二村 一夫
日本における職業集団の比較史的特質
──戦後労働組合から時間を逆行し、近世の〈仲間〉について考える
はじめに
戦後労働組合を出発点として、日本最初の近代的労働組合である鉄工組合、さらには近世の〈仲間〉まで、時間をさかのぼりながら日本の職業集団の特質を国際比較的に探ってみたいと思います。歴史を語るとなれば普通は時間の流れにそって話を進めるのですが、ここではあえて逆行することにします。現在を理解する鍵が過去にあるのと同様に、過去を理解する手がかりは現在にあると考えるからです。古生物学者は古代生物の化石の断片から、その全体像の復元を試みます。その際、類似の化石などを照合すると同時に、同じような骨格をもつ現生生物を探すことになるでしょう。体型などは化石だけでも復元可能ですが、表皮の質や色彩、何を食べ、どのような声で鳴いたかといったことは骨格の化石だけでは分かるはずもありません。となれば、類似の現生生物の形状、生態を参考にするほかないでしょう。これと同様の手法を、過去の社会集団の復元について試みてみようというわけです。古代生物の存在を裏付ける物的証拠として残るのは、骨や歯など物理的破壊や化学的分解作用に耐える硬質部が主ですが、文書史料の場合も時代をさかのぼるほど乏しくなります。もちろん近世日本の場合は膨大な史料が残っていますが、それでも職業集団の慣行や成員の意識などを伝える記録となるときわめて限られます。歴史科学は実証科学ですから同時代の史料の裏付けが不可欠ですが、もともと文書として記録される可能性が低い問題を追究する際、史料だけに頼るのでは限界があります。やはり実態が分かっている近現代の社会集団の慣行や組織のあり方、さらには他国の職業集団に関する研究を参考にし、問題に接近する作業も必要ではないでしょうか。
もっとも私自身は、近世の職業集団研究を主な目的にしているわけではありません。それは近世史の専門家にお願いしたいところです。私の主たる関心は近現代日本の労使関係の特質の解明にあります。ただその際、徳川時代の職業集団の特質を理解する必要があると考えているのです。欧米の労働組合運動の基礎を形成したのはクラフト・ユニオン(職能別組合)ですが、その理解にはヨーロッパ中世都市に存在したギルドの伝統を見落とすことが出来ません(1)。それと同様に、日本の労働組合の独特の個性を知るには、近世日本の職業集団の個性を知らなくてはならないと考えているのです。そうしたことを、これまでも折に触れては発言してきたのですが、近世史研究者からはほとんど注目されませんでした。今回は近世史の専門家が大勢いらっしゃる場で報告するという願ってもない機会を与えられましたので、思い切って自分の専門の枠をこえて発言してみようと思い立った次第です。
I 戦後日本労働組合の特質
1 企業別組合になったのは何故か?
この十数年ほど私が主な研究課題としてきたことのひとつは、日本の労働組合、労使関係の特質を国際比較的に探ることです。企業別組合論に関する研究史的な検討をはじめ、敗戦直後の労働運動の実態、さらには日韓労使関係比較など、関連する論文をいくつか書いています(2)。今回も前半はその繰り返しになるのですが、話の都合でまずその主要な論点を紹介させていただき、最後に近世日本における職業集団の比較史的な特質についての私見を述べたいと思います。
この研究の出発点は、日本の労働組合が企業別組織になったのは何故かという疑問でした。欧米の組合は職能別、産業別あるいは一般労働組合などいずれも企業の枠を超えた組織が主であるのに、日本の労働組合は大多数が企業別です。なぜ日本は違うのか、それを明らかにしようとするものでした。ご承知のように、これは1950年代から60年代にかけて日本の労働問題研究の中心的なテーマのひとつでした。そこで学界の共通理解となりかけていたのは、日本の労働市場は企業別に分断されている、したがってその上に成立した労働組合は企業別なのだという主張でした。その中心的な論客はいうまでもなく大河内一男氏でした(3)。氏の主張にもいくつかバリエーションがあり、時期によって重点の置き方が異なるなど、問題点は少なくありませんが、今回は省きます。詳しくは、拙稿「企業別組合の歴史的背景」をご参照いただきたいと思います。
私は、このほとんど通説的な位置をしめていたといってよい〈労働市場要因規定説〉にずっと疑問を抱いてきました。それにはいくつか理由がありますが、「この説は間違っている」と確信したのは、この理論では、戦後の労働組合がブルーカラーとホワイトカラーを同一組合に組織している事実を説明できない、と気づいた時です。大河内一男氏は、きわめて単純明快に「労働組合は労働力の売り手の組織であるから、同一労働市場に属し利害を共有するものは、とうぜん同一の組合に組織される」と説明されていました。しかし私は、同一企業に属する労働者は全員が単一の労働市場に属している、という認識そのものが間違っていると思います。同じ企業に働いていても、ブルーカラーとホワイトカラーの労働市場は明らかに別です。また同じホワイトカラーでも、大卒と高卒では異なった労働市場に属しています。仮に「同一労働市場に属するものはとうぜん同一の組合に組織される」という大河内氏の主張が正しいとすれば、日本の労働組合は企業別であるだけでなく、学歴別組合になったはずです。また同一学歴でも男子と女子では昇進昇給の展望が全く異なりますから、性別組合が存在して当然だということになります。しかし事実はそうではありません。
ここで当然、私自身は企業別組合生成の根拠をどのように考えているかが問われるだろうと思います。実は、私の答えはきわめで単純です。労働者がなにか団結して解決すべき問題をかかえている時、毎日顔を合わせて肩をならべて働き、互いによく知り合っている職場の仲間と一緒に行動するのは至極当然のことだ、そう考えているのです。欧米のクラフト・ユニオンの場合でも、そもそもは同じ酒場でいつも顔を合わせている仲間同士の地域的な組織から始まっています。
さらに言えば、「日本の労働組合が職業別あるいは産業別組織にならなかったのは何故か」を問うだけでなく、「欧米の労働組合が企業の枠を超えた職能別労働組合として出発したのはなぜか」を問う必要があると考えています。互いに見知っている者同士が集まる職場単位、あるいは事業所単位の労働組合は、人間がつくる組織のあり方としてごく自然ですが、職能別組合はかなり不可思議な存在です。なぜ同じ職場で肩をならべて働き、顔も名前も知っている者とは手を組まず、職種を同じくしているというだけで顔を会わせたこともない人びとと一緒になるのでしょうか。しかも、場合によっては同じ職場の仲間と対立することさえあるのは、そこに何か特別な理由があるに違いないと考えざるをえません。
2 工職混合組合になったのは何故か?
この問題については後でもう一度とりあげることにして、次に、戦後労働組合のもうひとつの特色、すなわちブルーカラーとホワイトカラーが同一組合に属するという、世界の労働運動でもあまり例のない形をとったのは何故か、について考えてみたいと思います。
労働運動はもともとブルーカラー労働者の運動でした。欧米でも、また日本でも戦前までは、労働運動といえばブルーカラーのものでした。今でも欧米の労働組合は、そうした時期の影響を強く残し、ホワイトカラーはホワイトカラーだけの独自組織をつくり、ブルーカラーと同じ組織に属することは少ないようです(4)。ところが日本では、ブルーカラーとホワイトカラーが同一の組織に属するいわゆる〈工職混合組合〉が一般的です。それもホワイトカラー部門とブルーカラー部門が連合体を形成する形ではなく、基礎となる単位が職場組織で、異なった職種の人びとが同一支部に属している事例が多いのです。このようにブルーカラーとホワイトカラーとが単一組織を形成していることは、戦後日本の労働組合の特質として見落としてはならない重要なポイントだと思います。
では戦後日本の労働組合の多くが工職混合になったのは何故でしょうか。私はこの疑問に答えるには、つぎの3つの問題について検討する必要があると考えています。①これまで労働運動に無縁な職員層が組合に参加したのは何故か、②なぜ職員は独自組織を選ばず混合組合に参加したのか、③工員側がそれを拒否しなかったのかは何故か、です。これについての私の答は「戦後社会の起点に於ける労働組合運動」でやや詳しく述べましたので、ここでは結論だけをお話ししておきます。
第1、職員層が労働運動に参加したのは、ホワイトカラーも敗戦直後のインフレと食糧難、空襲による被害などでブルーカラーと同じように苦しい生活を送っていたからでした。こうした時、占領軍から労働組合の保護育成方針が出されたことは、彼らの運動参加を容易にしたのでした。
第2の疑問、つまり職員だけの組合でなく、工員と一緒に組合をつくろうとしたのは何故でしょうか。これは従来あまり問題にされていませんが、戦後労働組合を考える上ではの重要な論点です。なぜなら、どこの国でも「肉体労働者とホワイトカラー被用者を同じ組合に組織しようという試みが完全に成功したことはまれ」(5)だからです。また、イギリスなどでホワイトカラーが労働組合運動に参加する主な動機は、労働条件や社会的地位に関してブルーカラーに対するホワイトカラーの相対的優位が失われるのを阻止するためで、当然、ホワイトカラーだけの独自組織をつくることになります。ところが、戦後日本で〈混合組合〉を選択したのは主として職員の側でした。もっとも彼らの動機は一様でなく、大きく分けると2つのまったく相反する立場の人びとがいました。1つのタイプは積極的に労働運動に参加した人びとで、マルクス主義の影響や戦争体験などから社会変革を志向する人びとでした。彼らは、労働組合を改革・革命の一翼をになう組織とみており、自分たちも労働者階級の一員であると考え、工職混合組織を選択したのでした。 一方、職員のなかには労働組合の結成が避けがたいことを知ると同時に、共産主義運動の台頭に危機感をいだき、労働組合を「穏健」な立場に誘導しなければならないと考えた人びとがいました。彼らもまた全従業員をうって一丸とする組織を選んだのでした。
第3に、なぜブルーカラーの側が、ホワイトカラーとの同一組合結成を認めた(6)のかといえば、そこには日本のブルーカラーの間における労働者主義(labourism)の伝統の弱さがあると思います。そもそも、欧米で労働運動が一般にブルーカラーの運動として展開された背景には、イギリスの労働者階級の間に典型的にみられた「奴らと俺達」といった意識がありました。事務職員はもちろん、職長さえも経営者と同じ「奴ら」であり、その「奴ら」と同じ組織をつくることなど想像もつかないことだったのです。しかし、こうした意識は日本の労働者には縁遠いものでした。これについてもまた後で触れたいと思います。
3 工職身分格差の撤廃
戦後労働組合が展開した運動のなかで重要な意味をもったのは、〈経営民主化〉運動でした。では戦後労働組合がとりくんだ経営民主化運動は、何を目指し、何を獲得したのでしょうか。もちろん同じ〈経営民主化〉といっても、運動の担い手によって目標の重点は異なっていました。ブルーカラーと下級職員にとって〈経営民主化〉とは、何よりも企業内での身分格差撤廃を意味していました。一方、幹部職員あるいは将来その地位が約束されている大卒職員などにとっての〈経営民主化〉は、従業員の経営参加でした。
身分差別撤廃運動の背景には、企業の職務編成が学歴によって明確な階層を形成し、階層ごとにその処遇に大きな格差が存在する現実がありました。その実態は、おおよそ次のようなものでした。従業員の最上位に立ったのは正社員で、すべて大学・高専卒、その採用は本社でおこない、全国の事業所へ配属されました。彼らはすぐ管理職になり、将来的には経営幹部の地位が約束されていました。中等学校卒業者は準社員とか准員と呼ばれ、事務や技術関係の業務に従事し、多くは事業所限りの雇用で、昇進は基本的に中間管理職どまりでした。その下には、さらに義務教育を終えただけの給仕や用務員がおり、雇あるいは傭員などと呼ばれ、ブルーカラーなみの処遇でした。一方、肉体労働に従事する〈職工〉として採用されたのは、義務教育修了以下の者に限られていました。現場労働者から準社員や正社員に抜擢された事例も皆無ではありませんが、工員と職員の間には容易に越えがたい溝があったのです。
正社員とそれ以外の者、また職員と現場労働者の間には、給与、賞与、昇進、社宅の有無など、その処遇に大きな違いがありました。とくに大きな相違があったのは給与制度で、社員は年俸あるいは月給で、いくら働いても時間外手当などは出ない反面、欠勤したからといってただちに給与を減らされることもありませんでした。それに企業業績に応じてボーナスが出ました。景気が良いときなどは、1回に年俸の何倍もの賞与が支給され、それで家を建てたという嘘のような話まで残っています。
準社員は〈日給月給〉でした。つまり欠勤すれば減収になり、日曜など公休日も無給でした。工員は出来高賃金か日給あるいは時間給でした。当然のことながら、日給や時間給の者に対する出欠、遅刻の管理が必要で、その便宜上、工場の出入口を別にしたり、帽子の色で区別したりしたのです。また多くの工場で退出の時、原材料や製品を持ち出していないか、門前で身体検査がおこなわれました。こうした工員と職員との処遇の違いは、日本社会の前近代性に起因すると言われることが多かったのですが、事実はそう単純ではないようです。まだきちんと調べていませんが、どうも技術者たちが工場制度とともに欧米からもちかえった慣行ではないかと思われます。実は、かつて多くの人が近代社会のモデルと考えていたイギリスにも、同様な差別が存在しているのです。ブルーカラーとホワイトカラーの間には時間給と月給、労働時間の長短、就業・終了時間や休日数の違い、年金・諸手当の格差、解雇の予告期間も1週間と1ヵ月といったように、さまざまな点で格差がありました。出退勤時には別の門を通り、駐車場や食堂、さらには便所さえも別といった差別が1965年ころまでは確実に存在していました(7)。イギリスのブルーカラーはそれを当然のこととして受け容れてきたのでした。しかし戦後日本のブルーカラー労働者は、こうした処遇の違いは「封建的な身分差別」であるとして、その撤廃を要求したのです。要求内容は労務者、職工といった差別的な名称を改めること、給与・賞与・諸手当・勤務時間・休日・休職・定年などに関する基準を職員と同等にすること、通用門の一元化、身体検査の廃止、職員専用の諸施設を工員にも利用させることなど多岐にわたっていました。こうした身分差別撤廃運動の背後には、日本の労働者が長年いだいていた憤懣がありました。差別撤廃要求も、第二次大戦前から労働争議の際などにさまざまな形をとって噴出していました。職業集団の問題とは一見無関係にみえますが、戦後労働組合が世界でもあまり例のない〈工職混合組合〉となったのは、この問題と深く関わっていますから、少しお話ししておきたいと思います。
U 第二次世界大戦前の日本労働運動
1 労働争議の特質
日本の労働争議の特徴として戦前から注目されてきたのは、感情的、情緒的な問題、とくに差別に対する怒りが無視し得ない重みをもっていることでした。とくに大規模な争議、長期化した争議などでは、ブルーカラーの憤懣が爆発し、激しい形態の運動を展開した事例が少なくありません。その憤懣の多くは、自分たちが企業内で差別されているということでした。技師や職長が労働者を軽蔑し傲慢な態度をとっていること、あるいは賃金決定などをめぐり賄賂を公然と要求するなど不公正な扱いがあったこと、資本家や経営者が誠意を欠き人情を無視した行動をとったことなどが問題になっています。
もちろん日本の労働者も労働条件に無関心だったわけではありません。ただ彼等にとって賃金は、単に経済的な意味だけでなく、企業内での〈地位〉を反映するものと受け止められていたのです。だから賃金の絶対的な高さもですが、他の労働者と比べての高さに敏感でした。そのことを端的に示しているのは、1898(明治31)年の日本鉄道機関方の争議です。この争議で労働者たちは、賃上げ要求と同時に、職名を機関方は機関士に、火夫を機関助手に、掃除夫をクリーナーに改めよと主張しています。〈機関方〉では〈馬方〉を連想するからということでしょう。さらに彼らは、機関方を「書記同等」の身分にすることも要求しています。自分たちは単なる労働者ではなく高価な機関車を運転する技術者であり、したがって役員身分の処遇を受ける資格があると主張したのでした。一般駅員が駅長に昇進し機関方を指揮する立場にたつことも、彼らの大きな不満のひとつでした。
あるいは1907(明治40)年の足尾暴動に先立って展開された運動でも、鉱夫たちが至誠会のさまざまな呼びかけの中で強い反応を示したのは「労働者にも内地米を販売せよ」という要求でした。当時、足尾銅山ではいろいろな品物を会社の売店で売っていましたが、内地米は〈役員米〉と呼ばれ職員だけが購入でき、一般労働者はパサパサの輸入米しか買えなかったのです。白米が食べたければ、町の米屋から高い金を出して買うほかありませんでした。もちろん職員と鉱夫の間の差別は、米の問題だけではありません。社宅の位置、その部屋数、内便所か共同便所かなど、衣食住の全般にわたっていました。とくに採鉱夫の場合は、賃金決定に関与する職員が賄賂の有無で不公正な査定を行うことに強い不満を抱いていました。労働者にも白米を売れという要求は、こうしたブルーカラーとホワイトカラーのさまざまな差別に対する憤懣の象徴だったのです。こうした憤懣は、日本の労働運動の底流として広く存在していたと思われます。
差別反対の要求は、企業に対してだけでなく一般社会にも向けられました。戦前の労働組合の機関紙誌の投書欄などには「職工だって、女工だって同じ人間だ」との発言が数多く見られます。また「労働運動の目的は単なる賃金問題ではない、人間の解放の問題だ」という主張も繰り返されています。第一次大戦後の労働運動は、こうした労働者の感情を「人格承認要求」として提起しました。こうした歴史的事実を根拠に、〈人格主義〉という用語を研究上のキィタームとして使う研究者も少なくありません(8)。ただ、いかに当時の労働運動家が使っていた言葉であるとはいえ、〈人格〉といった「理性的存在者として自律的に行為する主体」を意味する西欧的な概念を採用することに、私自身は違和感を感じています。こうした語をキィタームとしては、日本の労働者の平等要求に込められていた情緒的な側面がすっぽりと抜け落ちてしまうように感じられるからです。日本語としてはこなれていませんが、さしあたりここでは「労働者も経営者や職員と同じ人間であることを認めさせる要求」とでも言っておきたいと思います。
なお、多くの経営者や研究者の一部までもが、海外向けを意識して「〈人間尊重〉こそ〈日本的経営〉の特質である」などと論じています。ここでの〈日本的〉という言葉には、昔から日本の経営は人間尊重主義であったかのような響きがあり、実際にそう主張している方もおられるようです。しかし事実は決してそうではなく、〈人間尊重〉が謳われるようになったのは戦後もかなり後のことです。戦後労働組合が〈経営民主化〉〈身分格差撤廃〉を要求し、その成果としてかちとった側面が大きいことを見落としてはならないでしょう。
2 憤懣の背景=身分制廃止の建て前と現実
ブルーカラー労働者が差別に対して強い憤懣を抱いたのは何故かといえば、やはり明治維新の改革の特質と関連があると思われます。いわゆる〈四民平等〉は単なる建て前ではなく、職業選択の自由、移動の自由など一定のの実質をともなっていました。幕藩体制のもとで、生まれながらの身分によって制約されていた下級武士や庶民にとって、この変革は積極的な意味をもっていました。しかし、維新後の社会は文字通りの平等を実現したわけではなく、職業による社会的な地位の違いは依然として存在しました。とりわけ工場労働、鉱山労働は、人びとが生活に困ってやむをえず選択した仕事でしたから、一般社会から蔑視されがちでした。工場労働者が〈職工〉と呼ばれることを嫌い、しばしば〈職人〉と自称したのは、工場労働が伝統的な職人の仕事より低く見られていたことの反映だと思われます。
工場労働者は一般社会において差別されただけでなく、経営内でも差別されました。企業には生産の仕組みそのものが要求する分業の体系、職務の序列があります。身分社会で生活してきた人びとが、この職務序列を身分関係として受けとめたのも自然でした。もちろん現場労働者は、自分たちが〈下層社会〉の一員とみなされ、企業内の最底辺に位置づけられていることに不満を抱きました。その点では、日本の労働者の多くは、イギリスの労働者のように、労働者の子は労働者であることを当然と考えたり、労働者階級の一員であることに誇りを抱くといった価値観とは無縁でした。端的にいえば彼らは労働者であることを何とかやめたいと思っている人びとでした。自分が駄目なら、せめて子供にはよい教育を受けさせ、労働者であることを止めさせたいと思っていました。これを鮮明に物語っているエピソードがあります。それは、官選で日本最初のILO労働代表となり、労働組合による激烈な反対運動にあった鳥羽造船所の技師長・枡本卯平が、その著書のなかで自己の体験にもとづいて記しているものです。ちょっとだけ引用してみましょう。
「職工生活は誰も好んでするものはない。世間から職工といへば、人間並には思はれず、まるで牛馬同様に考へられてをる。仕方がないからなってをるやうなものヽ、自分の子供丈けは、縦令親は乞食に堕ちても、職工にはなしたくない。かういふ気分は、ツイ先年まで、日本の空気を支配していた。
長崎三菱造船所の一例では、造船所の附属学校で、職工養成を標榜したとき、工場内の空気はといへば、何んだ職工養成、職工は自分一代で十分だ、職工になすために、子供を学校へ入れる馬鹿な親は、世の中にはをりはすまい。日露戦争以前の事ではあるが、工場内の空気は職工養成学校に対して、事実、かやうな調子であった」(9)。
もっとも日本の労働者は、かならずしも差別そのものを否定していたわけではありませんでした。能力がすぐれているなら身分が上であっても仕方ないが、能力が劣っている者が自分の上に立つことに強い不満を抱いたのでした。別の言い方をすれば、身分が上の者は人格的にも、能力面でも優れていなければならないと考えていたのです。皆が本気でそう信じていたというより、そうした建て前が存在していたのです。この建て前を逆手にとって、無能な上司を批判することもしばしばでした。こうした価値観は徳川時代にすでに存在していたようですが、明治維新以降、学校制度の普及とともに能力主義的な価値観はいっそう強まり、不当な差別への憤懣をつのらせる結果を招きました。イギリスの労働者が〈労働者階級としての誇り〉を抱いたのも、おそらく差別に対する怒りの屈折した表現という側面をもっていたと考えられます。しかし、そうした対応は日本のブルーカラーには受け容れ難いものだったのでした。
日本の企業が、企業内での〈身分〉を決める上で主要な基準としたのは学歴でした。小学校卒業以下はブルーカラー、中学校卒業者は下級職員、大学を卒業した者は正社員となりました。もちろん学歴は能力と無関係ではないのですが、問題は学歴が個人の能力より親の経済力に左右されがちだったことでした。学習院のような例外はあったものの、日本の義務教育は親の社会的地位に関わりなく生徒を受け入れました。地主の子も小作人の子も机を並べて勉強し、そこでものをいったのは成績と腕力でした。しかし小学校卒業と同時に、親の経済状態や兄弟姉妹の数などによる違いが生まれました。家が貧しければすぐ働きに出なければならず、小学校卒業だけでは、いかに有能でもブルーカラー労働者にしかなれなかったのです。労働運動指導者たちの自伝を読むと、彼らが小学校時代いかに優秀だったか、上級学校へ行けないことにどれほど悔しい思いをさせられたかを述べているのに出会います。優等生だったのに家の事情で進学出来なかった人びとほど、差別に敏感な傾向があったように思われます。戦後も1960年代前半頃までは、労働運動の活動家の中にはこうした人びとが少なくありませんでした。総評労働運動において官公労出身者がリーダーとして目立ったのも、それらの職場に義務教育修了の優等生が集まる傾向があったことと無関係ではないでしょう。また、戦前戦後を通じて、労働運動の主要な担い手が最低辺の労働者ではなく、むしろ相対的には高賃金で熟練職種の労働者が多かったことにも、これと共通する論理が働いていると思われます。ある社会層が共有する差別に対する怒りほど、社会運動の動因として強力なものはありません。私は、労働運動も社会運動のひとつであることを見落としてはならないと考えています。もちろんこれは日本の労働運動だけに当てはまることではないでしょう。
3 鉄工組合とクラフト・ユニオン
これまで労働争議を中心にその特質を検討してきたのですが、つぎに戦前の労働組合について考えてみたいと思います。実際は戦前の労働組合といっても、生成期と第一次大戦後とではかなりの違いがありますが、ここでは生成期を中心に見ることにしましょう。日本最初の近代的労働組合が1897(明治30)年に誕生した〈鉄工組合〉であることはご承知のとおりです。この組合は、その名称に〈鉄工〉とあることや、複数の企業の労働者を横断的に組織していたことから、一時は〈職能別労働組合=クラフト・ユニオン〉であると考えられていました。たとえば大河内一男、隅谷三喜男の両氏は、この時期にはまだ日本にも横断的な労働市場が存在しており、その上に企業の枠をこえた職能別組合が成立し得たのだと主張されていました(10)。しかしその後兵藤釗、池田信両氏の研究(11)によって、鉄工組合がクラフト・ユニオンとしての内実をそなえていなかった事実が明らかにされ、いまでは鉄工組合を職能別組合と規定する研究者はいないといってよいでしょう。しかし、鉄工組合が職能別組合となりえなかった原因については、兵藤・池田両氏の間に見解の相違があります。これについてはまた後でお話しすることにして、その前に鉄工組合はどのような点でイギリスのクラフト・ユニオンと異なっていたのかを見ておきましょう。
鉄工組合がクラフト・ユニオンと違っていた最大のポイントは、組合員資格がきわめて緩やかだったことでした。鉄工組合は、これについて規約第6条でつぎのように定めていました。「機械、鍛冶、製缶、鋳造、模型、銅工、鉄船工、電機工、鉄工場在勤機関手及火夫等の諸業に従事する者にして別に定むる所の書式に従ひ本部事務所または支部事務所へ加入を申込み其役員会議の承認を得たるものは本組合員たることを得」。つまりこの組合は特定の職種の労働者を組織対象にしたのではなく、〈鉄工場〉=金属機械工場で働く労働者すべてを組織しようとしていたのです。組合員がいた企業名をあげると、東京砲兵工廠、大宮工場をはじめとする日本鉄道各地の修理工場、新橋鉄道局、芝浦製作所、石川島造船所などでした。組合員となったのは主として機械、鍛冶、製缶、鋳造などいわゆる〈鉄工〉でしたが同時に、木工、塗装工、機関夫、火夫など〈鉄工〉とは明らかに違う職種の労働者もふくまれています。もっとも機関手や火夫は規約の明文で認められており、木工や塗装工も「鉄工場在勤機関手及火夫等の諸業に従事する者」という〈抜け道的規定〉がありますからその解釈しだいで規約違反とはいえないでしょう(12)。ただこうした規定とは無関係に、後には工場や職種を問わず、参加を希望する人がいれば受け入れているのです。たとえば、本来は別個の組合だった〈横浜市西洋家具指物職同盟会〉を丸ごと第41支部として認めています(13)。そればかりか、なんと「工場所長兼技師」の加入さえ承認しているのです(14)。
こうした点を、労働組合運動の母国であるイギリスのクラフト・ユニオンと比べてみると、その違いは明らかです。クラフト・ユニオンの組織原則の基本は、組合員資格をきびしく制限することにありました。組合に参加できたのは、その組合の正規のメンバーのもとで徒弟として一定期間の修業を終えた者だけでした。必要とされる修業年数は、時代によって、また職業によっても異なりましたが、通常、5年から7年で、しかも21歳までに修業を終えていなければなりませんでした。ここで注意する必要があるのは、クラフト・ユニオンに組織された熟練労働者の〈熟練〉とは、〈職業能力〉そのものではなく、何よりも〈資格〉だったことです(15)。この資格重視はイギリスだけではなく、欧米の熟練職種、専門職に広くみられるところです。実はこれこそ今回の話の中心的な論点ですので、もう少し説明させていただきます。
徒弟修業の期間は、職種によって異なるのは当然ですが、19世紀中頃になると多くの仕事は組合規約が定める5年〜7年といった長期間を必要とするものではなくなっていたようです。とくに近接する職種での経験があれば、比較的容易に習熟可能な仕事は少なくありません。たとえば大工なら鋳物の木型製作の仕事を、あるいは家具製造工なら大工の仕事の少なくとも一部は、すぐにも処理しうる能力をもっていたはずです。あるいは石の採掘に従事している労働者なら、短期間で石工の仕事をこなす能力を身につけるに違いありません。しかしクラフト・ユニオンは、仮に技能面で他の組合員にくらべて遜色のない〈職業能力〉をもつ者が組合参加を希望したとしても、その職種についての所定期間の徒弟修業を所定年齢までにすませているという〈資格〉を満たしていなければ、加入を認めませんでした。そればかりか無資格者(illegal man)として、その仕事につくことを妨害したのです。もし彼が他の労働組合の正規の組合員だったとしても、無資格者であることに変わりはありませんでした。万一、雇い主が無資格者を雇い入れるようなことがあれば、組合員は無資格者とともに働くことを拒否し、職場を去ったのです。これは熟練労働者の間で頑強に生き続けていた慣行であり、組合規約の明文でこれを禁じている例も少なくありませんでした。クラフト・ユニオンがこのように組合員資格をきびしく制限したのは、そのことによってその職業の労働力供給が過大となり、労働条件が低下することを防ぐためでした。ですから、徒弟としての修業年数を規制しただけでなく、組合員数と対比して徒弟数の制限も実施したのです。当然のことながら、そこでは〈職種〉の範囲も歴史的に明確でした。
もちろんさまざまな技術的変化によって職務内容は変化し、それにともなって〈職種〉の範囲をめぐり、組合間の縄張り争いがおきました。たとえば、船舶製造が木造船から鉄船に重点を移すようになると、伝統的に造船業を組織基盤にしてきた船大工組合と、新たに参入したボイラー製造工など金属機械工組合との間で激しい縄張り争いが頻発しました。ある意味では、こうした職種間の縄張り争いを通じて、職種の範囲は歴史的に定められて来たといってもよいでしょう。ところが、日本では、こうした縄張り争いはほとんど起きていません。職種の枠組みがもともと明確ではなかったからだと思われます。また、徒弟数の制限もほとんど存在していませんでした。たとえばある機械工場では、一人の親方が50人も60人もの徒弟を引き連れて働いていた事実が知られています(16)。つまり鉄工組合の組織基盤となった日本の機械工場の労働者の間では、クラフト・ユニオンがその基本的な政策として重視した、入職規制によって労働市場における力関係を自分たちに有利にするといった考えは存在していなかったのです。
4 日本にも〈閉鎖性・内的規制力〉をもった同職集団が存在した?
ここで、この機会にぜひ検討しておきたいテーマがあります。それは東條由紀彦氏が「明治20〜30年代の〈労働力〉の性格に関する試論」(17)と題する論文と、それを「補論」に収めた『製糸同盟の女工登録制度』で展開している議論についてです。ちなみにこの東條論文は、日本労働史研究の数多い成果のなかで唯一つ近世史研究者によって注目されている作品なのです(18)。その点からも、この問題の検討を避けて通るわけには行きません。
東條氏も、私と同様に日本社会の特質を強く意識し、西欧を基準とするのでなく、その相対化の必要を主張しています。その限りで二人の視角は一致しているのですが、そこで氏が展開されている議論は、私の認識とはかなり距離があります。というより、内容的には真っ向から対立していると言うべきでしょう。東條氏の本は、お読みになった方はご承知のとおり、独自の定義を駆使して独特の近代日本社会論を展開しています。歴史研究というより、労働史的素材を用いた哲学的思索の結晶ともいうべき労作で、〈東條語〉になじみのない方に、限られた時間のなかでお分かりいただくのは至難のわざです。また批判者による短い紹介だけでは不公正のそしりを免れませんから、私の話だけでなく、直接同書をお読みいただいた上でご判断いただければ幸いです。
東條氏の主張と私との一番の対立点は日本の同職集団の性格をめぐるものです。氏は「日本には明示的ではないが強い規制力をもち、自律的な同職集団が存在し、その閉鎖性、内的規制力は西欧の職業別組合と比べうる水準だった」と主張されています。これに対し私は、「日本にはヨーロッパのクラフト・ユニオンのような規制力をもつ自律的な同職集団は存在しなかった。この点こそ日本の労使関係のその後を規定した重要な特徴だ」と考えているのです。
氏の主張を、もう少しご本人の文章に即して見ておきたいと思います。たとえば、次のように論じられています。
「当時の重工業労働力が〈伝統的〉な形をとるとは言え西欧の古典的職業別組合とも比定しうる閉鎖性・内的規制力をもっていた」(東條前掲書424ページ、以下カッコ内の数字は同書のページ数)。
「彼らはかなり強い障壁を持つ社会的地位たる〈同職集団〉を形成しており(本稿で検討して来た彼らの人格的結合関係に媒介された集団としてのまとまりをこの言葉で総括したい。〈同職集団〉は組織的・法的・制度的な規律・機構の有無は問わない。彼ら相互にその各々がその一員でありしかも自明で明瞭な範囲を持つものとして認知されている事、及びその一員たるためには何らかの意味で〈分与〉さるべきもの──重工業労働力の場合には社会的規範としての〈熟練〉──が介されていると意識されている事、それにより何らかの慣習的〈伝統的〉な形を含めての規制の条件が与えられている事、これが要件である)頻繁な移動も基本的にその内部で行われる。」(426)
「熟練職工は、その自律的連帯によって〈同職集団〉を形成し、職場はそれによって規制されており、その内容は資本にとっては一つのブラックボックスであった」(3)
問題は、氏が以上のような論点を実証しているわけではなく、単に氏独特の「近代日本社会論」=「複層的市民社会」論を展開するなかで断言されているだけであることです。日本の重工業労働者が「西欧の古典的職業別組合とも比定しうる閉鎖性・内的規制力をもっていた」という主張はあるのですが、その「閉鎖性・内的規制力」が具体的にどのような内容をもっていたのかは、かならずしも明らかではありません。それに関して言われているのは次のようなことです。
「親方と職人・徒弟の身分的秩序や人格的つながり、〈家業〉意識による自己規制や〈タテ〉のつながりによる規制が非常に強かった」(424)
しかし、はたして日本の重工業労働者に〈家業〉意識があったでしょうか。私が具体的に調べたことがあるのは鉱山労働者ですが、そこではすでに明治維新前、1840年前後の阿仁銅山で、先祖代々働いている床大工(製煉職人)でさえ〈家業〉意識をなどとはまったく無縁で、隙さえあれば山役人をごまかして私益をむさぼる傾向があることが記録されているのです。
「床大工ヲ始メ下々ノ者ハ凡テ浅間敷者ニテ、数代己レガ家業ナレドモ、心ヲ用ル者ハ百人中一人モナシ。」(19)
まして鉄工組合の中心勢力であった東京砲兵工廠の労働者らに〈家業〉意識による自己規制が存在したとは、とても考えられません。もちろん、技能伝習によって結ばれた親方徒弟間に「身分的秩序や人格的つながり」が存在したであろうことは容易に想像されます。しかし、それは「人格的つながり」の語が示すように、その親方と徒弟の間の直接的個人的な関係で、その関係が〈同職集団〉全体を規律する力をもっていたとは考え難いのです。なにより〈同職集団〉の閉鎖性を論ずるとなれば、いかなる職業の人びとの間で、その集団への参加をいかに規制していたのかを具体的に示す必要があるでしょう。ところが、東條氏は次のように述べ、日本では〈職種〉の基準自体があいまいで、自己の主張に難点があることを認めてしまっているのです。
「〈職種毎に細分化された同職集団〉という言い方をして来たが、実はこれにはやっかいな問題がふくまれている。というのは、この〈職種〉の基準自体がこれまた外面的にはルーズで、英国における仕上工と製管工の抗争に象徴されるような明示的な形での区別を求める事が困難だからである。端的な話、我々が重工業労働者の〈同職集団〉としての性格に言及した際にも、重工業労働力全体がひとつの〈同職集団〉なのかそれともその中の個々の職種がそうなのか、またその〈同職集団〉は伝統的な手工業の例えば〈鋳物職〉等々と一応区別されるのか、それともそれを含めた範囲なのか等について、明確に答えてはいないのである」(429)
このように、同職集団を論ずる上で決定的に重要な「職種の基準」があいまいであることを認めてしまっては、東條氏の立論はその基礎を失ってしまうことになるのではないでしょうか。「彼ら相互にその各々がその一員でありしかも自明で明瞭な範囲を持つものとして認知されている」という断言とこの引用文とを整合的に理解することは、私にはとうてい不可能です。
また入職規制についても東條氏は、「日本のギルド・古典的な職人社会では当初から明示的な形での〈規制〉はそもそも弱く、幕末維新期には徒弟年期や人数についての制度的規制はほとんど存在していなかった」(424)と、草創期の長崎造船所に関する中西洋氏の研究成果(20)を承認しています。徒弟の年季や人数についての制度的規制がほとんど存在しない社会で、果たして「強い規制力をもち、自律的な同職集団」はいかにして存在しえたのでしょうか。また仮に、そのような「強い規制力をもち、自律的な同職集団」が存在していたとして、それが数十年という短い期間にほとんど痕跡を残さず消滅してしまったのは何故でしょうか。東條氏が「比定しうる」、つまり同じ水準で比べうると主張されるイギリスのクラフト・ユニオンの場合は、入職規制を根幹とする〈クラフト的規制〉を争点とする争議に何回もの大敗北を喫しながら、組織を維持発展させたばかりか、世紀を超えてその規制力を失うことがありませんでした(21)。こうした違いを無視して、日本の重工業労働者が「西欧の古典的職業別組合とも比定しうる閉鎖性・内的規制力をもっていた」と主張することに、どのような意味があるのでしょうか。
さらに「熟練職工は、その自律的連帯によって〈同職集団〉を形成し、職場はそれによって規制されており、その内容は資本にとっては一つのブラックボックスであった」と断言されています。しかしこの主張はこれまで多くの日本労働史研究が明らかにしてきた事実とは大きく異なっています。このような通説に反する主張をされるのであれば、それを実証的に裏付ける作業が不可欠だと思います。19世紀末の日本で職場を労働者の自律にゆだねこれをブラックボックス化させていた企業が存在したと主張されるなら、その企業名をあげ、証拠を示して欲しいと思います。私自身がいくらか詳しく調べている1880年代から20世紀初頭にかけての足尾銅山の選鉱・製煉部門の場合、職場は資本にとってのブラックボックスなどではなく、生産の主導権はほぼ一貫して学校出の技術者の手にありました(22)。仮に、日本の職場が資本にとってブラックボックスであったとするなら、あのような日本資本主義の急速な発展はありえなかったのではないでしょうか。関連して、菅山真次氏が「日本の産業化過程における熟練形成の一断面」(23)と題する論稿で東條氏の見解を実証的に吟味する作業をされていることも紹介しておきたいと思います。菅山氏は官営製鉄所の宿老・工長のキャリア分析を通じて、日本の熟練労働者の閉鎖性は弱く、他の社会階層との人的流出入も決して例外的であるとはいえなかったことを明らかにしています。「官営製鉄所においては、その創設以来〈遠い職場〉への移動も含めて、要員管理の手段として配転が頻繁に実施されていたが、このことは、〈親方労働者に統率された職場の協業集団の自律性〉の弱さを端的に物語っている」と結論づけています。
もちろん、私も日本に数多くの同職集団が存在したこと、そうした集団がそれなりに〈自律的〉な規制をおこなっていたことまで否定するつもりはありません。同じ職業に従事する者同士の間には、その職務を遂行する上で必要な集団的規制力が働くのはごく自然なことです。たとえば不熟練職種の典型とされることの多い沖仲仕の場合でも、重い荷を担いで揺れる艀船から本船にしなる板子をつたって運ぶ作業を行うには、それなりの適性と経験が必要だったに違いありません。適性を欠いたり不慣れな者が混じっていては他の者の仕事にも差し支え、時には災害の危険さえありえます。その場合、沖仲仕の集団が不適格者を排除するといった規制力を行使し、一見閉鎖的にみえることはありえます。これを同職集団の〈自律性〉〈閉鎖性〉と呼ぶことも可能でしょう。しかし、これは仕事そのものの技術的な要請から生まれる規制であって、社会的に承認された資格に基礎をおいた「西欧の古典的職業別組合とも比定しうる」規制とは異質のもので、単純に「比定しうる」ものでないことは明瞭です。
日本の働く人びとの間で古くから言い習わされた決まり文句に「腕さえあれば一人前」というものがあります。これは日本の同職集団が問題にしていたのは、その者の〈職業能力〉であることを明示した言葉です。これに対し、ヨーロッパのギルドやクラフト・ユニオンは〈資格〉を問題にしたのです。この違いの大きさを認識しないと、なぜ日本では、〈就職〉ではなく〈就社〉になったのか、なぜ専門職が育たないのかなど、いろいろな問題が理解できません。日本社会は〈腕〉の有無は問題にしても、その〈腕〉を身につける際にどのような手続きを経たのかという〈資格〉を問題にすることはなかったのです。そうした事態をいくらか変えたのは、弁護士、医師、看護婦など、国家資格を必要とする欧米的な専門職種制度の導入でした。その際でも、日本と欧米との違いはさまざまな形で続きました(24)。この〈資格〉を重視するか〈腕〉を重視するかという違いが存在することを見落としては、日本の労使関係はもちろん、欧米の労使関係も理解し得ない、と私は考えているのです。
5 鉄工組合がクラフト・ユニオンたりえなかった原因
ここでもう一度前に戻って、鉄工組合がクラフト・ユニオンたりえなかった原因について考えてみたいと思います。これについては、最初に問題を発見された兵藤釗氏と池田信氏がそれぞれ答えを出されていますが、お二人の間にはかなりの違いがあります。
兵藤氏は鉄工組合の指導者は職業別組合を目指していたが、経営者や政府の労働運動に対する抑圧的態度と労働者の精神的未成熟に加え、「組合規制によって自律的に労働条件を維持するという職業別組合に特徴的な活動を許容する余地は日清戦争後の重工業においては、それほど大きくなかった」と把握されています。つまり「親方労働者が徒弟を養い、徒弟に対して強い規制力をもっていた職人的徒弟制度がほとんど崩壊し、見習職工制を通じて雇主が技能養成の過程を把握しつつあったような状態、しかもその見習職工制度さえも形骸化するほど見習職工が高い賃金を求めて容易に流動しうるような条件が存在したもとでは、組合規制によって入職制度を貫くことはきわめて困難であった」(25)というのです。
これに対して池田氏は高野房太郎、片山潜らの指導者は「労働力供給規制と失業手当によって人為的に高い賃率を維持しようとする古典的職業別組合を志向していな」かったと、鉄工組合の方針について兵藤氏とは異なった見解を示されています。そして、「欧米先進諸国の、すでに職業(トレード)が職務(ジョブ)に分解されつつある段階の技術を移植しようとした」日本では「手工的・万能的熟練をもった労働者が、安定した層として確立されることはな」く、また「旧来の鉄工業における職人層と近代的重工業における職工層とは、技術的にも、人的にも連続性にとぼしい」事実を指摘されます。その上で、重工業における労働力需要が急増したため「鉄工業職人層出身者の比重は小さくなり、農民層・都市雑業層の比重が一段と大きくなった。労働力需要の急激な増大は、熟練の分解とあいまって労働組合による労働力規制を困難にするものであった」と主張されるのです(26)。
兵藤氏が「徒弟に対して強い規制力をもっていた職人的徒弟制度がほとんど崩壊し」と述べ、池田氏が「旧来の鉄工業における職人層と近代的重工業における職工層とは、技術的にも、人的にも連続性にとぼしい」と記されている点から考えると、お二人とも、日本でも、かつては、あるいは旧来の職人層の間では、強固な徒弟制度が存在しており入職規制も可能であった、と判断されているようです。しかし実際には、旧来の職人層の間においても徒弟制度が崩れていたことは、同時代人によって広く認められていました。
たとえば、横山源之助は1896(明治29)年現在で東京府下にある職人の組合として、壁職、大鋸職、穴蔵大工、瓦職、造船、畳など65の職種をあげています。それに続けて次のように述べているのです。
「その数頗る多し。然れども組合の実を備ふるは幾何ぞ。多くは無名〔ママ〕無実にして形式的に看板を掲げ年一、二回集会するのみ。集会するは尚ほ可なり。右挙げたる中名義を存せるのみにて今日全く集会せざるものあり。特に職人の中にて三役の第一位を占め人数最も多き大工の如き七、八年前迄は組合ありしと聞けるに、今日、本所区に小団体を見るのみにして全くその影さえ消滅せるが如き、以て職人社会の現状如何を知るの料とすべし」(27)。
また、日本に近代的労働組合を広めようとした高野房太郎らは、欧米の労働運動において職人が重要な役割を果した事実を知っていましたし、職人に対しても熱心に働きかけています。高野房太郎が執筆した日本最初の労働運動宣伝パンフレット『職工諸君に寄す』は、組織化の具体例を示しているのですが、その第1にあげているのは大工組合なのです。また彼は、東京船大工組合や雛人形組合などの会合に出席して、労働組合期成会へ参加を働きかけています。しかしこれに応えて運動に参加した伝統的な職種の職人は横浜の船大工だけでした。その後、友愛会以降の労働運動においても、伝統的職種の労働者の参加はごく少数でした。日本の労働運動に職人が参加するようになったのは第一次大戦後のことで、それもごく一部の地域を除き、あまりみるべき足跡を残していないのです。これは熟練職人が労働運動の草創期に中心的な役割をはたした欧米(28)との大きな違いです。
もっとも鉄工組合のような欧米型組織をモデルにした労働組合だけが労働者の運動というわけではありませんから、旧来の職人組合がその職業の利益を守るための活動を展開していたのであれば、それも日本における労働運動のひとつのあり方として検討されるべきでしょう。しかし、この点でも日本の伝統的な職種の労働者の動きはあまり活発ではありませんでした。そのなかで例外的といってよいほど長期間にわたり組織を維持し、比較的活発に活動していたのは、採鉱夫の間で自律的に組織されていた友子同盟です。友子同盟は、日本の近世・近代を通じて存在した同職集団で、技能修得によって結ばれた親分子分関係を基礎に、緩やかながら、全国各地の同業者との間で、相互救済的機能を果たしていました。地理的には北海道から九州の一部まで、全国各地の鉱山、炭鉱に広範囲に存在していたのです。友子同盟の正規のメンバーになるには、親方のもとで一定期間の修業が必要であるとされ、親方がもちうる徒弟数にも制限があるなど、日本の同職集団のなかでは最もクラフト・ギルドに近い性格をもっていました。しかしその友子同盟にしても、意識的に採鉱夫の労働市場をコントロールしようとする志向はみられませんでした。もし仮に、そうした意図があったなら、友子同盟は一時的にせよ日本の採鉱夫の労働市場を支配し得たかもしれません。20世紀初頭まで採鉱作業の機械化は技術的に困難でしたから、鉱山業の発展にともない採鉱夫の数は急増していました。友子同盟はそうした時期に、採鉱夫の技能伝習に大きな役割を果たしていたのです。しかし結局友子同盟は労働力供給制限の機能を果たすことはありませんでした。何よりもその事実を明示しているのは、友子同盟に参加しなくても採鉱夫として働くことが可能だったことです。それは、友子同盟不参加の坑夫を〈村方坑夫〉と呼んでいたことからも明らかです。また3年3月10日とされていた徒弟期間にしても厳格には守られず、ある程度の技能を修得すると他鉱山へ移動し、そこで1人前の鉱夫として働く者が続出したようです(29)。徒弟期間が守られなかったことは、坑夫だけでなく鉄工についても、あるいは各種の職人についても指摘されています(30)。
もうひとつ付け加えれば、もし日本の職人たちがヨーロッパのクラフト・ギルドと同様な性格をもっていたのであれば、幕末から明治初年にかけて、その活動の記録がもっと数多く残っているはずだと思うのですが、これが意外に少ないのです。ご承知のように、明治政府は明治元年の商法大意で〈株仲間〉の人数の増減は自由であることを宣言し、〈仲間〉による賃金、価格の規制を禁止しています。仮に〈仲間〉がヨーロッパのギルドと同じような性格の組織であったとすれば、この命令は生活上の激変を招いたに違いありません。しかし現実には、これに対し職人や商人の〈仲間〉が抵抗した形跡は、ほとんど見られないのです。
あるいは明治維新にともなう諸改革で、武士を顧客としてきた職人は大打撃を受けたであろうことも容易に想像されます。刀や銃など武具の製造に関わった職人、裃など武士独特の服装の仕立て職人、武士を上得意としていた各種の奢侈品製造の職人、あるいは関連する商人の数は少なくなかったはずです。その他の手工業職人のなかにも、開国後、欧米から輸入された商品や新技術によって壊滅的な打撃を受けた業種もありました。しかし、こうした事態に対しても、職人たちの組織的な動きはあまり記録されていないように思われます。
以上、要するに私が兵藤・池田の両氏と見解を異にするのは、つぎの点です。すなわち明治維新後の日本資本主義の急速な発展が伝統的な徒弟制度を崩壊させたり、旧来の職人層と重工業労働者との間に技術的、人的に連続性が乏しいものであったことが鉄工組合のクラフト・ユニオン化を妨げたというより、日本社会はもともとクラフト的規制になじまない社会だったのではないか。つまり、特定の集団がある職業や商品販売を独占したり、あるいは最低賃金を協定するといったやり方を、当事者は別として、一般社会が正当とは見なしていなかったのではないか、そう考えているのです。この想定が正しいか否かを判断するには、徳川時代の同職集団のあり方、その特質について検討せざるをえません。
V 近世日本の職業集団
さて、いよいよ本題の、近世日本の職業集団の特質をヨーロッパのギルドと比較しながら考えてみたいと思います。もっともギルドについても、また近世日本の職業集団についてもまったくの門外漢が、近現代労働史研究の結果から推論するだけのことですから、当然のことながら〈仮説〉的見解の提示にとどまります。はたしてこの〈仮説〉が近世史研究者の目から見て、いささかなりとも検討に値する論点を含んでいるのか、あるいは素人の単なる思いつきにすぎないとお感じになるか、ご判断を得たいと存じます。
1 自由都市と城下町
日本の〈仲間〉もギルドも、特定の職業に従事する人びとが、その職業上の利益を守り、互いに助け合い、親睦をはかる組織であった点では共通しています(31)。ただ、両者は、権力との関係において決定的な違いがありました。ヨーロッパの場合、ギルド自体が都市共同体の運営を担う存在であったのに対し、日本の〈仲間〉は幕藩権力によって支配されていたのです。それも城下町という領主のすぐ目の届く地域に集められ、組織の存在自体が、すべて幕府や藩の公的な、あるいは暗黙の承認の上に成り立っていました。これは古くから知られた自由都市をめぐる問題と関わっています。最近の研究では、ヨーロッパの中世都市もかつて考えられていたほど一様な〈自由都市〉ではなかったことが分かり、一方、日本の都市においても町(チョウ)の自治が注目されていますから、こうした論議はいささか時代遅れなのかもしれません。しかし、私はやはり最初に日本の都市とヨーロッパの都市の基本的な性格の相違を再確認しておく必要があると考えます。
言うまでもなくヨーロッパの中世都市も王権による承認と庇護のもとに成立したものでしたが、基本的には市民による自治を基本とする自由都市でした。一方、日本の中世都市のなかには堺をはじめ、博多、桑名のような自治都市は存在しましたが自由都市ではありえませんでした。この〈自治都市〉〈自由都市〉の区別は、日本の自治都市である寺内町などについて研究された脇田修『日本近世都市史の研究』によるものですが、ここでもまず同書のなかのつぎのような指摘を振り返っておきたいと思います。
「自由都市は都市共同体が身分的特権をうること、直裁にいえば封建領主権を獲得し、それゆえに市民は領主制下の農奴身分から解放されるのであった。その意味では日本の都市は自治都市として発展したが、自由都市ではなかった。」(同書178ページ、以下カッコ内の数字は該当ページ)
これは、当然といえばあまりに当然な指摘ですが、しばしば見落とされがちな点ではないかと思います。以下、同書から私が重要と考える点をいくつか抜粋してみます。
「統一政権の登場によって、中世的自治は解体した。」(179)
「兵農分離に示される近世身分制の成立は、農村より在地領主層と商工業者をひきはなし、都市に集住せしめた。このことは近世都市に決定的な性格を与えている。まず都市は領主階級と商工業者の居住地で、なによりも領主階級の集住地としての規定をうけていた。(193)
「町人は領主により丸がかえの奉仕者として把握されていた。」(200)
「近世都市の特質の一つは、その構成単位がチョウにあることであった。すなわち都市共同体の指導者がギルドのような職能団体の代表者ではなくして、地縁的な結合であるチョウを中心に構成されていることであった。〔中略〕このようなギルド的な職能団体による市政への参加が、ヨーロッパの如くに展開しなかったことも、近世都市の性格を特色づけているものであった。そしてその転換は中世的座の解体と、商工業者の近世的編成によるものであった。」(203)
「近世都市においても、一定の自治がみられたのであるが、……領主側は一貫して支配の都合により都市行政を考え、とりわけ軍事的警察的観点をつらぬいていた。そのため本来の都市機能・経済活動については放置し、町民の〈自治〉にゆだねるという方法をとったのであった。」(207)(32)
以上のうち最後の一文、「本来の都市機能・経済活動については放置し、町民の〈自治〉にゆだねるという方法をとった」とする箇所を除き(33)、他の論点はいずれも説得的な内容だと思います。
2 ギルドと〈仲間〉──競争制限に対する社会的合意の存否
ギルドと〈仲間〉の間の大きな相違として注目されるのは、その「職業上の利益を守る」ための方法について全社会的な合意が得られていたか否かという点にあります。ヨーロッパの場合は一定地域内における特定の職業をギルドが独占することで、「職業上の利益を守る」という目的を果たしていました。都市民の多くはなんらかのギルドに属していましたから、こうした競争制限的な方策は、しごく当然のこととして広く受け容れられていました。具体的には徒弟の数を規制することによって競争相手を増やさないようにし、製品の品質の維持に力を入れ、原料や完成品の質量などについての基準を定め、自主的に検査を実施して、違反者には罰則を科しました。また製品の量についても規制して〈公正な価格〉を維持することにもつとめました。そのためには夜間作業を禁止し、労働時間を規制するといった慣行もひろく行われました。ギルドの正規のメンバーとなるには、それぞれのギルドが自律的に定めた手続きにしたがい徒弟として一定年数の修業をつみ、その上で全構成員から加入の承認を得なければならなかったのです。こうした規制のため、手工業ギルドでは、修業を終え一人前の技能を身につけた者は増加しましたが、親方株が限られていましたから、親方身分を取得できず生涯を職人として働く人びともまた増え、親方・職人・徒弟の3階層が形成されていたのでした。そうなると職人たちも親方の組織ににせた独自の職人組合を組織し、相互扶助と同時に親方たちへ賃金の引き上げや労働時間の短縮を要求する運動を展開するようになりました(34)。
日本の〈仲間〉の場合も、同業の利益を守るためにその構成員の数を制限したり、価格や賃金の引き上げを申し合わせたことが知られています。しかし、こうした〈申し合わせ〉は、しばしば幕府や領主によって否定されています。周知のように、1657年の明暦大火後に出された江戸の町触れは、大工・木挽・屋根葺き、石切、左官、畳屋などが、会所を設けて寄り合い、手間料を高値に申し合わせているとし、こうした行為を禁止しています。また1710年の町触れでは、屋根葺き職人が申し合わせを破った者を排除していることを咎め、仲間に復帰させることを命じています(35)。これらの町触れは、職人仲間が〈自律的〉に同職の利益を守ろうと努力していた事実を示すと同時に、幕府がこうした〈申し合わせ〉の正当性を認めなかったことも明らかにしています。もっとも禁令が出たからと言って、職人たちがそれに従ったとは限らず、内密に〈申し合わせ〉を維持しようとしたであろうことも容易に想像されますが。
もちろん株仲間の場合は、業務の独占、成員の数を限定することを幕府から認められていました。しかしそれを認める論理は、ギルドのように特定の職業をその同職共同体が独占すること自体を正当とするものではありませんでした。社会的に必要な物品の安定的な供給であったり、特定の役務提供の見返りであるなど、なんらか別の〈公的〉な理由を必要としたのでした。〈仲間〉が特定の職業を独占し、その成員の数を限定し、製品価格を協定することは、正当とは考えられていなかったのです。こうした方式による同業者の利益擁護は〈仲間〉内では当然のことであっても、外部に公然と主張できるような正当性をもってはいませんでした。
もうひとつ注目されるのは、日本の〈仲間〉の場合、成員数の制限がかならずしも厳格ではなく、株仲間の場合でさえ成員の数を実質的に増加させていた事実です。たとえば大坂道修町の〈薬種中買〉の株仲間は、株数限定の〆株で、日本の〈仲間〉のなかではその株数の枠を厳守した数少ない事例のひとつだと思われます。しかし経営の主体が個人ではなく、非血縁者である奉公人まで含めた〈家〉にあり、奉公人の数まで〈仲間〉が制限したわけではありませんから、〈仲間〉の実質的な成員数はかなり変動したと推測されます。同じように成員数を制限したとはいっても、その単位が個人ではなく〈家〉にあった点は、日本の株仲間の大きな特徴としてもっと注目してよいことだと考えます。しかもこの〈薬種中買〉の株仲間は永年勤めた手代などが正規の株をもたなくても同業者の一員として売買に参加しうるように、〈組下〉や〈神農講〉といった下部組織を設けるといった抜け道まで用意しているのです(36)。そこには規定は単なる〈形式〉であるとして、個別の具体的な事情を重視することを良しとする価値観が働いています。法規を厳密に適用することを杓子定規とし、人情味のある「大岡裁き」を評価する社会だったのです。その伝統は今なお生き続け、憲法の明文で規定されている事柄でも、既成事実の積み重ねに対応した解釈によって実質的に空文化したままで平然としていられる、原理原則の軽視となっているのではないでしょうか。
なお、近世の〈仲間〉のなかで〆株制をとった〈株仲間〉は、全体からみるとごく少数だったのではないでしょうか。それも物価や物品の流通に関わる商人に多く、職人仲間で地域的にせよ独占的な営業を認められたのは木戸番、橋番など番役を兼ねた髪結いなどごく限られた職種だったように思われます(37)。その髪結いの場合でも〈仲間〉に入らず営業する者が少なくなかったこともよく知られた事実です(38)。また歴史的にみても、営業の独占や仲間の人員制限が全面的に否定された時期があったことも周知のとおりです。
いずれにせよ、日本の職人の〈仲間〉の場合、ヨーロッパのギルドのように徒弟の数を意識的に制限し、労働市場を支配しようとすることは幕府はもちろん、顧客などからも受け容れられることはなかったと思われます。もともと都市を囲む城壁がなく、全国各地から大勢の人間がたえず流入流出を繰り返していた江戸のような町では、職人〈仲間〉が成員の数を制限して労働市場をコントロールするといったことは、技術的にも困難だったと考えられます。とくに大工など繁閑の差が著しい職業では、大火後などの繁忙期には、他国から大勢の出稼ぎ職人を集めざるをえませんでした。大名屋敷の建築修理などには国元から多数の職人が呼び寄せられたことでしょう。こうした大名庇護の職人の就業を、江戸の職人仲間が阻止する力などもちえなかったことは容易に推測されます。このように職人のなかでも大きな比重を占めていた建築職人〈仲間〉の職業独占が不可能だったとなれば、ほかの職人〈仲間〉もヨーロッパのギルドのような職業独占にもとづく規制を実行することは難しかったのではないでしょうか。関西の中井家支配の大工について鑑札が出されていたことはよく知られていますが、そこでも鑑札をもたない〈素人大工〉が少なからず存在していました。そうした場合、鑑札をもった大工は、無札の大工の排除でなく、これを〈仲間〉に組み込むことによって各人の役の負担削減を要求しているのです(39)。
こうした社会で、徒弟年季を厳しく守らせることはなかりの困難をともなったに違いありません。ヨーロッパの徒弟制度が長期間にわたって頑強に存続し続けた理由のひとつは、徒弟期間の修了という〈資格〉を取得しない限り、その職につくことが出来ないという社会的慣行の強固さにありました。これに対し同職集団が労働市場を独占することについての社会的合意がない日本では、徒弟制は単なる技能伝習の制度としてのみ意味をもつことになったと思われます。もちろん、徒弟制度は親子関係の擬制で守られ、人別帳も作成されていましたから、技能伝習だけが親方子方を結びつけていたわけではありません。しかし、いったん一人前の腕を身につけてしまった徒弟にとって、他所に行けば高賃金がとれるとの誘惑は抗しがたい力をもっていたと思われます。親方に厳しく叱責された時、ほかで高い手間賃がとれる仕事があると誘われた時、親方子方関係だけでは拘束しきれなかったのではないでしょうか。もちろん人別帳から除かれ無宿となることは、ある程度の制約条件とはなっていたに違いありません。しかし現実には、奉公人や弟子の逃亡、行方不明が少なからず起きていること(40)、しかもそうした年季途中での暇乞いや欠落ち者を、同業者が雇い入れている事実を考えると、これらの規制力に限界があったことは明らかだと思われます。横山源之助の『日本の下層社会』は、徒弟制が「昔日に比し」年季は短くなり、それさえ守らず途中で逃げ出す弟子が多くなったことを慨嘆しています(同書84〜85ページ)。しかし、実は同じような嘆きは、すでに18世紀末の文献にも見受けられるのです(41)。こうした事態の背後には、江戸時代の都市経済の発展があると同時に、日本の徒弟制度が〈資格〉取得の関門ではなかった事実抜きには理解できないことではないでしょうか。
3 自助・自衛と権力への依存
ギルドやクラフト・ユニオンの特色のひとつは、その職業上の権益を自律的に守っていたところにあります。これは国家の保護が受けられないからやむをえず自らの力で守ろうとしたわけではありません。国家に依存せず、互いに助け合う=集団的自助の精神を重視していたのです。19世紀のイギリスには、クラフト・ユニオンだけではなく、並行して相互扶助を柱とする友愛組合、あるいは協同組合など、数多くのボランタリー・アソシエーションが生まれています。実のところ、初期の労働組合の多くは友愛組合でもありました。労働組合運動にも引き継がれたこのボランタリズムの精神を育てたのはまさにギルドを基礎とした都市社会だったのです。
これに対し日本の職業集団は、すでに見たとおり自力で職業上の利益を守ろうという努力が皆無だったわけではありませんが、何かというとすぐに町年寄の力を借り、あるいは奉行所へ訴え出て問題を解決しようとする傾向が強かったように思われます。国役負担の問題とか、〆株の権利をめぐる争いのように仲間内では解決しがたい問題ならともかく、仲間内の申し合わせ違反に対してさえ町年寄りの力で取り締まるよう嘆願をしている事例が見られます(42)。もちろんこうした気風は、権力側が、自律性をもった自立的な組織の存在を一貫して認めなかったことから生まれたものでしょう。ただし、この〈仲間〉と〈おかみ〉の関係を、権力側の一方的な支配の貫徹とだけ見るわけには行かないこともまた確かなようです。そこには権力主導のもとに、〈相互もたれあい的な関係〉が存在していたのではないでしょうか。実は、私は、以前書いた論文では命令支配の側面だけを強調し、「徳川時代における職人の組織は特定の職能に属するものを上から支配し〈夫役〉を徴収することを目的とする機構だったのである」(43)と述べています。しかし、これはやはり一面的に過ぎたと思います。乾宏巳『なにわ 大坂菊屋町』は、奉行所が〈仲間〉や町方に関するさまざまな問題について、事前に関係者へ諮問する慣行をもっていたことを具体的に教えてくれました(44)。
4 〈組織文化〉の問題
もうひとつ今回追究してきたテーマから直接導きだされる問題ではないのですが、関連して検討を要すると思われるのは、日本の組織文化の特質です。これは職業集団だけではなく、さまざまな社会組織、政治組織に共通する、より広がりをもった問題ですが、同職集団について考える上でも重要です。実はこの問題の重要性に気づいたのは、韓国の労働組合と日本の労働組合との比較研究をおこなった時でした。韓国の労働組合は、組織形態も企業別組織が圧倒的多数を占め、工職混合組合もかなり高い比率で存在するなど、組織形態の面では日本ときわめてよく似ています。ところが、実際に韓国へ行き、労働組合の運営実態を調べたとき、両者の間に大きな違いがあることを発見したのです。それは、役員の選出方法や組織の運営の仕組みです。すなわち、韓国の労働組合役員の選出方法やそれに基づく組織運営はまさに〈大統領制〉的なのです。立候補は単独でなく組合4役、委員長、副委員長、書記長、政策局長の候補者がランニングメイト、つまり立候補者チームを形成します。そして組合員の全員投票によって多数を獲得したチームが、執行委員全員を指名する権限をもつのだそうです。当然のことながら意思決定、組織運営は完全なトップダウンで行われます。これは労働組合だけでなく、南北をとわず朝鮮半島の政治制度、企業組織などにも一般的に当てはまるように思われます。
こうした点から近世日本の職業集団の組織運営をみると、いつくかの特色を発見することができます。まずは、組織運営を担当する役職は回り持ち制が多いことです。〈仲間〉の役職名に、当番、月番、月行司、年行司などという言葉が出てくるのがそれを示しています。また同一の役職に複数の担当者がいることも目立ちます。こうした点は江戸町奉行が2人いて月番で職務を担当したことに典型的に見られるように、徳川幕府の政治制度と共通点が多いことは、いまさら申し上げるまでもないだろうと思います。
意思決定方式で注目されるのは、やはり全会一致の慣行です。さまざまな組織で全員の同意を必要とする慣行があったようです。たとえば、〈仲間〉への加入にあたっては、一人でも不同意の者があればこれを認めなかった事例がいつくも知られています(45)。おそらくこうした慣行は、なにか問題がおきた場合〈仲間〉の全員が連帯責任を問われたことと密接な関連をもっていたのではないかと想像していますが、いかがでしょうか。
以上のような組織慣行は、ほとんどそのまま明治期の友子同盟でも見ることが出来ます。足尾暴動に先だって行われた友子同盟の賃上げ運動の経緯は、そのことを具体的に示しています(46)。もちろんこれらの慣行が、そのまま今日の労働組合に引き継がれているわけではありません。役員は回り持ちではなく、選挙で選ばれるようになっていますし、意思決定にあたっては、多数決制がひろく採用されています。しかし組織運営をその実態面でみると、それらの慣行が、いまだに影響を及ぼしている可能性が認められます。たとえば、いかに優れたリーダーであることを周囲が認めていても、同一人物がひとつの役職を長期間にわたって保持することは、日本では適切とは考えられていません。一方、アメリカ労働総同盟の創設者サミュエル・ゴンパーズなどは、1886年のAFL創立から1924年に死去するまで、落選した1期を除き36年間も会長の地位を占めていました。こうしたことは日本ではとうてい考えられないことです。一定期間在任した後は、影響力を保持しつつ後進に道を譲るというのが、日本での役職の望ましいあり方と考えられているところがあります。これは、単に労働組合役員だけではなく、企業経営者についても同様な傾向を認めることが出来ます。また意思決定にあたっての全員一致制の選好も、しだいに弱まっているとはいえ、種々の組織において重要な意思決定に際しては、事前に全員の同意をとりつけることを良しとするといった形で執拗に生き延びています。もちろん、創業社長が長期間にわたって同一ポストを維持する例もあり、最終的には多数決で決めることは当然と考えられているなど、過去の慣行ですべてを説明しえないことは言うまでもありませんが。
おわりに──今後の課題
今回は、主として過去を解く鍵が現在にあることを強調して、話をすすめて来ました。こうした方法がどれほど効果的でありうるか、皆さまのご判断をまちたいと思います。また最後の組織文化の問題をめぐっては、過去が現在を規定している側面を指摘することになりました。歴史研究においては、過去が現在を規定する側面について検討することが中心となることは当然ですが、過去から現在へ向けた一方通行的ではない双方向的な研究方法がもっと追究されてしかるべきではないかと考えています。そのためにも、近世史研究者と近現代史研究者との間の交流の活発化が望まれます。
最後に今後の研究課題、といっても私自身で出来ることは限られていますので、どなたかこういう研究をしていただけないものだろうか、という虫の良いお願いをして、私のとりとめのない話の結びに代えさせていたきたいと思います。
1)やはり近世の都市研究や〈仲間〉研究に国際比較的な視点を導入することが重要ではないでしょうか。それもヨーロッパだけではなく、他の地域との比較研究が重要だと考えます。その際に必要なことは理論的な検討だけでなく、具体的なデータをもとに検証しうる個別的テーマの発見ではないかと考えます。ギルドと〈仲間〉の比較はそうしたレベルでの研究を可能にするものではないかと思います。私の不勉強のせいだとは思いますが、近年、近世都市史の研究はきわめて活発にすすめられているのに、国際比較という面では以前よりかえって後退している印象があるように感じますがいかがでしょうか。
2)維新後の職業集団との連続不連続、とくに労働運動とのつながりを考える場合に、キイになる地域、職種があるのではないでしょうか。たとえば明治以後の労働運動の展開を考えると、その中心地であった江戸、大坂の〈仲間〉の研究が鍵になるでしょう。とくに鉄工組合との関連では、江戸の鍛冶職、錺職、船大工などの〈仲間〉についての検討が重要ではないかと考えます。近世の仲間についての研究はすでにかなりの成果をあげつつあるようにみえますが、これを時間的にも延長して維新以後の変化を追究し、その連続不連続の実態を解明していただきたいと思います。
3)建築関係の同職集団、なかでも大工は、その人数の多さや建築関係の職人を統合する職種の組合としての重み、さらには明治以降でも徳川時代からの技術的な継承性が高かったこと、外国との比較研究の可能性などを考えると、やはり重要な研究対象だと思われます。関連して、明治期にも何回かの労働争議を起こしている東京の石工組合と、明治20年代にはほとんど消滅状態となった大工組合との違いなども研究テーマとして興味深いのではないでしょうか。
4)リーダーの頻繁な交代とも関わりがあるに違いない問題に、日本社会が専門職を育てる仕組みを欠いていた事実があります。あれほど中国の制度を取り入れながら、科挙についは、ついに短期間の導入の試みだけに終わったのは何故でしょうか。ドイツなどの資格重視の社会と比べると、日本は伝統的に資格よりも個人的な能力を重視した社会であったと言えるのではないでしょうか。それは何故なのかぜひ知りたいところです。またそうした社会のなかで、例外的に西欧的な専門職の組織を作り上げたのは弁護士会だと思います。あえて言えば、弁護士会こそが現代日本ではもっともクラフト・ギルド、クラフト・ユニオン的な機能を発揮している組織だと言えるでしょう。その意味で、弁護士、医師などの専門職集団に関する歴史研究は興味深いテーマだと思います。
【 注 】
(1) 中世のギルドが労働組合ばかりでなく、消費組合、友愛組合などさまざまな法人組織(corporate organization)の歴史的前提として重要な意味をもっていることについては、Antony Black, Guilds and Civil Society in European Political Thought from the Twelfth Century to the Present, Methuen & Co. Ltd, London, 1984. 参照。
(2) 1)「企業別組合の歴史的背景」法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』No.305、1984年3月。 2)「日本労使関係の歴史的特質」(社会政策学会編『日本の労使関係の特質』御茶の水書房、1997.9.25)所収。 3)「戦後社会の起点における労働組合運動」(渡辺治他編《シリーズ 日本近現代史 構造と変動》4 『戦後改革と現代社会の形成』岩波書店、1994年)所収。 4)「日韓労使関係の比較史的検討」(初出は『大原社会問題研究所雑誌』No.460、1997年3月号。法政大学大原社会問題研究所編『現代の韓国労使関係』(御茶の水書房、1998年)に収録。いずれもインターネット上の個人サイト『二村一夫著作集』http://nimura-laborhistory.jp)で読むことができる。
(3) 大河内一男氏は、こうした考えを、さまざまな機会に数多くの論文として発表されている。どれかひとつあげるとすれば「わが国における労使関係の特質」(『労使関係論の史的発展』有斐閣、1972年)であろう。
(4) ただ最近では合同による組合の巨大化傾向や公務員組合の比重の増大、あるいはホワイトカラー、ブルーカラーのどちらにも区分しにくい職務の増加などで、事態は変わりつつある。しかし、専門性の高いホワイトカラー職務ほど独自の組織を維持する傾向は強い。また、ブルーカラーと同一の組合に属する場合でも、ホワイトカラー部門だけで独自に団体交渉をおこなうなど、自律性が高い。Roger Lumley, White-Collar Unionism in Britain:A Survey of the Present Position, Methuen & Co. Ltd, London, 1973. 参照。
(5) R.ブランパン編、花見忠監訳『労働問題の国際比較』日本労働協会、1983年、238頁。
(6) ただし、戦前から労働組合運動の伝統があった産業・企業などを中心に、現場労働者が職員との同一組合結成を認めなかった事例はある。しかしその場合でも、多くは、時間の経過とともに工員組合と職員組合との統合がすすんでいった。
(7) George S. Bain, The Growth of White-Collar Unionism, Oxford University Press, 1970, pp.48-65.
(8) たとえば、佐口和郎『日本における産業民主主義の前提──労使懇談制度から産業報国会へ』(東京大学出版会、1991年)。
(9) 枡本卯平『労資解放論』(宝文館、1926年)351ページ。
(10) 大河内一男『黎明期日本の労働運動』(岩波新書、1952年)。
隅谷三喜男『日本労働運動史』(有信堂、1966年)。
(11) 兵藤釗『日本における労資関係の展開』(東京大学出版会、1971年)。
池田信『日本機械工組合成立史論』(日本評論社、1970年)。
(12) 鉄工組合規約は『労働世界』第40号(1899=明治32年7月15日)〜第42号(同年8月15日)に掲載されている。引用部分は第40号所収。なお、下線部分が創立当時からあったか、後に付け加えられたものかは明らかでない。
(13) 『労働世界』第83号(1901年7月1日)、復刻版733〜734ページ。
(14) 鉄工組合の各支部については、兵藤釗『日本における労資関係の展開』(東京大学出版会、1971年)150ページ、および三宅明正「近代日本における鉄工組合の構成員」(『歴史学研究』第454号、1978年3月)32ページ参照。第36支部に「工場所長兼技師」が加入していたことについては『労働世界』第47号(1899=明治32年11月1日)、復刻版454ページ。
(15) 小野塚知二『クラフト的規制の起源──19世紀イギリス機械産業』(有斐閣、2001年)、102ページ参照。
(16) 「徒弟五六十名ヲ率ヒテ工場ニ出勤スルモノハ羽振宜シク二三百人ノ職工アル工場ナラハ其他ノ職工ハ此団体の為ニ圧倒セラレ……」『職工事情 付録二』(名著刊行会復刻版、1967年)、169ページ。
(17) 『史学雑誌』89編9号(1981年9月)。のち東條由紀彦『製糸同盟の女工登録制度──日本近代の変容と女工の〈人格〉』(東京大学出版会、1990年)に補注を加えた上で、原文のまま収録されている。
(18) たとえば塚田孝編『シリーズ近世の身分的周縁3 職人・親方・仲間』での塚田氏による巻頭論文、吉田伸之『近世都市社会の身分構造』(東京大学出版会、1998年)など、近世史の研究書でしばしば肯定的に引用、あるいは言及されている。
(19) 笹谷氏貴『山要録』(日本鉱業史料集刊行委員会編《日本鉱業史料集》第1期近世編@、白桃書房)、二村『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』(東京大学出版会、1988年)253ページ。
(20) 中西洋『日本近代化の基礎過程──長崎造船所とその労資関係:1885〜1900年』上(東京大学出版会、1982年)。
(21) 小野塚知二『クラフト的規制の起源』、第U部参照。氏はクラフト的規制が労使双方による暗黙の合意の上に成り立ち、労使関係に埋め込まれた構造であったことが、こうした規制力の強靱さをもたらしていたと指摘されている。おそらくそこには労使双方にとどまらない、全社会的な合意が存在していたと見るべきではないだろうか。
(22) 二村一夫『足尾暴動の史的分析 』第3章参照。
(23) 菅山真次「日本の産業化過程における熟練形成の一断面」(『東北学院大学論集』経済学第116号別冊、1991年3月)。
(24) 猪飼周平「明治期日本における開業医集団の成立──専門医と一般医の身分分離構造を欠く日本的医師集団の源流」(『大原社会問題研究所雑誌』511号、2001年6月)。
(25) 兵藤釗『日本における労資関係の展開』、165、167ページ。
(26) 池田信『日本機械工組合成立史論』、10、11ページ。
(27) 横山源之助『日本の下層社会』(岩波文庫、1949年)80〜81ページ。なお、一部に句読点を加えた。
(28) Ira Katznelson and Aristide R. Zolberg, Working-Class Formation:Nineteenth-Century Patterns in Western Europe and the United States, Princeton University Press, 1986.
(29) 友子同盟については以下を参照されたい。松島静雄『友子の社会学的考察』(御茶の水書房、1978年)、村串仁三郎『日本の伝統的労資関係』(世界書院、1989年)、荻慎一郎「金掘り」(塚田孝編『職人・親方・仲間』、吉川弘文館、2000年、所収)。
(30) 鉄工については『職工事情』付録二に、つぎのような鉄工自身の談話記録がある。
「徒弟ハ年期明キ一二年前ニ逃ケル者ナリ」「徒弟制度ハ漸次廃滅ニ傾キ此処一ヶ月彼処ニ二ヶ月ト彷徨シ廻ルナリ之レ特ニ年期ナトニテ苦マズトモ器械ヲ使用スル故ニ実際ノ技倆ナクシテ真似ガ出来ルト工場ノ増加ニ伴ヒ職工ノ需要頻繁ナルヲ以テ斯ル状勢ニ趨キタルモノナラン」(生活社版、第3巻、168ページ)。
職人については、横山源之助『日本の下層社会』、84〜85ページ参照。
(31) もちろん〈仲間〉といい〈ギルド〉といっても、時代により地域により、また職業によっても多様で、単純な比較を許さない。しかしここでは、そうした細部の違いはあえて無視し、議論をすすめたい。
(32) 脇田修『日本近世都市史の研究』(東京大学出版会、1994年)、178ページ。
(33) たしかに日常的には領主は「本来の都市機能・経済活動については放置し、町民の〈自治〉にゆだね」たと言って良いのであろうが、このように言い切ってしまうと、享保の仲間結成令や天保の株仲間解散令をはじめさまざまな経済活動への介入の事実と矛盾する規定になってしまうのではないだろうか。
(34) ギルドおよびヨーロッパ中世の都市に関してはAntony Black, Guilds and Civil Society in European Political Thought from the Twelfth Century to the Presentのほか、つぎを参照した。Steven A. Epstein, Wage Labor and Guild in Medieval Europe, The University of North Carolina Press, 1991. Malcom Chase, Early Trade Unionism:Fraternity, skill and the politics of labour, Ashgate, 2000. 増田四郎『都市』(筑摩書房、1968年)、藤田幸一郎『都市と市民社会──近代ドイツ都市史』(青木書店、1988年)、河原温『中世ヨーロッパの都市世界』(山川出版社、1996年)、『岩波講座 世界歴史 8 ヨーロッパの成長』(岩波書店、1998年)中の江川温、河原温論文。
(35) 乾宏巳『江戸の職人』(吉川弘文館、1996年)36〜41ページ。
(36) 渡辺祥子「薬種中買」(吉田伸之編『商いの場と社会』吉川弘文館、2000年所収)
(37) 吉田伸之『近世都市社会の身分構造』(東京大学出版会、1998年)257〜283ページ。
(38) 乾宏巳前掲書。93〜96ページ。
(39) 西和夫「近世後期の大工とその組織」(永原慶二ほか編『講座・日本技術の社会史 建築』、日本評論社、1983年)、140ページ。
(40) 乾宏巳『江戸の職人』、64〜67ページ。
(41) 乾宏巳『江戸の職人』、108〜109、182ページ。
(42) 乾宏巳『江戸の職人』、127ページ。
(43) 前掲注2、第2論文。
(44) 乾宏巳『なにわ 大坂菊屋町』(柳原書店、1977年)。
(45) たとえば、林玲子『江戸問屋仲間の研究』(御茶の水書房、1967年)が紹介している白木屋文書中の「冥加上金離縁噺し」のつぎの一節が注目される。
「仲間一同承知いたし候共、我ら壱人不承知也。壱人不承知之上は仲間一統不出来事也」と云きり帰り……(同書219ページ)。
あるいは『宮本又次著作集 第1巻・株仲間の研究』(講談社、1977年)は次のように記している。
新規加入を望み、これの申し込みをなすものがあるときは、仲間総会を開き、あるいは廻章を仲間員に廻達して、その諾否を確かめ、もし一人でも、不同意のものがある時はこれに承認を与えなかった(同書65ページ)。
さらに朝尾直弘『都市と近世社会を考える──信長・秀吉から綱吉の時代まで』(朝日新聞社、1995年)にも次のような記述がある。
これらの町は個々別々に町の掟を制定していたが、そこには家屋敷の売買・貸借について町の成員の同意が必要であり、町への報告と町内における身元引請人の存在を不可欠の条件としたこと、即ち「町中の御がってん(合点)」=同意なしにはだれかを町の町人にすることはできない旨が明記されていた(同書75ページ)。
(46) 二村一夫『足尾暴動の史的分析』、第1章参照。
初出は大阪市立大学経済学会『経済学雑誌』第102巻第2号(2001年9月20日)、日本評論社。
【関連論文】
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