戦後社会の起点における労働組合運動はじめに
与えられた課題は、「敗戦直後の労働組合運動の高揚を、後の企業主義的組合との〈連続〉と〈断絶〉という視点から考える」ことである。国際的にみて独特の個性で知られる現代日本の労働組合がいかに形成されたか、この問題の解明は、かねてより関心のあるテーマで、戦後労働運動にかかわるものとしては、10年ほど前に「企業別組合の歴史的背景」と題する小論を発表し、またその数年後には「日本労使関係の歴史的特質」について書いている。*1
1 戦後労働組合の展開──量的推移と特徴(1) 組合数、組合員数の推移 まず、敗戦直後の労働組合の生成状況を数量的に確認することから始めよう。初歩的な問題でありながら、これまでほとんど検討されることなく、不正確な統計数値が今なお流布しているからである。いま労働組合について一般に使われている統計は労働省の『労働組合基本調査』*2である。
1) 労働省編『資料労働運動史』(昭和21〜22年)999ページにより作成。 ただし,46年下半期の月別数は省略した。
だが、この数にも疑問がある。なぜなら、組合設立の届出を義務づけたのは1946年3月施行の労働組合法であり、それ以前に結成された組合が、自発的に届出ていたとは考え難いからである。この点を検討するため、各種の労働組合史や地方労働運動史、それに47年9月末以前に労働省労政局に報告されたデータを基礎にした『日本労働組合名鑑』*4などによって、45年中に設立されたことが明らかな組合名を設立月日順に調べてみた。その詳細を紹介している余裕はないので、結果だけ簡単に記すと、つぎの通りである。
1947年末の現存組合中、45年中に設立されているのは855組合、組合員数は60万2706人で、一般に使われている509組合、38万人を大きく上回っている。ただし、組合員数は、結成後に加入した者がありうるから、創立時点ではこれより若干少なかったかも知れない。一方、組合数は855を上回っていたことは確実である。なぜなら、大企業の場合、事業所全体の組織の結成に先だって、職場単位の組合がつくられた事例があるからである。たとえば、古河鉱業足尾鉱業所では、1945年中に12の組合、すなわち通洞坑、本山坑、小滝坑の3坑をはじめ、選鉱、製煉、浄水、分析、工作、調度、庶務の各課ごとの労働組合と、それとは別個に職員組合がつくられている*5。同様の事例は、高萩炭鉱などほかでもみられる。だが、これらの「職場別組合」の多くは間もなく事業所単位の組合へ統合されており、足尾の場合も47年3月には単一組合に改組している。
いずれにせよ「設立解散統計」の数値は、1945年については、実勢を正確に反映していない。戦後労働組合運動の進展のテンポはこれまで考えられていたより早く、敗戦の年の12月上旬には、戦前の最高水準である42万人を越えていたことは確実である。この際つけ加えれば「設立解散統計」には、役所の縄張りに起因する欠落がある。運輸省所管の船員が集計から除かれたため、当時最大の労働組合である全日本海員組合*6が含まれていないのである。
(2) ホワイトカラー組合員数の推計では、この敗戦直後の日本の労働組合は、どのような特色をもっていたのか。それについては、やはり、東京大学社会科学研究所『戦後労働組合の実態』*7が振り返られるべきであろう。1947年8月現在の調査に基づくこの研究によって、組織形態や組合役員の性格をはじめ、戦後日本の労働組合に関する重要な特質がいくつも発見され、その後の研究の基礎を築いたからである。この調査結果でもっとも注目されたのは、戦後日本の労働組合が、他の国にはあまり例のない、企業別の組織であること、同時に現場労働者だけでなく事務職員も同一組織に属し、管理職さえ組合員となっている事実であった。
労働省『昭和23年6月末基本調査 労働組合調査報告』第6表により作成。 問題は混合組合に含まれているホワイトカラーの数である。その正確な数は分からないが、推計は可能である。まず、1950年の国勢調査によって、全国のホワイトカラー・ブルーカラー比率を算出してみよう。そのために使うのは、14歳以上就業者のうち、業主と家族従業者を除いた「雇用者」についての「職業大分類別」数である【表4】。
ホワイトカラーとして問題がないのは、専門的技術的職業と事務従事者である。管理的職業は、階級構成論では資本家階級に入れるのが普通だが、戦後労働組合が管理職まで組織対象にしていたことを考慮し、これも加えておこう(ホワイトカラーA)。一方、ブルーカラーは、採鉱採石的職業、運輸的職業、生産工程従業者である。その他の販売従事者やサービス職業などをどちらに分類するかが問題となるが、混合組合の組合員中にしめる比率は低いので、ここでは無視しよう。これによって両者の比率を算出すると4.3対5.7となる。この比をもとに混合組合中の職員数を算出すると176万人、職員組合の組合員と合わせたホワイトカラーは319万人、組合員総数の半数に近い。ただ、管理的職業には労働組合の組織対象ではない会社役員も含まれている*9。
そこで、これを除いた「ホワイトカラーB」によって両者の比を出すと4対6、これをもとに算出した混合組合中の職員は163.7万人である。だが、これも実勢より過大であろう。なぜなら、専門的技術的職業の多くは教育・公務・金融などに集まっており、それらの分野では職員組合の比率が高く、混合組合は少ないからである。混合組合の比率が高く、組合員の絶対数も多い製造工業、運輸通信業では、ホワイトカラー比率はより低い。そこで、仮に混合組合全体の職員・工員の構成比を3対7としてみよう。この比をもとに混合組合中の職員数を試算すると123万人となり、ホワイトカラー組合員の総数は265万人余となる。構成比をさらに2対8まで下げると、混合組合中の職員数は81.8万人、ホワイトカラー組合員の総数は224.5万人となる。
だが、ここでの目的はホワイトカラー組合員の組織化の高さを示すことにあるので、あえて最後の控えめな数値、224.5万人を推計値として採用しよう。それでも組合員総数の3分の1以上、34.4%がホワイトカラー組合員である。より正確な推計には、職業小分類や産業分類、他の統計や個別企業調査なども加味して検討する必要があるが、おそらくこれより増えても減ることはないであろう。
(3) 労働組合運動におけるホワイトカラーの主導的役割ホワイトカラーは単に、量的に大きな比重を占めていただけではない。戦後初期の労働運動全体を主導したのは、ほかならぬホワイトカラー組合であった。そのことを、あらためて気づかせてくれるのは、同時代の観察者の証言である。『労働運動見たまま』と題するこの小冊は、矢加部勝美、村上寛治ら労働記者の集団著作で、敗戦から2年後の47年9月に刊行されているが、その冒頭の節「争議のトップは新聞から」は次のように記している*13。 「終戦後の日本労働運動に大きな役割を果たした第一次読売新聞争議が始まったのは、8.15から2ヶ月余を経過した10月24日であった。……以後12月12日の解決に至るまでの50日間の闘争は、生産管理という争議戦術の採用と、新聞という機能の上から社会一般の多大の注目を招き、その後の労働組合運動の発展に影響すること絶大なものがあった。……争議が長期化し、世上注目の的となるや、読売の闘争本部には連日都下は勿論、遠く九州、東北等からも各自の工場で労働組合を設立しようとしている有志が訪れ、組合についての知識を求めてくるありさま。かくて、一時は読売が労働組合運動の相談部のような形になり……読売の例にならって東京都内は勿論全国的に労組の結成が促進され、生管戦術が労働運動の一新機軸として各所で採用された。」 このように、戦後労働運動史を特徴づける生産管理を最初に実行し、それを広めたのは「大学出身の論説委員・部長・次長らのエリート記者」*14が指導した読売争議であった。しかも、労働組合の全国組織がまだ生まれていないこの時期に、読売の組合は「労働組合運動の相談部」として機能していたのである。北海道新聞など地方紙の組合も、同じような役割を果たしている。
総同盟の場合は、戦前の労働運動家の個人的なつながりによって組織化が進められたから、産別に比べるとブルーカラー出身の指導者が多かった。しかし、そこでも本部書記は高学歴者で占められていた。1946年5月に総同盟準備会書記となった平沢栄一は、当時の総同盟本部に集まった戦後派が、東大の学生や卒業生など知識人ばかりだったことを名をあげて回想し、 「インテリじゃないのはぼくくらいなもの」であった、と述べている*15。
さらに、戦後の代表的な労働争議を選ぶとなれば、二・一ゼネストはそのトップにくるであろうが、その主体は、ホワイトカラー組合が集まった全官公庁共闘委員会であった。また、戦後初期の著名な諸争議、たとえば電産争議、全逓争議、東宝争議など、ホワイトカラー層の比重の大きさを論証する材料にはことかかない。 2 企業別・混合組合生成の根拠(1) 事業所別組合となった理由つぎの問題は、なぜ戦後日本の労働組合は、欧米で一般的な職能別や産業別組合とならず企業別組織となったのか、である。かつては、これを労働市場の企業別分断で説明する見解が有力であった。その代表的な論者は大河内一男氏で、はじめは企業別分断の根拠として周知の「出稼型論」を提唱し、後にはつぎのような主張を展開された。 日本でも1910年代までは、労働者はひとつの職場に定着せず、高賃金をもとめ移動していた。しかし、1920年代以降、大企業は労働者の定着策を採用した。その結果、労働者は学校卒業と同時に雇入れられ、企業内の養成所で訓練を受け、年功序列により定期的に昇給し、定年まで同じ企業に勤めるという「長期雇用慣行」が確立した。労働組合は労働力の売り手の組織であり、同一の労働市場に属する者が利害の一致にもとづいて団結するものである。したがって、この企業別に封鎖された労働市場では企業別の組合が成立するのだ*19。 この主張に対し、筆者は冒頭にあげた論稿で詳しく検討を加え、批判した。その後、反批判を受けたこともなく、すでに決着済みの問題と考えていたが、今なお、労働市場の構造が労働組合の組織形態を規定すると考える論者がおられるのを、最近知った。すなわち、田端博邦氏は「戦間期の労働運動は、横断的な労働組合を目指したが、労働市場の封鎖的構造の前で立ち止まらなければならなかった。すでによく知られているように、この時期における大企業における内部労働市場の形成が戦後企業別組合の源流である」と述べておられる*20。
まず指摘したいのは、戦後労働組合の生成期に、日本の労働市場が企業別に分断・封鎖されていたとは考え難いことである。確かに、1920年代後半以降、大企業において従業員の定着度が高まり、労働市場は企業別分断の傾向をみせていた。だが、戦時中、軍需産業の急拡大と徴兵等による労働力不足で、大量の労働力が流出入した上に、敗戦により多くの工場が操業停止あるいは縮小に追い込まれ、大量の失業者が生まれた。戦災で家を失い、あるいは食糧難のため、都会をみかぎり自発的に退職した者も少なくない。また、復員者760万人、引き揚げ者150万人が職を求めていた。多くの社史、組合史は、多数の退職者や解雇者があった反面、中途就職者も少なくなかったことを記録している。つまり、1940年代の労働市場は封鎖的でなく、きわめて流動的であった。 第二は「終身雇用慣行」の理解にかかわる問題である。すなわち、同じ「終身雇用慣行」といっても、今日のように、正規従業員全員を対象とする「権利に近い慣行」となったのは戦後のこと、それも1950年代の合理化反対争議を経た後の高度成長期のことであった。戦間期において「終身雇用慣行」の対象となっていたのは職員と基幹的な熟練工だけで、雇用保障の程度も低かった。さらに言えば、「年功賃金制」も、敗戦直後は激しいインフレと企業ごとに大きく異なった賃上げ率により、労働者の移動を阻止する力を弱めており、「内部労働市場」のルールは今日とは大きく異なっていた。 第三は、労働市場のあり方が労働組合の組織形態を規定するという主張では、戦後の組合が、工員も職員も同一の組織に属する混合組合となった事実を説明できないことである。日本の労働市場は、ほぼ一貫して学歴別、性別に分断されてきた。同一企業内でも、高卒と大卒、女性と男性では利害が対立する点が少なくない。労働組合は、同じ労働市場に属し利害を共通する者の間でつくられるという論理が正しければ、日本の労働組合は、学歴別・性別組合になってしかるべきであるが、そうした組織は皆無である。 では、なぜ戦後日本の労働組合は、職場別組合、事業所別組合になったのか。私は、労働者の職場別結集は労働者団結のもっとも本源的な形である、と考えている。どこの国、いつの時代であろうと、特別な条件がない限り、労働者が団結する際、ごく自然に選ぶ形態は職場別組織である。とくに戦後日本のように、工場閉鎖による解雇、あるいはインフレによる生活難といった、職場の全員に共通する問題がある時、毎日顔を合わせ一緒に働いている者が集まり、共通の雇い主に要求を出すのはきわめて当然で、特別な説明を必要としない。 この点、むしろ説明を要する特別な条件があったに違いないのは、欧米の労働組合運動の原型ともいうべきクラフト・ユニオンの場合である。なぜ彼らは、企業の枠をこえ、同職の者だけで団結したのか。毎日顔をあわせ、肩を並べて働いているのに、職種を異にするというだけで別の組織をつくり、一度も顔をあわせたことがなくとも同じ職種の者と団結するのは何故であろうか。そこには、何か特別の理由があるに違いない。しかも、労働者がそのような組織形態を選ぶだけでなく、経営者もそれを受け入れるのは何故だろうか。
これについての私の答は別稿でやや詳しく述べたが、西欧、中欧の中世自由都市で確立したクラフト・ギルドの慣行が、近代の労働組合運動に継承されたためであろうと考えている。同職の者同士で団結し、徒弟の数の制限、労働時間や生産量の規制によって、労働条件を維持しようとするのは、クラフト・ギルドとクラフト・ユニオンに共通している。同職の連帯感は歴史的に形成されたのである。これに対し徳川時代の日本に自由都市は存在せず、都市住民はみな武士の支配下にあった。 日本の労働者が理屈抜きで仲間と感ずるのは、同じ職場、同じ企業で働く者である。競争会社の従業員に対し同じ階級の一員としての連帯感をもつことは、自然な気持ちとしては生まれ難い。そうした「階級意識」はマルクス主義や、労働運動史の教訓を通じて、意識的に獲得するほかないものである。企業間競争が激しい場合に、競争会社の従業員はみな「敵」となり、ウチの会社の者は経営者までもが「仲間」となるのも不思議ではない。 このクラフト・ギルド、クラフト・ユニオニズムの伝統の欠如を認識することで、日本において企業の枠をこえて労働条件を規制する労働組合が育たなかった原因が分かるだけでなく、雇用が保障される限り新技術の導入に抵抗しないこと、職務配置の柔軟性、工職混合組合など、日本の労使関係の特色が生まれた理由を理解することができる。もう一つつけ加えれば、企業別組合はなにも日本だけに存在するわけではない。中南米の多くの国では企業別組合が主な組織形態であり*22、アジア諸国でも企業別組合が存在する国は少なくない*23。また革命前のロシアでも、労働者は職能意識より企業意識が強かったことが知られている*24。これらの国々では、いずれも、クラフト・ユニオンの伝統は弱いようである。 (2) 工職混合組合となった理由では、工員と職員が同じ組織に属したのは何故か。これには小池和男氏による、次のような説明がある。 「この『内部昇進制』の『先進性』を前提とすると、わが国の労資関係の他の特徴の説明も容易になる。たとえば、なぜわが国の労働組合がホワイトカラーも一緒にした労職混合組合の組織なのかを、よりよく説明できる。……わが国の労働組合は混合組織である故に、最もホワイトカラーの組織化に成功している。その最も重要な理由は、わが国の組織労働者がホワイトカラーとかなり共通した特質をもつようになったからであろう。すなわち、広い内部昇進制が大企業本工労働者にも普及しており、その結果、ホワイトカラーと基本的ににた性質をもつようになった。その大企業本工層が、わが国労働組合の主要部分なのである。だからまた、たとえ大企業労働者でも、鉱山労働者は内部昇進制をもたない故に、今日でも、労職はそれぞれ別の労働組合に結集している。」*25 だが、この説明では因果関係が逆になっているのではないか。つまり「大企業本工労働者がホワイトカラーと共通した特質をもつようになった」から「労職混合組合」になったのではなく、戦後日本の労働組合が「労職混合組合」となり、工職差別の撤廃を要求して運動した結果、日本のブルーカラーは「ホワイトカラーと基本的ににた性質をもつように」なったのではないか。さらに言えば、内部昇進制で混合組合の生成を説明するのは、もともと無理がある。なぜなら、内部昇進制に大差のない同一産業の同規模企業で、一方は工職混合を、他は工職別組合を選んだ事例が少なくないからである。たとえば、鉱山にも混合組合はあり(表3参照)、都市交通も関東は工職混合組合、関西は別組織であった。また、同一企業内でも事業所によって組織形態を異にした例さえある。労働組合の組織形態は、労働市場の構造だけで決まるものではなく、当事者の主体的な選択の余地がある、と考えるべきであろう。とはいえ、私は、労働組合の性格が労働市場の特質とまったく無関係であると主張しているわけではない。いったん成立した労働市場の性格が、組合や組合員の行動を制約することは否定しがたい。
では、戦後日本の労働組合の多くが工職混合になったのは何故か。この疑問に答えるには、つぎの三つの問題について考える必要がある。第一は、これまで労働運動に無縁な職員層が組合に参加したのは何故か、第二は、なぜ職員は独自組織を選ばず混合組合に参加したのか、第三、工員側がそれを拒否しなかったのかは何故か、である。
第二の問、つまり職員だけの組織ではなく、工員と一緒に組合をつくろうとしたのは何故なのか。これは従来あまり問題にされていないが、戦後労働組合を考える上で重要な論点である。なぜなら、もともと世界各国の労働運動で「肉体労働者とホワイトカラー被用者を同じ組合に組織しようという試みが完全に成功したことはまれ」*26だからである。また、イギリスなどでホワイトカラーが労働組合運動に参加する主な理由は、ブルーカラーに対してホワイトカラーとしての社会的地位および労働条件の相対的優位を保持しようとするためで*27、したがって、そこで選ばれる組織形態は、ホワイトカラーだけの組合である。ブルーカラーも含む組合に参加する場合でも、ホワイトカラー部門が明瞭に区分されている組織に限られる。一方、日本では、混合組合を選択したのは他ならぬ職員の側である。
第三の設問は、何故ブルーカラーはホワイトカラーが同じ組合に参加するのを認めたのか、である。おそらく、そこには日本のブルーカラーの間における労働者主義(labourism)の伝統の弱さがある。そもそも、労働運動が一般にブルーカラーの運動として展開された背景には、イギリスの労働者階級の間に典型的にみられた「奴らと俺達」といった意識があった。事務職員はもちろん、職長も経営者と同じ「奴ら」であり、その「奴ら」と同じ組織をつくることなど想像もつかないことであった。こうした意識は日本の労働者には無縁である。彼らの圧倒的多数は、できることならブルーカラーであることをやめたいと思っていた。「労働者階級」の一員であることに誇りを抱くといった気持ちは、革命運動に参加した活動家の一部を別にすれば、日本の現場労働者には縁遠いものであった。労働者階級の一員としての誇りを抱く活動家でも、心のどこかで、出来れば自分の子は良い大学へやりたいと考え、もし他人から「労働者の子は労働者で当然」などと言われたら、それこそ「差別」と感じたのではないか。 3 敗戦直後の「企業社会」と経営民主化運動(1) 食糧危機と従業員の企業への依存戦後の労働争議の中心的な争点である賃上げについてはよく知られているので省略し、これまでともすれば見落とされてきた点についてだけ指摘しておきたい。それは、戦中・戦後期に、従業員、特に大企業の従業員が、かつてなく企業への依存度を深めていた事実である。物不足が著しくなった戦中期以降、企業は生産の場であるだけでなく、物資の配給ルートとして、従業員の消費生活においても不可欠な存在となっていた。その傾向は、敗戦後さらに厳しさを増した食糧難によって、いっそう強まった。炭鉱・鉱山のような企業城下町では、もともと企業の売店に頼らざるをえず、そこでの食糧不足は、国の責任や個人の問題というだけでなく、企業が従業員に負っている義務を果たしていない状況と意識された。大都会では、人びとは生き延びるためにありとあらゆる縁故を頼って暮らしていた。こういうとき頼りになるのは農村の親兄弟であるが、焦土と化した都会にとどまったのは、帰るべき田舎をもたない人びとであった。彼らにとって、企業は最後の拠り所となった。賃上げだけでなく、工場がもっている原料や製品、機械、土地などの資産を活用させ、会社のさまざまなつながりを利用して食料を確保することは緊急の課題であった。そうした状況を、日本鋼管川崎製鉄所の組合史は、つぎのように伝えている。 「〔46年〕5月17日組合大会を召集、川鉄のすべての機関、機能を総動員して、従業員の食生活を確保しようと食糧危機突破委員会が設けられた。……この委員会の性格は、全力をつくして全従業員の飢餓突破に邁進することを目的とし、その方法としては、厚生課の協力によって、委員会で一切の食料の購入、配給を管理し、厚生課長に購入した物資を保管してもらい、委員会と協議の上で配分することにした。……先ず手始めとして、食塩製作の許可を所長に頼み、各支部を単位として食塩作りが始まった。敗戦後、会社の機能もストップしていたので、人々は、グループをつくって海水を汲んでは会社の燃料で塩を作り、それを食料と交換していたのである。生産意欲を増進するため、たくさん生産した支部にはその量に応じて増配された。つぎに食糧確保のため有給休暇が認められることになった。当時の勤労支部長であった堀切氏から『未曾有の食糧危機に直面してたとえ生産は下げてもこの危機は突破しなくてはならない、そのためには先ず休暇を出して食糧確保に向け、支部単位にバーター材としてコークスとか、その他社有品を提供する。社有空閑地を利用して、野菜、甘藷などを栽培し食料を確保するようにする』と力強い発言があった。勤労係長であった堀切氏の発言は皆に勇気を与えた。」*30 ここには、互いに助け合うことでようやく生き延びている、文字通りの「企業中心社会」の姿がある。 (2) 工職身分格差の撤廃要求 戦後労働組合が展開した運動のなかで重要な意味をもったのは、「経営民主化」運動である。組合が工職混合になったのも、これと無関係ではない。東大社研『戦後労働組合の実態』調査は「混合組合の理念は、身分制度の廃止、企業民主化、月給制の採用、経営参加のような実践的目標と結びついてくる、そして、積極的にそれを闘いとり、徹底させるための闘争組織の理想として混合組合が考えられて」*31いた、と記している。
だが、こうした処遇の違いを、日本のブルーカラーは「封建的な身分差別」であるとして、その撤廃を要求した。要求内容は企業により異なったが、多く見られたのは、労務者、職工といった差別的な名称を改めること、給与・賞与・諸手当・勤務時間・休日・休職・定年などに関する基準を職員と同等にすること、通用門の一元化、身体検査の廃止、職員専用の諸施設を工員にも利用させることなど多岐にわたっている。
(3) 従業員の経営参加要求現場労働者にとって民主化要求の最重点が身分差別廃止にあったのに対し、職員は経営参加に強い関心を示した。この従業員の経営参加が、もっとも明確な形をとって実現したのは、生産管理闘争においてであった*41。ところで、戦後初期に生産管理闘争が広がった原因として、つねに指摘されてきたのは経営者の「生産サボ」である。つまり、物価が急騰するなかで、経営者は費用をかけて製品を作るより、手持ちの資材を横流しした方が利益が上がるため、生産再開をサボっていた。そうした状況下でストをしても効果はないので、これに対抗する争議戦術として「生産管理」がおこなわれたというのである。たしかに、45年10月、出獄したばかりの徳田球一は「資本家のサボを克服する」ため「労働者による産業管理」を呼びかけている*42。だが、はたして「生産サボ」は「生産管理闘争」の主な原因であったろうか。少なくとも、生産管理で著名な企業、たとえば読売や京成、高萩炭鉱、東宝などで「生産サボ」がおこなわれていた形跡はない。そもそも新聞、電鉄、炭鉱、映画などで「生産サボ」はほとんど意味をなさない。『資料労働運動史』第1集には10件の生産管理闘争の事例が収録されているが、「生産サボ」に該当するケースは、資金難を理由に工場閉鎖が企てられた正田製作所だけである。全事例を検討したわけではないので明確な結論は出せないが、すくなくとも初期の生産管理闘争の主原因は「生産サボ」ではないと思われる。
むしろ、初期の生産管理企業に共通しているのは、経営者に対する従業員の不信や怒りである。当然のことながら、この時期、経営者の多くは、それも大企業の経営者ほど、将来への展望を失っていた。敗戦の衝撃に加え、軍需の喪失、空襲による被災や戦時中の酷使による機械設備の老朽化、賠償として工場設備が接収される懸念、集中排除法による企業分割、公職追放のおそれ、原料難、資金難など、さまざまな問題をかかえ、明確な経営方針をもちえずにいた。それに対し、職員や役付工など企業に自らの人生を託していた人びとほど、会社の将来に不安を感じ、経営者の無為無策に不信を強めた。そうした人びとに問題解決の方向を示したのが、読売争議であった。経営者の責任追及にはじまり、従業員組合による事業管理へと展開した事態は、多くの人に、組合を作って自分たちの手で企業を再建する方向があることを教えたのである。また、従業員の要求に理解を示さず、「誠意」*43のない態度をとった経営者への怒りが、抗議の意を込めた激しい闘争へと発展したのである。
もちろん、働く者全員が経営上の全問題を決定するといっても、従業員全員が直接経営に参加することは不可能であり、そこで広く採用されたのが、労使双方の代表者によって構成される経営協議会制度であった*46。もっとも、経営協議会の実態は、労使の力関係によって大きく異なった。労働者の力が強い企業、別の言い方をすれば経営者が経営能力を失っていた企業では、組合は、企業経営に関するありとあらゆる問題について発言し、その決定に参与した。とりわけ、雇用・解雇など人事問題について組合の事前承認を要求し、これを認めさせている。大量解雇が相次いでいた時期だけに、組合が雇用保障を求めたのは当然である。だが、組合は単なる雇用保障要求にとどまらず、従業員の昇進・昇格・配転に対する組合の承認、会社幹部の戦争責任の追及、非民主的分子の追放、物資配給等で不正行為のある人物の追放、部課長はじめ役職者の公選などを要求している*47。配転に組合の承認を要求したひとつの理由は、不当労働行為的な人事異動がおこなわれたからであろう*48。
ところで、労働組合が「経営民主化」のスローガンのもと、企業経営のあらゆる問題に関与したことは、組合は企業にとって不可欠の存在であるから、企業がこれに便宜を供与するのは当然とする考えを生むことになった。会社はその一室を組合事務所に無償で提供し、光熱費を負担した。あるいは、従業員としてはまったく働かず、組合活動に専念する組合役員に企業が賃金を支払い、組合活動のための出張に旅費や手当まで出していた。こうした便宜供与を組合側が要求しただけでなく、企業の側も当然のこととして認めたのである。このほか、就業時間内の職場集会、組合費を会社が給与から差引くことも、広くおこなわれた。
【備考】労働省『昭和23年6月末基本調査 労働組合調査報告』第19表から作成。 「戦闘的」な運動で知られた産別会議が、その役員や組合書記までも企業の負担で維持する比率がもっとも高い。戦後労働組合は単に組織形態の上で企業内的であっただけでなく、財政面でも企業依存的であった。これは、産別会議だけでなく、多くの「戦闘的組合」に共通している。その点では、むしろ総同盟の方が、わずかながら企業との間に距離をおいていた。 4 戦後労働組合運動のその後──むすびにかえて(1) 戦後労働組合運動の転機敗戦直後の日本の労働組合運動は、占領軍による保護・奨励策のもとで、また相手となる経営者側の弱体化、混乱に助けられ、急激な発展をとげた。しかし、このような世界の労働運動史にもあまり例のない、国家と企業と組合の奇妙な「同床異夢」の「蜜月時代」はすぐ終わりをつげた。その転機を何時にみるかは、論議の多いところである。そこで、組合の力の基本的指標である組合員数の推移〔表6〕(労働大臣官房調査部『労働統計40年史』532ページ)により、その転機を確かめておこう。
これで見る限りでは1949年から50年の間に画期がある。49年6月、対前年比で組合員数は微減で、戦後一貫して続いた増勢は終わっている。さらに翌50年になると、組合数は5544の減、組合員数では88万余人も減らしている。この後退をより劇的に示したのは、戦後労働運動をリードした産別会議である。結成時には公称21単産・163万人、労働省調査でも、最高時の48年6月には、単位組合数で4644、組合員数で121万1423人であった産別会議は、49年6月には102万190人、さらに50年には29万87人と激減している。
一方、運動をとりまく客観的条件も、組合側に厳しいものとなった。48年暮の経済9原則とこれを受けた翌年3月のドッジラインにより、企業への補給金は打ち切られ、これを機に「企業整備」=大量解雇が実施された。公共部門では、マッカーサー書簡によるスト権剥奪、さらに49年5月の「定員法」による行政整理が強行された。国鉄、全逓、東芝といった戦後労働運動の主力部隊に大量解雇が通告され、組合が反対運動をはじめた矢先に、下山・三鷹・松川といった怪事件があいつぎ、運動は守勢に立たされた。さらに労働組合法改正により組合は大きな打撃をうけた。このように見てくると、やはり決定的な意味をもっていたのは占領軍の政策である。マ書簡に始まり、経済9原則、ドッジライン、労組法改正からレッドパージにいたる主要な政策は、いずれも占領軍から出ている。 (2) 経営民主化運動が残したもの 工職差別撤廃の要求に対する企業の対応は一様ではなかったが、そこには共通した傾向がみられる。最初に撤廃されたのは、露骨な目にみえる差別であった。たとえば通用門の区別や、門前での所持品検査である。また職工、労務者といった差別感をともなう呼称は廃止され、対外的には従業員あるいは社員と呼ばれるようになった。しかし、筋肉労働とデスクワークという仕事そのものの違いを変えるわけにはいかず、企業内では依然として技能職、事務職、技術職などの名称のもとで実態的な区別は続いた。また大学卒業者は本社採用、新制高校卒以下の者は工場ごとの採用、昇進速度や上限も学歴によって異なるといった仕組みにも大きな変化はなかった。
日本のブルーカラーの昇給カーブは、他の国のブルーカラーと違い、ホワイトカラーのそれと類似していることが良く知られている*54。おそらく、そうした変化がおきたのは、この頃のことと思われる。ブルーカラーとホワイトカラーの賃金水準の格差も、春闘の賃上げ要求で毎年「一律・プラス・アルファ方式」がとられたことによって、さらに縮小傾向をたどり*55、ブルーカラーのホワイトカラー化、サラリーマン化が進んでいった。現代日本のブルーカラーは、他の国のブルーカラーと比べ独特な性格をもっているが、それはしばしば主張されるような日本の伝統文化によるというより、直接的には工職混合組合による運動の「成果」によるところが大きい。 (3) 戦後労働組合運動における〈連続〉と〈断絶〉
与えられた課題は、敗戦直後の労働組合運動の高揚を、後の企業主義的組合との〈連続〉と〈断絶〉という視点から考えることであった。一方、本稿が実際に吟味したのは、戦後初期の労働組合運動、時期的には1945年から49年前後までに限られている。当然のことながら、これだけの作業で、敗戦直後の組合と現代日本の「企業主義的」組合との間にある〈連続〉と〈断絶〉を確認するのは無理である。戦後もすでに半世紀近く、その間には1950年代の反合理化闘争、職場闘争により企業主義を克服しようとした総評労働運動の企て、日本社会を大きく変えた高度成長と春闘、石油ショックと円高による低成長期の労働組合運動など思いつくままに挙げても、検討を要する論点は少なくない。さらに経営側のさまざまな労働運動対策・労務管理についても具体的に検証することなしに、この課題に答えることは不可能である。
さらにそれにつぐ第二の転機は、50年代から60年代前半にかけて、各産業のトップ企業で相次いだ合理化をめぐる大争議の時期であろう。この一連の争議で、経営側は企業に非協力的な組合指導者や活動家の排除に力をいれ第二組合をつくらせた。この際、第一組合から最初に脱退したのは職員、ついで役付工であった*58。ここで、生産管理闘争では威力を発揮した事業所「全員組織」=工職混合組合の弱点があらわになった。これ以降、職員の圧倒的多数は、企業と対決的な第一組合から離れて管理職への昇進コースを選び、大学卒業者の一部はさらに抜擢されて経営者に転身した*59。あくまで企業と対立する道を選んだ人は社外に追われるか、孤立させられていった。
また、労働組合運動の担い手の面でも変化はおきている。1940年代の労働組合運動が全体として職員層、それも大卒職員の主導下にあったのに対し、50年代以降、労働運動が再活性化した時、企業レベルの運動の主導権は、職員組合では中等学校卒業の一般職員へ、混合組合では役付工を中心とする現場労働者層に移っていた。これがさらに60年代になると「青空の見える労務管理」の導入で、平職員や役付工の一部が管理職に抜擢され、非組合員となった。このように、労働組合運動の中心勢力の間に、管理職へ上昇する部分が常に存在することは、そのキャリアの初期では組合員である大卒職員のなかから経営者が選抜されることと相まって、経営と組合との境界を曖昧でぼやけたものにしている。労働組合の主力が、非組合員となることを目指して相互に競争する状況では、運動の空洞化は避けがたい*61。
ただ、現在の労働組合の多くが果たしうる役割は、けっして小さなものではない。敗戦直後の労使対決の過程で両者が合意した「あるべき企業像」、つまり会社は資本家(株主)のものである前に、そこで働く者全員によって構成され、そこで働く者のために機能すべきであるとの考えは、その後も生き続けている。もちろん、これはメダルの表面で、その裏側には、企業が繁栄してこそ従業員の生活も豊かになるのだから、企業全体のためには個々の従業員が犠牲を払うのも当然とする考えがつねに存在する。とくに経営危機に際し表裏が逆転し、従業員のための企業でなく、企業あっての従業員となりがちである。だが、この「建て前」をできるだけ実体化させるには、組合の存在が不可欠である。昔から日本の庶民の抵抗は、支配者の「建て前」を逆手にとり、そのオモテの論理を守らせることを伝統としてきたのである。 【追記】 編者から与えられた課題には、冒頭に記したもののほか、副次的に「戦時中の産報体制と戦後労働組合との関係の解明」があった。その課題に答えるべく、多少は準備をはじめはしたが、紙幅の関係で、今回は省略せざるをえなかった。 【 注 】*1 「企業別組合の歴史的背景」(法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』305号、1984年3月)。「日本労使関係の歴史的特質」(社会政策学会年報第31集『日本の労使関係の特質』御茶の水書房、1987年)。 *2 1947年のみ『労働組合調査』、48年以降『労働組合基本調査』、83年以降は『労働組合基礎調査』。なお、組合の実勢を表示するとき、「単位労働組合」数を使うことがあるが、これは適切ではない。1953年から集計を開始した「単一労働組合」数を用いるべきである。「単位労働組合」では、大組合の場合は支部、分会などまで集計されるからである。ちなみに、1953年の「単一労働組合」数1万8228、「単位組合」数は3万129である。また組合員数も、単位労働組合の場合は本部直属の組合員が洩れてしまい、実勢より低くなる。 *3 労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』労務行政研究所、1951年、999頁。 *4 労働省監修・加納道二編『日本労働組合名鑑』国際労働法制研究所、1948年。 *5 足尾銅山労働組合編『足尾銅山労働運動史』1958年、196頁。 *6 1946年6月現在で、全日本海員組合は支部数26、組合員数6万1419人であった(労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』労務行政研究所、1951年、406頁)。 *7 東京大学社会科学研究所編『戦後労働組合の実態』日本評論社、1950年。のちに同書の附表を除いた報告書の本文だけが改題・再刊された(大河内一男編『労働組合の生成と組織』東京大学出版会、1956年)。 *8 もっとも、少し後の時期については推計がある。すなわち泉谷甫氏は、1956年について「サラリーマンの組織人員」を259万人、組織率36%と推計し(松成義衛ほか『日本のサラリーマン』青木書店、1957年)、ソロモン・レヴィン氏は、1960年について組合員総数のうち36%がホワイトカラー組合員であると推計している( Solomon Levine, “Unionization of White-collar Employees in Japan", Adolf Sturmthal(ed.), White-collar Trade Unions, Urbana & London, University of Illinois Press, 1966, pp.223-225.)。 *9 日本の組織率を国際的に比較する際には注意を要する。なぜなら、多くの国では一般に分母には組織可能人員を使っているが、日本では会社役員や、団結権を否認されている自衛官や警官まで含めた「雇用者」数を使っているからである。このため、日本の組織率は3%から5%程度は低くなっている。詳細は二村一夫「労働組合組織率の再検討」(『大原社会問題研究所雑誌』第330号、1986年5月)参照。 *10 小池和男『賃金──その理論と現状分析』ダイヤモンド社、1966年、第30表による。 *11 George S. Bain, The Growth of White-Collar Unionism, Oxford University Press, 1970, pp.22-27. *12 C・ライト・ミルズ著、杉政孝訳『ホワイト・カラー』創元社、1957年、280頁。 *13 労農記者懇話会『労働運動見たまま』第1集、時事通信社、1947年。15−18頁。 *14 山本潔『読売新聞争議(1945・46年)』御茶の水書房、1978年、23頁。 *15 平沢栄一『争議屋』論創社、1982年、22−23頁。 *16 大河内一男編『労働組合の生成と組織』東京大学出版会、1956年、第5章「組合役員の性格」参照。 *17 経営者側がきわめて組織的に組合結成にとりくんだのは北炭で、45年10月、前田一労務部長が北海道各砿業所の労務課長を集め「労働組合設立指導方針」を決め、組合設立を指導している(北炭労務部編『北海道炭砿汽船株式会社労働運動史々稿』第1輯)。また、逓信院当局も、部内で単一組合を結成する方針をもって働きかけている(『全逓労働運動史』第1巻、105−113頁)。その他、経営側の職員が組合結成の中心になった事例は、多くの組合史に記録されている。 *18 住友石炭鉱業株式会社職員労働組合連合会編『十年史』1957年、6頁。ただし、こうした組合の届出は地労委が受理せず、改革を指導したから、長期間続いたわけではない(神戸銀行従業員組合『十年の歩み』1958年、73頁、参照)。 *19 大河内一男氏は、こうした考えを、さまざまな機会に、数多くの論文として発表されている。どれかひとつあげるとすれば「わが国における労使関係の特質」(『労使関係論の史的発展』有斐閣、1972年)であろう。 *20 東京大学社会科学研究所編『現代日本社会 5 構造 』東京大学出版会、1991年、222頁。 *21 戦後日本の労働者が希望した組織形態は「会社別従業員組合」である。この事実は、東大社研調査より早く、実践家によって認識されていた。1946年1月に開かれた労働組合総同盟準備委員会が採択した運動方針書は、つぎのように記している。「一般従業員が会社別従業員組合組織の希望を有することは遺憾ながら我等の当面する事実である。我等はこの迷蒙〔ママ〕を打破しなければならないことはいうまでもないが」(労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』労務行政研究所、1951年、447頁)。総同盟の指導者は産業別組合を組織しようとしたが、職場の労働者はこれを受け入れなかった。 *22 Efren Cordova Industrial Relations in Latin America, Praeger Publishers, New York, 1984, pp.30-31. *23 Ross M. Martin, Trade Unionism:Purposes and Forms, Oxford, Clarendon Press, 1989, p.174. *24 Steve Smith “Craft Consciousness, Class Consciousness: Petrograd 1917", History Workshop Journal, No.11, Spring 1981. *25 小池和男『職場の労働組合と参加』東洋経済新報社、1977年、240頁。 *26 R.ブランパン編、花見忠監訳『労働問題の国際比較』日本労働協会、1983年、238頁。 *27 Richard Hyman & Robert Price(ed.), The New Working Class? White Collar Workers & Their Organizations, London, The Macmillan Press, 1983, p.163. *28 日本都市交通労働組合編『都市交三十年史』労働旬報社、1978年、158−160頁。 *29 笹木弘「戦後における日本の海上労働運動」(『商船大学研究報告』第3号B、1953年2月) *30 日本鋼管川崎製鉄所労働組合『十年のあゆみ』17−18頁。なかには、労働組合委員長の職務が食料や衣料の調達というところさえあった(太平洋炭鉱労働組合『労働組合史』1955年、23頁)。 *31 大河内一男編『戦後労働組合の生成と組織』東京大学出版会、1956年、94頁。 *32 氏原正治郎「戦後労働市場の変貌」(『日本の労使関係』東京大学出版会、1961年)。 *33 戦前の工職間格差の実態については、菅山真次「戦間期雇用関係の労職比較──〈終身雇用〉の実態 」(『社会経済史学』第55巻第4号、1989年10月)参照。 *34 George S. Bain The Growth of White-Collar Unionism, Oxford University Press, 1970, pp.48-65. *35 注(1)の拙稿、および二村一夫『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』参照。 *36 石田光男氏は、その注目すべき作品「賃金体系と労使関係──日本の条件」(同著『賃金の社会科学──日本とイギリス』中央経済社、1990年、所収)で、「フェアネス」あるいは「公平観」という言葉を使って、日本の労働者の「能力主義」志向を分析している。ただ「フェアネス」とか「公平観」という言葉は、日本の労働者の心性をあらわすには、いささか理念的にすぎるように思う。ここでは「公平感」あるいは、「公平感覚」という言葉を使うことにする。 *37 富士電機労働組合『組合運動史』第1巻、98頁。 *38 塩沢美代子『ひたむきに生きて』創元社、1980年、166頁。 *39 日本教職員組合編『日教組十年史』1958年、230頁。なお、規約に女性の中央委員枠を定めるなど、組合活動における男女差別撤廃に関する日教組の取り組みは先進的であった。 *40 労働省労働統計調査部『1949年6月末基本調査 労働組合調査報告』1950年。 *41 生産管理闘争については、山本潔『戦後危機における労働運動』御茶の水書房、1977年、参照。 *42 山本潔前掲書、111−112頁。 *43 日本の労使交渉で、「誠意」ほど頻繁に使われる言葉は少ないであろう。これについては、前出注(1)の拙稿「企業別組合の歴史的背景」参照。 *44 栗田健編著『現代日本の労使関係──効率性のバランスシート』労働科学研究所出版部、1992年、29頁および栗田健「戦後民主主義と日本労使関係」(長洲一二編『現代資本主義と多元社会』日本評論社、1979年)参照。 *45 経済同友会を中心にした経営者のなかには、生産管理を容認し、「産業の運営に関してすべての関係者をしてこれに参画せしめること」を主張する者がいた。山本潔「〈産業再建〉と諸政治主体」(東大社研『戦後改革 5 労働改革』東京大学出版会、1974年);信夫清三郎『戦後日本政治史 U』勁草書房、1966年、412−415頁、参照。 *46 経営協議会については、さまざまな研究があるが、前掲の栗田健論文のほか、中島正道「戦後激動期の〈下からの経営協議会〉思想」(清水慎三編著『戦後労働組合運動史論』日本評論社、1982年所収);遠藤公嗣『日本占領と労資関係政策の成立』東京大学出版会、1989年;西成田豊「占領期日本の労資関係」(中村政則編『日本の近代と資本主義──国際化と地域』東京大学出版会、1992年所収)、など参照。 *47 労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』収録の諸争議の要求事項による。 *48 たとえば井華〔住友〕鉱業株式会社は、唐津鉱業所職員組合の藤田若雄組合長を東北の鉱山に転勤させようとし、争議となった(井華鉱業株式会社職員組合連合会編『連合会史』1951年)。なお、藤田若雄『サラリーマンの思想と生活』(東洋経済新報社、1959年)は、この問題の当事者であった一労働問題研究者による記録として興味深い。 *49 労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』410頁。なお、国鉄労働組合による人事管理への介入・規制問題については、青木正久「国鉄労働運動(1945〜49年)──人事管理の〈民主化〉を中心に──」(労働争議史研究会編『日本の労働争議(1945〜80年』東京大学出版会、1991年)参照。 *50 千代田生命外務従業員組合『十年史』1962年、13頁。 *51 全日本損害保険労働組合『全損保の歩み』1962年、69頁。 *52 労働組合法改正に先立つ、48年12月、政府は労働次官通牒を発し、各都道府県労働課が各地の軍政部の援助も受け、法改正前に、改正主旨にそって組合規約や労働協約の改訂をすすめるよう指示した。具体的には、組合に対する企業の経費援助の停止、組合員資格を明確に規定し、管理職や人事労務担当者、守衛などを非組合員化することであった(『資料労働運動史 昭和23年』労務行政研究所、1952年、1117−1122頁)。 *53 労働省『労働行政史 戦後の労働行政』労働法令協会、1969年、469−471頁。 *54 小池和男『日本の熟練』有斐閣、1981年。 *55 「わが国賃金の特徴は、欧米にくらべ企業のなかの賃金格差がやや少ない、という点にあろう」(小池和男前掲書、71頁)。 *56 折井日向『労務管理二十年』東洋経済新報社、1973年。熊沢誠「職場社会の戦後史」(『新編 日本の労働者像』ちくま学芸文庫、1993年)所収参照。欧米に進出した日本企業の多くが、雇用保障と同時に単一身分(single status)制度を日本的経営のセールスポイントの一つにしているのも、こうした歴史的背景をもっている。 *57 橋元秀一「能力主義と賃金体系」(栗田健編著『現代日本の労使関係──効率性のバランスシート』労働科学研究所出版部、1992年)参照。 *58 竹田誠『王子製紙争議(1957〜60)──日本的労資関係確立をめぐる労資抗争』多賀出版、1992年;労働争議史研究会『日本の労働争議』東京大学出版会、1991年、所収の松崎義、平井陽一論文など参照。 *59 1981年現在、日経連加盟企業313社についての調査では、かつて組合の執行委員を経験した者が取締役となっている企業は232社(74.1%)にも達している。 *60 高木郁朗「日本の企業別組合と労働政策」『講座 今日の資本主義 7 日本資本主義と労働者階級』大月書店、1982年。 *61 現在の労働組合のなかで、スト権が認められていない公務関係の組合の方が、民間部門より企業主義的な色彩が薄いのは、企業間競争がないことと同時に、労働組合に「キャリア組」が参加していないことと無関係ではないであろう。
初出は、渡辺治他編《シリーズ 日本近現代史 構造と変動》4
『戦後改革と現代社会の形成』岩波書店、1994年刊、所収。 |