、合法機関紙発行の実現を妨げたのは、北原龍雄がコミンテルンから受領したその発行資金を費消してしまったことであった。これについて、徳田はつぎのように述べている。

 一四問 週刊新聞ノ発行準備ハ何ウナツタカ。
  答 前申述ヘシ如ク其準備ニ付テハ北原ヲ探サナケレハナラナカツタノテスカ、同年三月中旬頃ニ至リ夫レハ愈々絶望ト云フ事が判リマシタノテ、新聞発行ノ準備ハ非常ナ困難ニ遭遇シマシタ。併シ其準備ヲ進メナケレハナラヌノテ、先ツ資金ノ最少限度カ何程ヲ要スルカヲ調査スル為メ、従来新聞ニ関係シテ居ツタ諸同志ヲ訪問シ其意見ヲ徴セシ処、約五千円位必要タト云フ事ガ判明シマシタ。其中二千円位ハ私ノ手テ調達ノ見込カ立ツタノテ当時上海滞在中ノ同志佐野学ニ其旨ヲ申送リ其発行準備トシテ、荒畑勝三、山川均、青野季吉、佐野文夫等ノ旧ビューロー員及同志野坂参三、渡辺政之輔等ト相談ノ上新聞ノ形式内容ヲ決定スル諸材料ヲ蒐メ、一方労働者及農民内ニ於ケル新聞ノ要求及発行部数ヲ決定スル材料ヲ蒐集シマシタ。其処デ同年七月同志佐野学カ帰国シタ時ハ既ニ夫等ノ諸材料ガ揃ヒ、具体化スル迄ニ其準備カ進展シテ居リマシタ。(『現代史資料』20、99ページ)

 1925年5月末か6月上旬、コミンテルンの代表としてヤンソンが東京に駐在するようになり、さらに徳田とヤンソンの協議によって、同年7月、佐野学が帰国したことによって、ようやく共産党の再建は軌道にのりはじめた。
 8月上旬、佐野学宅においてビューロー会議が開かれ、これまでの「ビューロー」を中央部とする「コミュニスト・グループ」の結成を決めると同時に、合法機関紙『無産者新聞』の発行について最終的に決定したのである。この前後の事情を徳田はかなり詳しく述べている。

 五問 ビューローノ確立会議ニ於テ協議シタ無産者新聞発行ニ関スル件ノ内容ハ。
  答 無産者新聞ノ発行ニ付テハ、同志ボイチンスキー ト上海ニ於テ会見シタトキ決定サレテ居リマスノテ、ビューローハ其時ノテーゼニ従ツテ之が実行ヲスル事ニナツタノテアリマシテ、右会議ニ於テハ
  一、新聞ハ無産者新聞ト名付ケ、宣伝煽動ノ機関トスル事、其処デ新聞ノスローガントシテ
  (1) 無産階級ノ全国的政治新聞タランコトヲ期ス
  (2) 無産階級ノ日常闘争ノ武器タランコトヲ期ス
  (3) 前衛ノ結合ヲ促進センコトヲ期ス
 ト云フ三ツヲ掲クル事
  二、前ニ述ヘシ如ク、同志佐野学ヲ主筆トシテ公然ニハ同人ガ一切ノ責任ヲ負担スル事
  三、同新聞ハグループノ公然ノ機関ナルヲ以テ無論ビューローノ決定ニ従ツテ行動スヘキデアルガ、グループ員少数ノ為メ記者ハグループ外ノ者ヲモ採用スル事
  四、同新聞ニ労働者農民ノ政治的意見ヲ反映セシムル為メ労働組合、農民組合ト密接ノ関係ヲ保タシメ、労働者及農民ヨリノ投書ヲ可成多数吸収スル事
  五、可成多ク支局ヲ設ケ、之ヲ中心ニ同新聞ヲ支持スル労働者及農民ヲ組織シ、左翼的影響ヲ拡大スル機関タラシムル事
  六、発行部数ハ二万五千台ヲ維持スル事
 等が決定サレマシタ。
 六問 右決議ノ趣旨ニ基イテ無産者新聞ヲ発行シタカ。
  答 発行シマシタ。
 七問 右新聞ハ何時カラ発行シタカ。
  答 既ニ述ベマシタ通リ、同志佐野学が同年七月帰国スル前相当発行ニ関スル準備ヲ整ヘテ居リマシタノテ、同人ガ帰国スルト直チニ具体的ナ行動ニ移リ、資金調達ト共ニ芝区南佐久間町十八番地ニ社ヲ置キ、大正十四年九月二十日カラ発行シマシタ。
 八間 無産者新聞発行ノ資金ハ。
  答 其資金ハ五千円ヲ要シマシタ。内三千円ハ「コミンターン」ノ援助ヲ受ケタモノテ、同志佐野学ガ上海デ受取ツテ来テ私ニ渡シ、二千円ハ私ノ手デ調達シマシタ。
 九問 右新聞ノ発行度数ハ。
  答 最初ハ週刊ト云フ事デシタガ、週刊ニスルト実際編輯及発売ニ非常ニ困難ヲ感シマシタ為メ、最初ノ三ヶ月間ハ月二回(一日、十五日)ノ発行トシ、四ヶ月目カラ週刊ト云フ事ニナリマシタ。
 一O問 右新聞ノ発行部数ハ。
  答 夫レハ従来ノ経験ニヨルト、吾々ノ手ニヨリテハ三千以上定期的出版物ヲ出シタ事ガアリマセヌノテ、二万五千ト云フ膨大ナ紙数ヲ出ス事ニハ非常ニ危マレ、堺利彦一派ノ如キハ之ニ対シ嘲笑的ノ態度テアリマシタ。
 然ルニ同志野坂参三、渡辺政之輔、杉浦啓一等ヲ煩ハシテ労働組合、農民組合内ニ於ケル実勢ヲ調査シタ結果之等ノ異論ヲ排シテ最初カラ二万五千部ノ発行ヲ断行シマシタ。
 一一問 右新聞ハ何レノ方面ニ頒布シタカ。
  答 発行一ヶ月許リ前カラ「ポスター」「ビラ」ヲ各労働組合、農民組合、学生団体、青年団体、水平社等ニ頒布シ、之等団体内カラ支局希望者ヲ募集スヘク宣伝シマシタ。
其結果最初カラ労働組合ヲ初メトシ、左翼的色彩ノアル諸団体ヨリ相当支局設置ノ希望及購読部数ノ概数等ノ申込カアリマシタ。
其処デ先ツ之等ノ申込者ニ頒布スルト共ニ、ビューロー員及ビューローヲ支持セル戦闘的分子ニ相当部数ヲ送リ、右ニ申述ヘタ諸団体ニ頒布シ販路ノ開拓ニ努メマシタ。
併シ三ヶ月位ハ新聞代ノ回収僅カニ平均二十八パーセントニ過キス、其欠損ハ総テ新聞創刊費トシテ準備セル五千円ノ中カラ支出シマシタ。創刊第四ヶ月目カラ週刊トナリ稍々紙代回収ノ目鼻ガツキ、成績良好ノ時ハ約六割、不成績ノ場合ト雖モ四割位ノ回収カアリマシタ。
併シ一方固定読者ヲ作ル為メ種々宣伝費ヲ要シタノデ結極収支ハ償ヒマセヌデシタ。(『現代史資料』20、109〜110ページ)

 このように、『無産者新聞』は、解党した日本共産党の再組織運動の過程で結成された「コミュニスト・グループ」の合法機関紙として創刊されたものであった。しかし、「コミュニスト・グループ」は非合法の秘密結社であったから、当然のことながら、『無産者新聞』がその機関紙であることはふせられていた。表面上は、あくまでも無産者新聞社という一新聞社が、新聞紙法にもとづいて発行人・編集人・印刷人など規定の事項を届出て、保証金を納め、発行のたびに納本する合法的な新聞であった。
 また実際、編集・発行にあたっては、コミュニスト・グループのメムバーでない人々が大勢参加した。たとえば、加藤勘十も同紙の創刊に関する会合に出席したという(同氏談)。後には、『無産者新聞』が日本共産党の機関紙であることはほとんど公然化し、紙面でも「日本共産党の旗の下に」などの大見出しが掲げられるようになる。しかし、創刊当時は、つぎのような第2号の「編輯便り」に見られるように、このことは意識的にふせられていた。
  本紙は一党一派のものでなく、ほんとに大衆の新聞であることを期してゐる。それで大衆団体の一の意見を支持し、他を排するといふことをしない。右と左の双方をふくむ大衆の意思を十分に表現するつもりである。(復刻版第1分冊10ページ)
 参考までに、創刊に先だって配布された趣意書を前ページ上段に掲げた(原文はゴシック体の部分を除き総ルビである)。
なお、『無産者新聞』の題字は馬場孤蝶の筆になるものであるという。



無産者新聞社の組織

本社

 無産者新聞社は、主として新聞の編集・製作にあたった本社と、末端で通信を本社に送り、また新聞の配布・販売を担当した支局とにわけられる。
 本社は、はじめ東京市芝区南佐久間町2ノ18にあり、1927年11月14日からは芝区烏森1番地新興ビルに移った。南佐久間町は、二階建ての小さな民家で、6畳・4畳2間のふすまを取りはらった二階が編集部、階下(6畳・3畳・炊事場・便所)が営業関係であった。新興ビルは新橋土橋口ガードの傍に今も残っている5階建のビルで、その30坪足らずの4階が無産者新聞社の事務所であった。なお、第177号に新興ビルの写真が載っている(第3分冊207ページ)。このほか、新興ビルヘの移転にともない合宿所をかねた発送部が虎の門に近い芝区今入町20番地に設けられた。
 佐野学、徳田球一という無産者新聞社創立の中心人物は、一致して、創立当初の同社の組織は編輯局・事務局から成っていたと述べている。しかし、紙面で見る限り、編輯局という呼び方が出てくるのは1927年7月の第91号が最初で、それまでは、編輯部・営業部という呼び名が用いられている(たとえば第9号、(1)38ページ参照)。ただ、いずれにせよ、これは名称だけの問題で、無産者新聞社の本社は執筆・編輯にあたった編輯部あるいは編輯局と、新聞の発送や販売、会計事務等を担当した営業部あるいは事務局の2部門から成っていたのである。
 一般の新聞社であれば、この他に新聞の印刷を担当する部門(印刷局あるいは工務局)が大きな比重を占めるのであるが、『無産者新聞』は、これを外部の印刷所に依存していたから、新聞製作の実務としては割付と校正だけで、これは当然編輯部が担当した。
 編輯部の部内は、主筆あるいは主筆代理が論説と一面主要記事を担当すること以外には、政治部、社会部、国際部といった明確な分担はなかったようである。もっとも浅野晃の供述のなかには、1927年春頃の同社に、そのような分担が存在したともとれる供述がある。

七問 其当時ノ無産者新聞ハ何ウ云フ人達ニヨツテ編輯サレテ居ツタカ
 答 社説ハ佐野学 政治問題ハ是枝恭二 組合運動ハ門屋博 国際問題ハ石田英一郎 社会記事ハ関根悦郎カ担当シテ居ツタ様テシタ   (浅野晃第四回訊問調書)

 ある一定の時期をとれば、編輯部員の組合わせによって、特定の分野を専門にカヴァーする記者が生まれたであろうことは充分考えられる。しかし、そうした分担は固定したものではなく、一人の記者がさまざまな分野をとりあつかわざるを得なかったもののようである。そればかりか、仲宗根源和、上田茂樹、関根悦郎、門屋博らは営業部(あるいは事務局)の責任者であると同時に編輯部の一員でもあった。
 なお、三・一五事件以後になると、従来、主筆あるいは主筆代理が担当していた部分(主として一面)は地下にもぐった秘密編輯部が担当し、二面以下の編輯は合法編輯部があたるという体制になっていった。
 一方、営業部あるいは事務局の内部は、しだいにいくつかの部門にわかれていったようである。何時から、どのような部門構成になっていったか、詳しいことはわからない。ただ、最初から会計係と発送係とは分化していたであろう。また、1926年2月以前に広告部が存在したことも確かである。その後、1926年2月にはパンフレット出版部、翌28年5月には事業部(同七月からは図書取次部)が新設されたことが社告などによって知られる。さらに同28年9月にはグラフ部が新設され、柳瀬正夢を編集長に『無産者グラフ』が創刊された。もっとも、この各部門は事務局の一部であるのか、編輯局・事務局とならぶ一部門とみるべきかは必ずしも明らかでない。
 事務局の部門構成について具体的に報じているのは、1929年2月末現在の警視庁の報告にもとづく『出版警察報』第10号掲載の調査と『昭和四年中における社会運動の状況』で、それぞれ、つぎのように図解している。前者が組織部を欠いているなど、検討の余地は多いが、参考までに掲げておこう。
左は「日本共産党秘密本部一面記事担当」、右は無産者新聞社本社組織図
 なお、後者に記されている組織部について『昭和四年中における社会運動の状況』(201ぺージ)はつぎのような説明を加えている。他については説明の要はないであろう。

 無産者新聞組織部ノ任務ハ東京地方ノ各地区各地支局ノ統制連絡及全国各地方ノレポート(通信)ヲ受ケ、之ヲ整理シ購読者ノ組織即チ販路ノ拡張ヲ為スヲ以テ最大ノ任務トスルモノニシテ、地方ノ通信中記事トナルベキモノハ之ヲ編輯部ニ引継ギ、指令ノ如キハ常ニ本社編輯部ニ於テ之ヲ作成シ居タルモノナリ。而シテ組織部ハ昭和三年七月以来谷川巌其ノ責任者トナリ事務ヲ整理シ居タルガ、同人ハ昭和四年四月検挙セラレタルヲ以テ、其ノ後ハ桑江常格指導ノ下ニ福田利吉及江森盛弥ノ両名ニ於テ担当シ、福田ハ主トシテ東京地方ヲ担任シ、各地区各支局責任者ト、街頭其ノ他ニ於テ連絡シ其ノ統制ニ奔走シ、江森ハ主トシテ地方ヲ担任シ、無産者新聞本社、東京四谷区仲町小出しゅん方、同四谷区左門町仁木二郎方及産業労働調査所、戦旗社等ヲアドレストシ、地方ヨリノ通信ヲ受ケ之ヲ整理シ、其レニ対スル回答、指令ノ原稿ヲ作成シ各地方ニ発送スル等、本社及地方支局間ノ連絡及各支局ノ統制ニ奔走シツ、アリタルモノトス。而シテ各支局ノ通信ハ一先ヅ之ヲ整理シテ上層部ニ提出シ、其ノ指導ヲ受ケ処理シ居レリ。


支局

 『無産者新聞』が他の労働組合や農民組合、無産政党などの機関紙と異なっていたのは、既存の組織をそのまま配布網として利用することができない点にあった。しかし、創刊号から2万5000部も発行したものを、直接本社から個人読者あてに配布することは不可能であった。そこで採用されたのが配布網と同時に取材網を兼ねる支局制度である。ちなみに日刊の商業紙以外で、支局制度を採用したのは『無産者新聞』が最初ではない。1924年2月田口運蔵主幹当時の『進め』が、新たに支局募集を広告し、同年3月号から6月号には北海道から九州さらには朝鮮まで各地に61の支局の設置が記録されている(荻野正博「『進め』誌と新潟県支局について」『歴史評論』75年10月号参照)。
 1925年10月2日付警視庁報告によると、『無産者新聞』は、第一段階としてつぎの28の地方に支局を設置する計画をたてたという(『出版警察報』第4号)。すなわち、「札幌、小樽、函館、弘前、秋田、盛岡、仙台、福島、横浜、静岡、新潟、金沢、名古屋、松坂、奈良、京都、大阪、神戸、岡山、広島、香川、鳥取、八幡、福岡、熊本、琉球、朝鮮、台湾」である。
 関東、甲信地方がほとんどふくまれていないことなど、この「警視庁報告」なるものの信憑性には疑問がある。ただ、無産者新聞社が当初から植民地も含め、全国各地に支局を設置する計画をもっていたことだけは確かである。
 第2号以降、毎号支局の新設を報じているが、創刊4ヵ月後の1926年1月21日現在で、その数は82に達している(第12号、(1)52ページ)。この支局一覧表と同時に営業部の名で「支局主任募集」の社告を出している。「本社は近き将来に於て一郡一支局の希望を実現したいと思つて居ます。別項の支局所在地以外の地に於て支局設置を希望する方は支局規定を要求して下さい。それに依て御約束をします」というもので、この社告にある「支局規定」はつぎのようなものである。

 支局規定
  △支局設置御希望の方はなるべく其地方の団体や組合と交渉し且つ一般個人読者をも勧誘して引受部数決定の上御申込下されば御送りします
  △引受部数の壱割を拡張紙として無代。支局より団体へ渡すときは五割引のこと但し団体に渡す部数に対しては本社より単価壱銭五厘にて支局へ渡す支局より個人渡しは定価通り。但し本社より支局へは五割引例A支局千部。内百部無代。(イ)三百部団体。(ロ)六百部個人、とすれば、A支局収入は (イ)七円五十銭 (ロ)三十円計三十七円五十銭。A支局より本社への支払 (イ)4円五十銭 (ロ)十五円計十九円五十銭。差引A支局純益十八円也
  △支局より本社への支払ひは次の二種とす
 甲種支局(保証金を入れた支局)三ケ月計算
 乙種支局(保証金なし)毎月計算
  △支局御引受の方は本社レポーター係、其他無産階級運動(農民、労働、水平、政研)の状勢を度々御報導(ママ)願ひます
         東京市芝区南佐久間町二の一八
                 無産社新聞社
                 振替東京六二二五二番
 (「無産者新聞の戦術に関する調査」『出版警察報』第4号、1929年1月所収。なお同調査は当研究所『資料室報』第220号、1975年12月、で全文を紹介した。)

 なお支払い方法は後に変更されたようで、本紙第55号にはつぎのような「支局略規」が掲載されている((1)228ページ)。

 支局略規
 一、部数
 支局は一地方に於て三十部以上の購読者を有する場合に設ける。
 一、支局の申込
 一地方で三十部以上の購読者を纏め得た場合は本社に支局設置の申込みをなす事。その場合は取扱部数の二ケ月分の紙代を前納するを要す。
 一、紙代
 紙代は毎月末迄に確実に払ひ込むこと。(特別の事情ある場合は翌月五日まで)
 一、レポーター
 支局には必ずレポーター(通信員)を置き、地方の事情を絶えず本社に通信する事。
 一、支局の廃止
 左の場合は支局を取消す
 (一)紙代一ケ月以上の滞納ありたる場合
 (二)無産者新聞の名を濫用して階級的裏切をなした場合
 (三)其他支局としての責任を果さぬ場合
 一、読書会〔読者会の誤り?――引用者〕
 支局は可及的に読書会を組織し新聞の意義を徹底させること。
 一、多数購読
 十部以上の申込みに対しては特に紙代を割引す。但しその場合は前金申込の事。

 しかし、支局の増加が急速であったのは、創刊5ヵ月後の1926年2月頃までであった。その後も支局の新設は見られたが、反面、紙代の納入不良のため発送を中止した支局の数も決して少なくなかつたからである。26年5月1日付のメーデー記念号に掲載されている全国支局一覧では89局の名が記されている。その後は、このような支局一覧が掲載されなくなつたので、各時点での支局数の変化を正確につかむことはできない。ただ、『出版警察報』第4号は1927年「11月14日の警視庁報告に依ると当時の支局の数は朝鮮台湾を合して一二七箇所に達して居る」と記している。また、『昭和四年中における社会運動の状況』によれば、同紙が終刊となつた1929年8月現在、支局数124、取次数137である。
 なお、大阪では支局の上に大阪出張所が、1926年10月に設置され((1)224ページ参照)、木下半治がその責任者となった。また、東京は、何時からかは不明だが、城西、江東、城南、中部、深川の5地区にわけられ、城西は4支局、江東5、城南2、中部3、深川1の支局を統轄している。
 各支局が、どれほどの部数をとり扱ったか、正確なことはわからない。参考までに『昭和四年中に於ける社会運動の状況』が、「昭和四年八月頃」の「判明セル分ノミ」として掲げた表(同199〜201ページ)を若干整理して紹介しておこう(表l)。


「『無産者新聞』小史」のタイトルで、法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.247,1978年8月およびNo.249,1978年10月に発表。その後、改訂の上《日本社会運動史料 復刻シリーズ》第75回配本、『日本共産党合法機関紙 無産者新聞』(4)〔法政大学出版局、1979年6月刊〕に「解題」として収録。ここでは、後者によっている。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
E-mail:nk@oisr.org