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『無産者新聞』小史(下)

二 村  一 夫

目  次
   はじめに  5. 印刷および配布
 1. 創刊事情
 6. 財政状態
 2. 無産者新聞社の組織 7. 終刊事情
 3. 無産者新聞社の人びと 8. 号数確定の根拠について
 以上、別ファイル。 4. 以下、本ファイル  9. 発禁号の特定
 4. 発行状況

 

4. 発行状況

発行回数

 『無産者新聞』は、はじめ週刊の予定で、「発刊趣意書」には、「発行 週刊 毎土曜日」と明記されている。しかし「最初ハ週刊ト云フ事デシタガ、週刊ニスルト実際編輯及発行ニ非常ニ困難ヲ感ジマシタ為メ、最初ノ三ケ月間ハ月二回(一日、十五日)ノ発行トシ、四ヶ月目カラ週刊ト云フ事ニナリマシタ」(『現代史資料』20、110ページ)。この徳田の陳述は若干不正確で、月2回刊からすぐに週刊に変ったのではなく、4ヵ月目の1925年12月だけは旬刊で発行され、26年1月の第9号から週刊になったのである。なお、何故か第7号と第8号の題字の下にはすでに「週刊」という表示がある。徳田の陳述の誤りも、この表示によるものかも知れない。
 ページ数は毎号4ページであったが、26年1月1日付の第9号、同2月6日付の第14号は2ページの附録をつけ、さらに「三千円基金」募集運動の成功によって1927年6月11日付の第86号を6ページ建てにしたのをかわきりに、同年7月からは毎月2回、6ページ建てを発行する方針をうちだした((2)112ぺ―ジ)。
 ただこの方針はすぐに修正された。同年7月30日付第93号には、「本紙は全国的要求に応じて九月より月六回発行」の社告が発表され、第97号から実行に移されたからである。そして次の目標として「日刊化」を掲げたが、これは実現しなかった。しかし、最初の普選が実施された1928年2月には総選挙特別版や発禁改訂版をふくめ本紙の発行回数10回、さらに号外4回以上と2日に1回の割合で発行されている。
 翌月の三・一五事件は、このような『無産者新聞』の発展にブレーキをかけた。だが、発行回数の点だけでいえば、打撃はそれほど大きなものではなかった。発行日こそ遅れたが、3月は月6回刊行を維持し、4月も1日付を休刊しただけであった。その後も1929年の2月までは月6回のペースをくずしていない。しかし1929年3月以降になると、弾圧がいっそう激化し、組版・印刷までが事実上非合法状態に追いこまれたこともあって、発行回数は月5回となり、7月にはさらに月4回に減少している。しかもこの間に4月からはタブロイド判となり、ページもしばしば2ページ建てを余儀なくされている。表2は、以上の発行状況を月別にまとめたものである。


発行部数

 『無産者新聞』の発行部数は、むろん時期によって異なるが、最高時には4万部前後、最低で1万4000部、平均では二万数千部程度とみられる。これは、当時、急成長をとげつつあった一部の全国紙とは比較にならない少部数であったことは否めない。たとえば『大阪毎日新聞』は、『無産者新聞』創刊の年1925年には119万7000部であり、終刊の年29年には150万部に達している。しかし、1925年に『読売新聞』が5万8000部であったことが示すように、部数だけでいえば商業紙のなかにも同規模のものがなかったわけではない。ただ一方は日刊であり、『無産者新聞』は最盛期でも月6回刊であるという決定的な差があったことを無視することはできないが。
 しかし、反面、他の社会主義運動や労働組合運動の機関紙誌と比較した場合に、これが従来の水準をこえた部数であったこともまた事実である。それまでの機関紙誌の発行部数記録がどれほどであったか、必ずしも明らかではないが、明治期では『週刊平民新聞』が通常3700〜4500部、創刊号や創刊一周年を記念して「共産党宣言」をはじめて邦訳、掲載した第53号の8000部あたりが最高であったと思われる(中村勝範『明治社会主義研究』200ページ参照)。第一次大戦以後では友愛会の機関誌『労働及産業』の1916年6月の「工場法施行記念号」が1万4500部を記録している。しかし、他の社会運動機関紙誌は多くて2000〜3000部程度のものであった。そうしたなかで『無産者新聞』が、創刊当初から1桁多い2万5000部で出発したことは、一部の人々にはかなり危惧の念を抱かせたようである。このへんの事情を徳田はつぎのように述べている。

一〇問 右新聞ノ発行部数ハ
 答 夫レハ従来ノ経験ニヨルト、吾々ノ手ニヨリテハ三千以上定期的出版物ヲ出シタ事カアリマセヌノテ、二万五千ト云フ膨大ナ紙数ヲ出スコトニハ非常ニ危マレ 堺利彦一派ノ如キハ之ニ対シテ嘲笑的ノ態度テアリマシタ
然ルニ同志野坂参三 渡辺政之輔 杉浦啓一等ヲ煩ハシテ労働組合、農民組合ニ於ケル実勢ヲ調査シタ結果之等ノ異論ヲ排シテ最初カラ二万五千部ノ発行ヲ断行シマシタ。  (『現代史資料』20、110ページ)

 なお北浦千太郎は、これとは若干異なった数字をあげている。すなわち、創刊号は3万部で、「二回目頃カラ二万八千、二万五千、二万三千ト云フ風ニ漸次減少致シマシタ」と述べている。しかし、すぐそれに続けて「而シ私ハ単ニ同新聞ノ手伝デアツテ専門的ニ関係シテ居ツタ訳デハアリマセヌ故詳細ナ事ハ判リマセヌ」(『現代史資料』20、463ページ)とことわっており、これは創刊の中心であった徳田、佐野学が一致している2万5000という数字をとるべきであろう。
 しかし、後述のような紙代の回収の悪さなどから、翌1926年はじめには2万部を割ったもののようである。これを報じているのは『出版警察報』第4号の「無産者新聞の戦術に関する調査」である。
 大正15年3月の警視庁の近況報告に依ると佐野学が10ヵ月の刑期を終へるため2月中に入獄し、仲曽根源和、上田茂樹外関根閲(ママ)郎、本間関一郎、北浦千太郎の手にて経営し、発行部数一万五千部、内日本内地は一万部外国には三千四、五百部であつて、外国は、朝鮮、支那、北米ニューヨーク、加奈陀、南米、ソヴィエツトロシア等マデ発展した。(中略)
 印刷部数は最初より約25000部宛印刷したるが地方支局よりの紙代徴収意の如く行かないため急に1万8000部に減少して確実の方面に配布することになった。
 無産者新聞社は独自の印刷所を持たず、印刷は東京曙新聞社あるいは読売新聞社や万朝報社などにたよっていたから、警察側は比較的容易に各号の印刷部数をつかむことが出来たと見られる。したがつて、この報告もそれほど大きな誤りはないであろう。なお、同紙自体も、その創刊三周年にあたって発表した「闘争の跡を顧みる」と題する一文のなかで、1926年春現在の読者数が2万前後であったことを認めている(第179号、(3)216ページ)。
 しかし、この頃から『無産者新聞』の拡大運動が次第に積極化しはじめる。すなわち、1926年2月20日付の同紙は「読者諸君に訴う」と題して、基金募集、通信投稿依頼などとともに「購読者拡張」を呼びかけ、以後毎号のように「無産者新聞を援助せよ!」とのアピールを出し、同年6月には、「第二次支持運動」として「二ケ月に一万部、二ケ月に二千円」という具体的目標を示して、読者の拡大を訴えた。さらに、創刊一周年には「宣伝週間」を設定して「無産者の夕」を開いたのをはじめ、宣伝ビラやポスターを作り、「辻売デー」と称して街頭での宣伝販売を行なった。『出版警察報』第4号は、この「宣伝週間」について「この宣伝計画には新聞第48号を二万5千枚印刷し各地に配布した。辻売の成績は全般に渉つて比較的不成績であったやうであるが、東京に於ては従事員四十二名、売上数八百九十三部の成績であつた。東京に於て開いた『無産者の夕』は十月二日三日の両日夜芝協調会館で開き二日間の入場者六百名過半は学生で労働者はごく一部分に過ぎなかった」と述べている。
 この「宣伝週間」直後の10月23日には、『無産者新聞』の拡張は支局長だけでなく、大衆的に行なわれなければならないとして、そのために「拡張委員会」を作ることを呼びかけた。
 翌1927年4月には、日刊化を目標に掲げ、そのための準備として1)支局制度の確立、2)読者会の組織、3)財政上の支援などと同時に、「読者倍加運動」を呼びかけた((2)62ぺージ)。この時は、運動の中心は3)の財政的援助におかれ、具体的には6月末を期日に「基金三千円募集運動」として展開された。この「三千円基金募集運動」は予想以上の成功を収め、期日内に目標を超えた。
 これを受けて「日刊計画への第二歩」としてうちだされたのが、10月末までの3ヵ月間を期日とする「読者五万突破運動」であった(第92号、(3)126ページ)。この運動のよびかけは、「現在『無産者新聞』の発行部数は二万五千である」ことを明らかにした上で、「即ち『読者五万突破運動』を成功せしむるためには、各一人が一人宛の読者を獲得し、各支局及取次者が、その読者を倍加すればよいのだ」と述べていた。
 この運動の成果について同紙は、二度にわたって具体的に部数をあげて報じている。最初は1927年9月25日付で、運動開始後の2ヵ月間で5000部増え、3万部に達したことを伝えている。ついで同10月25日付で、「我々は一万の読者を獲得した まだ一万五千足らぬ」として、「現在の総発行部数は三万五千までに上った」と述べている((3)170ページ、194ぺージ)。結局、この「読者五万突破運動」は期日までには達成されず、運動期間は12月末まで延長された((2)198ページ)。その結果については発表されていないが、当時、事務局主任として経営の中心にいた門屋博は5万に達したのではないかと述べている(同氏談)。しかし、仮に5万を突破していれば、当然その成果は公表されたのではないだろうか。さきに紹介した『出版警察報』は、「斯の如き昭和二年末の宜伝計画稍々成功して昭和3年はじめに於て読者数は四万に近き数を示すに到つた」と記している。このあたりが実際に近い数字ではなかろうか。なお,、佐野学は、1928年「二月総選挙頃ハ三万五千以上」(『現代史資料』20、238ページ)と述べている。
 いずれにせよ、1928年2月は発行回数の点でも、発行部数からみても『無産者新聞』の最盛期であったことは確かである。
 三・一五事件とそれ以後の弾圧は『無産者新聞』に大きな打撃を与えた。本社だけでなく、全国の支局関係者が逮捕・拘留された上に、発禁・差押処分が相ついだのである。それでも同紙は、月6回の刊行を維持しつづけた。その発行部数も1928年中は二万数千部、1929年の「四・一六事件」以前は2万部前後であった(『昭和四年中に於ける社会運動の状況』135ページ)。1929年2月20日付の第208号は、頒布前に差押えられたのであるが、その部数は1万9110部に達していた。しかし、「四・一六事件」以後は部数を減じ、毎号1万4000部程度であった。これは、当時の責任者であった桑江常格の供述によるとして『昭和四年中における社会運動の状況』に記録されているところである(同書198ページ)。



 印刷および配布

印 刷

 『無産者新聞』は独自の印刷所を持っていなかったから、印刷はすべて外部に依存した。関根悦郎によれば、創刊から1年以上は無産者新聞社の近くにあった『あけぼの新聞』に印刷関係一切をまかせていたという。先に引用した「秘密結社日本共産党再組織運動の状況」に記されている「芝区南佐久間町一丁目一番地 東京曙新聞社」がこれであろう。
 その後、組版までは京橋区元数寄屋町一ノ三、協友社で行ない、印刷は読売新聞、万朝報、朝野新聞などに依頼した。12段組みの新聞を3万部も印刷するには、どうしても輪転機を持っている新聞社に頼らざるを得なかったのである。一方、万朝報などは経営不振であったから、毎号、印刷費を現金で払いさえすれば喜んでひきうけたのである。
 1927年秋から翌年3月まで、無産者新聞社で働いていた石堂清倫は、「このころどのように印刷したかを記しておこう」と、つぎのように述べている(『北方文芸』第100号)。
 原稿は京橋の裏通りのしもた屋ふうの印刷屋で組んだ。失業アナーキスト印刷工が何人かで共同経営をしているのである。ここで大組みをして、これをリヤカーで有楽町の小さな新聞社の印刷場へ運ぶのである。もちろんインチキ新聞社であるが、内職に無新をひきうけたのであろう。どちらも口がかたくてなかなか警視庁にはばれなかった。紙型をとると、大組みの版面を京橋の印刷屋にもどし、ここで解版をする。つまりピンセットか何かで活字を一つ一つもとのケースに返すのである。いったり来たりしているうちに3万やそこらは十一時ごろまでに刷り上り、支局の諸君がもって帰り、列車積みの分は汐留へ運ぶのだが、私は警視庁へ納本にゆく。夜中すぎになるが、十二時まえに納めたことにしておく。もちろん警官は一人もいないから、ごまかしがきくのである。それからトボトボ合宿まで歩いてかえる。
 これが常例であった。印刷所は半年に一度くらいかえたということだが、私の働いた半年内はおなじところであった。
 なお、組版が東京曙新聞社から協友社に移ったのは、創刊2周年にあたる第101号からではないかと思われる。その根拠は、1ページが15字詰・12段である点は変らないのに、この号から版面の大きさが変っているからである。
 三・一五事件後『無産者新聞』に対する弾圧は激しさを増し、発禁があいついだ。それでも、4月の第1週を休刊しただけで、その後も月6回発行は維持されていた。しかし、差押えを避けるため、印刷所はたえず変更された。これに対し、警察は『無産者新聞』の印刷をひきうけていた万朝報、やまと新聞などに圧力を加えて、これを断わらせ、ようやく朝野新聞で印刷を始めたところ、警官がふみこみ鉛版をこわすことさえあえてしたのである。
 このため、同紙は「資本家の印刷所では今後『無産者新聞』の発行は困難だ……『俺達の印刷所』を作らう」と、「輪転機購入基金五万円募集」の運動をはじめた(第160号、(3)150ページ)。5万円の内訳は、つぎのようなものである。「輪転機(一万二千円)モーター(二台千五百円)鉛版部(二千五百円)活字(二万円)工場家屋(五千円)附属設備(二千円)字母、鋳造機等(五千円)其の他(二千円)計五万円」。しかし、この基金募集がとうてい目標に達しなかったことは後述のとおりである。
 こうした弾圧にもかかわらず発行は統けられていたが、1929年に入ると、それまでくり返されていた本社社員の総検束だけでなく、協友社の主人や従業員まで検束するにいたった。そればかりか、第215号は、警察がついに1929年2月28日、協友社に対して「『無産者新聞』の組版一切を禁止し、これに応ぜざる時は暴力を以て之を妨害する旨申渡し、その為め□組版所は終に解散するの止むなきに至つた」((4)70ページ)ことを報じている。こうしてついに、組版から印刷までが次第に非公然の状態に追いこまれていった。
 1926年4月1日付の第216号からは、これまでの全紙大からタブロイド判13字詰8段に変り、ルビはなくなり、漫画やカットも少なくなった。これは財政的な理出もあったが、何よりも協友社がつぶされた後、秘密裡に作業を進めるには規模の小さい「零細印刷所」にたよるほかはなかったためであろう。
 1929年4月以降の印刷について、『昭和四年中に於ける社会運動の状況』はつぎのように記述している。
 (前略)編輯終了シタル場合ニ 本郷区元町二丁目九番地所在修文社(四月十6日以前ニ協友社ヨリ移ス)ニ持参シ、桑江自ラ記事配置ノ指揮ヲ為シテ組版セシメ、之ヲ高橋勝之校正シ、更ニ修文社ノ手に於テ本郷区東竹町一0再栄堂斎藤栄三郎方ニ送リ鉛版トナス、而シテ鉛版トスルマデ官辺ノ眼ヲ剽ムル為メ「労働と自由」ナル題号ヲ附シ印刷屋ニ到リ、始メテ無産者新聞又ハ第二無産者新聞ト変更シ居タリト云フ。斯クテ右ノ鉛版ハ組織部員福田利吉、江森盛弥等ノ手ニ於テ本郷区湯島天神町三ノ一印刷業川口章男方ニ持参印刷セシメ居タリ。
 ただし、この記述は、当時の印刷のあり方の全貌を伝えているわけではない。実際に印刷を担当していた人は、これ以外にもいた。その一人は、永田周作である。永田は1923年早稲田大学政経学部を卒業、その後、一年志願兵となり、除隊後の1925年から大原社会問題研究所の出版部的存在であった同人社書店に勤務していたのであるが、1929年に入ってから『無産者新聞』の印刷に関係した。永田は桑江から受取った原稿を自分で割り付け、修文社で組版した後、これを別の印刷所で刷らせたという。印刷は川口方だけでなく、他にも何カ所かあり、最終号は「上野広小路近くの、文字通り地下室にあった、中年者のオヤジ一人の印刷屋で刷らせた」という。


 配 布

 『無産者新聞』は合法紙であったから、発禁処分さえ蒙らなければ、公然と販売・配布することができた。多数の婦人を動員しての「辻売」さえしばしば行なわれている。しかし、いったん発禁になると、これを無事に読者のところまで配布するためには、さまざまな考慮をはらわなければならなかった。発禁号は警察に見つかればすべて差押えられたからである。
 警察の取締りの目をくぐって安全に読者の手もとに届けるために講ぜられた諸手段は当然秘密を要したから、紙面の上からは容易にうかがい得ない。そこで、ここでは主として、警察が押収した文書や逮捕者の取調べ等によって「郵送印刷方法その他に関する戦術」を調査した論稿(『出版警察報』第4号、第10号所収)によって、その大略をみることにしよう。なお、この『出版警察報』の論稿は、当研究所『資料室報』第220号(75年12月)および第221号(76年2月)に再録したので参照されたい。
 差押えを防ぐためまず第一にとられた措置は、納本を出来る限り遅らせ、発禁処分が出た時には、すでに配布を終えているようにすることであった。このためには「納本をわざわざ郵便を以て之を行ひ発行日と納本到着日との間の隔りを作る手段が講ぜられ」(第4号)た。週刊当時、発行日を毎週土曜日としたのは、禁止処分を月曜以降にするための配慮もあったと思われる。
 しかしそのうちに、警察は納本前の新聞の発売・頒布を禁止することさえあえてするようになった。第86号には「前号発売禁止に対し内務大臣に抗議す」という抗議文を掲載し、つぎのように述べている((2)95ページ)。
 第一、右第八十五号に対する禁止は、発行当日午後八時、命令せられたるものであるが、同時刻は未だ納本も了せざる時である。当局は、本紙の記事を何等精査する事も無く無暴にも禁止命令を下した。始めに干渉圧迫あり、而して後、此の干渉圧迫を弁解するに安寧秩序の紊乱を以てする。之を専制と云はずして何をか専制と云ふべきであらう。(後略)
 また、地方によっては発禁・差押命令が出る前に、差押が行なわれた。第80号には「本社に到達したる差押へ時間」を掲げ、「差押へ発令前に地方警官の独り考へにて差押へを断行する事がある。之に対しては充分調査して抗議せよ」、また「地方郵便局、鉄道駅等と官憲と結託し、差押へに幇助するものがある。之等の越権行為は政治問題として充分抗議せよ!」との指示が掲載されている((2)74ページ)。
 三・一五事件後になると、納本はおろか、まだ発行されていない『無産者新聞』の発禁命令が出されるということさえおこっている(第164号〔表記上は第163号〕(3)166ページ、「十日の新聞が八日に発禁!」参照)。
 ところで、納本を遅らせ、発禁・差押命令が出るまでの時間をかせぐということは、裏がえせば、発送・配布は、新聞が出来次第できるだけ短時間に済ませる必要があることを意味していた。このため、発送には社員だけでなく、大勢の学生や労働組合員が参加している。発送は、しばしば夜半になされたから、発送部員のほとんどは今入町の合宿所にいた。
 また、印刷所をたえず変更したのも、発禁処分が決定した時、警察が差押えに出動するのに、少しでも時間をかせぐためであった。こうした発送の状況について、「最近における無産者新聞の宣伝組織とその活動」(『出版警察報』第10号所収)はつぎのように報じている。
 印刷所決定するや、詰めかけたる社員は、持参せる読者及支局宛の帯封乃至包装用紙を以つて新聞の刷り上がる一方より、逐次処理し行き、各支局又は取次部宛の分は、上野、東京駅へ自動車を以つて運び、駅送普通郵便に依つて発送し、尚個人宛の分は、最寄りの郵便局を利用して各地読者に向ひ頒布するを常となして居るが、此の種の包装に付ても、周到なる用意の下に行はれてゐる。例へば、同じく包装するにしても、油紙に依つて、単なる小包と見せかけたるものあり、東朝、東日の如き一般の新聞紙の裡に捲き込み、全然普通の新聞を発送するかの如く装へるもの乃至敷島等の煙草の古箱に挿入して、一見反物或は其他の物品を郵送するかの如き手段をとり、東京市内外の分は、各支局責任者が一応電話を以つて時刻を協定し置き、同時刻に印刷所へ集会し、その担当部数を各自持ち帰り、直接読者へ頒布するが如き方法がとられてゐる。
 ついで、発送された新聞が確実に支局や取次の手にわたるようにするためにとられたのが、受取人を二重に設定することであった。これは創刊後間もない頃から始められている。これを本社から各支局あてに指示したつぎのような文書が『出版警察報』第4号に収録されている。
 さて無産者新聞第4号(十一月一日発行)は発売禁止の厄に遭ひました。それも特に奴等が組織的に計画してやつた形跡があるのです。本社としては今後記事の上にも大いに注意して出来る限り発売禁止率を少くする考へであります、然し階級新聞たることを標榜して立つ本紙が全然骨抜きにしない限り発禁を絶無ならしむることは不可能であります、そこで我々は第二号第4号の発禁にかんがみて、今後の対策を講じておかなければなりません。それには本社と支局との間に次の点をよく打ち合わせておきたいと思ひます。
△発売禁止のおそれあるときには発送人も本社とせず受取人も支局名とせず、全然目をつけられて居ない個人名義で受け渡しすること。それで支局責任者は安全に荷物の着く個人を指定し着荷駅名をも同時に本社へ知らして置くことにしてもらひたいのです。
 例えば
○東京支局     東京市芝区桜田本郷町八
          責任者  西 山 太 郎
                (新橋駅留)
(別宛名)     東京市外淀橋角筈二五
               田 中 吉 雄
                (新宿駅留)
 普通の場合は右の東京支局西山太郎に宛てゝ発送し多少でも不安な時には田中吉雄宛に送るといふことにするのです 何卒至急(大正十四年十一月十日頃迄)に別名宛を本社まで御知らせ下さる様御願します。云々
 三・一五以後、あいついで発禁処分が加えられるようになると、受取人も二重では間に合わず、三重、四重にも設定するようになっている。こうした仕事を担当したのが組織部であった。『出版警察報』第4号は、「埼玉県報告」によるとして、本社が支局に対する三・一五事件の影響を調査し、受渡しの方法を確認するために送った「調査表」を引用しているが、それには、つぎのような記述がある。「発禁差押への場合を顧慮して何等かの方法で一部は必ず支局の手に入れるやうに対策を講じて居る」が、万一「差押へらるゝ場合は駅送をやめて個人宛に郵送するか又は個人宛に小包送りにするかゞ考へられる、その場合受取人が一人ではだめだから委員その他読者中の適当な人の住所を四五人知らせておいてくれ」。
 また、「駅留受取りの支局取次部諸君に告ぐ」と題した28年6月6日付の指令は次のように述べている。
 「我等の新聞」は支配階級の凡ゆる暴圧下にあり諸君は毎号、毎号の新聞を受取るために、実に決死的奮闘を続けて居られることを知つてゐる。或はスパイと戦ひ毎日のやうに早朝から駅通ひをやつたり、駅前でスパイと格闘して新聞を持ち帰り、或は完全に手に入れる為に駅員を獲得すべく全努力を傾注しつゝある。
 諸君の苦闘を知れる本社は全力を挙げて新聞の定期的発行に努めて来た。然し一時困難であつた新聞定期発行は遂に成功したのであつたが最近の支配階級の暴力的迫害によつて亦発行が後れ、一日号が3日に号外の形で発送され、五日号が今日(6日)発行を余儀なくされた。我等は諸君がまたも奔走に疲れるであらう事を思ひ本社員一同は現在スパイの包囲中にあつて決死的闘争を統けてゐるから近く正規に復する。
 然し現在財政上の点から又印刷上の都合上更に複雑な関係から今暫くは不定期的発行を余儀なくされ且又度々号外の形で発行せざるを得ないであらう。
 諸君我等の新聞を守るものは手と足を以つてする諸君自身の防衛をおいて他になく。(ママ)本社は死を賭して新聞を発行するから諸君死する迄新聞を配布せよ!
 何時号外が駅に着くかわからないから毎日駅に気をつけてくれ今は明日を気をつけろ!(傍線あり)
  我等の新聞を死守せよ!
  新聞を一部も敵に渡すな!
  紙代をすぐ送れ!
  基金三千円募集に応せよ!
  レポートの雨を降らせ!
     一九二八、六、六      無産者新聞組織部
 尚駅送りで危険な時は小包送りが一番安全だ!
 其の他着駅をかへるなり駅員を獲得するなりしつように新聞防衛方法について考慮と計画を廻らせ!
さらに、29年2月には、つぎのような「スパイ対策」を支局に指示した。
 (イ)本社と支局との連絡は、責任者を限り、新しい人をなるだけ使はぬこと。止むなく代理人を出す時は、確実な人に証明を添へてよこすこと、疑はしい時はつき返すかも知れないから了解してほしい。
 (ロ)ルーズな組織は充分引きしめて仕事の分担を厳重に分ち、読者一般には(報告以外)ツヽ抜けに知らせてはならぬ!
 (ハ)新聞を受取りに来る人を限つておく事(交代に人を使ふことは出来るだけ避ける事。又場所等を外部に絶対に知らせぬこと。)
 (ニ)本社員と名乗つて行く者には注意すること。
 (ホ)問合せに関しては、電話はなるべく止める事、本社あてに重要な内容のものはやらぬ事(責任者自身来て欲しい)
 (ヘ) 支局読者名簿は三通位作つておき、別々に安全な場所に保管して置くこと、(其場所は責任者以外に(または後任)知らせてはならぬ)(『出版警察報』第10号)
 こうした発送段階の対策、配布網の強化にもかかわらず、駅留の新聞を受取る段階でも、支局員や読者は当局に監視され、妨害された。「何時新聞が駅へ到清するかわからないので定期の発行日から三日間位は毎日読者が数名宛交代で駅へ行つて見張りをして、来るのを待つ」状態であったし、「駅へはちやんと届くのだが官憲が駅へ来たのを、そつくりそのまゝ横取りしてゐることが判つた」ため、「駅を時々替へる」こととし、「読者のゐる地方の駅へ、予めその読者を通じて新聞の出る少し前に駅の受取手続き」をするような手段を講じてこれとたたかっている((3)94ページ、同様の事例は(3)232ページにも見られる)。
 最後に、警察側の調査が報じているこれらの配布活動の実態や差押の事例を列挙しておこう。
 (1)〔1928年〕四月二十七日の警視庁報告によれば四月二十五日附第百四十8号(不問)を私かに芝区愛宕下町の朝野新聞社に於て印刷し払暁蜜柑箱に詰込み他物品の如く装ひ駅留として各地に発送した事実がある。
 (2)〔1928年〕五月二十一日附福岡県報告には小倉駅の駅員が新聞の無代配付を受けたことに依て稍階級的に自覚し支局と密かに連絡を執つて警察当局の視界脱洩方法をとつた模様がある旨記載して居る。
 (3)〔1928年〕6月4日附島根県報告によると虚構の人間を受取指定人とし駅より受取る際指定人の代理者と支局員を派して受取り執行を免れんとした実例がある。
 (4)又六月二十五日附長野県報告には県内飯田町で一支局員が雇はれて居る越後屋魚店宛に送らし発信人も受取人も何等容疑の者の名を記載せず差押への脱漏を計り支局へ持ち込んだ処を押へられた例がある。
 (5)昭和3年7月の宮崎県及び北海道の報告には他新聞に折込んで発送したものを差押へた実例が見えて居る。
 (6)鉄道当局及び郵便局に於ては之等密送小包を容疑のものと認めた場合は、駅又は局に留め置き受取人を呼び出し、係員立会の上開封し、若しも禁制品なる時は直ちに差押へを執行するを例として居るが、九月十日附静岡県の報告に依ると、八月始静岡市下横田町福島小鳥店宛の小包が疑はしいので静岡郵便局に留置いて受信人を呼び出した処、受信人の代理人として二人の男が受取りに来たので、事務員は事務室に於て開封せんとした。然るに受取人は汽車にて出発しなければならないから開封は窓口にて行つてくれと希望し、窓口で開くと、果して八月1日附の無産者新聞で既に禁止処分に附されたものであつた。この時二人の受取人は素早く開封された新聞の一部を持つて逃走してしまつた。事務員も窓口なので直ちに追跡することも出来ず取逃し警察に訴へたので要視察人等に手配すると市内の旧労農党員二名なることが判明し翌日取押へられた。新聞紙の一部は配付した模様で犯人は新聞紙法違反として起訴されたが証拠不充分で無罪となつたとのことである。
 九月になつて新聞社では郵便小包が費用が係るのでこの方法を当分中止する旨の通知を発した。以後は特に危険の場合のみ之を行つて居る様である。(以上『出版警察報』第4号)
 (7)〔1929年〕印刷シタル新聞紙ハ、当初ハ一応他ニ移シ、発送部員等ノ手ニヨリテ配付セラレツヽアリシモ、斯クテハ時期遅レ、発売頒布禁止ノ場合差押ヲ増スモノトシ、印刷所ニテ包装、直ニ直送スル手段ヲ採レルモ、官辺ノ捜査厳重ナル為メ四月以降ハ組織部担任者福田利吉ニ於テ東京地方ノ分ヲ引受ケ、発送部員ヲ通ジテ東京各地区(城西、江東、城南、中部、深川)ノ各責任者ニ配付シ、各地区責任者ヨリ各支局(城西地区四支局、江東地区五支局、中部地区三支局、城南地区二支局、深川地区一支局)責任者ニ配付シ、各支局ヨリ工場学校等ノ配付(班)責任者ニ配付シ、其ノ引渡ハ街頭其他目立ザル場所ニ於テ差押ヲ免ルヽ為、主トシテ夜間ヲ利用セリ。又各地方ハ同組織部員江森盛弥ニ於テ担任シ、江森ハ発送前全国支局名簿ノ保管者江馬修(ナツプ執行委員)宅ニ於テ発送先ヲ記シ、支局及取次所ニ対シ直接鉄道便又ハ郵便(大部ノ場合ニハ小包トス)ニテ発送シ、支局ヨリ購読者ニ引渡サシムルコトヽセリ。
而シテ地方発送ハ江森統制ノ下ニ発送部員林二郎、入江八郎、延原政行等各数千部宛ヲ其ノアヂトニ持参シ、成ルベク大部ノ差押ヲ免ルヽ為メ分散シテ発送シ居レリ。又発送方法ハ昭和三年十月頃ヨリ打続キ発売頒布禁止ノ処分ヲ受クルノ状況トナレルヲ以テ、送付途中差押ヲ免ルヽ為メ、之ヲ箱詰又ハ手荷物ノ如ク装ヒ、鉄道便ヲ以テ送リ、駅受ノ方法ニテ而モ其ノ駅ハ支局ヨリ稍々隔リタル所ヲ利用シ居タリシガ、昭和四年ニ入ルヤ、多クハ小包郵便ヲ利用シ、而モ新聞紙ニアラザル普通器物ノ如ク装ヒ発送セルモノ最モ多ク、地方ニ於ケル個人読者ニ対シテハ普通新聞紙(例東京朝日新聞等ノ如キ注意セラレザル古新聞)ノ中ニ折込ミ、封皮ニハ真実ニアラザル発送人ノ名ヲ用フル等、凡ユル技術ヲ以テ差押ヲ免ルヽ方法ヲ採レリ。又支局ノ如キモ真実ノ宛名トセズ、多クハ本社ト協議ノ上第三者ヲ受取人名義トスルガ如キ状況ニアリタリ。依テ警察其ノ他ノ差押部数ハ毎号相当多数ナルモ、完全ナル差押ハ頗ル困難ナル実状ニ在リ。(『昭和四年中に於ける社会運動の状況』)



 財政状態

創刊基金

 『無産者新聞』の創刊に要した基金は5000円である。そのうち2000円は徳田球一が調達し、あとの3000円はコミンテルンの援助によるもので、佐野学が上海で受けとって帰国後、徳田に渡した。以上は創刊事情のところでもすでにふれた。徳田が調達した2000円は、兜町で半(カネハン)商店という株式取引店を経営していた小林武次郎からひき出したものであった。これについては、山川均の証言がある。
 この時期に徳田君と最後に会ったのは、たぶん大正十四年の夏ころだったと思う。私は大正十二年の関東大震災の年の暮から関西に移住し、そのころ神戸に近い御影に住まっていた。そこへ徳田君がれいの「竹さん」(ママ)と荒畑寒村君と三人連れで訪ずれてくれた。そして「竹さん」の出資で、いよいよ日刊新聞を出すという計画をきいた。(「若き日の印象」『回想の徳田球一』所収)
 徳田が半(カネハン)の顧問弁護士をしていた1921年、荒畑に、鐘紡でストライキを起こすことを条件に運動資金の提供を申出て拒絶されたことは『寒村自伝』(筑摩叢書版、上巻265ページ)でよく知られているエピソードだが、その関係者三人が揃って山川を訪れていることは、なかなか興味深い事実である。

 

保証金の納付

 当時、新聞発行に際して、まとまった金を要するものの1つは、新聞紙法第十2条による保証金の納付であった。「時事ニ関スル事項ヲ掲載スル」ためには、「東京市、大阪市及其ノ市外三里以内ノ地ニ於テハ二千円」の保証金を必要としたのである。これは他の多くの機関紙誌がそうであるように「某金貸カラ二千円ノ公債ヲ借受ケテ納付」(『現代史資料』20、205ページ)した。この借金の利息は月50円、年利にして30%の高利であった(第22号、(1)93ページ)。石堂清倫が数少ない有給社員として無産者新聞社から得た月給が30円であった(『思想と人間』254ページ)から、この50円の金利負担は決して小さいものではなかった。
 そこで、最初に行なわれた基金募集の目標が、「保証金自立」であった(第22号、(1)93ページ)。これは第31号では、さらに具体的に、1926年6月と7月の「二ケ月間に一万部!二ケ月間に二千円!」のスローガンを掲げ、それぞれ地域別の目標を示して、支局と読者の奮起を要望した。しかし、この目標はついに達成されなかったもののようで、8月7日付の第41号でも、この拡大と基金募集運動について「その結果は既に着々と現はれつつあるが、予定の計画に対してはまだ充分なものでなくこの際支局および読者諸君の一層の努力を希望する」と述べている。
 しかし、この「保証金自立」の基金募集運動は予期しなかった成果をあげた。従来、1ヵ月50円だった保証金の金利負担を20円と大幅に軽減することができたのである。指物職で東京家具工組合(後の関東木材労働組合)の組合員、後に関東地方評議会の常任委員にもなる松本倉吉がこの社告を見て、金利の安い保証金の貸付をあっせんしたからである。貸主は松本が家を借りていた家主の岡村サダであった。ちなみに、岡村サダは無産者新聞の他にも、労働農民新聞に2000円、労働新聞、労働者、プロレタリア芸術、鉄道労働に各1000円を保証金として貸し、1000円につき月10円の利子を得ていた(「松本倉吉第三回聴取書」、「関根悦郎聴取書」)。なお岡村は、『第二無産者新聞』の保証金の出資者でもある。
 

紙代とその納入状況

 『無産者新聞』の紙代は1部5銭、1ヵ月では月2回刊時代が10銭、週刊時代が20銭、月6回刊時代は30銭であった。参考までに、当時の一般商業紙の定価を見ると、朝刊が10ページ建で1部5銭、夕刊が4ページ建で1部2銭、月極めは朝夕刊ともで1円程度である。『無産者新聞』は4ページ建であったから、一般紙に比べればかなりの割高であった。
 ただし、労働組合や農民組合など「プロレタリア団体」に対しては5割引とした。しかしこれについては、プロレタリア団体の構成員個々人も5割引であるとの誤解を招き、紙代回収の妨げとなったため、再三これについての社告を出している。
 本社から支局への引渡し価格は、一般向けは一部2銭5厘、「プロレタリア団体」向けは1銭5厘であった。また引受部数の1割は拡張紙として無料であったが、1927年10月以降この無料宣伝紙の制度は廃止された(『出版警察報』第4号)。
 紙代の納入状況はあまり良いとはいえなかった。徳田によれば、創刊後「三ケ月位ハ新聞代ノ回収僅カニ平均2十8パーセントニ過ギズ、其欠損ハ総テ新聞創刊費トシテ準備セル五千円ノ中カラ支出シマシタ。創刊四ケ月目カラ週刊トナリ稍々紙代回収ノ目鼻ガツキ、成績良好ノ時ハ約六割、不成績ノ場合ト雖モ四割位ノ回収カアリマシタ。併シ一方固定読者ヲ作ル為メ種々宣伝費ヲ要シタノデ結局収支ハ償ヒマセヌデシタ」
(『現代史資料』20、110ページ)という。
 こうした状況を打開するため、第10号以降、「読者諸君に訴ふ」との社告を出し、紙代の納入をよびかけている((1)44ページ)。また、紙代納入不良の支局に警告を発し、改善されない場合は配布を中止するといった措置も、1926年3月頃からとられ始め、その後も絶えずくりかえされている。
 その結果、1927年頃には、事態はやや改善され、紙代の回収率は60%程度になった。しかし、紙代だけでは赤字であった。1927年春頃から1928年1月まで同紙の経営責任者であった門屋博は、この当時の財政状態をつぎのように述べている。
 昭和二年春頃ト昭和三年一月頃ニ於ケル無産者新聞ノ発行部数 会計状況等ヲ比較シテ見ルト 昨年〔1927年〕春頃ノ一回ノ発行部数ハ二万部位テ総支出ハ一ケ月千七、八百円、一ケ月ノ欠損三百円位、昭和三年一月頃ノ一回ノ発行部数ハ三万部位テ総支出ハ一ケ月二千四、五百円 一ケ月ノ欠損ハ百円位テシタ 発行部数ノ割合ニ代金ノ募集カ思ハシクナク 大体「六十パーセント」位ノ回収テシタカラ発行部数ノ多イ割合ニ欠損ヲ招キマシタ
 三一問 仝新聞ノ欠損補顛(ママ)ハ什ウシテツケタカ
佐野学ト私ノ寄付金ニヨツテ補顛シ(ママ) 一昨年〔1927年〕四・五月頃無産者新聞日刊ノ第一準備トシテ全国ヨリ一般的ニ寄付金ノ募集ヲシタ結果三千五百円位集マリマシタカ其中カラモ幾ラカ補顛(ママ)シマシタ 其外河上博士カラ千円寄附ヲ受ケタ事カアリマシタカ夫レハ総選挙ノ際三回程無産者新聞ヲ臨時発行致シ 其費用ニ支弁シマシタ (門屋博第七回訊問調書)
 また、門屋の後任として1928年1月末か2月はじめに会計責任者となった関根悦郎は、警察官の訊問に対してつぎのように答えている。
 一、同新聞ノ読者ハ現在三万人アリマス 購読料徴収ノ好イ時ハ七割位ニ行キマスカ 選挙ノ時ナト各地方支局テ使用スル為メ自然本社ヘノ払込歩合ハ非常ニ悪イノテアリマス
 一、新聞ノ経営ハ前申シマシタ購読料ニ広告料及寄附金ニ依ルモノテス
 一、寄附金テモ最高ハ精々五十円 百円ト云フ処テス 何万ト纒ツタ寄附ノアツタコトハ知リマセヌ 仝人カラ聞イタ事モアリマセヌ アルト想像セラレル様ナル事モ私カ会計ヲ司ル様ニナツテカラハアリマセヌ。      (関根悦郎聴取書)
 三・一五事件後の1928年5月以降は紙代の回収状況だけでなく、会計収支全体が月別でかなり詳しくわかっている。桑江常格が検挙された時に帳簿が押収され、これを整理したものが『昭和四年中に於ける社会運動の状況』に収録されている(225〜240ページ)からである。表3はこれをさらに整理して作成したものである。これによれば、1928年5月から同年8月までは紙代収入は1ヵ月平均で831円41銭であるが、9月以降同年12月までは1カ月平均1248円82銭となっている。これが、どれほどの部数に相当するかは、本社から支局に対する引渡し価格が一般向けと「プロレタリア団体」向けとでは異なり、両者の比率が明らかでないので正確なところはわからない。もし仮に半々であったとすれば、支局が本社に支払うべき紙代は一般向けが1部につき1ヵ月15銭、「プロレタリア団体」向けが9銭であったから、平均すれば12銭、したがって1928年5月から8月までは毎月6928部、9月から12月までは1万407部程度の紙代の納入があったことになる。この当時の発行部数は2万数千部であったから、三・一五事件以後、紙代の納入率は30%以下になったが、1928年9月以降は50%近くまで回復したとみてそれほど大きなちがいはないと思われる。
 しかし、1929年2月から4月になると、紙代収入は1カ月平均832円47銭と、ふたたび前年5〜8月期の紙代収入とほとんど同じ水準に低下している。さらに四・一六事件後の5月以降になると、収入はいっそう滅少し、最高時の10%以下にまでなっている。
 基金募集運動その他
 このように、紙代の回収率が全体として低かったにもかかわらず、『無産者新聞』が刊行を続け得たのは、一つには数多くの無給社員、あるいは有給であっても当時の労働者の平均賃金よりも低い社員ばかりで、人件費の負担が1ヵ月200〜300円程度でしかなかったことによると同時に、さまざまな形での基金募集によって財政の赤字が埋められたためであった。
 最初に行なわれた基金募集が「保証金自立」を目標とするもので、あまり成果があがらなかったらしいことは既に述べた。しかし、1927年4月の第78号((2)66ページ)で提唱された「基金三千円募集運動」は、締切日の6月30日までに目標を突破し、最終的には3721円44銭を集め((2)122ページ)、部数の増加、紙代回収率の向上とあいまって、『無産者新聞』発展の大きな力となった。週刊から月6回刊への発展、電話の設置、さらには本社事務所の移転などは、この「基金三千円募集運動」の成功によるところが大きい。なお、この計画は、市川正一を中心とする日本共産党の、いわゆる「留守中央常任委員会」によって立案・推進されたものであるという(志賀義雄第九回訊問調書)。
 基金募集運動は、その後も何回か行なわれた。すなわち三・一五事件直後に「無産者新聞を守れ!」を合言葉とした「基金三千円募集運動」、同年6月、弾圧が強化されたのにともない「今後は資本家の印刷所では『無産者新聞』の発行は困難だ、俺達の印刷所を作れ」として、かつてない高額の目標を掲げた「輪転機購入基金五万円募集」、さらに29年1月の発行禁止の判決に対する「新無産者新聞発刊一万円基金募集」などである。
 これらの基金募集の結果は、目標額にはほど遠いものばかりで、実際は基金というより赤字の補填に終っている。しかし、1928年5月から翌年5月までの間に(但し、28年8月、9月、29年1月の3ヵ月は金額不明)総額4352円49銭を集めており(表3参照)、これがなければ『無産者新聞』の発行継続は著しく困難であったことは明らかである。
 基金募集とならんで、『無産者新聞』の財政を支えたのは広告料で、1928年5月〜29年5月(但し3カ月分不明)で4019円79銭に達している。「広告ハ主トシテ書籍ノ広告ニシテ、其ノ料金ハ何レモ一○○円未満ナリ。而シテ其ノ広告主ハ労農書房、資生堂、上野書店、マルクス書房、白揚社、希望閣、同人協会、戦旗社、共生閣、叢文閣、新興科学、弘文堂(東京 京都)等ニシテ、其ノ他左翼劇場、造型美術家協会(昭和3年4月上旬ナップ日本プロレタリア美術家同盟ト合併解体)等モアリ」(『昭和四年中に於ける社会運動の状況』226ページ)。
 最後に、共産党あるいはコミンテルンからの援助について検討しよう。創刊基金のうちその6割にあたる3000円がコミンテルンの援助によるものであったことはすでに述べた。
 経常費については、佐野学の次のような陳述がある。
 三五問 其無産者新聞ノ会計ハ、
 答 会計ノ詳細ハ判リマセヌ。
 党カラノ補助金ハ一ケ月二、三百円位デ総選挙当時ハ三百円位貰ヒ、別ニ臨時ノ費用ヲ五百円支給サレマシタ。之ハ私ガ渡辺君カラ受取リ会計ニ其金ノ出所ハ云ハズニ交付シマシタ。(『現代史資料』20、238ページ)
 なお、1927年当時、経営責任者であった門屋博は、「経営は、私が責任を持っていた時代は、苦るしいながら何とかやりくりして、外からの援助を受けたのはただ一度−佐野学から米貨五百弗(日本金換算1000円足らず)を受け取っただけである」(同氏書簡)と述べている。
 また、『昭和四年中に於ける社会運動の状況』は、「無産者新聞の会計状態」について記述したなかで、つぎのように記している。
 右会計帳簿面ニハ日本共産党支出金ト明記無キモ、昭和三年十一月末市川正一再組織着手後、党ヨリ援助シタル金額ニシテ判明セルモノ次ノ如シ。
 一金参百円(市川ハ三00円乃至四0〇円ト供述)昭和四年一月砂間一良交付(砂間一良供述)
 一金百円(桑江常格供述)昭和四年7月中旬大串某ヨリ桑江常格ニ交付
 いずれにせよ、創刊基金を除けば、コミンテルンや日本共産党からの財政援助は、無産者新聞社の会計全体にとっては、それほど大きな比重を占めていなかったようである。



終刊事情

弾圧の激化

 三・一五事件以後、『無産者新聞』に対する弾圧は日を追って強化された。とりわけ、第三次山東出兵反対、派遣軍の即時撤退、治安維持法改悪反対、田中反動内閣打倒を強くうちだした28年5月、6月にはほとんど毎号のように発禁処分が加えられた。この段階になると、当局の狙いは、特定の記事、個々の主張を取り締るだけでなく、『無産者新聞』そのものの発行を不可能にさせることにあることは明らかであった。
 すでに印刷について述べた際に若干ふれたが、1928年6月2日付の第156号――その一面トップの見出しは「出兵反対 治維法撤廃を叫んで 田中反動内閣を打倒せよ 労働者農民の政府をつくれ!」であった――は、警察の圧力によってこれまで印刷をひきうけていた万朝報、やまと新聞から断わられ、ようやく朝野新聞で印刷にかかったところ、警官が鉛版をこわしてまで、これを阻止しようとしたのである。
 第157号は、この事実を「本紙発行を不能ならしめんと官憲総攻撃を開始、鉛版を破壊し、印刷工場を奪ひ『五署会議』を開いて弾圧を協議」との見出しで報じたあと、次のように述べている。
 奴らのこの様な弾圧はわが無産者新聞ブッつぶしのための計画的行為なる事は明かである。(中略)先日は、警視庁が召集者となつて愛宕署、築地署、日比谷著、北紺屋署、麹町署の五警察署によつて「五署会議」なるものが開かれ、その五署の管内では無産者新聞を始め左翼系新聞一切の印刷を不可能にする事、もしこの申合せに違反して印刷せしめてしまつた署は譴責されると云ふ決議がなされた。その決議にもとづいて愛宕署は二六新聞を威嚇し無産者新聞を印刷しないと云ふ誓約書を出さしめ築地署はやまと新聞社をおどし万朝報社は自ら拒絶して来た。((3)138ページ)
 ついで第158号(28年6月12日付)では、「本社々員又々総検束 弾圧いよいよ暴力化す」としてつぎのように報じている。
 警視庁は今や死物狂ひになつて無産者新聞ぶつゝぶしにかゝて(ママ)ゐる。八日には本社は二回に互つて(ママ)総検を喰ひ、社員を始めその場に居合せた者(新聞を買ひに来た者、リポートを持つてきた者、臨時に手伝ひに来てゐた者まで) 一人残らずさらつて行かれた。新聞社入口にはスパイが監視し、社内は一時奴等のために占領されたが、本社では直ちに新防衛者を組織して再び奪還した。市内の印刷屋といふ印刷屋には「無産者新聞を絶対に刷つてはならぬ」といふ厳重な命令が下つて居り、目ぼしい印刷屋にはスパイが附き切つてゐる。奴等は、新聞を財政的に破綻させることが基金のすばらしい応募によつて不可能なるを見、更に又本紙差押へも全国支局の敏活、巧妙な活動によつて到底困難なるを見、愈々最後の暴力手段に訴へて社員の総検と印刷所占領を以て、新聞発行を事実上不能ならしめんと企てたのである。((3)142ページ)
 その後も「十七日には又々、印刷中の本紙五千部を工場より押収し十八日には本社員二名を入口より検束して編輯部内部の模様、発送、組織、財政の活動状態を云へと強制し拷問を加へた」((3)150ページ)。
 この6月29日には、2ヵ月前の第五五議会で審議未了になっていた治安維持法の改悪が緊急勅令として公布、即日施行されており、7月1日には内務省保安課が拡充強化され、同3日には、特別高等課未設置の全県警察部にこれを設置する勅令が公布されていた。『無産者新聞』に対する弾圧強化は、まさにこうした動きと密接にかかわつていたのである。
 この弾圧がいかに激しいものであったかは、本覆刻を始める際問題となった欠号の多くがこの時期に集中し、また号数などの表記も乱れ、発行状況を容易に確定しえなかった事実に示されている。
 弾圧は、財政状態を悪化させた。とりわけ1928年8月、9月は財政の窮乏が著しく、第170号、第172号、第174号、第176号と1号おきに2ページ建ての発行を余儀なくされている。このため同紙は第173号の一面トップで「無産者新聞を守れ」とよびかけ、「紙代の即時納入を望む」との社告を掲げたのをはじめ、毎号「極度の財政難」打開のため、紙代の納入、基金の応募をよびかける悲痛な訴えを続けている。
 この訴えは、ある程度成果をあげたとみえ、すでに財政のところで述べたように、『無産者新聞』は28年9月以降、紙代収入を増している。8、9、10月と発禁処分が比較的少なかったことは、紙代の回収率を高める上でプラスに作用したであろうし、支出面でも印刷費や発送費の節約を可能にした。
 しかし、この〃小康状態〃も長くは続かなかった。10月25日付の第185号以降、第238号附録の終刊にいたるまで、第192号を除き連続発禁という、合法出版物としてはおそらくあとにもさきにも例のない攻撃がかけられたのである。
 そればかりか、議会で治維法改悪の緊急勅令の事後承諾が議題にのぼった1929年2月、ふたたび弾圧は激化した。社員に対する総検束があいつぎ、さらに印刷所の主人や従業員まで検束され、発禁号はもちろん紙型や鉛版まで奪われるといった事態があいついだ。その状況は、第208号改訂版、第212〜215号、2月22日付号外などで詳しく報じられているが、ここでは、第215号に掲載されている「無新暴圧一覧表」((4)70ページ)を紹介しておこう。
 一、二月十九日警視庁特高課は本社印刷所に対し無産者新聞の印刷を禁止した。
 二、二月十九日夜警視庁特高課の指揮する一隊は本社印刷所を襲撃し本社発送員を総検束し、他の一隊は本社編輯員の自宅を襲ひ検束□し、残らず二十五日乃至二十九日の拘留に付した。
 三、本社事務所、組版所、印刷所は常に数名のスパイによつて監視され出入するものは悉く検束した。
 四、二十八日本社組版所職工四名は築地署に検束された。尚□版所に対し無産者新聞の組版一切を禁止し、これに応せざる時は暴力を以て之を妨害する旨申渡し、その為め□組版所は終に解散するの止むなきに至つた。
 五、三月五日四谷署特高課は数名の官憲を以て本社発送所を襲撃し、発送員四名を検束し、更に一隊は本社神田印刷所を家宅捜索し、鉛版八枚を押収、主人を検束した。
 六、三月十三日警視庁特高課は東京全府下の警察署に指令し,印刷所製版所を一斉に検査し、家宅捜索□脅迫、買収等によつて(一)無産者新聞、労働農民新聞労働新聞を印刷せざる事、申込ありたる時は直に警察に密告する事(二)三月十五日に関するビラ伝単ポスターの類を印刷せざる事等を申渡した。
 七、三月十四日午後七時本社小石川印刷所を襲つたが本紙二百十三号は既に発送の後なる為め空しく引上げた。
 八、三月十四日午後七時半、戸塚署官憲十数名は本社早稲田製版所を襲撃し、十五日『血の三・一五紀□号」(赤刷)の紙型四枚鉛版四枚及び写□版を強奪した。
 九、十五日午前十時即夜再編輯した十五日号の紙型□早稲田附近街上に於て押収された。
 十、同日は東京全府下の印刷所製版所を一時間隔に張り込んでゐた。
 このあと4月16日には、いわゆる四・一六事件によつて編集関係者がほとんど全員逮捕され、『無産者新聞』は大きな打撃を受けた。
 発行禁止の判決と終刊
 このような、法律の規定さえ無視し、暴力を伴った直接的な弾圧と並行して、『無産者新聞』の発行を法的に禁止する手続きが進められていた。1928年8月15日、すでに逮捕されていた『無産者新聞』の発行名義人、編輯名義人の関根悦郎を新聞紙法違反で起訴したのである。この起訴手続は秘密裡に進められていたので、『無産者新聞』がこの事実を知って、「突如本紙に発行禁止の陰謀」「発行禁止の弾圧下にある無産者新聞を守れ!」と報じたのは、公判開始直前の同年11月25日付((3)259ページ)のことであった。
 起訴理由とされたのは、すでに発行後1年半近くたっていた1927年4月9日付の「学聯事件」の報道、さらには関根が逮捕された後に発行された第142号、第151号、第15二号、第159号、第165号が「執レモ安寧秩序ヲ紊ルベキ事項」だというにあった。判決は、一審が19二9年1月二6日、控訴審が同7月16日にあり、いずれも有罪であった。一審は、関根に対し360円の罰金、控訴審では160円の罰金、ともに『無産者新聞』の発行禁止を命じていた。つぎは、その判決の全文である(『昭和四年中における社会運動の状況』205〜213ページ。誤植は多いが原文のままとし、文意不明の個所のみ〔 〕で補正した)。

〔第一審〕 判決
 本籍 群馬県佐波郡玉村町大字角淵二千二百三番地
 住居 東京府豊多摩郡戸塚町大字下戸塚五百八番地
               新聞記者 関根悦郎
                   当二十九年
 右新聞紙法違反被告事件ニ付検事大石一郎関与判決スルコト左ノ如シ
  主 文
被告人ヲ第一ノ罪ニ付キ発行人トシテ罰金八拾円ニ編輯人トシテ罰金八拾円ニ第二ノ罪ニ付発行人トシテ罰金百円ニ編輯人トシテ罰金百円ニ処ス
右罰金ヲ完納スルコト能ハザルトキハ何レモ一日弐円ノ割合ニテ被告人ヲ労役場ニ留置ス
無産者新聞ノ発行ヲ禁止ス
  理 由
被告人ハ日本共産党ノ機関紙ニシテ無産者新聞社ニ於テ発行スル所ノ新聞紙無産者新聞ノ発行人兼編輯人ナル処
 第一 昭和二年四月九日附同新聞紙第七十七号第二面ニ「法廷に戦ふ学生三十八名、治安維持法の犠牲、京都公判廷を戦場として堂々と民衆の前に専制支配を曝露す、公判公開を要求せよ」ナル標題ノ下ニ同月四日ヨリ京都地方裁判所ニ於テ開廷セラレタル学生社会科学聯合会事件ノ公判ノ状況ヲ批判的ニ報導スルニ当リ
一「お前と呼ふなら審問に応せぬ、階級差別の裁判官に抗議、数知れぬ民衆がこの目に遭ふた」ナル見出ノ下ニ
 「公判第一日目より裁判長の質問を契機として予審廷、検事廷に於ける詐欺偽瞞を曝露し裁判長が如何に頼むに足らぬかを曝露しつゝあつた学生達は遂に第二日目より益〔々〕攻勢に転じ云云裁判長は病弱なる被告学生の一人を起立させ病弱につけ込んで重大なる審問を行つた剰へ『お前は』など差別的言辞を弄した云云、今迄全民衆に対して裁判官はいつもこうした階級的偏見差別を以て取扱ひ些末なる事実が針小棒大に取扱はれたり或は裁かれざる前からこうした偏見と差別観念とを以てのぞむ裁判官の間〔為〕に暗から暗と多くの無産者は獄に投ぜられたのである云云」ト
二「被告学生の勇敢なる曝露戦、我等はマルキシストだ、我等の行動は合法だ云云」ナル見出ノ下ニ
 「被告学生等は公判廷に於て彼等自身マルクス主義者であることを明瞭に主張してゐる云云彼等の為した行為が斯くも合法的であり正々堂々たるものであつたにも拘はらず裁判官が予審廷に於てまた検事局に於て如何に隠謀をたくましふして被告を陥入たるかを具体的に曝露しつゝあるかくてまた所謂公平なる公判がしたかつて公判廷に於ける裁判官諸君が実は専制的なブルジョア階級支配の手先に過ぎぬものである事彼等の欺瞞的な思想的態度が実は最も有効に支配階級の政策を裁判廷に於て遂行せんとする政治家としての彼等裁判官の正体を曝露しつゝある云々」ト
三「理論を無理に事実と結びつける 経験浅き者に根本問題中心分子に事実の審問」ナル小見出ノ下ニ
 「裁判官は如何なる戦略戦術を以て公判廷に臨んでゐるか彼等は学生事件に対して唯単に学生のある行為に対して忠実に杓子定規的に治安維持法を適用せんとするのではなく全支配階級の代表者として無産階級運動を弾圧する階級闘争の戦士として公判廷に表はれて来た、だから彼等の企図は単に事件それ自身の審理にのみ局限されるものではなく彼等は支配階級の全線的攻撃の一分野として又彼等の攻撃展開の一契機として裁判廷に臨んで来た彼等は検事局に於てなした如く法廷に於てもあらゆる詐欺脅嚇懐柔の奸手段を弄して学生中の比較的経験の浅い者に根本的尋問をなしマルクス主義とは何だといふ事を理論的に語らせ次に所謂中心分子には単に事実の訊問に止めテーゼニユースの作成協議に関する具体的行為を白状させてこの両名をコジツケ的に結びつけ云々学生に対して思想的であるかの如き態度を示す学生の或者に其文〔父〕が未決中に死去した事を故意に思ひ起させ激情して法廷で慟哭するや『それは気の毒だつたね』と恩愛的な仮面を装ふ云々公開中に於て事実調をやり理論的な訊問は傍聴を禁止して置いて被告等が如何にも恐るべき陰謀をなしたかの如く虚構する云云」ト掲載シ即チ裁判官ハ支配階級ノ手先トシテ一般民衆ニ対シ階級的偏見差別ヲ以テ臨ミ公判廷ニ於テ政治家トシテブルジョア支配階級ノ政策ヲ遂行シ無産階級運動ヲ弾圧スル階級闘争ノ戦士トシテ公判廷ニ於テ総テノ詐欺脅嚇懐柔ノ奸策ヲ弄スルモノナリト做シ以テ安寧秩序ヲ紊ルヘキ事項ヲ掲載シ
 第二 犯意継続シテ
 一 昭和三年三月二十三日発行同新聞紙第百四十二号第一頁社説ニ「共産党を守れ」ノ標題ノ下ニ「労働者農民諸君云々万国の資本家地主階級と其の政府は共産党を叩きつぶす事を一瞬時も止めた事はない云々何故かプロレタリアートの世界党たる第三インターナショナルとは資本家地主階級の最もおそるべき敵であるからだ共産党は資本主義私有財産制度を××し一切の貧困と隷属の根源を××するための労働階級の指導的頭部であり最強固の前衛であるからだ云云資本家地主階級は共産党を打倒する間に一切の行政機関やブル新聞や教育機関を総動員して捏造逆宣伝を試み奴等の偽瞞だらけの愛国主義をふりまくのだ、労働者農民は決して欺かれてはならぬ労働者農民は資本家地主階級の国際的協力をハッキリと見よプロレタリアートに国境はない、万国のプロレタリアートは団結せよ、労働者農民諸君は万国の労働者農民諸君と提携協力せよ而してプロレタリアートの輝かしき誇りであるプロレタリアートの頭部共産党を守れプロレタリアの世界党にして万国の労働者農民運動の指導者第三インターナショナルを守れ、すべての工場すべての農村に於て労働者農民大衆は大衆的力を以て頑強に共産党を守らねばならぬ 若しもこの道を進まず階級と階級との対立を忘れて資本家地主のペテン通りに「国民」と云ふ言葉にだまされたならば労働者農民の解放は永久に失はれるであらう労働者農民の生活は益々貧困と隷属につき落されるであらう共産党事件こそは本質的に資本家地主階級の労働者農民階級に対する突撃である。共産党を守れ、犠牲者即時釈放要求の運動を起せ」ト掲載シ
 二 昭和三年五月十日発行同新聞紙第百五十一号第一頁ニ「派遣軍の即時撤退を要求せよ一銭の戦費も負担するな」ナル標題ノ下ニ
 「全国の労働者農民無産青年竝びに兵士諸君云々資本家地主の階級以外に何等利益するものなきこの山東出兵に断乎として反対せよ云々、金属産業の労働者は支那の兄弟を殺すための武器なんか断じて製作するな、交通運輸の労働者は一人の兵隊一つの武器も支那に送るな、全労働者諸君は出兵反対のストライキを決行せよ、無産青年並に兵士諸君は支那に行くな全労働者農民は一文の出兵費も出すな、如何なる種類の対支干渉にも絶対反対せよ云々」ト掲載シ
 三 昭和三年五月十五日発行同新聞紙第百五十二号第一頁ニ「即時戦争反対同盟を組織して戦へ、帝国主義戦争反対だ対支絶対非干渉だ」ナル標題ノ下ニ「云々労働者と農民の国ソビエツトロシヤはかゝる全世界の帝国主義的狼共の中に決然と立つて今日迄よく帝国主義戦争、一部少数資本家地主の利権獲得拡大の為に全国全世界の労働者農民にぼう大な戦費を負担させ働き盛りの労農青年を犠牲とする侵略戦争を阻止し「平和政策を以て戦つて来たのだ全世界労農大衆も之に応じて底力ある戦争反対の大衆行動で戦つて来たのだ今や再び労農大衆を犠牲とする戦争の危機が迫りつゝある、対支出兵の費用は今日既に四千万円を突破せんとしてゐる云々その費用は一体誰が負担するのだ戦争の犠牲には一体誰がなるのかみんな労農大衆だその揚句の利権はみんな資本家と地主の独占だ、労農大衆にとつては搾取と死以外の何物でもないことだけは明かである労働者農民は工場に坑山に農村に即時帝国主義戦争反対対支非干渉運動を全国に捲き起せ云々ソビエツトロシヤを守れ、日支労農団結万歳」「労働者農民は戦費負担を拒絶しろ、政府によつて支出された支那出兵費四千万円」なる標題の下に「云々労働者農民無産市民諸君諸君の生活が何をしても苦しいのはこんな莫大な負担がかかつてゐるからだ。
 予算総額の約半分にも達する巨大なる金額を軍事費に搾られるのだから生活が楽になる筈がないのだ。
 労働者.農民、無産市民諸君は一斉に起つて軍事費(戦争費)負担を拒絶しろ」社説トシテ同頁ニ「戦争反対同盟を作れ」ナル標題ノ下ニ「兼ねてより支那の武力奪取の機を伺つてゐた日本帝国主義のお先棒田中大将内閣は五月四日の所謂「清南事件」を口実として九月第三師団に動員令を下し云々
 四、云々だが支那国民革命の発展は第一に世界帝国主義の危機特に日本帝国主義の危機を導くと同時に支那労働者農民の革命的発展を招来する、故に我等日本の労働者農民は戦争反対と対支非干渉の間に資本家と地主とに徹底的に抗争しなければならぬこの闘争なくして労働者農民の解放はあり得ない云々。既に今回の出兵に伴ふて幾多の悲劇が起つてゐる。七十二才になる静岡県の一老人は妊娠せる妻と二人の子供と中風症で足腰の立たぬ自分を残して大砲の餌食になりに行く息子を悲しんで自殺したブルジョア新聞は之を「死をもつて出征兵士を励ました」戦争「美談」としてさかんに噺し立てゝゐる、だが唯一の働き手を奪はれ悲嘆の余り自殺したこの何処に「美談」があるのだ我はかゝる偽瞞と徹底的に戦ひ戦争反対の宣伝を忍耐強く組織的になさねばならぬ」ト掲載シ
 四 昭和三年六月十七日発行同新聞紙第百五十九号第一頁に「日本の対支出兵に関し万国の労働者農民に檄す、支那革命圧殺のため一人の兵士も送るなとコミンテル執行委員会ナル標題ノ下ニ「云云日本によつて始められたこの掠奪戦争はすべての被圧迫民衆を犠牲とする所の列強帝国主義の殖民地再分割のための血醒き世界戦争へ発展する可能を充分に有してゐる。この破綻を予防し得るものは国際プロレタリアートと殖民地被圧迫民族との英雄的結合をおいて他に何ものもない云云日本の労働者農民兵士諸君支那民衆の頭上に振りかざされた日本帝国主義の銃剣を引き止めるべき最初の革命的義務は実に諸君の双肩にかゝつてゐるのだ云云、支那民衆を虐殺する新しき軍隊の銃器の輸送を大衆闘争の力によつて拒め新しき強盗的出兵の性質を曝露し全力をあげて出征兵士を支那×の同盟者たらしめ日本資本主義××の忠実なる戦士たらしめよ田中の軍隊の兵士諸君この最高独裁官こそは諸君の階級の最悪の敵であり全日本の労働者農民を踏みにぢつて諸君の兄弟と父達とを牢獄につなぎ諸君の妻と子を侮辱したその男であることを思ひ起せ云云」ト掲載シ
 五 昭和三年七月十五日発行同新聞紙第百六十五号第四頁ニ「手中の武器は俺連の為に××一兵卒」ナル標題ノ下ニ「俺は××の兵営に居る兵卒だ毎日毎日あの巧妙な、兇暴な殺人機を持ち廻して××技術を練りそして無智柔順なる而して忠実なる軍国主義者たらん事を強制されてゐる、而も先に三・一五事件に依つて俺達の同志を殆ど奪ひ去つた政府は今又死刑無期及狂暴なる警察網によつてすべての俺達の同志を奪ひ去らんとしてゐる。(ママ)事を俺は知つてゐる。そればかりではない戦争の準備が着々と行はれてゐることも皆知つてゐるそれは俺達の新聞無産者新聞のみが俺達にその事を知らせ軍国主義の××を救つて呉れてゐるからだ又無産者新聞が如何に勇敢にして然も奇蹟的に戦ひぬいてゐるかと云ふことについては心から喜ばずには居られないのだ。全国の同志諸兄よ此時俺達××は俺達の手中にある××を如何に動かす決心が必要かは云ふ迄もない、ハンマーを握り鋤鍬を打振る全国の兄弟に彼奴等の牙城たる支那にも既に××の力が侵入してゐるのだ前衛は奪はれても決して悲しむな受難期が何だこの受難期こそ俺達を第二の前衛として鍛へしめるのだ最後迄我等が×赤き旗の下に決死の誓愈ゝ固く俺は××を携へていつか同志と戦線に見ゆることを期して××の技術の練磨に精進する」ト掲載シ即孰レモ安寧秩序ヲ紊ルベキ事項ヲ掲載シタリ
以上ノ事実ノ中無産者新聞が日本共産党ノ機関紙ナルコトハ門屋博ノ聴取書ニ其旨ノ供述記載アルニヨリ被告人が無産者新聞ノ発行人兼編輯人ナルコトハ被告人ノ当公廷ニ於ケル自認ニヨリ同新聞紙ニ判示ノ事項ヲ掲載シタルコトハ押収ノ無産者新聞ニヨツテ各之ヲ認ム而シテ其ノ事項が安寧秩序ヲ紊ルベキモノナルコトハ判示ノ文言ニヨリテ明ナリトス又犯意継続ノ点ハ短期間ニ同種犯罪ノ累行アルニ徴徹シテ之ヲ認ムベシ
法律ニ照スニ第一ノ罪ハ新聞紙法第四十一條ニ第二ノ罪ハ同法第四十一條刑法第五十五條ニ該ルヲ以テ何レモ罰金刑ヲ選択シ新聞紙法第四十四條ニ則リ各罰金刑ヲ併科シテ処断シ刑法十八條ニヨリ労役場留置期間ヲ定ムベク而シテ判示ノ如キ主張ニ利用セラル、環境ニ在ル所ノ無産者新聞ハ新聞紙法第四十三條ニ∃リ其発行ヲ禁止スルヲ相当トス
 依テ主文ノ如ク判決ス
   昭和四年一月二十六日
    東京区裁判所         判事 土屋忠右衛門
〔控訴審〕 判 決
     本籍 群馬県佐波郡玉村町大字角淵二千二百三番地
     住所 東京府豊多摩郡戸塚町大字下戸塚五百八番地
                   新聞記者 関根悦郎
                       当二十九年
 右ノ者ニ対スル新聞紙法違反被告事件ニ付東京区裁判所カ昭和四年一月二十六日言渡シタル有罪判決ニ対シ被告人ハ適法ノ控訴中立ヲ為シ又検事ハ附帯控訴ヲ為シタルニ依リ当裁判所ハ検事大石一郎関与ノ上更ニ審理ヲ遂ケ判決スルコト左ノ如シ
  主 文
 被告人ヲ原審判決中第一ノ項ノ罪ニ付発行人並編輯人トシテ各罰金八拾円ニ夫々処ス
 右罰金ヲ完納スルコト能ハサルトキハ一日ヲ金二円ニ換算シタル期間被告人ヲ労役場ニ留置ス
 無産者新聞ノ発行ヲ禁止ス
 訴訟費用ハ被告人ノ負担トス
  理 由
 被告人ハ無産者新聞ト題スル新聞紙ノ発行人兼編輯人ナルトコロ事件ハ第一審判決中第一竝第二トシテ判示セラレタルカ如ク右新聞紙ニ安寧秩序ヲ紊ス事項ヲ掲載シタルモノナリ
 証拠ヲ案スルニ被告人ガ判示無産者新聞ノ発行人兼編輯人ナルコトハ被告人ノ当公廷ニ於テ自認セルトコロニシテ押収ニ係ル新聞紙(昭和四年押第四二一号ノ一乃至六)ニハ無産者新聞ト題号ヲ附シ其ノ題号ノ欄下ニ発行人並編輯人トシテ被告人ノ氏名ヲ表示シ其ノ記事欄ニハ判示ニ照応スル文言ノ記事掲載セラレタルニ徴スレハ如上判示事実ハ皆テ其ノ証明アリタルモノトス
 法ニ照スニ被告人ノ判示所為中発行人兼編輯人トシテ原審判決中第一項ノ如ク新聞紙ニ安寧秩序ヲ紊ル事項ヲ掲載シタル点ハ新聞紙法第四十一條ニ各該当シ同第二ノ項ノ如ク犯意ヲ継続シテ同様事項ノ掲載ヲ為シタル点ハ新聞紙法第四十一條刑法第五十五條ニ各該当スルトコロ右ハ夫々罰金刑を選択シ被告人ヲ発行人竝編輯人トシテ処断スルニ付テハ新聞紙法第四十四條ニ則リ其ノ個別ニ従ヒ、刑ヲ量定併科スヘク罰金ヲ完納スルコト能ハサルトキ被告人ヲ労役場ニ留置スヘキ期間ハ刑法第十八條ヲ適用シテ之ヲ定メ判示無産者新聞ハ新聞紙法第四十三條第四十一條ニ依リ其ノ発行ヲ禁止スルヲ相当トス弁護人ハ被告人カ原審判決中第二ノ項ノ記事掲載アリタル当時官憲ノ拘禁ヲ受ケ居タル旨ヲ以テ被告人ニハ右ノ記事ニ対スル刑事上ノ責任無キコトヲ主張スレトモ所論拘禁ノ事実ノ被告人ニ対シ同人ヲ発行人兼編輯人トスル新聞紙ノ記事ニ付其ノ刑責ヲ免脱乃至軽減セシムヘキモノニアラス仍テ刑事訴訟法第二百三十七條第一項ニ則リ訴訟費用ヲ全部被告人ノ負担ト定メ主文ノ如ク判決ス
     昭和四年七月十六日
      東京地方裁判所第三刑事部
                   裁判長判事 島   保
                      判事 西村義太郎
                      判事 八木田政雄

 一審の判決前から、発行禁止命令が出されることは予測されていた。そして、その場合には控訴、上告で時間をかせぎ、その間に準備を進め「第二、第三の無新」の発行で応えるとの方針が出されていた(「本紙の運命は?気遣はれる読者諸君に答ふ」(3)270ページ)。
 この方針にもとづいて一審判決後、大山郁夫、山本宣治、河上肇ら九人の個人と全国農民組合、戦争反対同盟など8団体で「新無産者新聞発刊発起人会」が組織され、「日刊新無新」の発刊をよびかけ、「発起人会ニュース」を発行して、基金一万円募集運動などを開始した。
 控訴審での有罪判決に対し、関根はいったん上告したが、29年8月10日これをとりさげ、発行禁止の判決は確定した。この上告とりさげについて、関根は「上部の指令などを受けたわけではなく、これ以上争っても無駄だと考え、桑江常格と相談して決めた」と述べている(同氏談)。一方、『出版警察報』第13号所収の「第二無産者新聞の創刊と其の準備闘争に就て」と題する論稿(当研究所『資料室報』第22四号に再録)には、本社から各支局長にあてた檄文のなかで、この「取下げ」を、関根の「真実の意志」ではなく、大山郁夫らの新労農党樹立の動きと関連させ、そこに「一連の裏切者の策動がなかつたと誰へか保証し得やう?」と述べていることが記されている。
 いずれにせよ、『無産者新聞』は29年8月20日付、第238号附録(終刊の辞では第239号ともよんでいる)を赤刷で出し、同8月25日には正式に廃刊届を提出した。
 『第二無産者新聞』は予定の9月5日より若干おくれ、9月9日に創刊号を発行した。『第二無産者新聞』も当初は保証金を納め、正式の発行届を提出し、合法紙としての形式をとっていたが、保証金の利子が支払われなかったため、同年12月出資者岡村サダから廃刊届が提出された。このため、第9号以降は、完全な非合法紙となり、『赤旗』への併合のため1932年3月31日付第96号で廃刊されるまで、2年半にわたって発行された。なお、『第二無産者新聞』も、本シリーズの1巻としていずれ覆刻の予定である。



号数確定の根拠について

 はじめに述べたように、本書は、『無産者新聞』全238号のほぼ完全な覆刻である。号外等に一部未発見のものを残すが、本紙については全く欠号のないものになったと考える。ここでその根拠を説明しておきたい。
 当初、われわれは、第1分冊の「まえがき」に記したように、第130号、第155号、第211号については、「未発見」であるが、「号数のつけまちがいによる飛び番の疑いがこい」上に、「今後発見される可能性も少ない」と考えた。また、他にも第153号と第15四号は前者が第四面のみ、後者が第一面のみが同じ用紙の表裏に刷られていること、第152号、第208号は伏字の改訂版のみが残されているに過ぎないことも問題であった。
 しかし、その後の調査によって、まず第130号と第211号は号数のつけ間違いによる飛び番であることが明らかになった。
 すなわち、第130号の場合は、1928年2月5日付の第129号と表記されているものが、実際は第130号であることが、第131号第2面(本覆刻版(3)40ページ)に「前号二十九号とあるは三十号の誤植につき訂正します」との訂正記事によって確認された。そうなると、第129号が欠号ということになるが、これは第128号に無削除版と伏字版の2種類があり、後者は号数の「百二十八」を「百二十九」に、日付の「二月一日」を「二月三日」に直した形跡があり、これが第129号であると判断した。
 また第211号の場合は、第212号と表記されているものが第211号であり、第213号と表記されているものが第212号、第214号と表記されているものは第213号と第214号の合併号であることがわかつた(覆刻版(4)63ページおよび70ページ参照)。
 残された問題は、第155号の欠号、不完全な第153号と第154号、さらに第152号、第208号の無削除版の欠如であった。これは、東京大学経済学部図書室所蔵本のなかに、無産者新聞関係者が所蔵していたと思われるものを発見したことによって、いっきょに解決した。
 すなわち、残された唯一の欠号であった第155号は、これまで第156号とみなしていた1928年5月26日付のもの(第二面のみ第155号と記され、第一、三、四面は第156号と記されている)であることが、同年6月2日付の第156号を発見したことによって明らかになった。同時に、同年6月3日付号外がこの6月2日付第156号の伏字版であることも判明した。また、これまで、「印刷終了と同時に全部押収」(3)123ページ)と明記されていた第152号、「印刷中、二十日号全部、紙型、鉛版まで強奪」((4)49ページ)と報道されていた第208号の、それぞれ無削除版も、この東大経済学部図書室の所蔵紙のなかに含まれていた。なお、これには小宅という印が押されており、はじめは警察の検閲関係者が持っていたものかと考え調査したが、該当者を見出しえなかった。しかしその後、発送部に小宅柳一という少年がいたことが明らかとなった。おそらくその旧蔵のものであったと思われる。
 第153号と第154号の問題については、つぎのような理由から、第一面の第一5四号という表記が正しく、裏面の第一5三号(四)は第154号(二)の誤りと判断した。
 『無産者新聞』は、発禁・押収処分を受けたもののうち、7号分について、その発禁事由となった記事の活字をつぶし、あるいは削るなどして伏字にした「改訂版」を発行している。すなわち、第35号は第34号の、第51号は第50号の、第115号は第114号の、第129号は第128号のそれぞれ伏字版である。見られるとおり、いずれも「改訂版」は号数を改めている。ところが、第152号改訂版の場合は、何故かこれが行なわれていない。直し忘れたか、直す余裕がなかったか、あるいは第152号が印刷終了と同時に全部押収され、同日付で改訂版を発行したため意識的にそのままとしたか、いずれかであろう。しかし、第152号、同改訂版はともに1928年5月15日付であるのに対し、第一54号(一)、第一53号(4)と表記されているものは同年5月20日付であるから、第154号(1)、第153号(4)は、ともに第152号に直接続くものであることは明らかである。したがって、第一54号(一)という表記は、第152号改訂版を第153号であるとみなしたことによると考えられる。第153号(4)は広告を主とした紙面であるから、第152号発行直後に、これに続く第153号として組版されていたのをそのまま改めることなく印刷したものと思われる。おそらく、当初は4ページ建てで準備が進められていたものを、弾圧のため第2面、第三面は間に合わず、急遽二ページ建てにして発行したのであろう。
 なお、推測にすぎないが、このようにすべて押収された号の改訂版の場合、号数を改めるべきか否かについて、編輯部でもはっきり決めかねたこともあるのではないか。だから、次に第156号の改訂版を発行した際、これを第157号とも、また第156号改訂版ともせず、号外という変則的な処理をしたのではなかろうか。
 また第208号の場合も、号数を改めることなく、日付のみ変えて改訂版を発行している。注目されるのは、この改訂版が、他の場合のように発禁該当記事を削除しただけのものではなく、4ページ建ての20日号からいくつかの記事をひろい、新たに25日付にして2ページ建てに組み直したもので、社説は「全農大会と左翼の任務」から「全農大会に際して戦闘的農民諸君に寄す」に書き改められている。第211号が飛び番となったのは、この第208号改訂版を第209号とし、以下1号ずつくり下げようとしたためであったとも考えられる。
 なお号数・発行日に限っていえば、第11号2面の「第十□号」、第163号2面の「第百六十□号」のような脱字や、第22・23両号の April をMarch としたようなミスが散見されるほか、1928年の第164〜193号には、面により号数・発行日の表示にくいちがいがみられる(表4)。これも、絶えず発禁・押収処分を受け、編輯者・印刷担当者らがしばしば検挙・検束されたことから生じた混乱であろう。そうした号数・発行日の強いられた調整をさけるためでもあろうか、タブロイド判になった第216号以降は、一面以外の上段欄外には紙名・号数・発行日等を入れなくなり、第222号からは紙名さえそこからはずしている。なかでも、第217号は「昭和四年四月」とだけあって日付がなく、第218号に至っては、号数・発行日が紙面のどこにも表記されていない。したがって覆刻にあたっては前後の関係と記事内容からそれぞれ確定したものである。
 また、終刊号は一面上段欄外では昭和四年8月二0日付、第二百三十8号附録となっているが、「終刊の辞」においては「本紙はいよいよ今第二百三十九号を以て終刊号とする」と述べている。事実、この号は第238号とは全く別箇に発行されたもので、形式的にも、内容的にも第239号と呼ぶ方がふさわしいと思われる。ただ、一般に終刊号は第238号附録として知られており、不必要な混乱を避けるため、本覆刻の目次、見出し等でも第238号附録と表記した。
 ところで、問題は、号外、附録、特別号等の発行状況である。本紙の場合には一応、号数、発行日等を手がかりにして発行の有無を確かめることが可能であるが、これらの場合には、そうした手がかりに乏しいからである。本覆刻では、号外については当研究所所蔵の15点のほか、日本共産党党史資料室より8点、東京大学経済学部図書室より5点、同志社大学文学部社会学科研究室より1点、慶応大学三田情報センターより1点を借用し、全部で30点、その他特別号2号、附録1点を収めることができた。しかし、第78号の附録、1927年6月10日付の号外など、本紙の記事から発行されたことを確認できる((2)、66ページ、102ページ参照)が、現在までその現物は発見しえないでいる。
 この他、支局が無断で号外を発行し、本社は未納本等の責任が本社にかかってくるとしてこれを禁ずる通達を出した事実がある(『出版警察報』第4号、10〜11ページ)。おそらくその種の号外の一つと思われるものが、『司法研究』第十四輯中の伊藤信道「出版法と新聞紙に就て」のなかに引用されている。なお、いくつかの支局は「支局ニュース」を発行しており、当研究所にも東京の中野支局などの「支局ニュース」が残されている。



発禁号の特定

 最後に、『無産者新聞』のどの号が発売頒布禁止、いわゆる「発禁」になつたかを検討しておこう。
 まず発禁処分の総回数であるが、これは『無新』廃刊直後の、『出版警察報』第13号「思想関係主要新聞雑誌通信調」(1929年9月末現在)に、創刊以来の禁止回数が111回、注意が6回であることが記されている。この数字に全く疑問がないわけではないが、一応信頼してよいであろう。
 しかし、具体的にどの号が発禁処分を受けたか特定することは必ずしも容易ではない。とくに号外の場合は不明のものが多い。
 一般に、新聞や雑誌の発禁について調べる上で参考になるのは、明治・大正期については斎藤昌三『現代筆禍文献大年表』(粋古堂、1932年)、昭和期については小田切秀雄、福岡井吉『昭和書籍雑誌新聞発禁年表』上中下全3巻(明治文献、1965〜1967年)である。この日本社会運動史料のシリーズでの発禁表示は、この二書に負うところが大きい。
 しかし、この二つの年表に記載されている『無産者新聞』の発禁は、総計で76回であり、35回分が不明である。これは、年表作成の基礎となる資料が敗戦の際に湮滅されたりして不備であることによるものである。この欠を埋めるものは、第一に社告など、『無産者新聞』の紙面に発表された記事である。ついで『出版警察報』」各号に掲載された『無産者新聞』の活動に対する調査論文など、さらに『法律戦線』第9巻第7号に発表された「無産者新聞発禁史」がある。
 以下、年次を追って、これらの諸資料を照合しながら、発禁号を出来る限り特定してみよう。
 まず1925(大正14)年は、全部で8号刊行したうち、発禁は第2号と第4号の2回であった。この点は諸資料が一致しているので、ほぼ確実と考えられる。
 ついで、1926(大正15・昭和元)年は、第12号、第34号、第50号の3号については、斎藤年表のほか、本紙の社告等から確認しうる。「無産者新聞発禁史」によれば、この年には、「発禁もわずかに3回にすぎなかつた」という。この論文の筆者や依拠したデータは不明だが、本紙の社告等だけではわからない発禁理由も明記しており、無新の関係者が書いた可能性が高く、ある程度信頼してよいのではないかと思われる。
 問題は、次の1927(昭和2)年である。『昭和発禁年表』は、この年は基礎資料が不備で、7月から10月までは単行書のみ、11月と12月は単行書と雑誌についてのみ記載しているに過ぎない。このため、『年表』で確認できるのは、77号、78号、79号、85号の4号と6月2日付の号外の計5点だけである。一方、「発禁史」では上記のうち、6月2日付号外は記載されておらず、そのかわり、101号、105号、106号、109号、114号、119号があり、総数で10点に達している。本紙の社告等では、以上の各号は6月2日付号外以外いずれも発禁になったことが明示されているだけでなく、112号と9月25日付号外が禁止になったことがわかる。結局、この年は、13点の禁止を特定することができる。この時期、『無産者新聞』は発禁に対し積極的に抗議する態度をとっており、本紙についての発禁は上記のものだけであるかもしれない。しかし、号外については、「軍隊を即時召還せよ」との6月1日付のもの、朝鮮共産党事件での拷問を報じた10月29日付のものなどは、発禁であった可能性が高いと思われる。なお、『昭和発禁年表』に記載されている6月2日付号外は、まだ現物を見出していないが、6月1日付の号外の誤記であるとも考えられる。
 三・一五事件の年、1928(昭和3)年になると発禁は急増する。同年中の発禁総数を、『出版警察報』第4号の論稿は、つぎのように記している。「昭和三年度に於ける発行回数八十三回に対して禁止回数四十四回の多きを数ふる……。」ただし、同第10号では、これとは異なってつぎのように述べている。「昭和三年は発行数七六回に対し、中禁止せられたるもの二七回、又号外の禁止八回に及び……。」この27回というのは、明らかに誤りで、37回の誤植と思われる。しかし、そうなると合計は45回で、前者の数より1回だけ多くなる。
 ところで、この年の前半も(5月まで)『昭和発禁年表』は不備で、記載されているのは単行書と雑誌のみである。しかし、「発禁史」は、ちょうどこの時期を埋めるように、1月から9月までの発禁を記録している。さらに、この年の10月に創刊された『出版警察報』には、9月以降の発禁が、本紙だけでなく号外までふくめて記録されており、これ以後の発禁は、かなりの確実さで特定することができる。
 9月以前を「発禁史」、9月以降を『出版警察報』各号の「禁止要項」によってみると、本紙については、次の37回が禁止処分を受けた号である。
 122号、128号、132号、135号、136号、142号、143号、144号、146号、147号、149号、150号、151号、152号、156号、157号、158号、159号、160号、165号、166号、168号、175号、179号、185号、186号、187号、188号、189号、190号、191号、193号、194号、195号、196号、197号。
 問題は第183号で、『出版警察報』には記録されていないが、第184号に((3)236ページ)、「本紙前号発売禁止」と明記されている。『出版警察報』は月報であるから、原稿作成の過程で脱落がありうるが、『無産者新聞』が発禁でなかったものを「前号発売禁止」と記すことは考えられない。これを加えた38回が1928年中における本紙の発禁回数と考えられる。
 本紙以外では、12月24日付の特別号と12月30日付の号外が発禁であったことが『出版警察報』によって確認できる。ただ、さきに引用したように、1928年中には号外だけで8回の禁止処分を受けている。また、「昭和四年中に於ける社会運動の状況」では、三・一五事件以後28年12月末までの発禁回数を、38回、そのうち号外6回と記している(130ページ)。したがって、三・一五事件前に号外だけで2回禁止されていたことになる。内容からみれば、2月17日付、2月19日付がそれに該当するのではないかと思われる。また、この号外の発禁8回のなかに特別号が含まれているか否か不明だが、もし含まれていれば、三・一五事件以後であと4回、含まれていなければ5回、号外の発禁が特定しえていないことになる。内容からみれば、4月12日付、5月10日付、5月21日付、7月4日付のものが禁止であった可能性が大きい。
 1929(昭和4)年になると、ほとんど全号が発禁になっている。この年については、発禁だけでなく、各号の差押部数もわかっている(表5)。
 この表にあがっていないのは、第204号と第211号だけである。第211号が飛び番で発行されていないことについては既に述べた。また、第204号は、『出版警察報』の発禁リストにはふくまれている。『出版警察報』の発禁リストには、第203号と第228号が洩れているが、これは誤って脱落したものであろう。なお、『社会運動の状況』によれば、昭和4年中には号外4回、附録1回が発禁処分を受けたことになっている(221ページ)。上記の一覧表では、号外の発禁は3回だけであるから、あと1回号外の発禁があったことになる。
 以上、発禁を特定しえたのは、1925年の2回、26年の3回、27年の13回、28年の40回、29年の45回の計103回である。もし、総数111回という数に誤りがなければ結局、8回が特定できずに残されている。ただ、すでに見たように、そのほとんどは号外で、1929年が1回、1928年が6回、1927年が1、2回程度と考えられる。


                       

〔追 記〕

 本解題は1976年8月、筆者が海外留学のため日本を離れる直前に一応書き終えたのであるが、「無産者新聞の人々」のうち西山武一、高橋勝之、鈴木安蔵、小山宗、山下初の諸氏に関する部分は時間切れで充分調査できなかったため、松尾洋氏をわずらわして加筆補正をお願いした。当初、本解題をふくむ第4分冊は1977年中に刊行の予定であったが、索引の作成に予想以上の日時を要したため今日にいたった。この間、本解題を当研究所の『資料室報』第247号および第249号(1978年8月、同10月)に発表し、関係者各位からいくつか貴重な御意見、御批判を得た。ただ、本解題がすでに組み上がっていたこともあって、ごく部分的な訂正を加えただけで、全体を書き改めることはできなかった。そこで、以下に『資料室報』に発表後判明した諸点を記しておきたい。
 1、1928年4月から同年6月にかけ、無産者新聞編輯部と党中央の間の連絡にあたっていた松本広治の回想によって、この間「無産者新聞秘密指導部」を構成していたのが岩田義道と木下半治であることが判明した。松本は1904年、愛媛の生まれ。1917年大阪に移り、今宮中学、大阪高校を経て、1925年東京帝大法学部に入学した。大阪高校以来の親友谷川厳と新人会に加入。三・一五事件の直後から無産者新聞の活動に参加し、28年6月以降は無産者新聞大阪出張所の再建にあたり、四・一六事件で検挙された。詳しくは松本広治『信念の経営』(1971年、東洋経済新報社)参照。なお、これについては岩村登志夫氏の教示を得た。
 2、波多野一郎は1905年大阪に生まれた。東京府立一中、八高を経て1925年東京帝大心理学科に学んだ。大学在学中の1927年、居住地の東中野で『無新』の支局の活動に参加して城西地区を担当していた平田良衛を助け、さらに同地区の責任者となり、1929年はじめ、四・一六の前に本社の組織部員として東京地方を担当した。義母の病気と死去で1ヵ月余、活動から離れていた間に『無新』は廃刊となり、その後は寺島一夫の筆名でプロレタリア科学研究所の中心メンバーの一人として活動した。現姓は佐藤。詳しくは佐藤一郎「『プロ科』時代の思い出」(『運動史研究』2、1978年8月)参照。
 三、18ページから19ページに引用した『昭和五年中における社会運動の状況』の西山武一に関する部分には若干不正確な点があることが、同氏の教示によりわかった。すなわち、西山が桑江と連絡がついたのは8月上旬でなく中旬頃であり、また『第二無新』の「第八号ヨリ発行ノ任ニ当リ」は誤りで創刊号から編集を担当したという。赤刷りの最終号の編集は桑江と西山で協議したが、その記事は主として桑江が執筆したと思う、という。





「『無産者新聞』小史」のタイトルで、法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.247,1978年8月およびNo.249,1978年10月に発表。その後、改訂の上《日本社会運動史料 復刻シリーズ》第75回配本、『日本共産党合法機関紙 無産者新聞』(4)〔法政大学出版局、1979年6月刊〕に「解題」として収録。ここでは、後者によっている。







Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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