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『無産者新聞』小史(中)

二 村  一 夫

目  次
   はじめに  4. 発行状況
 1. 創刊事情
 5. 印刷および配布
 2. 無産者新聞社の組織 6. 財政状態
  以上、別ファイル。  7. 終刊事情
   3. のみ本ファイル。 4.以下は、別ファイル  8. 号数確定の根拠について
 3. 無産者新聞社の人びと  9. 発禁号の特定



無産者新聞社の人々

 本社各部門の業務を担当した人々は、氏名が明らかな人だけでも60人を越える。人によって活動時期の長短や活動内容にちがいがあり、無給のボランティアも多く、厳密には社員といえない人も含まれるが、まず編輯関係者と事務局(営業)関係者とに大別して名前をあげてみよう。

 編輯関係──佐野学、徳田球一、市川正一、北浦千太郎、是枝恭二、井之口政雄、上田茂樹、田所輝明、後藤寿夫(林房雄)、関根悦郎、直井武夫、柳瀬正夢、石田英一郎、鹿地亘、門屋博、砂間一良、安藤敏夫、山根銀二、水野秀夫、豊田(平井)直、石堂清倫、石堂清俊、園部真一、谷川巌、松本広治、道瀬幸雄、難波英夫、西田信春、南良一、安達鶴太郎、河田広、久保梓、桑江常格(初めは営業を担当)、鈴木安蔵、金子英蔵、高橋勝之、西山武一

 事務・営業関係──仲宗根源和、仲宗根貞代、徳田正次、藤沼瞭一(本名、栄四郎)、蜂谷恵光、松尾敏子、根本和子、森田甲子次、小山宗、戸田京次、波多野一郎(現姓佐藤一郎、筆名寺島一夫)、福田利吉、江森盛弥、木下半治(大阪出張所)、高橋克狼、小宅柳一、立花浪次、永田周作、長谷川浩、林二郎、入江八郎、延原政行、阿部武蔵、山下初
 このほか、社外の主だった関係者をあげると、編集の指導にあたった福本和夫、志賀義雄、岩田義道、三田村四郎をはじめ、署名筆者として山川均、山川菊栄、荒畑寒村、堺利彦ら、主として国際関係の記事を提供した野坂参三ら産業労働調査所の関係者、またさし絵・漫画を描いた柳瀬正夢、須山計一(宇野圭)、村雲毅一、小林源太郎、橋浦泰雄、川越篤、稲垣小四郎(目黒生)、島崎翁助、大月源二、戸次三郎、さらに連載小説など文化欄への寄稿家として林房雄、荒畑寒村、中野重治、立野信之、貴司山治、前田河広一郎、平林初之輔、山田清三郎、川口治郎、葉山嘉樹、佐々木孝丸、久板栄二郎、上野壮夫、岡一雄、江馬修、山本安次、阪本英作、須磨一郎、壷井繁治、小堀甚二、干田是也、佐野碩らの名をあげることができる。

 以下、主要関係者の紹介をかねて、同紙スタッフの推移を追ってみよう。



編輯名義人

 まず新聞紙法第十条の規定によって、紙面に明記することを要求されていた編集人であるが、これは発行人・印刷人も兼ねて、第1号から第24号までが仲宗根源和、第25号から第37号まで上田茂樹、第38号以降は終刊まで関根悦郎である。
 仲宗根源和(仲曽根と書いている文献も多いが、これは題号の下に記されている仲宗根の方が正しいと思われる)は、妻貞代とともに無産者新聞社に住みこみ、徳田球一の弟徳田正次と3人で無産者新聞の事務を担当した。なお仲宗根は、それ以前にも、堺利彦を中心とした無産社に夫婦で住みこみ、業務を担当したことがある。彼は徳田球一や井之口政雄と同じ沖縄県の出身。1894(明治27)年、同県国頭郡本部村の生まれ。師範学校を卒業し、小学校教師の経験がある。無産者新聞社出版部から『教育読本』(1926年)、文化学会出版部から『労農ロシア新教育の研究』を出している。暁民会やML会の会員で、「暁民共産党事件」および「第一次共産党事件」の被告である。第一次共産党では常任幹事であり、総務幹事長・堺利彦の秘書であった。
 仲宗根貞代は赤瀾会の会員で「暁民共産党事件」では堺真柄とともに起訴されている。仲宗根源和は「第一次共産党事件」で十ヵ月の刑を受けて、1926年4月に入獄した。出獄後は次第に運動から離れたという。石堂清倫によれば、仲宗根貞代はその後も無産者新聞社にあって賄方などとして働いていたという。しかし1926年2月には北浦千太郎が無産者新聞社に住み込んでおり、仲宗根夫妻は入獄前に同社から離れたのではないかと思われる。
 仲宗根源和が入獄した後をひきついで編集発行兼印刷人となったのは上田茂樹である。上田は1900(明治33)年、札幌の生まれ。堺利彦を中心としたML会の会員で、「第一次共産党」では中央委員であり、機関誌『赤旗』『階級戦』の(さらにはその前身の『前衛』でも)編集・発行の名義人であった。上田も「第一次共産党事件」で未決拘留120日を含め10ヵ月の有罪判決を受け、1926年7月入獄した。二7年1月満期出獄後も無産者新聞社員として活動し、三・一五事件で逮捕された。1931年10月、肺結核のため保釈出獄し、中央委員として活動していたが、1932年4月2日に逮捕され、以後消息を絶った。
 上田が入獄した後を受けて、名義人となった関根悦郎は、1901年群馬県の生まれ。1919年小学校正教員の検定試験に合格し、21年上京して西巣鴨小学校に勤務し、日本教員組合啓明会に加入した。1923年、建設者同盟に参加、機関誌『無産階級』の編輯発行人となった。建設者同盟で知り合った田所輝明の「身代り」として1926年2月、無産者新聞社の社員となった。山川均門下で、「第一次共産党」の積極的な活動家の一人であった田所は、『無産者新聞』の創刊には協力したが、コミュニスト・グループの中央部と見解が一致せず、これとは不即不離の態度をとっていたのである。関根は三・一五事件で逮捕されるが、名義人は変更されず、終刊までその地位にあった。そして1928年8月には、1年以上前に発行した第77号掲載の京都学連事件に関する記事や、彼が逮捕された後に発行された第142号、第151号、第152号、第159号、第165号の論説や記事が新聞紙法違反であるとして起訴され、29年1月一審、同7月控訴審で有罪判決を受けたのである。この点は後述する。
 仲宗根、上田、関根とも、単なる名義人ではなく、実際に新聞の編集・執筆も行ない、とりわけ経営面で重要な役割を果していた。



 

主筆、主筆代理、編輯長

 しかし、無産者新聞編集の実権を握っていたのは彼らではなかった。いうまでもなく、ここで指導的な役割を果したのは、第一面の主要記事や論説、とりわけ社説を執筆した主筆であり、主筆代理であった。『無産者新聞』はコミュニスト・グループの、さらに1926年12月の党再建後は日本共産党の機関紙であったから、社説や論説は党の方針そのものであり、これを「運動の方針にせよ」との指示もなされていた(『現代史資料』20、386ページあるいは浅野晃第四回訊問調書)。したがって、時には無産者新聞社とは表面的には何らかかわりをもたない人が編集上重要な役割を果したことも見落せない。まだ細部では不明の点も多いが、指導的な立場にあった人を中心に、その主たる活動時期の順序をおって見ていこう。
 佐野 学(1)――1892(明治25)年、大分に生まれた。第一次共産党では常任幹事(国際幹事)の一人であり、二二年テーゼ草案を審議する綱領起草委員会の委員長であった。1923年6月の一斉検挙の直前にソビエトに亡命、コミンテルン第五回大会に代議員として出席した。1924年の秋からは上海にあって、コミンテルン極東部長のヴォイチンスキーとともに日本共産党の再建を指導した。『無産者新聞』の創刊が彼の発意によるところが大きいことは、北浦千太郎のつぎのような供述からもうかがえる。

 佐野学カモスクワヘ来テカラ大正十三年四五月頃マテノ間ニ日本人、朝鮮人ノ学生ノ為メニ右大学ノ講堂ニ於テ三回ニ渉リ日本経済史ノ講議ヲ致シ私モ其講議ヲ聴キマシタ。当時仝人ハ、レーニンノ『何ヲ為スヘキカ』ト云フ論文ヲ読ミ之レニ心酔シ全国的政治新聞ヲ造ラナケレハナラヌト云フコトヲ鼓吹シ在来ノ閥的政党組織即チ所謂旧社会主義者ノオカタマリノ堅イ殻ヲ破ツテ新ニ叢生セル新ラシイ社会主義者ノ諸団体、若イ人達ニヨツテ組織セラレタ思想団体ヲ打ツテ一丸トシタ共産党ヲ造ルヘキテアルト云フ見解ヲ執ツテ居リマシタ。 (『現代史資料』20、428ページ)

 佐野学は、『無産者新聞』の全期間を通じて、ただ一人の主筆であった。実際には、佐野は第一次共産党事件による10ヵ月の刑に服するため1926年3月1日から翌年1月1日まで獄中にあり、また28年3月、三・一五事件の直前に日本を離れたから、彼が実際に主筆として活動し得たのは1925年9月から26年2月までの半年と1927年1月から28年3月までの1年余に過ぎなかった。しかし、彼の留守中は主筆代理、あるいは編輯責任者が置かれただけで、代りの主筆は任命されなかったのである。
 また、佐野学は無産者新聞主筆であると同時に、コミュニスト・グループおよび日本共産党においても入獄中を除き中央委員であり、とくに、1925年12月中旬から1926年2月末までと、1927年12月上旬から1928年3月上旬までは中央委員長を兼ねていた。
 彼が『無産者新聞』に書いた社説や論説はかなりの程度まで確認することができる。1930年9月に希望閣から刊行された『佐野学集4 政治論』のなかに「『無産者新聞』論説」の章があり、それに、彼が同紙に書いた論説は「悉く収め」られているからである。後で見るように、この論説集の編集にも若干問題はあるが、これによると、彼は「発刊の辞」をはじめ、第1号から第16号までのうち、第7、8、13、15を除く各号の社説を執筆している。なお、佐野によれば、彼以外にこの時期の論説の筆者であったのは、徳田球一、北浦千太郎、是枝恭二らで、いずれも「『ビューロー』ニ於テ決定シタ政策ニ基キ」執筆したものであるという(『現代史資料』20、210〜211ページ)。

 福本和夫(1)――佐野学が1926年3月1日に入獄した後をうけて主筆代理をつとめたのは市川正一である。しかし、市川正一に決まる前、佐野学が福本和夫に手紙を送り、無産者新聞主筆になるよう要請したことはよく知られている事実である。結局、福本の主筆就任は実現しなかったから、ここでとりあげる必要はないとも考えられるが、福本がこの期の運動に及ぼした影響の大きさを考え、若干ふれておこう。
 無産者新聞の主筆就任問題については、福本自身の証言にいくつか相反するものがある。第一は、検事の取調べに対して答えたもので、佐野の「勧誘ニ対シテハ拒絶致シタノデアリマス」(『現代史資料』20、303〜304ページ)と述べている。
 これに対し予審では、佐野に承諾した旨を書き送ったとつぎのように述べている。

  此ノ手紙ニ接シ私ニ課セラレタル重大ナ任務ニ対シテ 私ハ自分ノ運動ニ対スル之迄ノ未経験ヲ恐レナカラモ 前陳述シマシタ如ク一・二ケ月後ニハ愈々東京ニ出向クヘク決心シテ諸種ノ手続ヲ運ヒツヽアツタ際テシタカラ密ニ内心ノ喜悦禁セサルモノカアリマシタ 其処テ私ハ直チニ返書ヲ認メ 私ハ従来運動ニ何等ノ経験ナキヲ此ノ仕事ノ前ニ恐レルモノテアルカ幸ヒニ諸君ノ教示ニ従ツテ無産者新聞ニ入社シ働ク事カ出来レバ嬉シク思フ、付テハ此ノ二月限リ学校ヲ罷メテ三月早々ニハ上京スル予定テアルカラ貴兄ノ入獄前確実ニ東京ニ於テ面会スルノ機会ヲ持チ得ヘク 無産者新聞社ノ歴史 新聞ノ方針、主筆トシテノ心得等ノ詳細ハ其ノ際篤ト承リタイト云フノテアリマシタ(福本和夫第三回予審訊問調書)

 この証言のどちらが正しいか直ちには決め難い。ただ、彼が後年の回想で、自分としては承諾の意思を持っていたが、その返事が遠慮がちのものであったため「かんたんに拒否の回答とうけとられたかもしれなかったと思う」(『革命運動裸像』)と述べているあたりが、最も事実に近いのではなかろうか。なお、佐野学は、福本に後任を依頼したところ、「同人カラ之ヲ拒絶シテ来タノテ、其後 市川正一君ニ頼ミマシタ。此件ニ付テ一旦福本君ニ主筆ヲ依頼シ、其返事ヲ俟タスニ無断テ市川君ニ主筆ヲ譲ツタト云フ様ナ風説カアルカモ知レマセヌカ、之ハ全然間違ツテ居リマス」(『現代史資料』20、214ページ)と釈明している。
 なお、福本は、予審廷で「ソウ云フ次第テ主筆ニハナリマセヌテシタカ後ニ至リ編集会議ニハ出席参加シタノテアリマシタ」と述べ、彼が出席した『無産者新聞』の拡大編輯会議の模様をつたえている。当時の編集会議の状況に関する興味深い記録であり、『現代史資料』には収録されていないので、ここで紹介しておこう。

 確カ五月頃ト思ヒマスカ無産者新聞ノ拡大編輯会議ニ出席シタコトモアリマス
 出席者ハ 市川正一 北浦千太郎 上田茂樹 関根悦郎 井ノ口政雄 青野季吉 ノ諸君テアツテ 市川正一君カ議長テアリ 北浦君ハ恐ラク他ノ用事ノ為メカ中途テ会議ヲ外シマシタ
 当時青野季吉君カ無産者新聞ト什ウ云フ関係テアツタカハ判リマセヌテシタカ 此ノ会議ニ於テ仝君ハ堂々ト臆面モナク解党派的意見ヲ叫ヒ亦無産者新聞ヲ能フ限リ興味中心ノ大衆的ナ新聞ニ仕様ウト云フノテアツテ私ハ極力之レニ反対シテ 同君ノ意見ハ無産者新聞創刊ノ趣旨ニ背キ無産者新聞ニ課セラレタル重大ナ歴史的任務ヲ没却仕様ウトスルモノテアル 吾々ハ寧ロ飽迄創刊ノ趣旨ニ忠実ニ之ヲ益々前衛ノ結成促進ノ為メノ全国的一大政治新聞タラシムヘク一層ノ努力ヲスヘキ時テハナイカ、然ルニ無産者新聞最近ノ傾向ヲ見レハ何程カ組合ノ新聞ト選フ所ナキカ如ク見ヘルノハ遺憾トスヘキ処テ左翼ノ組合新聞トシテハ評議会ノ立派ナ一大新聞労働新聞カアルノテアルカラ 其ノ点カラ見テモ 無産者新聞ハ其ノ方面ノ仕事ノ一部ハ安ンシテ此ノ組合新聞ニ委ネテヨク 積極的ニ益々全国的一大政治新聞タルノ実ヲ挙ケテ左翼前衛ノ全国的結成促進ノ為メ奮闘邁進スヘキテハナイカト云フノカ私ノ意見テアリマシタ 会議ハ直チニ青野君ノ見解ヲ斥ケテ 私ノ意見カ容レラレタ様ニ記憶シテ居リマス 尚此ノ労働階級ノ政治新聞ノ問題ニ付テハ青野君ハ何カノ雑誌ニ其ノ見解ヲ更ラニ詳シク公ニシ 私ハ夫レニ対シテ吾々ノ見解ヲ雑誌マルクス主義ニ展開シタモノテアリマス  (福本和夫第三回予審訊問調書)

 ここで述べられている青野の論文は、おそらく『解放』1926年7月号に発表された「無産階級の新聞について」であり、福本の批判論文は、北条一雄「全無産階級のための新聞」(『マルクス主義』1926年8月号所収)であろう。(なお、この論争をふくめた当時の無産階級新聞論については、山本明「大正末期の無産階級新聞論争をめぐって」、『キリスト教社会問題研究』第14・15号、1969年3月、参照。)

 市川正一――佐野学が第一次共産党事件で下獄した後をうけてコミュニスト・グループの責任者(市川自身はゼネラルセクレタリーといっている)と無産者新聞主筆代理に就任したのは市川正一であった。佐野学、野坂参三、佐野文夫らと同じ1892(明治25)年の生まれである。1916年早稲田大学の英文科を卒業し、読売新聞、大正日日新聞、国際通信社等で新聞記者として働いた。1922(大正2)年、同窓で同僚の青野季吉、平林初之輔らと『無産階級』を発行。翌23年、同誌は『前衛』『社会主義研究』と合併して、日本共産党の合法機関誌『赤旗』となり、市川正一はその編集委員となった。
 彼もまた第一次共産党事件に連座し、1926年8月7日には入獄したから、主筆代理をつとめたのは、同年2月末から7月末までの5ヵ月間であった。なお、ゼネラルセクレタリーの地位はこれより先、同年6月末には『無産階級』の同人の一人であった佐野文夫にゆずっている。
 市川は、予審において、彼の「ゼネラルセクレタリー」就任後の「ビューロー」の活動の主なものとして、「一、無産政党組織運動ニ対スル政策ノ決定及実行 二、労働組合運動特ニ労働組合総聯合組織ノ運動 三、議会解散請願運動 四、英国総同盟罷業ニ対スル応援ノ運動」の四つをあげ、これらに関する「『ビューロー』会議ノ決定ハ共産『グループ』内部ノ問題及機密ニ関スル事項ノ外ハ大抵ノ場合無産者新聞ノ社説ヲ初メ其他ノ記事ニ依ツテ発表シタモノテス」と述べている。
 また、「当時ニオケル無産者新聞ノ組織ハ什ウナツテ居タカ」との質問に対し、つぎのように答えている。

 当時無産者新聞社ニ働イテ居タ人々ハ 北浦千太郎 関根悦郎 藤沼瞭一 上田茂樹 井ノ口政雄 桑江某〔常格〕門屋博 蜂谷恵光 等テアリマシテ 其ノ内同志藤沼、仝桑江ハ事務員テアリ 又同志上田ハ編輯モ手伝ツテ居マシタカ事務部ノ責任者テモアリマシタ、同志蜂谷ハ当時広告係テシタ、他ノ人々ハ皆編輯部員テス、編輯ノ事実ノ仕事ニ当ツテ居タノハ同志関根テアリマシタ
 勿論私ハ当時無産者新聞ニ於ケル 「ビューロー」ニ於ケル全責任者テアリマシタ 其外殆ント恒常的ニ編輯上ノ援助ヲ熱心ニ与ヘテ呉レル多クノ同志諸君カアリマシタ、編輯会議ハ毎週、二回位開催シ 又屡々諸労働組合ノ同志其他ヲ加ヘテ仮ニ拡大編輯会議ト名付ケテ居タ処ノ会合ヲ開イテ居マシタ 夫レニハ事務部ニ働イテ居ル人々モ大抵参加致シマシタ
 また、「社説ハ誰レカ書イテ居タカ」との問に対して、「夫レハ『ビューロー』ノ無産者新聞社ニ於ケル責任者テアル主筆(私ノ場合ハ主筆代理)カ書ク事ニ決ツテ居タノテ私ノ時代ニハ矢張リ私カ大抵全部書イテ居マシタカ偶 北浦千太郎カ書イタ事モアリマス」と述べている(以上いずれも市川正一第六回予審訊問調書)。

 また市川は、第七回予審廷において、無産者新聞とコミンテルン日本駐在代表〔ヤンソン〕との関係に関する北浦千太郎の第十三回予審廷での供述(『現代史資料』20、491ページ以下)を「事実ニ反スル」として逐一反論している。かなり詳細にわたっているので、引用は避けざるを得ないが、市川の主要な主張点は、「ビューロー」は常に重要問題についてコミンテルン日本駐在代表の指導助言を受けていたから、『無産者新聞』にはコミンテルン日本駐在代表の意見が強く反映していることは当然である。しかし、北浦のいうように、コミンテルン日本駐在代表が自分の見解を北浦を通じて直接『無産者新聞』に発表させていたようなことはない、というにあった。
 なお、市川はこのなかで、北浦がヤンソンの指示によって1926年7月31日付の『無産者新聞』の社説および第一面冒頭の論説を書いたと申立てていること(『現代史資料』20、493ページ参照)について、「完全ニ事実ニ相違スル」として、当時、北浦が「労農党の門戸解放問題」をめぐって「ビューロー」と異なった見解をとり、論争の結果、北浦は自説を撤回したが、「「此ノ問題ニ付テノ記事ハ僕ニハ書ケナイ」ト申シマシタノテ 夫レ迄ハ大抵社説ハ私カ書キ第一面冒頭ノ記事ハ北浦ニ書イテ貰フノヲ例トシテ居タノテスガ問題ノ七月三十一日号ハ社説モ冒頭記事モ共ニ私カ執筆致シマシタ 私ハ之ヲ最後ニ下獄シタノテス」と述べている。市川と北浦の執筆分担、市川が何号まで執筆したかを明らかにする証言として紹介しておこう。
 市川正一は1927年1月はじめ出獄した。彼が獄中にいた間に開かれた五色大会で、市川は中央委員に選出されていた。出獄後はすぐに、佐野文夫、福本和夫、渡辺政之輔、徳田球一らが日本問題討議のためコミンテルンに派遣された後を受け、いわゆる「留守中央委員会」の責任者となった。1927年暮の27年テーゼによる党の再組織では、中央常任委員に選ばれ「アジ・プロ部長」に就任した。翌28年4月、コミンテルン第六回大会に出席のため日本を離れ、10月に帰国後は党の責任者として「三・一五事件」後の組織の再建にあたった。1929年4月27日検挙、無期懲役となり、1945年3月15日、宮城刑務所で獄死した。

 北浦千太郎――1926年8月、市川正一が入獄した後をうけて主筆代理となったのは北浦千太郎である。1901(明治34)年大阪に生まれた北浦は、高等小学校を卒業後、印刷工となり、大阪朝日新聞社、秀英舎、東京朝日新聞社、報知新聞社などで働いた。この間新聞従業員組合正進会に加入し、1920年の報知新聞社のストライキでは活字ケースをひっくり返して営業妨害器物毀棄罪に問われ、懲役4ヵ月の刑を受けている。1922年3月、高尾平兵衛にさそわれロシアに行き、クートベで学んだ。1924年9月帰国後は正進会およびその後身である東京印刷工組合の運動に参加する一方で、荒畑寒村、徳田球一ら共産党の再建運動を進めていた人々と接触し、25年3月には荒畑の依頼で上海に渡り、コミンテルンとの連絡にあたった。帰国後、間もなく徳田球一の家に同居し、同年6月末頃ビューローに加入して青年運動を担任し、共産主義青年同盟の創設にあたった。徳田らが北浦をビューローに加入させた理由の一つは、コミンテルンから日本駐在代表として派遣されたヤンソンとの連絡に、ロシア語のできる彼を必要としたためであったと思われる。
 佐野学、徳田球一は、ともに北浦を無産者新聞創刊当時からの編集部員として名をあげているが、北浦自身は「大正十四年十二月無産者新聞ニ手伝ニ這入り大正十五年三月迄関係シテ居リマシタ」(『現代史資料』20、463ページ)と述べている。彼は1926年2月には無産者新聞社に住みこんで活動しはじめていたのであるが、同年3月警視庁特高課の小林労働係長と赤坂の待合で会見したことで警戒され、ビューロー(コミュニスト・グループ中央部)やユース、無産者新聞等から手を引くことを求められ、一時一切の運動から離れたのである。しかし同年5月には「市川正一等カラ再ヒ無産者新聞社ニ起居スル事ヲ許サレ試験的ニビューローノ手伝ヲスル事ニナリマシタ。結局私ノ行動ヲ見タ上ビューローニ復帰サセ様ト云フノテアリマシタ。其後同年6月頃ニ至リ同新聞社テ 市川正一 ヨリ目下人カ尠ナイカラモウ一遍ビューローニ這入ツテ貰フ事ニナツタト云フ話カアリ漸クビューローニ復帰スル〔コトカ〕許サレマシタ」(『現代史資料』20、478ページ)。活動に復帰した北浦は、まもなく市川の後任として無産者新聞の主筆代理となり、1926年8月から同年12月はじめまでその地位にあった。この間彼は、常にコミンテルンの日本駐在代表、ヤンソンと連絡を保っていた。これについて、北浦は第一三回予審調書でつぎのように述べている。

 答 私カ大正十五年六月二度目ニ「ビューロー」ニ這入ツテ以来同年十二月初旬頃迄ノ間大概二週間ニ一回位日本駐在「コミンターン」代表ノ ヤンソン、ト会見シテ居ツタノハ事実テスカソレハ私カ「ビューロー」ノ代表者トシテ会見シテ居ツタノテハアリマセヌ。其会見シテ居ツタ理由ハ
 一、私が露国カラ帰ツタ後常ニ「ヤンソン」ト往復シテ居ツタ事
 二、私カ露語カ話セル為メ「ヤンソン」カ色々ノ事ヲ聞クニ便利テアツタト云フ干係ト
 三、「ヤンソン」が「コミンテルン」代表トシテ無産者新聞ニ出資シ私カ無産者新聞ヲ編輯シテ居ツタ干係上、私ヲ通シテ其指導精神ヲ発表スルニ便利テアツタト云フ事等テ私が「ビューロー」ヲ代表スルト云フ干係カラテハアリマセヌ。尤モ私カ無産者新聞ニ居ツタ間ノ私ノ行動ハ悉クヤンソン、ノ意表ニ出タモノト云フ事が出来マス。
 無産者新聞ノ重要ナル記事論説等ハ一ツモ「ヤンソン」ノ意思ニ反シタモノナク殆ト悉クカヤンソンノ指示又ハ注意ニ基クモノタト云ツテ良イト思ヒマス。
北浦はさらに、前申ス如ク無産者新聞ノ重要記事ハ悉クヤンソン、ノ指示又ハ注意ニ依り或ハ命令ニ依り掲載シマシタカ其指示又ハ注意ヲ受ケタ事項ノ内容ニ付イテハ一々覚ヘカアリマセヌ。今覚ヘテ居ルモノノ中重要ナルモノヲ挙ケマスト
 一、労農党ノ門戸開放ニ干スル件
 二、議会解散請願運動ニ干スル対策
 三、「ファシズム」ニ対スル対策
 四、労農党支部組織運動ニ干スル件
 五、浜松市会議員選挙ニ対スル対策
 六、総同盟ノ分裂ニ対スル対策
 七、市電自治会ノ分裂ニ対スル対策
 八、大小幾多ノ争議ニ対スル対策
等テ其外無産政党ノ会合問題ニ干シ ヤンソン、ノ命ヲ受ケテ無産者新聞ニ執筆掲載シタ記事カアリマシタ (『現代史資料』20、491〜492ページ)

と述べ、各項目について説明を加えている。なお、市川正一が、北浦のこれらの供述は誤りであるとして反論していることについてはすでに述べた。
 北浦の主筆代理時代は、共産主義運動全体としては福本イズムが支配的になりつつあった時期であるが、北浦はヤンソンの支持を得て、というより指示によって、必ずしもこれに同調しなかったのである。そして、北浦が第59号(1926年12月4日付)一面トップの論説記事で、労農党と日本労農党との無条件合同を含意する主張を展開したことで、彼は周囲のきびしい批判を蒙り、彼は共産党を脱し、無産者新聞もやめたのである(是枝恭二第二回予審調書)。
 北浦はこれ以前にも再建党大会の開催やその宣言草案をめぐって佐野文夫、渡辺政之輔、福本和夫らと対立していた。また彼が雑誌『マルクス主義』第30号(1926年10月)に発表した「地価政策の批判」と題する論文が、翌月号では和田叡三(村山藤四郎)によって批判され、それに対する反論はたちまち和田叡三と舟橋肇(河合悦三)によって再批判されるなど、孤立状態に追いこまれていた。こうして、彼は脱党を宣言し、一方、再建された共産党は、彼が大会のために起草すべき「政治経済ノ現勢」を提出せず、大会に参加しなかったこと、党の方針に反する論説を無産者新聞に発表したこと、ヤンソンとの関係を洩らしたことなどを理由に北浦を除名した。(なお、北浦については『別冊経済評論』第11号、1972年11月、伝記特集日本のアウトサイダー、参照。)

 門屋 博――北浦千太郎のあとをうけ、第60号(1926年12月11日付)以降、主筆代理として『無産者新聞』の編集にあたったのは門屋博である。
 門屋は旧姓を島野といい、1901(明治34)年福岡市に軍人の子として生まれた。育ったのは仙台で、仙台師範附属小、宮城県立一中、二高を経て、1926年3月東京帝大文学部社会学科を卒業した。この間、1923年に仙台の弁護士門屋家の婿養子となった。大学在学中は新人会に属し、学生社会科学研究会の中央委員や労働学校の講師として活動した。卒業後は東京毎夕新聞に入社し社会部の記者となったが、これは無産者新聞記者となるための修業のつもりであったという。1926年6月末頃、市川正一の勧誘でコミュニスト・グループに参加し、毎夕新聞で働くかたわら、『無産者新聞』の編集を手伝った。同年9月、コミュニスト・グループの関東地方委員長に任命されたため『無産者新聞』の活動から一時離れたが、同年12月4日、彼が設営にあたった五色温泉での再建大会直後、無産者新聞社に主筆代理として復帰したのである。
 門屋の『無産者新聞』における地位については後に見るように、若干問題があるが、彼自身は主筆代理であったとしてつぎのように供述している。

 一四問 被告ハ主筆代理トシテ 共産党ノ指令ニ相当スル論説ヲ書イタ事ハナイカ
 答 共産党ノ指令トシテ社説ヲ書イタ事ハアリマセヌ 尤モ無産者新聞ノ社説ハ共産党ノ方針ニ基イテ書キマシタ、重要ナル問題ニ付イテハ共産党中央部 福本和夫 ノ指示ニヨリ書イタ事モアリマシタ 左様ナ場合ハ其論説ノ内容ヲ指示サレ夫レニ基イテ書キマシタ 又中央部ヨリ来タ論説ノ原稿ヲ其儘載シタ事モアツタ様ニ覚ヘマス
 一五問 被告カ主筆代理時代ノ無産者新聞ノ論説ハ如何ナル内容ノモノテアツタカ
 答 私ハ主筆代理トシテ五六回論文ヲ書キマシタ 其ノ内容ハ一々覚ヘテ居リマセヌカ 重要ナ論説ハ労農党ト日労党トノ合同問題ニ干スルモノテアリマシタ
 一六問 被告ハ主筆代理時代論説以外ノ記事ハ什ウ云フ人等カ担任シテ居ツタカ
 答 私カ主筆代理時代ノ記者ハ 是枝恭二 関根悦郎 井之口政雄 等テ 夫レ等ノ人カ夫ソレ論説以外ノ記事ハ担任致シテ居リマシタ (門屋博第七回訊問調書)

 この供述で注目されるのは、無産者新聞とコミュニスト・グループあるいは共産党指導部との関係が、門屋の場合にはそれまでの主筆あるいは主筆代理とはちがっていることである。彼以前の主筆あるいは主筆代理、すなわち佐野学、市川正一、北浦千太郎は、いずれもコミュニスト・グループの中央委員も兼ね、とくに佐野、市川は最高責任者であった。したがって、彼らは自らが決定に参加した方針にもとづいて論説を執筆していたのである。しかし、門屋の場合には中央部からの指示にもとづいて論説を執筆し、あるいは中央で作成した原稿をそのまま掲載するようになっているのである。
 門屋の「主筆代理」時代、共産党の中央部を構成していたのは再建大会で選出された中央委員、すなわち、佐野文夫、福本和夫、渡辺政之輔、徳田球一、佐野学、市川正一、鍋山貞親である。しかし、このうち、徳田、佐野学、市川の3人は獄中にあり、鍋山はモスクワに派遣されていた。実際に党を指導していたのは佐野文夫、福本和夫、渡辺政之輔の3人の中央常任委員であった。理論面では福本が圧倒的な指導性を発揮していたことはいうまでもない。

福本和夫(2)――ところで、福本自身は、無産者新聞との関係を問われて、つぎのように答えている。

 北浦君カ無産者新聞主筆代理ヲ罷免サレテカラ間モナク 私カ代ツテ 佐野学君カ出獄セラルル迄無産者新聞主筆ヲ代行スル命ヲ受ケマシタカ 色々ナ党務ノ都合テ同社ヘハ出勤出来ズ、当時ノ記者諸君数名ヲ以テ委員会ヲ組織シ 其ノ委員会ニ出席シテ党ノ方針ヲ伝へ編輯ノ大体ニ付テ協議スルノ方法ニヨツテ 細カイ事ハ右委員会ニ一任シ 昭和二年一月上旬 主筆 佐野学 君ニ上野ノ某所テ事務引継ヲヤリマシタ
 三五問 其ノ委員会ハ什ウ云フ人等ニヨツテ組織サレテ居ツタカ
 答 夫レハ仝志 是枝恭二 水野成夫 関根悦郎 中野尚夫 門屋博 ノ諸君テアツタ様ニ思ヒマスカ 多少ノ相違ガアルカモ知レマセヌ
 尚右ノ中 門屋博 君ハ当時主トシテ仝新聞社ノ経営拡張ノ任務ヲ担当シテ居タカニ記憶シマス
 三六問 被告ハ当時 党ノ政策方針ニ関スル論文ヲ執筆シテ 無産者新聞 雑誌マルクス主義ニ掲載シタ事ハナイカ
 答 前述ノ如ク暫ラク無産者新聞主筆ヲ代行シ 其ノ間編輯委員会へ社説ノ要旨ヲ口頭テ述ヘタ事モアリ 又一般編輯上ノ事ニ付テ意見ヲ述ヘタ事ハアリマスカ自ラ執筆シタ事ハアリマセヌ。        (福本和夫第八回訊問調書)

 ここでは、福本は自身が主筆代行であったと述べ、また編集委員会を通じて指導したことを明らかにしている。こうなると、主筆代理が二人いたことになる。しかし、その名称を別にすれば、両者の供述内容に大きなくいちがいはない。福本は主として理論的な指導にあたり、門屋は編集、経営実務の中心にいたのである。
 注目すべきは、福本個人が無産者新聞に対し直接影響を及ぼした期間の短かさである。すなわち1926年12月から翌27年の1月上旬まで約1ヵ月余にすぎない。ちなみに彼は雑誌『マルクス主義』には1924年12月以降、ほとんど毎号のように寄稿し、1926年10月号からは事実上の編集責任者であった。

 志賀義雄――1927年1月1日、佐野学が刑期を終えて出獄した。彼は再建大会で中央委員、無産者新聞主筆に選任されていた。だが、すぐには党活動に復帰しなかった。彼が獄中にいる間に支配的となった福本イズムに反対であったからである。佐野学は27年1月から4月上旬にかけ、福本イズムに反対の態度をとっていた堺利彦、荒畑寒村、山川均、北浦千太郎らと再三意見を交換し、彼らと「福本主義反対ノ雑誌ヲ出ス計画」さえしたのである。結局、佐野学は市川正一、志賀義雄らの働きかけによって「四月上旬頃荒畑君等ト手ヲ切リ」「無産者新聞ノ主筆ノ職ニ同年四月初メカラ復帰」(『現代史資料』20、218ページ)した。
では、佐野が主筆に復帰するまでは誰がそれを代行していたのか。この問に、志賀義雄はつぎのように答えている。

 同志佐野学カ現実ニ無産者新聞ノ主筆ノ仕事ニ就クマテハ 主筆トシテテハアリマセヌカ 私カ日本共産党中央常任委員ノ中デ同新聞ノ指導ニ当ル事ニナツテ居タ干係上、同志佐野学ノ仕事ヲ代行シテ居リマシタ
 其ノ 期間ハ昭和二年二月下旬カラ同年四月上旬マテヽアリマシタ  (志賀義雄第九回予審訊問調書)

 27年2月には、再建大会で選出された中央委員は、佐野学、市川正一を除き全員が日本を離れモスクワに赴いた。このため、同年1月下旬以降、党の指導は市川正一を責任者とするいわゆる「留守中央委員会」に委ねられた。この「留守中央委員会」は、市川のほか志賀義雄、三田村四郎、佐野学、杉浦啓一、国領五一郎の6人で構成されていた。しかし、中央委員全員による会議はほとんど開かれず、実際には、市川、志賀、三田村の三人から成る中央常任委員会によって指導されたのである。
 志賀は、第九回予審調書のなかで、無産者新聞に対する中央常任委員会の指導の内容をかなり詳細に供述している。そのすべてを紹介する余裕はないが、そこでとりあげられているのは、(1)無産者新聞を意識の高い前衛分子のための新聞とする誤った傾向に対する批判、(2)無産者新聞を大衆的にするため、日刊促進の三千円基金募集運動を起すこと、(3)公式主義の弊害を実例をあげて紙上で批判したこと、(4)五万部突破運動、
などである。
 なお、社説の筆者についてはつぎのように述べている。

 私カ無産者新聞ノ主筆ノ仕事ヲ代行シテ居タ期間中ノ社説ハ 是枝恭二 門屋博 ノ両名カ書イテ居タ様ニ記憶致シマス
 勿論 吾々中央常任委員会デ決定シタ方針政策ハ 常ニ時ヲ移サス私カラ無産者新聞社ニ居ル党員ニ伝ヘテ置キマシタシ 編輯上気付イタ点モ注意ト批評ヲ与ヘテ居リマシタ
 同志佐野学カ昭和二年四月カラ現実ニ主筆ノ地位ニ就イテカラ私ハ主筆代行ヲヤメマシタ ソシテ中央委員会政治部長トシテ同志佐野学ト連絡シテ党ノ政策方針ヲ伝ヘテ居リマシタ 同志佐野学カ現実ニ主筆ノ地位ニ就イテカラノ社説ハ主トシテ仝人カ執筆シテ居リマシタ
 又同人カ不在ノ時ハ 私カ是枝恭二ニ党ノ政策方針ニ基イテ社説ノ要旨ヲ説明シテ仝人ニ執筆サセタ事モアリマス
 社説ニハ党ノ政策方針其ノモノカ直接ニ現ハレル場合モアリ ソレニ基イテ当面重要ナ問題ヲ取扱フ事モアリ 又サウテナイ場合ハ無産者新聞社ニ於テ編輯会議ノ結果必要ト認メタ問題ヲ取扱ツテ居リマシタ
 従ツテ 何人カ執筆シタニモセヨソレハ党ノ指導的意見ヲ代表シタモノテアリマス
 また志賀は、「共産党ニ無産者新聞部ガアツタノテハナイカ」との問に対し、これを否定し、つぎのように述べている。
 左様ナ事実ハアリマセヌ 同志ノ中テ日本共産党ノ中央ノ専門部トシテ無産者新聞部カアリ 其ノ部長カ是枝恭二テアツタト陳述シテ居ル人カアル様テアリマスカ ソレハ前ニ述ヘマシタ様ニ当時中央ニ専門部ハ存在セス 又同新聞ノ主筆ハ同志佐野学テアリマシタ
 恐ラク是枝恭二カ同新聞社テ編輯係ノ様ナ仕事ヲシテ居タトコロカラ生シタ誤解タラウト思ハレマスカ其ノ編輯係ノ仕事ニシテモ 何等日本共産党ノ組織構成ニ於ケル一地位テハナイノテアツテ 新聞活動ニ於ケル事務分担カラ生シタタケノモノテアリマシタ
 吾々中央常任委員会テ是枝恭二ヲ左様ナ存在シナイ機関ノ部長ニ任命シタコトハナカツタト私ハ記憶致シマス        (志賀義雄第九回予審訊問調書)

 佐野 学(2)――1927年4月はじめ、佐野学は主筆としての活動を再開した。同月9日付第77号の「支那革命と日本無産階級−速かに対支絶対非干渉同盟を作れ−」と「李大しょう君の死刑に反対せよ」が、復帰後、最初の論説であった。
 復帰後の状況について、佐野はつぎのように述べている。

 私ハ〔堺、山川、荒畑ラト〕手ヲ切ツタ後ニ無産者新聞ノ主筆ノ職ニ同年四月初メカラ復シマシタ、而シ福本主義ノ影響カ余リニ強ク 私ノ意見モ十分通ラナカツタノテ 四月中ハ働キマシタカ夫カラハ「サボ」リ乍ラ遣ツテ居ツタニ過キマセヌ。勿論主筆トナルニ付テハ市川君ト相談シ、自分ノ意見ヲ述へ、党ニ於テモ私ノ意見ヲ聞イテ悪イ処ヲ正スト云フ事テアツタノテス   (『現代史資料』20、218ページ)

 ところで、さきに述べたように、佐野学の執筆した論説は、かなりの程度まで特定できる。『佐野学集4政治論』に彼が書いた論説は「悉く収め」られているからである。ただ、これにも問題はある。すなわち、佐野学自身が、予審で彼の執筆した論説の標題を列挙している(『現代史資料』20、220および238ページ)のであるが、これと『佐野学集』の収録論文とは必ずしも一致しないのである。後者に収録されているのに前者で供述していない論説は、予審で訊問を受けなかった入獄前のものを別にして10本あり、一方、前者であげているのに後者に洩れているものが15本ある。どちらかといえば、予審の供述の方が信頼性が高いと思われる。何故なら、『佐野学集』の「まえがき」には、

 著者は本紙創刊(大正14年9月)の翌年三月、第一次共産党事件を以て入獄、昭和二年に出獄、爾来同年四月より昭和三年三月十日頃まで本紙に筆を執られた。本集はこの間に於ける著者の論説を悉く収めたものである。併し現在の編輯上の困難から当時の協同者たりし是枝恭二君のものも或は入つてゐるかも分らないと思ふ。尚禁止版に掲載されし論説は遺憾であるが、標題を示すに止めた。(傍点引用者)

と書かれており、この『佐野学集』が出された時、佐野自身は獄中にあってこの編集にはほとんどタッチし得なかったのに対し、予審では明らかに『無産者新聞』を見せられながら供述が行なわれているからである。
 かりに予審の供述が正確だとすると、彼は主筆に復帰してから、5月7日付の第81号までは5号続けて社説を書いている。しかし、その後は6月に1本、7月は0、8月に1本、9月に2本、10月に2本書いているだけである。一方『佐野学集』によっても、第77号から第82号(27年5月14日付)までは毎号欠かさず書いているが、6月は1本、7月も1本、8月も1本、9月に4本、10月に3本となっている。いずれにせよ、彼が「『サボ』リ乍ラ遣ツテ居タニ過ギ」ぬことは確かなようである。
 しかし、この間佐野が完全に活動から離れていたわけではない。さきに述べたとおり、「留守中央委員会」はほとんど開かれず「常ニ常任委員会ニ於テ党ノ政策其他ノ方針ヲ決定シテ居ツタ様デ」あったが、佐野は「無産者新聞ノ編輯方針決定ノ為メニ時々市川、志賀ノ両名ト会合」(『現代史資料』20、219ページ)していたのである。志賀によれば、その会合は「昭和二年夏カラ同年十一月マテニカケテ十日ニ一回宛位私ノ宅ニ於テ集会シテ諸問題ヲ決定シテ居リマシタ 社説等モ茲テ討議作成サレテ居リマシタ」(志賀義雄第二四回訊問調書)。

 是枝恭二――佐野学が「サボリナガラ遣ツテ居タ」時期、無産者新聞社にあって、事実上の主筆代理の役を果していたのは是枝恭二である。是枝自身によれば「私ハ昭和二年3月カラ検挙セラルヽ迄主筆佐野学ノ下ニ於テ編輯長ヲ致シテ居リマシタ」ということになる。彼は、自分の前任者として門屋博の名をあげており、門屋のいう「主筆代理」と是枝の「編輯長」とは同じ性格のものであることが明らかである。なお、門屋は1927年2月頃からは事務局責任者となり、1928年はじめまで主として経営の任にあたった。
 是枝は1904(明治37)年、鹿児島県鹿児島郡谷山町に生まれた。父は鉄道管理局建設事務所に勤める官吏であった。鹿児島一中から宮崎中学に転校、4年修業で7高へ進学した。7高在学中の1922年に村尾薩男、喜入虎太郎らと社会科学研究会を創設し、また学生や鹿児島県下の青年に対する啓蒙活動を行なった。1923年東京帝大文学部社会学科に進学、新人会、学生聯合会、学生社会科学聯合会の中心的指導者の一人であった。1925年10月、コミュニスト・グループに参加し、志賀義雄、村尾薩男の3人で学生運動に対するフラクションを構成した。また同じ頃、在学中であったが無産者新聞記者となった。翌26年1月、無産政党組織準備委員会の取材に大阪へ行き、そのまま同月15日学聯事件で逮捕され、治安維持法による最初の被告の一人となった。同年9月2日保釈、一時熊本に帰り、11月はじめ上京して無産者新聞記者として活動を再開した。
 是枝は1927年3月以降約1年間『無産者新聞』の「編輯長」であったが、第五回予審でその当時の状況について問われて、つぎのように答えている。

 一問 日本共産党ノ指令又ハ方針ニ従ツテ掲載サレタ無産者新聞記事ハ
 此時判事ハ昭和三年押第四四二号ノ二七〇九(無産者新聞綴二冊)及二七一〇ヲ示ス
 答 私カ編輯長ニナツテカラ日本共産党ノ指令方針ニ基キ無産者新聞ニ掲載サレタ記事ハ
 一、昭和二年三月二十六日ノ無産者新聞ノ社説「議会閉会後に於ケル請願運動の新展開」
 二、仝四月二日ノ「対支絶対非干渉の全民衆的運動を起せ」
 三、仝五月十四日ノ「開け工場代表者会議」
 四、仝六月十八日ノ「具体的要求を統一し工場委員会の組織へ」
 五、仝八月十三日ノ「失業手当法 最低賃銀法制定、健康保険法改正要求の全国協議会に集れ」
 六、仝九月十五日ノ「全国一斉に総罷業、大示威運動を決行せよ」
 七、仝、七月二十三日ノ「吾等は府県会に何故参加するか」
 八、仝、十月十日ノ「政治的自由の為めに大衆の共同闘争を強烈に展開せよ」
 九、全日「狂暴化する最後の制限議会を解散せよ」
 一〇、仝十一月六日ノ「プロレタリヤートは如何に此の政局に処するか」
 一一、仝十一月十五日ノ「すべての労農政党合同協議会を提唱す」
 一二、仝月二十日ノ「全労農大衆は代議士を通じて大会に合同を要求せよ」
 一三、仝日ノ「中心スローガン」
 一四、仝十二月十五日ノ「労働組合の戦線統一は如何になすべきか」
 一五、昭和三年一月二十五日ノ「第一回普通総選挙の意義」
 等が其ノ主ナルモノデアリマス
 尚其外ニ以上申上ケタ記事ノ趣旨ニ従ヒ沢山ノ記事が載セラレテ居リマス

 これに続いて、以上列挙した社説、記事の一つ一つについての指令の趣旨を述べたあと、是枝は、三・一五事件に関し、自分の意見によって社説を2度、すなわち1928年3月23日付、同26日付掲載のものを執筆したことを供述している。さらに、「以上申述ヘタ社説記事ハ誰レカ執筆シタカ」との問には、「私カ佐野学カガ執筆シマシタ 然シ其ノ一々ニ付キ何チラカ執筆シタカ区別出来マセヌ」と答えている。また、「被告編輯長時代ノ無産者新聞記者ハ誰々デアツタカ」との問に対しては、豊田直、門屋博、関根悦郎、井之口政雄、水野秀夫、石堂清倫の名をあげ「夫レラノ記者ノ記事ノ受持チハ定メテアリマセヌデシタ、社説ハ私カ佐野カガ書イテ居マシタガ 其他ノ記事ハ夫レ等ノ人々が代ハル代ハル書イタノデアリマス」と述べている。

 佐野 学(3)――1927年10月末頃から、コミンテルンに派遣されていた渡辺政之輔、鍋山貞親らが相ついで帰国し、27年テーゼにもとづき、党の再編成がすすめられた。新役員として中央委員長に佐野学、中央常任委員に渡辺政之輔、鍋山貞親、市川正一らが選任された。
 佐野学は、再組織後の無産者新聞についてつぎのように述べている。

 三〇問 昭和二年十二月党再組織後無産者新聞ハ什ウナツタノカ。
 答 私ハ福本主義時代ニモ無産者新聞主筆ノ職ニアツタカ、其理論ニ反対ノ為メニ不本意ナカラ、ロクニ活動シナカツタノテスカ、党再組織后ハ新方針ノ下ニ社内ノ組織ヲ整へ、相応ニ活動シマシタ。
 三一問 新方針トハ。
 答 非合法機関紙ト合法機関紙タル無産者新聞トヲ相伴ハシメ、党ノ政策ヲ宣伝煽動スルト共ニ、労農政党、組合等ニ於ケル福本主義ノ誤謬ヲ矯正シ且ツ総選挙ニハ党候補者及党方針ヲ全国的ニ宣伝スル方針ヲ取リマシタ。
 三二問 組織ハ。
 答 夫レハ、
 編集局主筆 私
 局員 是枝恭二 関根悦郎 石堂清倫 豊田直 上田茂樹 井ノ口政雄 砂間一良 安藤敏夫
 事務局主任 門屋博
 局員 藤沼瞭一 森田甲子次 佐藤某〔根本和子〕 外一名
 テス。
 三三問 右無産者新聞干係者中、是枝、関根、石堂、豊田、上田、井ノロ、門屋、藤沼、森田ノ九名ハ共産党員テハナカツタカ。
 答 覚員テアツタカモ知レマセヌ。 (『現代史資料』20、237〜238ページ)

 なお、恒川信之『日本共産党と渡辺政之輔』は、右に引用した佐野の供述にもとづいて「ここにおいて佐野学は編集スタッフを変更して徳田、福本色の一掃をこころみた」と説明を加えているが、これは誤りであろう。ここに名をあげられた編輯局員はほとんどすべて二七年テーゼがもたらされる以前から『無産者新聞』の記者であったし、徳田正次はすでに1926年には労働組合運動に専念し、日本楽器争議などで活動しているのである。
 新方針を得て、佐野ばかりでなく、無産者新聞社全体が積極的な活動を展開した。同紙は、当初月2回刊で出発し、創刊の年の暮には旬刊、翌26年1月からは週刊、さらに27年9月からは月6回刊と刊行回数を増していたのであるが、第1回普選の月1928年2月には、総選挙特別号を相ついで出し、発禁にともなう伏字改訂号1回をふくめ本紙を10号、号外を4回発行し、その発行部数も3万5000部に達した。
これが『無産者新聞』のいわば最盛期であった。

 石堂清倫ら新人会関係者――1928年3月15日、共産党員およびその同調者に対する一斉検挙が行なわれた。もちろん無産者新聞社も捜索の対象となった。東京では32カ所が捜索され、うち6カ所は予審判事と検事が直接出張して指揮をとり、他は予審判事の略式命令書によって警部が担当した。無産者新聞社本社の捜索には予審判事秋山高彦、検事北条磯五郎がこれにあたった(『現代史資料』16、51ぺージ)。この弾圧の状況を『無産者新聞』はつぎのように報じている。

 本社は十五日早朝奴等の毒牙をうけた。前夜から徹夜で発送した発送部員が午前4時半合宿所でまづ第一に検挙され、破れ蒲団の中にまで手を入れるといふ念の入つた大捜索をうけた。引続いて本社の入口の鍵をブチ壊して乱入し、事務局編輯局とも言語道断の狼籍をうけた。机、棚、引出しをはじめ、あらゆる資料、レポート党(ママ)帳簿、綴り込を五時間に渡る捜索で残らず強奪し、ポストの錠前をコハして郵便物まで掠めて引上げた。本社の記者、事務員は或は検束され、或は追跡され十7日迄は本社に入る者がなく、支局員、個人読者、レポーター、等一切の来訪者は片ッ端から検束され、3日間は完全に連絡を断たれた。現在奴等の手に奪はれてゐる者は豊田、藤沼(以上起訴)関根、井之口(以上拘留)の四君、社から遠ざけられてゐる者三名、他は三日位の検束で、帰つてきた。最も優秀な記者、社員は未だ本社に帰つて働く事が出来ないが、全国的政治新聞としての重要な使命は一日たりとも忘れるものでなく、残留の社員記者は全力をあげて恢復に努め、重要書類、資料、リポート等は或は奪還し或は整理し、十八日からは完全に活動を開始した。((3)7ページ)

 佐野学は検挙寸前にコミンテルンとの連絡のため東京を離れ、上海に逃れた。また、是枝恭二、門屋博らも、当日は検挙を免れたが、表だって活動することはできなかった。この三・一五直後の時期に、短期間ではあるが無産者新聞編集の中心となったのは石堂清倫であった。
 石堂清倫は1904年、石川県の生まれ。石川県立小松中学4年修了で金沢の四高に進み、1924年東京帝大英文科に入学した。在学中は新人会で活動し、1927年3月卒業と同時に関東電気労働組合の書記となり、同年10月末頃、『無産者新聞』の記者となった(聴取書では入社時期を後にずらせている)。月給は30円であったという。
 『無産者新聞』での活動について、石堂は警察での聴取書でつぎのように述べている・

 本年一月カラ無産新聞ノ編輯部員トナリ 傍ラ探訪ヲ尋ネテ居リマシタカ 本年仝社ノ幹部カ殆ント全部検挙サレテ以来私カ主トナツテ編輯ヲヤツテ居リマシタカ 三月三十一日ノ私カ検挙サレル迄一緒ニ働イテ居タノハ左ノ人々テス
 山根銀二 砂間一良 安藤敏夫 奥山久太 上平某 谷川某
以上ハ何レモ帝大卒業又ハ現在在学中ノモノデ 主トシテ編輯ニ携ツテ居ツタノハ山根、砂間、安藤ノ三人丈ケデアリマス(中略)其後三月二十日頃無産者新聞社デ東大久保二一五柴田健方ニ訪ネテ来ル様ニ紙片ニ書イタ手紙ヲ受取リマシタノデ 仝日正午頃私カ仝所ニ訪ネテ参リマシタ 其ノ処デ始メテ柴田カ是枝デアル事ヲ知リマシタ 其ノ際是枝カラ「今後自分ハアマリ社へ出テ行カレナイカラ新聞ノ編輯ヲ当分君カ主トシテヤツテ貰ヒタイ」ト依頼サレマシタ 三月二十三日発行ノ無産者新聞(一二三号?発禁)〔第142号の誤り−引用者〕ノ記事中第一面上部ニ掲才シタ大見出シノ記事ノ原稿ハ其後私カ再ビ是枝ノ宅ヲ訪ネマシタ際ニ渡サレタモノデ 其他今回ノ日本共産党事件デ全国各地ノ検挙ノ状況並ニ被検挙者ノ氏名等ハ主トシテ私カ全国カラ集ツタレポートデ編輯致シマシタ 印刷は従来ノ通リ京橋区京橋附近ノ協友社ニ依頼致シマシタ 協友社デハ文選、植字、大組ノ上 紙型印刷ハ万朝社アタリニ依頼スル事ニナツテ居リマス

 石堂は、3月31日、松本広治の家で「まだ学生の山根銀二相手に3月26日号ノ原稿ヲ整理しおえたところを逮捕された。原稿はうまくかくすことができ、あとで松本広治がどうにかもちだして印刷したと聞いた」(石堂清倫「『無産者新聞』のこと」『北方文芸』第100号所収)。
 この石堂の聴取書で「一緒ニ働イテ居タ」人々として名があがっているのは、いずれも新人会の会員で、山根、砂間、安藤の3人は石堂より先、1927年7月頃、無産者新聞社に入り、無給で働いていた人達であった。谷川某は谷川巌、山根ら3人と同じ1928年の卒業で、三・一五事件前後から無産者新聞に関係し、是枝と他の人々との連絡にあたっていた。上平某は上平正三、奥山久太の本名は田中清玄、ともにまだ在学中の学生で、石堂の依頼によって三・一五のあと一時的に手伝っていたものであった。このほかにも三・一五事件以後、安達鶴太郎、河田広、久保梓、安藤誠一、長谷川浩らの新人会員が、無産者新聞の活動に参加している(『東京帝大新人会の記録』281〜282ページ、参照)。

 岩田義道・井之口政雄――石堂が検挙された後、誰が中心になって編集が行なわれていたかは問題である。『昭和四年中に於ける社会運動の状況』では、無産者新聞に関する章の概説で「斯クテ再刊後幾何モナク是枝恭二、門屋博等ノ活動分子ヲ失ヒタルモ、同新聞社員砂間一良等ハ社員中ノ有力分子ト協議ノ上、共産党ノ指導ヲ受ケ引続キ発行シ居リシガ……」と述べている。しかし、砂間は石堂らの検挙に先だつ3月29日に逮捕され、57日間拘留されていたので、その間は活動不能の状況にあった(同氏談)。関係者からの聴きとりでも、この時期、誰が中心であったか不明であった。一つの手がかりは、『特別高等警察資料』第二輯第一号に収録されている「秘密結社日本共産党再組織運動の状況」である。すでに述べた部分と多少重複するし、いくらか長いが、党と無産者新聞との関連についても参考となるので、この「秘密結社日本共産党再組織運動の状況」から、「無産者新聞に対する運動」の項の前半を引用しておこう。

 無産者新聞は第一次共産党検挙後ロシヤに逃亡したる佐野学帰朝後創刊したるものにして今回の日本共産党組織に際しては彼等の所謂合法的機関紙として重要なる役割を演じたるものなるが、昨年三月の一斉検挙に依り編輯局及事務局の組織を破壊せられ一時其の発行を中絶せんとするの状況に在りしを以て、党中心分子渡辺政之輔は再組織運動着手の当初中尾〔勝男〕に対し「無産者新聞を急速発行すべき旨」の指令を為したり。依て中尾は三月十七日頃より門屋博、浅野晃と共に移動本部を警戒する(ママ)と同時に門屋博をして無産者新聞の再興運動を担当せしめ、門屋は直に当時西大久保居住中の柴田健事是枝恭二を訪ね、同人に同新聞の経営方を依頼し編輯局の再組織新聞配布方法等に就きて協議を為し、其の後は自身是枝を訪問し又は是枝の内婦波多野操を連絡者として数次協議を重ねたる結果、是枝は三月二十日頃自宅に党員にして同新聞社事務局会計なる蜂谷恵晃を招き会計状態を聴取したる上、同月廿二日党員石堂清倫の認めたる論説及全国各地より到来したる検挙情勢等を掲載したる二頁のものを万朝報社に印刷せしめて検挙以後最初の同新聞を発行し、三月廿八日是枝が四月八日門屋が三月廿六日蜂谷が夫々検挙せらるるに及び、其の後は当時所在韜晦中の村山藤四郎其の他共産党員等が社説及主要記事を又同紙雑報を帝大旧新人会員等其の他が挿画及「カツト」は全日本無産者芸術聯盟員等に於て担当しつゝありたるものゝ如く、印刷所は表面芝区南佐久間町一丁目一番地東京曙新聞社となせるも行政処分を免るゝ手段として実は同区愛宕下町二丁目二番地朝野新聞社其の他に置き、組版のみを京橋区金六町一番地協友社二階に於て為し、印刷所も亦諸所に転置し直接印刷所より支局に発送しつゝ発行を継続し居りたるものなり。此間三月三十一日までは主として石堂清倫に於て編集発行の指導に当り、四月中旬以降七月中旬頃迄は党員にして党中央部事務局主任となれる岩田義道、井ノ口政夫に於て之が指導を為し、岩田は主として政治問題、支那問題に関する論説の起草を為し又前号編輯の批判を為し或は将来の編輯に対する意見を社員に通じつゝ其の指導を為し来りたるも岩田義道検挙後の指導者は不明なり。

 ここでは、指導者として岩田義道、井之ロ政雄の名が、また是枝らが検挙された後の社説や主要記事筆者として村山藤四郎の名があがっている。そこで岩田に関する予審終結決定を見ると次のように書かれている。

 同年〔1928年〕四月七日頃右浅野晃ヨリ党機関紙『無産者新聞』ノ編輯ヲ担任スベキ指令ヲ受ケ爾来同年五月十五日頃迄ノ間東京市内ニ於テ三田村四郎ト数回会合シ其指示ヲ受ケテ同新聞ヲ編輯シ又数回之ニ執筆シ…(『現代史資料』16、410ページ)

 しかし、浅野晃はコミンテルンヘの連絡に岩田を派遣するため会ったことはあるが、無産者新聞のことについては、自分は無関係であり、あるいは門屋博が指示したのではないかとのことである(同氏談)。だが、門屋は岩田と連絡をとったことはないという(同氏談)。
 なお、無産者新聞社の紅一点として、1927年6月頃から通勤しながら賄方、事務の手伝いにあたっていた根本和子(すゞこ、後の山根銀二夫人。当時は佐藤という変名を用いていた)は、岩田義道が逮捕される前、何回か連絡に行かされたことがあるという。
 いずれにせよ、岩田はこの当時中尾勝男、浅野晃、門屋博らの後任として、党中央事務局主任として『赤旗』の再建につとめており、『無産者新聞』の指導にあたっていたことは充分考えられる。ただ実務的には井之口政雄が中心であったと思われる。
 井之口は、先に引用した三・一五事件についての『無産者新聞』の記事では拘留中と報じられているが、井之口の予審調書によれば、三・一五当時は沖縄にいて検挙をまぬがれ、4月中旬に上京し、11月はじめ検挙されるまで活動していたことが明らかである(第五回訊問調書)。なおかりに石堂の後任が岩田であったとしても、石堂が検挙されたあとを岩田がひき継ぐまでには、1号ないし2号分の空白がある。この間を埋めたのが村山藤四郎であった可能性はある。また予審終結決定によれば、岩田が無産者新聞の編集を担当したとされているのは5月15日までであるから、砂間が釈放されて活動を再開するまでの間にも2、3号分の空白がある。後述するように、5月下旬には共産党中央部の無産者新聞指導責任者に三田村四郎が就任しており、この間は、その指導下で井之口らが編集の任にあたったのではなかろうか。
 ここで岩田らの経歴を見ておこう。岩田義道は1898(明治31)年、愛知県に生まれた。1917年、愛知県第一師範学校を卒業、1年間教員生活を送ったが、さらに進学の希望を抱き、苦学して受験勉強を続け、1920年松山高等学校に入学した。1923年、京都帝大経済学部に入学、社会科学研究会を組織して活動した。1926年学聯事件に連座。1927年、上京して産業労働調査所に入った。1928年2月、日本共産党に入党。三・一五事件後、コミンテルンとの連絡のため上海に赴き、4月5日頃帰京し、浅野、門屋らが逮捕された後中央部の事務局主任となって活動したが、同年8月10日検挙された。(岩田については『現代と思想』第15号(74年3月)参照。)
 井之口政雄は1895(明治28)年、沖縄県那覇市の生まれ。1912年鹿児島一中を卒業、1916年慶応義塾大学理財科予科に入学、18年同本科に学んだが21年退学した。退学後、21年12月より翌年11月まで一年志願兵として鹿児島歩兵聯隊に入隊。24年春から秋頃まで大阪の関西日報の記者として勤めた。1925年、『無産者新聞』の創刊とともに記者となった。1927年5月下旬から予備役の第二期召集で鹿児島聯隊に入隊しており(『西田信春書簡・追憶』336ページ)、また1928年2月の総選挙には沖縄で立候補しているので、その間は『無産者新聞』の活動からは離れているが、記者としては最も長い間同紙に関係した一人である。

 三田村四郎・砂間一良・園部真一――1928年5、6月頃から同年11月にかけて、無産者新聞の責任者となったのは砂間一良である。ただし、この時期には、砂間の上に三田村四郎が共産党中央部の無産者新聞指導責任者として活動していた。また相つぐ弾圧の下で砂間も非公然活動を強いられ、公然面では園部真一が編集実務の中心になった。人によっては園部真一を編集長とよんでいる。要するに、この時期は共産党中央部の無産者新聞担当の指導者と無産者新聞社の責任者、合法面での編集長と三段がまえの責任体制になっていたのである。なぜ、このような体制がとられたかを説明するものに、当時、党の中央常任委員であった鍋山貞親の供述がある。

 党ハ今政府ノ飽無キ追及ノ前ニ立ツテ居ル。今後更ニ厳シキ非合法活動ヲ必要トスルニ至ルダラウ。故ニ党ハ全機関ヲ二重、若クハ三重ノ組織ト為シ、現活動中ノ機関が官憲ニ発見サレ破壊サレテモ直ニ其補充ヲナシ得ル様ニ準備シテ行カネバナラヌ   (『現代史資料』19、180ページ)

 これは、1928年5月末、コミンテルンの一指導者が日本の党に与えた「意見及ビ注意事項」の一つとして鍋山が述べているものであるが、このなかには『無産者新聞』に対するつぎのようなより具体的な指示がふくまれている。

 無産者新聞ノ役割ヲ党が正シク評価シ、一切ノ機関紙カ発行不能ニ陥ツタ時、此ノ新聞ノ有ツ影響力ヲ利用シ、大衆間ニ党ノ意見ヲ広ク伝ヘン事ニ成功シタ。無産者新聞ノ主要任務ハ事実ノ報道又夫レニヨル諸闘争ノ煽動ニ集中サレ、党中央機関紙赤旗ニ従属シ、夫レヲ助ケルモノデ無ケレバナラヌ。無産者新聞ニ対スル党中央部ノ統制関係ヲ三段組ニシテ規則的ニスル必要ガアル。   (『現代史資料』19、181ページ)

 なお、この「意見及ビ注意」を受けてきたのは市川正一である。これについては市川に対する予審終結決定第十六(『現代史資料』16、343ページ)に記されている。
 三田村四郎は1896(明治29)年金沢市に生まれた。家が貧しかったため高等小学校を1年で退学し、金沢、大阪、東京で小僧、給仕、新聞配達、人夫、帽子職人などをしながら苦学した。1916年大阪府巡査となったが、1919年服務規律違反で免職となった。その後上京し、暁民会、日本社会主義同盟等で活動、この間に九津見房子と結ばれたが、再び大阪に戻り、印刷工となり、総同盟組合員となり、大阪印刷工組合を組織した。分裂後は日本労働組合評議会で組織部長、政治部長を歴任し、日本楽器争議を指導して知られた。この間、1926年10月、コミュニスト・グループに参加し、再建大会では中央委員候補に選ばれ、その直後の中央委員会で中央委員に補充された。1927年1月からは市川正一を長とする「留守中央常任委員会」の一員となり、組織部長として活動、また労働組合運動の指導にあたった。二七年テーゼによる再組織後は北海道地方委員長に任命され、現地でオルグ活動を行なった。三・一五事件で公判に付された北海道関係者は札幌地裁35人、函館地裁17人、旭川地裁9人の計61人で、東京、大阪についで多いが、そのほとんどは三田村の来道後の入党者である。
 三田村は三・一五事件でも検挙をのがれ、4月上旬には上京して中央部の活動に加わった。
 この当時、党の指導にあたっていたのは中央委員長の渡辺政之輔、中央常任委員の鍋山貞親らであった。他の二人の中央常任委員も無事であったが、佐野学はすでに述べたように三・一五事件のさなかに上海に赴き、1929年6月16日に逮捕されるまで日本には戻らなかった。また市川正一は、三・一五のあと、渡辺、鍋山らと緊急対策を講じたあと4月上旬上海に渡り、5月下旬いったん日本に帰ってコミンテルンからの指示をつたえた後、6月10日頃、コミンテルン第6回大会に出席のため上海を経てモスクワに向かった。三田村は、この佐野、市川の後を補う形で中央常任委員会に参加し、組織部長として党の再建にあたった。そして、5月下旬、組織部長から「プロアジ部員無産者新聞指導責任者」となったのである。この変更は、おそらく、市川正一がもたらした「コミンテルンの一指導者」の指示を実行するためのものであったと思われる。
 それ以後10月はじめまでの三田村の活動について、予審終結決定書はつぎのように記している。

 三、無産者新聞指導責任者トシテハ同新聞ノ確実ナル発行ノタメニ秘密編輯局ノ強化ヲ図リ且同社内細胞ヲ強化シ営業及編輯ヲ出来ル丈公然トシ号外政策ヲ採リ大工場ノ労働者ヲ読者ニ獲得シ同新聞ヲ大工場ノ基礎ノ上ニ立タシムル為メ被告人安藤敏夫ヲ巡回オルガナイザーニ任命シテ全国各地ニ派遣シ各地ノ支局員ト協議シテ当該地ニ於ケル目標工場ヲ選定シ之ニ対スル計画的ナル活動プランヲ作成実行セシメ又同年七月ヨリ九月下旬頃迄ノ間東京府北豊島郡尾久町党員井之口政雄方ニ於テ屡同人及木下半治ト会合シテ同新聞ノ指導方針ヲ協議決定シ之ニ基キ同党ノ目的政策ノ宣伝ヲ結合シテ大衆ノ共産主義化ヲ図リ以テ同党ノ地盤開拓ニ努メ
 第十七、前記十月検挙ニヨリ党ハ又モヤ痛撃ヲ受ケシカ最高幹部等国外ニ在リシヨリ同年十月三日無産者新聞秘密編輯局会議ニ於テ 外数名ト検挙情勢ノ報告ヲ交換シ右編輯局会議ヲ党ノ臨時指導部ニ変更シ、党諸機関竝全党員トノ聯絡再建ヲ図リ国外ニ在ル中央部員トノ聯絡ニ努メ今後ノ検挙ニ対シ細密ノ注意ヲ払フヘキコト等ヲ協議シ次テ同月五日ノ同会議ニ於テ
 一、右秘密編輯局会議ヲ臨時指導部ト為スコト
 二、聯絡再建ノタメニ赤旗ヲ再刊スルコト
 其他ノ応急策ヲ決定シ其実行ニ努メツヽ
 一、共産党事件公判公開及闘士釈放ノ大衆闘争
 二、秋ノ農民ノ闘争指導
 三、新党準備会ノ結党運動ノ指導
 四、無産政党合同運動ニ対スル活動
 五、無産者新聞発行停止ノ陰謀ニ対スル闘争竝同問題ニ関シテ生シタル同新聞編輯局一部ノ日和見主義トノ闘争
 六、左翼労働組合ノ全国的結成運動
 其他ノ諸闘争ヲ敢行又ハ指導シ、一方検挙ノ打撃ヲ軽微ナラシメルタメ家屋委員会ヲ設ケテ以テ鋭意党勢ノ挽回ニ努メ其間無産者新聞ニ掲載スル社説又ハ記事ノ要領ヲ授ケ(『現代史資料』16、357ページ)

 ここに記されている「秘密編輯局」は三田村のほか、木下半治、井之口政雄によって構成されていたもので、砂間一良、安藤敏夫、谷川巌らがこれとの連絡にあたっていた。
 同年9月10日頃、渡辺政之輔、鍋山貞親はともに日本を離れ、二七年テーゼ後に選出された中央常任委員は、翌月市川正一が帰国するまで全員不在となった。その間、共産党の指導にあたったのは主として三田村と国領五一郎であった。なお、三田村の予審等での供述に対しては、「すべてを自分で指導したかの如く述べている」と批判する意見が少なくない。

 砂間一良は1903(明治36)年、静岡県に生まれた。一高を経て東京帝国大学経済学部に進んだが、一高在学中に社会思想研究会に入り、東大では新人会に参加し、関東地方学生社会科学聯合会の常任委員を勤めた。1927年7月、同じ新人会員で同期の安藤敏夫、山根銀二とともに無産者新聞社の社員となった。三・一五のあと、石堂、山根が逮捕される2日前の3月29日に息子の卒業式に出席するため上京してきた両親の目の前で検束され、57日間拘留された。釈放後は一日帰郷しただけですぐ『無産者新聞』の活動に復帰し、その責任者となった。砂間についての予審終結決定では、1928年7月25日頃立石峻蔵の勧誘により日本共産党に入党し、「入党以来同年九月迄ノ間無産者新聞社秘密編集会議ガ党ノ指令方針ニ則リ決定セル根本編輯方針ニ従ヒ同新聞ノ編輯ニ従事シ」と述べており、第一審判決も同様である。しかし、実際には、砂間は同年6月13日、三田村四郎か木下半治から入党が承認されたことを伝えられたもので、『無産者新聞』の責任者となったのも、無新の活動に復帰してすぐの5月下旬のことであったという(同氏談)。
 同年10月、コミンテルン第6回大会に出席していた市川正一が帰国し、市川、三田村が臨時指導部を構成した。砂間は、同年11月から市川の下で、間庭末吉とともに中央事務局員となったため、無産者新聞の直接の責任からは離れ、以後は翌年3月21日に検挙されるまで、党組織の再建、『赤旗』の再刊などのほか無産者新聞の指導にあたった(砂間一良「進歩と革命の伝統」『科学的社会主義の旗をかかげて 市川正一の思い出』所収参照)。

 合法面の編輯長格の園部真一は1899(明治32)年、愛知県に生まれた。一高をへて、1925年3月、東京帝大法学部政治学科を卒業した。在学中、新人会に属して活動した。同期に志賀義雄、浅野晃らがおり、是枝、門屋、石堂、砂間らより先輩にあたる。1925年、日本農民組合調査部に入り、同年6月産業労働調査所大阪支所の創立に参加した。また、無産政党組織準備委員会では有給書記として庶務の小岩井浄をたすけて活動した。労働農民党成立後は機関紙部員として『労働農民新聞』の編集にあたった。三・一五以後『無産者新聞』の編集に参加した。『出版警察報』第10号には、「園部のみは組版の技術を有し、必ず出所〔張カ〕校正をも担当す」と記されている。1929年2月、安藤敏夫の勧誘により日本共産党に入党、その直後の同月20日に検挙された。

 難波英夫――砂間が党の中央事務局員となった後をうけて無産者新聞の直接の責任者となったのは、難波英夫である。三田村のあとを砂間が、砂間のあとを難波がうめた形である。難波は1888(明治21)年、岡山県に生まれた。15歳で検定試験に合格し、小学校の代用教員として2年間動めた後上京、苦学しながら京北中学に学んだが4年で中退。兵役を終えた後博文館の外交記者、京城の雑誌社、京城日報記者などを経て、1918年東京時事新報記者、1921年には大阪時事新報社会部長となる。1924年、時事新報を退社し、大阪で部落解放と社会主義を標榜した『ワシラノシンブン』(のち『解放新聞』)を創刊。1926年上京し、東京毎夕新聞の編集局長となった。この間、政治研究会、産業労働調査所の活動に参加し、また俸給生活者評議会の委員長となった。1927年、毎夕新聞でストライキを指導し辞職、退職金でマルクス書房をおこした。1928年1月、日本共産党に入党、翌月の第一回普選に労働農民党の候補者として岡山一区から立候補。三・一五事件では検挙をまぬがれ、ロシアに亡命した。同年10月帰国、同12月に無産者新聞の責任者となり、翌年3月23日に逮捕されるまで安藤敏夫らとともに非公然で活動した(難波英夫『一社会運動家の回想』1974年2月、白石書店、参照)。
 砂間、難波が『無産者新聞』の責任者として非公然で活動していた時期、合法部面で『無産者新聞』の発行にあたっていたのは、編集関係で園部真一、道瀬幸雄、西田信春ら、営業関係では谷川巌、桑江常格、小山宗らであった。『昭和四年中に於ける社会運動の状況』は、この当時の「編輯部の活動状況」について、つぎのようにのべている(197ページ)。
 新聞の編輯ハ昭和四年四月中旬マデハ、難波英夫最高責任者トシテ共産党政治部砂間一良ノ指導ヲ受ケ、安藤敏夫外編輯部員等ト会合編輯会議ヲ開催シ、各自記事ヲ分担シテ之ヲ持寄リ紙面ニ按配シ、之ヲ組版所ニ廻付シ、其ノ後印刷ニ附シ発行セラルヽヲ普通トス。然レ共編輯部員ノ会合ヲ為シ能ハザル場合ノ編輯ハ、主トシテ安藤敏夫ト難波英夫ノ両名ニ於テ三日目位ニ街頭其ノ他ニ於テ会合協議ヲ重ネツヽアリタルモノニシテ、其ノ事務所ノ如キハ単ナル表面ノ所在ニ過ギズシテ、編輯事務ハ各々難波ノ潜居及安藤ノ潜居等ニ於テ実行セラレタルモノト認メラル。又編輯ハ、一面記事ハ主トシテ共産党員及其ノ指示ニ基キ安藤敏夫、難波英夫担任シ、二面及三面ハ党員園部真一主任格トナリ、南良一、西田信春等数名ニテ担当シ、文芸、小説欄ハ中野重治等ノナツプ会員ニ於テ、漫画及「カツト」ハ「ナツプ」会員柳瀬正夢等之ヲ担当シツヽアリタルモノナリ。
 編輯終了後ハ前記ノ如ク組版ニ廻付シタルモノナルガ、昭和四年一月ヨリノ組版所ハ前年ト同様、京橋区金六町一番地協友社二階ニ於テ之ヲ為シ、其ノ終了後之ヲ紙型ヨリ鉛版トシ、読売新聞社又ハ万朝報社ノ印刷部ニ依頼シテ之ヲ印刷ニ附シ、発送及配付責任者ニ引渡スヲ以テ編輯部ノ任務終了スルモノトナシ居タリ。
 桑江常格・西山武一――四・一六事件で難波英夫が逮捕された後、無産者新聞の責任者となったのは桑江常格である。桑江は1902(明治35)年、沖縄県の生まれで、無産者新聞社には、創刊当初、あるいは創刊後まもなく営業部員として参加した。主として担当していたのは印刷や発送である。四・一六事件は無産者新聞にとっては三・一五事件以上の打撃であった。難波ばかりでなく、園部真一、道瀬幸雄、西田信春、谷川巌ら編集関係者が全員逮捕されてしまったからである。そこでこれまで事務局にいた桑江が編集までふくめた全体の責任者となったのであろう。彼は、1927年一時『無産者新聞』にいたことのある鈴本安蔵をはじめ高橋勝之らの協力を得て刊行を続け、同紙の廃刊から『第二無産者新聞』の創刊までその中心にいた。『無産者新聞』で創刊から廃刊までの全期間にわたって活動した唯一の人物である。
 四・一六以後の活動状況については、今のところ『社会運動の状況』以外に拠るべき資料を見出し得ないでいる。『昭和四年中における社会運動の状況』に記されているのは、つぎのような記述と図だけである(197ページおよび195ページ)。

 昭和四年四月以降桑江常格責任者トナリテ以来、同人編輯長格トナリ、部員鈴木安蔵、金子英蔵、高橋勝之ノ四名ニテ記事ヲ選定執筆シツヽアリタリ。而シテ編輯事務ハ桑江常格ノ「アジト」タル東京府豊多摩郡代々幡町代々木深沢一、六一三及南葛飾郡水元村ニ於テ之ヲ行ヒ、高橋ニ於テ他ノ二名ノ記事ヲ蒐集シテ桑江ニ引渡シ、桑江ノ手ニ於テ取纒メ、編輯終了シタル場合ニ本郷区元町二丁目九番地所在修文社(四月十六日以前ニ協友社ヨリ移ス)ニ持参シ、桑江自ラ記事配置ノ指揮ヲ為シテ組版セシメ、之ヲ高橋勝之校正シ(後略)

 四・一六では、党中央部も大打撃を受けた。市川正一、鍋山貞親、三田村四郎らが、いずれも4月27日と同29日に検挙されてしまったのである。このあと、田中清玄、佐野博らによって中央部が再建されるのは1929年7月上旬のことである。この間、党として『無産者新聞』の指導に当っていたのが誰であるかは、不明である。7月以降については「昭和五年中における社会運動の状況」につぎのようにのべられている(69ページ)。

 佐野博ハ昭和4年7月初句、西山武一ヲアヂプロ部員、無新責任者ニ任シタルガ、西山ハ八月上旬無新責任者桑江常格ト連絡ツキ爾来党ト新聞トノ連絡及顧問トシテ桑江ト時々編輯会議(街頭ニテ)ヲ開キ記事ヲ決定シタリ。然ルニ同年十月桑江其ノ他ノ本部員検挙後ハ、西山武一ハ其ノ責任者及編集長トナリ、斎藤武ヲ顧問トシテ、第二無新第八号ヨリ発行ノ任ニ当リタリ、……

 西山武一は、1903(明治36)年、佐賀県に生まれ、1926(大正15)年東京帝大農学部農業経済学科を卒業、同年8月から日農新潟県聯合会の書記をつとめた。木崎村小作争議での警官隊との衝突事件の首謀者として起訴された三宅正一に代わり、翌27(昭和2)年4月から同聯合会主事に就任し、同年暮には河合悦三の推薦で日本共産党に入党した。三・一五事件のさいには、オルグ活動のために高田方面に出張していて検挙からもれ、新潟に帰らず東京に潜入して地下生活にはいった,東京では、上野書店刊行の『マルクス主義講座』に「我国に於ける農民問題」(筆名草野幸一)を執筆、翌29年1月からは共産党四谷郵便局細胞に所属し、職場新聞の作成に当たった。同年7月、党中央委員佐野博から『無産者新聞』の編集部員たることを指示され、桑江常格から同紙責任者の地位を引き継ぐ方向で編集に従事した。西山武一、高橋勝之の談話を総合すると、同紙の廃刊直前から『第二無産者新聞』の創刊にかけては、原稿の作成は桑江常格、西山武一、鈴木安蔵、黒田久太(京都帝大経済学部2年中退、京大事件被告)、岸本某(本名不明)ら、整理・校正は桑江常格、金子英蔵、高橋勝之らが担当し、桑江が双方に関与したほか両セクションは直接の連絡がなく、黒田が連絡に当たった。西山談によれば、岸本某は、関西出身の元印刷労働者でスパイだと推定され、29年10月に桑江らがあい次いで検挙されたのも同人の手引きによるものと考えられ、西山も、翌30年2月に岸本との連絡場所で検挙された。

 その他の人々  以上のほかにも、無産者新聞の活動に参加した人々は、はじめに列挙したように少なくない。そのすべての人について紹介することはできないが、主要関係者のうち、ある程度経歴が明らかな人について、無産者新聞での活動内容・活動期間を中心にのべておきたい。
 まず逸することができないのは徳田球一である。彼は創刊当時の編輯部の一員であった。創刊号の「叱陀録」と題するコラムの筆者が徳田であることは、その用語について水平社から抗議を受けたことに対する陳謝文によつて明らかである((1)22ぺージ)。また、一部の論説を書いていることも佐野学調書などから確認できる。しかし、それ以外に新聞編集・執筆の上で徳田が果した役割は特記すべきほどのことはないように思われる。
 ただ見逃せないのは、すでに述べたように、彼がコミュニスト・グループの結成、『無産者新聞』創刊の主要な推進力であったことである。すなわち、佐野学の帰国前に山川均、堺利彦ら、かつて新聞発行の経験を有する人々を訪ねて経費を見積り、資金の一部約2000円を親しい友人の株屋、小林武次郎に出させている。それだけでなく、初期の無産者新聞社員の多くは、徳田が集めた人々であったと思われる。事務を担当した仲宗根源和、桑江常格は彼と同郷であり、徳田正次は彼の実弟である。編集関係者も井之口政雄は彼の同郷の親友で、出資させた小林武次郎と徳田が相知ったのも井之口の紹介によるものであった。北浦千太郎は当時徳田の家に寄宿していた人物である。是枝恭二も徳田が志賀義雄を通じて組織したものであった(志賀義雄第六回予審調書)。
 なお、創刊当時の「ビューロー」(コミュニスト・グループ中央部、徳田は1925年8月から12月までその責任者であった)と『無産者新聞』との関係について、徳田自身のつぎの供述が参考になる。これはまた同紙の編集がどのように行なわれていたかをも示している。

 一五問 コンミュニストグループノ中央部ト無産者新聞トノ関係ハ。
 答 無産者新聞ハ編集局員ト同新聞社ガ招集シタ大衆団体ノ指導者又ハ活動分子ヲ以テ編集会議ヲ構成シ、最初ノ三月ハ月二回、週刊ニナツテカラハ毎週一回、発行日ノ翌々日ニ編輯会議ヲ開催シテ居リマシタ。
 ビューロー(中央委員)ハ常ニ同志 ヤンソン ト無産者新聞ノ編輯ニ付、其大要ヲ予メ協議決定シ、特ニ重大問題ニ付テハ詳細ニ其事ノ実施ヲ協議決定シ、編輯会議ニ列席シタルビューロー員カ其決定ヲ主張シ、之ガ貫徹ニ努メテ居ツタノデアリマス。勿論同会議ニ出席シタルビューロー員外ノ編集員及大衆団体員ノ意見モ常ニ編輯ニ反映セシムル様努〔メ〕、其主張ハビューロー員ニヨリテビューロー会議ニ報告サレ、ビューローノ将来ノ方針ヲ決定スル材料ニシマシタ。左様ナ次第テ第一回編輯会議ハビューローノ運動ニ対スル意見方針ヲ思想的ニ大衆団体ニ及ボス機関トナツテ居ツタノテアリマス。   (『現代史資料』20、111〜112ページ)

 つぎは、無産者新聞の専属漫画家であり、『無産者グラフ』の編輯長であった柳瀬正夢である、柳瀬は本名を正六といい、1900(明治33)年、愛媛県松山市に生まれた。1914(大正3)年上京して日本水彩研究所、日本美術院研究所で学び、翌15年には第二回院展に油絵「光と風の流れ」を出品し入選した。19(大正8)年、長谷川如是閑の知遇を得、雑誌『我等』の校正係となり、画稿を寄せた。翌20年大庭柯公の紹介で読売新聞に入社、時事漫画や政治家の似顔絵を描いた。その後『種蒔く人』『文芸戦線』の同人として表紙や漫画を描いた。しかし、何といっても彼の活動の主舞台となったのは『無産者新聞』で、後に彼が自ら手がけて叢文閣から刊行した『柳瀬正夢画集』に収められた百点余の作品のうち十数点以外はすべて『無産者新聞』に発表されたものであった。この画集に収録されたもの以外にも、彼は時事漫画、小説の挿画、ポスター、記念バッジなど数多くの作品を『無産者新聞』のために描いた。柳瀬は、絵筆として椋の木の枝を削って、先をつぶしたものを用いた。第99号((2)158ページ)には、読者に「椋の木を送って下さい」との呼びかけが出されている。
 1928年秋には、無産者新聞社は新たに大型のグラフ雑誌『無産者グラフ』を発行する計画をたて、柳瀬はその編輯長になった。同誌は11月に創刊号を出し、第2号を29年1月に出しただけで終った。
 柳瀬の他にも何人かが『無産者新聞』に漫画や挿画を書いたが、その一人に、宇野圭の名で挿画を描き、「アジ太君とプロ吉君」の4コマ漫画を描いた須山計一がいる。彼は1905(明治38)年、長野県の生まれ。飯田中学在学中投稿漫画で名を知られた。この当時は東京美術学校の学生であった。
 無産者新聞社の名物男であったのは、皆から藤沼老人と呼ばれていた藤沼栄四郎(別名瞭一)である。1928年現在で48歳であるから、今なら老人と呼ばれるほどの歳ではなかったが、社員のほとんどが二〇代の若者であってみれば老人あつかいも不自然ではなかったのであろう。藤沼は栃木県の生まれ、小学校卒業後、農業の手伝いや米屋で奉公したあと北海道にわたり、牧場や監獄部屋で働いたあと、1912(大正元)年、室蘭製鋼所の鋳物工見習となった。1915年には同製鋼所のストライキに参加している。その後も各地の鋳物工場などを転々と渡り歩き、1919年には日立製作所事件で公務執行妨害罪に問われている。その後、南葛労働会、東部合同労働組合で組合長などをつとめ、評議会では関東地評の常任委員であったが、無産者新聞社の創立と同時に発送係を兼ね、同紙が月6回刊となってからは関東地評の活動を止めて、発送事務、会計事務などを担当した。1927年6月末頃「日本共産党々員トナリ居ルコトヲ認識」(予審終結決定)、三・一五事件で検挙された。
 蜂谷恵光は1894(明治27)年、岡山県に生まれた。13歳の時仏門に入った。1918年上京し、日本大学専門部宗教科に入学。卒業後は日本宗教会館主事となり、かたわら東京労働学院の講師をつとめた。1924年政治研究会に入会し、翌25年には野坂参三らと日本俸給生活者組合評議会の創立に参加し、中央執行委員となった。1926年、無産者新聞社の社員となり、28年3月末に検挙されるまで主として広告係、会計事務等を担当した。
 豊田直は1900(明治33)年埼玉県川越市に生まれた。浦和中学、一高を経て1924年東京帝大工学部機械科に進んだ。工学部学生としては最初の新人会会員となり、人夫など肉体労働をしながら東京合同労働組合などで活動した。1926年10月渡辺政之輔の勧誘でコミュニスト・グループに参加し、同年暮、五色温泉で開かれた日本共産党の再建大会にも参加した。関東地方評議会常任委員のかたわら1927年春頃から三・一五で検挙されるまで無産者新聞社の社員となり、主としてストライキや労働組合運動に関する記事を書いた。豊田は養家の姓で検挙後生家の平井姓にもどった。
 水野英夫は1903(明治36)年、水戸市に生まれた。父は歩兵少尉であったが、日露戦争で死亡し、母1人、子1人の家に育った。開成中学から早稲田第一高等学院を経て1926年早稲田大学独文科に進んだ。1927年4月上旬、日本共産党に入党。同年7月、無産者新聞社員となり、編輯部に属した。
 石堂清俊は1906(明治39)年、石川県に生まれた。石堂清倫の弟である。小松中学を卒業後、代用教員として働くかたわら、労働農民党能美郡支部準備会書記として活動した、1928年1月に上京し、同年8月頃まで今入町の合宿に寝泊りして、『無産者新聞』の編集に参加した。
 安藤敏夫は1904(明治37)年、東京に生まれた。八高を経て東京帝大法学部政治学科に進んだ。在学中、本所にあった帝大セツルメント調査部の事務を担当した。その後新人会に参加、関東地方学生社会科学聯合会常任委員長となった。1927年7月無産者新聞社の無給の記者となった。1928年6月〜7月には三田村四郎の指示で巡回オルグとして大阪、福岡、広島、京都、名古屋、仙台、青森、小樽、札幌、旭川、函館の各市、秋田県の土崎港町などをまわり、各地の情況を調査し、支局の確立等につとめた。同年11月、日本共産党に入党。翌29年1月、今度は党の巡回オルグとして関西、九州、東海の各地をまわった。同月末帰京後は4月16日検挙されるまで、難波英夫に協力して『無産者新聞』の指導にあたる一方、谷川巌、園部真一、道瀬幸雄、西田信春らを勧誘して入党させた。
 山根銀二は1906(明治39)年、東京に生まれた。一高を経て東京帝大文学部美学科に入学。新人会の会員となり、1927年7月『無産者新聞』の無給の記者となり、地方から送られてきた通信を整理して記事にまとめるなどの仕事をした。三・一五事件では逮捕をまぬがれ、同日夕松本広治と2人で秘かに本社から重要書類をはこびだすなどした。山根の家は市谷見附にあった旗本屋敷のあとで、無産者新聞などの非公然の会合にしばしば用いられた。
 谷川巌は1906(明治39)年大阪に生まれた。大阪高校を経て、1928年東京帝大法学部政治学科を卒業した。大学3年の時、新人会に入会し、対支非干渉同盟書記、労働農民党本部書記として活動した。
1928年3月、無産者新聞社に入社し、組織部の責任者として支局のオルグを担当する一方、難波英夫ら非合法の編輯部と連絡を保ち、編輯執筆にもあたった。1929年2月日本共産党に入党、同年4月23日に検挙された。
 道瀬幸雄は1904(明治37)年、横浜に生まれた。明治大学政治経済学部在学中、明大読書会幹事、組織部長、幹事長を歴任し、その後、関東学生社会科学聯合会書記、学生自由擁護同盟書記、大衆教育同盟本部書記などをつとめた。1928年10月、無産者新聞社に入り、編集に参加した。1929年3月中旬頃、日本共産党に入党。四・一六事件で検挙された。
 西田信春は1903(明治36)年北海道に生まれた。札幌一中、一高を経て東京帝大文学部倫理学科に入学した。1925年秋、新人会に参加し、大衆教育同盟本部書記などをつとめた。1927年4月、大学卒業とともに全日本鉄道従業員組合本部の書記となった。同年12月、幹部候補生として京都伏見聯隊に入隊。翌年12月除隊。1929年1月、無産者新聞編輯局員となった。同年2月渡政・山宣労農葬打合会議に出席して検束され、29日間拘留された。同年3月20日、日本共産党に入党、四・一六で検挙された(経歴等の詳細は石堂清倫他編『西田信春書簡・追憶』1970年、土筆社、参照)。
 高橋勝之は1904(明治37)年高知に生まれた。大阪の天王寺中学校を経て早稲田第二高等学院を卒業、1927年壺井繁治、岡本潤、江森盛弥らとアナキズム文芸新聞『文芸解放』の創刊に参加した。同紙は1年で分裂・廃刊し、以後無産者新聞代々幡支局で活動したが、四・一六事件後、無産者新聞編輯部に入り、廃刊から『第二無新』の発刊の活動に参加、同年10月検挙された。
 鈴木安蔵は1904(明治37)年福島県に生まれた。同県立相馬中学校、第二高等学校を経て、1924(大正13)年京都帝国大学文学部に入学、翌25年社会の矛盾に対処するために必要と感じ経済学部に移籍した。同年京大学生社会科学研究会の創立に参加したが、同年12月の「学聯事件」(京大事件)により検挙、起訴され、学校を中退した。保釈出所後の1927(昭和2)年春、無産者新聞社員となり編輯部に所属したが、秋頃には東京合同労働組合の書記に転出した。その後、病を得て神戸、大阪で静養したが、この間地下活動中の福本和夫、石田英一郎を援助した。四・一六事件後、上京して産業労働調査所で活動する一方、桑江常格と連絡して無産者新聞、つづいて第二無産者新聞の編輯に参加したが、同年10月検挙された。
 小山宗は1902(明治35)年香川県に生まれた。1923年大阪に出て阪神電鉄に入社したが、翌24年6〜7月の待遇改善を要求する争議に参加して解雇され、翌25年に結成された全日本無産青年同盟で活動した。その後上京して26年末無産者新聞社に入り、発送・営業を担当、第二無産者新聞の発刊に参加し、1929年10月に検挙。なお、山埜草平の筆名で歌人としても知られる。
 山下初は1907(明治40)年鹿児島県に生まれた。鹿児島商業学校に学び、同校在学中に社会科学研究会を組織し軍教反対ストを指導した。1926(大正15)年に中央大学に入り、同年末から27年秋まで無産者新聞の佐久間町時代に発送の仕事をした。





『無産者新聞』小史」のタイトルで、法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.247,1978年8月およびNo.249,1978年10月に発表。その後、改訂の上《日本社会運動史料 復刻シリーズ》第75回配本、『日本共産党合法機関紙 無産者新聞』(4)〔法政大学出版局、1979年6月刊〕に「解題」として収録。ここでは、後者によっている。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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