二村一夫著作集目次に戻る


日韓労使関係の比較史的検討

二 村  一 夫



はじめに

 本稿は、日本と韓国の労使関係を比較史的に検討することによって、両国の労使関係の特質を明らかにしようとする試みである。本稿のもととなった報告書を提出した交流シンポジウム(1)の統一テーマは日韓両国の労使関係の比較研究であったが、単にこの2カ国だけを比べるよりも、世界各国の労使関係との比較、それも現状だけでなく歴史的な比較検討を加える方が、両国の労使関係についてもより明瞭にすることが出来ると考える。もっとも、世界各国の労使関係の歴史といっても、ここでは、主に〈労働運動の母国〉であるイギリスと、その伝統を継承しているアングロサクソン系諸国との比較が中心となろう。

 なお、この交流シンポジウムの目的のひとつは、互いに自国の研究状況を相手国の研究者に伝えることにあった。したがって、本稿は日韓の比較研究を目指してはいるが、内容的には日本に関する説明に大きなスペースをさいている。また、筆者は韓国の労使関係について学びはじめたばかりであり、韓国について詳論する力はない。しかもハングルが読めないため、もっぱら日本語文献と英語文献に依拠している。もちろん、4回の交流シンポジウムで学んだところは大きく、また2回の韓国訪問の際に実施した調査も有益であった。だが、本稿の課題が筆者の力量を超えていることは、誰よりも本人が自覚している。

 さらに、このテーマを困難にしているのは、研究対象そのものが変化のただなかにあることである。世界史的にも例のない早さで変化をとげ、今なお日々変化を続けている韓国の経済・社会を見るとき、またそれ以上に激変の可能性を秘めている政治状況と、政治に強く影響されてきた韓国労使関係の歴史を考えると、この課題に答を出すことは容易ではない。韓国の労使関係・労働運動は、1987年の〈労働者大闘争〉を境に急激に変化し、10年近くたった今でもなお変動を続けている。今後も〈現状〉が瞬時にして〈古い事態〉となるような激変がおきることもありえないことではない。こうした流動的な状況下にある韓国の労使関係を対象に比較研究をおこなうのは、韓国研究の初学者にはまさに無謀な企てで、ごく初歩的な認識の点でさえ誤りをおかしているおそれなしとしない。読者各位のきびしい批判を乞いたい。


I 日韓労使関係の共通性

1 企業内労働組合

日本と韓国の労使関係を国際比較的に見たとき、誰でもすぐ気づく共通点は、両国の労働組合の多くが企業別組合である事実である(2)。もっとも韓国の財閥系大企業の労働組合は、企業別というより、事業所別組合が少なくない(3)。さらにいえば、韓国の財閥系企業の多くは、独立した企業体というより、財閥グループの事業所的性格が強い。たとえば、大卒社員の採用は企業単位ではなく財閥グループとして一括しておこなわれ、本人の希望も生かしながら傘下企業に配分するシステムがとられている(4)。また、各企業の重要な経営方針の決定にあたっては、企業の社長より財閥グループの総帥の発言が決定的な重みをもっている(5)。その意味では、個々の会社より財閥グループをひとつの企業体と見なすべきかもしれない。
 いずれにせよ、ここでは日韓両国の労働組合組織の共通性を表現する言葉として、〈企業内労働組合〉を使うことにしよう。欧米の労働組合の多くが、企業の枠をこえて労働条件を規制しようとする、クラフト・ユニオンや産業別労働組合、あるいは一般労働組合(general union)などであるのに対し、両国の労働組合の多くは、組合員を企業内従業員に限っている点で共通しているからである(6)

【企業内組合の生成理由】

 では、なぜ日本や韓国の労働組合の多くは企業内組合になったのか?
 この問いに対し、日本の労働経済学者・労使関係研究者の多くは、労働市場の特質によって説明をこころみてきた。すなわち、労働組合は労働力の売り手の組織であるから、同一労働市場に属し利害関係が一致する者同士で団結する。日本の労働市場は企業別に分断されており、そこに組織される組合はとうぜん企業別になった、との主張である。
 あるいは、ほぼ共通する議論であるが、労働市場の企業別分断をもたらした要因として「内部労働市場の形成」をより重視し、これこそ企業別労働組合を成立させた原因だと説く論者もいる。筆者は、こうした〈労働市場決定説〉では、戦後日本の労働組合がホワイトカラーもブルーカラーも同一組織に属す工職混合組合となった事実を説明し得ないと考え、何回かこれを批判してきた(7)。いま改めて、その批判を繰り返すことは避けたい。

 ただここで、一つだけ指摘しておきたいことがある。それは、韓国の労使関係の経験は、企業別労働組合の生成要因を〈労働市場〉に求めることの誤りを明示している事実である。すなわち、1980年代における韓国製造業のブルーカラー労働者の労働市場について実証的に研究した横田伸子氏は、つぎのような諸点を明らかにしている(8)

 1980年代初めまでの韓国は、「中小企業と大企業間の区別が見られない単一労働市場」であった。だが「80年代半ばから大企業では勤続10年以上の一定の熟練を身につけた〈中堅労働者〉が形成・蓄積され始める」。さらに「1987年の〈労働者大闘争〉を主要な契機として、大企業と中小企業との賃金格差など労働条件の格差の拡大によって、ますます両者の間の定着性に開きができつつある。しかし「1990年代初めでも、……下位職級の勤続5年未満短期労働者はその多くが依然として激しく労働移動し、大企業と中小企業との間の相互移動も激しい」。

 要するに、韓国の労働市場は、1980年代初めまで企業別に分断されるどころか、大企業と中小企業との境もない単一労働市場であり、90年代初頭でも下位職種についてはその性格を残していた。一方、この間の労働組合組織は、圧倒的に企業内組織が多数を占めていた。つまり、韓国の経験は、労働組合が企業別となる根拠を、労働市場要因に求めることの誤りを示しているのである。

 では、労働組合が企業別になった理由はどこにあるのか?
 実は、私はこの問い自体に問題があると考えている。多くの研究者や労働運動家は、労働組合本来の組織形態は、あるいは「労働組合としてのあるべき組織形態」は、企業の枠を超えて労働条件を規制するクラフト・ユニオンや産業別組合であるとの前提にたって「なぜ日本では、労働組合は企業別組織になったのか?」との問いを繰り返し問題にしてきた。だが素直に考えれば、労働者が何らかの理由で団結の必要を感じたとき、毎日顔を会わせ、肩をならべて働いている仲間同士で相談し、職場を基礎として組織を作るのは、ごく自然なことではないだろうか?
 また、通常、労働者が団結の必要を感ずるのは、賃金など労働条件に対する不満が高まった時であり、そこでは同じ経営者に雇われている者が一致して、その経営者を相手に交渉せざるをえない。つまり、何か特別の条件がない限り、職場別組織や企業別組織は労働者団結の出発点におけるごく自然な形であり、少しも異常なことではない。また経営者の側も、特別な事情がない限り、自分の企業の従業員だけを相手にする方を好むものである。

【クラフト・ユニオン生成の歴史的条件──ギルドの伝統】

 このように見たとき、そこに何か特別の条件があったに違いないと思われるのは、むしろ欧米のクラフト・ユニオンの場合である。
 なぜ、毎日いっしょに働いている同じ職場の仲間と団結せず、同一職種の労働者なら顔を見たこともない者とでも一緒になって組織をつくるのを当然と考えたのか。そうした考えは、なぜ、どうして生まれたのか? また、労働者がそう考えただけでなく、経営者もそうした組織を認めたのは何故なのか。
 こうした問いに答えれば、逆に日本や韓国の労働組合が企業内労働組合となった理由も明らかしうるであろう。
 よく知られているように、欧米の労働組合の出発点における組織形態は地域的なクラフト・ユニオンであった。その原型となった組織、あるいはモデルとした組織は、中世のギルドであったと思われる。周知のように、ギルド的慣行の基本は、特定の職業分野をひとつのギルドが独占し、非加盟者の参入を排除することにあった。また徒弟制度によって構成員の数の増加を防ぐと同時に、労働時間や作業量を自律的に規制し、構成員相互間の競争を排除することに力をいれた。クラフト・ユニオンの目的もギルドと同じで、特定の職種(trade)の労働市場をクラフト・ユニオンが支配することを狙い、組合員以外の者と一緒に働くことを拒否し、賃金率は自分たちだけで一方的(unilateral)に決め、また自分たちの熟練の価値を損なうおそれのある新技術の導入に対して頑強に反対した。また、正規の組合員となるには、組合員のもとで一定の年数を徒弟として働く必要があった。どの政策もすべてギルドの慣行と共通している。重要なことは、労働者側がこのような政策をとっただけでなく、経営者もふくめ、社会全体がそうした組織の存在を認めたことである。こうした社会的合意の存在も、その社会におけるギルドの伝統を抜きには考えられない。

 以上のように主張すると、おそらく「ギルドの伝統のないアメリカやオーストラリアなどで、どうしてクラフト・ユニオンがつくられたのか?」との疑問が出されるであろう。
 この疑問に対し答えるのはそれほど難しいことではない。これら移住先の国々で労働運動の中心となった人びとが、すでに母国でクラフト・ユニオンの組合員としての体験をもっていたからであろう。また組合員としての経験がない場合でも、そうした労働組合のあり方を当然とする社会で育った人びとであった。もちろんそうした慣行のない東欧やアジアからの移民が大量に流入したアメリカでは、クラフト・ユニオンはイギリスほど強固ではなく、労働組合の存在を認めない経営者も少なくなかった。しかし、生成期のアメリカ労働運動の担い手はイギリスからの移民労働者であり、彼らを通じてイギリス労働運動の伝統は継承された。労働組合の伝統というだけでなく、ギルドやクラフト・ユニオンが作り上げた労働慣行が、新世界にも根づいたのである。たとえばアメリカの機械産業では、労働組合が存在しなかった工場においてさえ、労働者は自分たちが一日に生産する量(stint)を自律的に制限する慣行を保持していた。テイラー主義のいわゆる〈科学的管理〉は、まさにそうした労働者間の慣行を打破しようとし、さらにそうした慣行を社会が認めている状況を覆すことを意図したものであった(9)
 労働運動家をふくむ流刑者や、イギリス社会に不満を抱き理想の実現を海外に求めた人びとを中心に形成されたオーストラリアやニュージーランドでは、早くから労働組合法が制定され、母国より強力な労働組合運動が成立した(10)。これは、労使関係の特質を形成する基礎的なひとつの条件として、職業慣行に関する社会的な認識、あるいは〈社会的合意〉が大きな意味をもっていることを示している。なおアジアのなかでも、シンガポールやマレーシアのように、法制上、旧宗主国であるイギリスの影響を強く受けてきた国では、企業別組合の比率は低く、産業別労働組合が主であると言われてきた(11)。しかし、現在ではシンガポールも団体交渉の単位は企業別組合にあり、マレーシアも韓国や日本をみならうルック・イースト政策によって、1989年に労働組合法を改正して企業別組合を合法化した事実(12)が示すように、社会全般にクラフト・ユニオニズムの伝統が定着していないところでは、産業別組合から企業別組合への転換傾向がみられる。

【工業化前の日本の職人組織の特質】

 もちろん日本でも、クラフト・ギルド的な組織、同一職業の人びとによって組織された団体は古くから存在した。職人の場合であれば、技能伝承のための徒弟制度を通じ同業者の組織は自然に形成される。そうした組織が、同業者の利益を守り、相互に助け合う活動をおこなうのも自然の成り行きである。たとえば、古くからの伝統をもつ大工、石工、左官など建築関係の職人の間では、〈太子講〉といった同職団体が全国各地に作られ、互いに助け合っていた。あるいは、全国各地の金属鉱山の坑夫たちは〈友子同盟〉と呼ばれる組織をつくり、技能伝承、相互扶助等を目的に、ゆるやかながら全国的に連携していた。

 ただ、ヨーロッパと違い、日本の職人組織は、特定の職業分野の労働市場を独占的に支配することはなかった。ドイツやイギリスのような〈資格社会〉では、その職業に従事するためには、何より正式な資格をもっていることが重要である。その資格を取得するには、その職業団体の正規の構成員である親方のもとで徒弟として一定年限の修業を積んだ上で、正式にその団体に加入を認められる必要があった。そうした社会では、特定の職業団体が、その職業上の取引条件を維持することを目的に、構成員の数を制限する方針がとることが可能だったのである。

 これに対し、日本の職人社会では、特定の職業に従事するのに必要な要件とみなされてきたのは、何よりもその職業に必要な〈技能〉の有無であった。日本の職人社会でよく使われた「腕さえあれば一人前」という言葉は、こうした考えを端的に示している。たとえば、友子の慣行のなかには、一人前の成員となるには3年3月10日の徒弟期間を経なければならないという、実質的に入職規制的な機能をもつ要件があった。しかし、日本では、友子のメンバーでなくとも腕さえあれば坑夫として働くことが可能だった。つまり、友子同盟は、坑夫の労働市場を支配していたわけではない。また、3年3月10日という徒弟期間も厳格には守られず、徒弟期間中に親方のもとを逃げだし、他の鉱山で一人前の坑夫として働く者も少なくなかった。このように徒弟期間未了のまま逃亡し、別の土地で一人前の職人として働くことは、坑夫にかぎらず各職種で広くみられた。

 ではなぜ日本の職人組織は、ヨーロッパの職人組織と異なる性格をもつにいたったのであろうか? それは、徳川時代の日本の都市と西欧の中世都市の性格の相違、より具体的には職人組織と支配権力との関係の相違によるところが大きかった。西欧の都市は、いわゆる〈自由都市〉で、市民による自治共同体であった(13)のに対し、幕藩体制下の日本の都市の大部分は領主の直接的な支配下におかれた城下町であった。城下町では、いかなる組織も領主の承認なしには存続しえず、権力から独立した自律的な商人や職人の組織は成り立ちえなかった(14)。しかも領主は、物価の騰貴を抑えることなどを目的に「独占的利益を目指す同職仲間は認めない」ことを基本方針としていた(15)
 もちろん日本でも、商工業者らは、自発的に職業単位の組織である〈仲間〉をつくって同業者の利益を守ろうと、さまざまな努力を重ねてきた。とくに縄張りを定め、一定地域に複数の同業者が開業しないよう規制するといった企ては、しばしば見られた(16)。しかし、特定の〈仲間〉の一員でなくとも、腕さえあればその職業に従事できる社会では、そうした規制を〈仲間〉外の同業者に守らせることは不可能であった。そこでしばしばとられた方策は、特定の同業〈仲間〉が幕府や領主の御用を無償でつとめることを願い出て、その見返りとして領主の力で〈仲間〉に未加入の同業者を強制的に加入させるよう働きかけることであった。自律ではなく、権力の介入による職業利益の保護を求めたのである。

 一方、幕府や領主は、国役の確保や物価の安定など、その時々の政策目的に応じて、商工業者の組織をあるときは禁止し、またある時はその結成を命令した。すなわち、徳川幕府初期においては、商人や職人が〈仲間〉を結成するのを原則として認めていなかった。しかし、17世紀後半になると、大坂において回船問屋、両替商、材木屋、油屋などについて仲間の結成を認めるようになった。さらに、1720年代になると、米価の低落に対し一般諸物価が高騰した事態の是正を目的に、商人や職人に仲間の結成を命じている。その後も、1841年に株仲間停止令を出してその解体を命じ、その10年後には株仲間・問屋組合再興令を出している(17)。こうした命令に、商工業者はほとんど抵抗した形跡がない。

 要するに、日本の商工業者の同業組織は、権力者の支配の便宜のための存在という性格が強く、商工業者もまた、領主の権威や規制力に頼って職業上の利益を守ろうとしたのである。今でも日本で、政府によるさまざまな競争制限的規制が存在することと、こうした歴史とは無関係ではあるまい。そうした社会では、ヨーロッパのように、各種職業団体による自主的・自律的な規制が全社会的に受け入れられるといった慣行が成立することは不可能だった。

【韓国の歴史的条件】

 韓国でも、日本と同様、西欧のギルドのような同業者組織の自律的規制の慣行が存在せず、クラフト・ユニオニズムが不在だったであろうことは、次のような事実から推測される。
 a) 韓国では、1963年以降の約10年間、労働組合法によって企業別労働組合を産業別組織に誘導しようとする政策がとられていた(18)。しかし、それによっても企業内組織の実態は変わらなかった。
 b) 韓国資本主義は、日本をはるかにしのぐ急激な発展をとげたが、それを可能にした条件のひとつは、新技術の導入であった。もし労働者の間にクラフト・ユニオニズムの伝統が強ければ、自分たちの熟練の価値を失わせるような新技術の導入に抵抗したであろうが、そうした事実はまったく知られていない。

 では、韓国の工業化前の社会における職人組織と権力との関係はどのようなものであったのであろうか。これについて、Hagen Koo ハワイ大学教授は、次のように論じている。

「韓国には、ヨーロッパで見られたような強靭な職人文化や職人組織が欠けていた。韓国の職人は、数の上でごく僅かだっただけでなく、その大部分は宮廷や貴族の必要を満たす特殊な品々を作るために国家に雇われていた自立性の弱い人びとであった。彼らは儒教社会の社会階層構造のなかで、きわめて低い地位に置かれていた。
 この国の儒教の文化的伝統は、労働運動に対してさまざまな点で否定的な影響を及ぼしている。すなわち、それによって水平的な利益集団の形成が妨げられる一方で、〔血縁、地縁といった〕原初的な関係に基礎をおく団結が強調された。儒教文化では、肉体労働は低く評価される一方、教育を通じた個人的な社会的上昇移動が奨励され、雇用主と労働者との間における家父長的な関係が肯定されている。つまり、ヨーロッパの工場労働者とは違い、韓国の工場労働者は、歴史的・文化的にきわめて不利な条件のもとで、労働者階級として歩み始めるほかなかったのである。」(19)

 つまり、工業化前のこの国では、日本以上に職人組織は自立性を欠き、同業者組織による自律的規制の慣行はなかった。つまり、クラフト・ユニオニズムの伝統は欠如していたのである。

【クラフト・ユニオニズム不在の影響】

 ある国においてクラフト・ユニオニズムの伝統が有るか無いかは、単に労働組合の組織形態を規定するだけではない。生産組織、労使関係、経営組織のあり方など、さまざまな問題に影響をおよぼすことを見落としてはならない。たとえば、〈日本的経営〉の特徴としてしばしば指摘される組織の〈柔軟性=flexibility〉は、まさにそうしたクラフト・ユニオニズムの伝統が存在しなかったからこそ可能になったものである。また生産組織における〈柔軟性〉は、具体的には、労働者の多能工化、あるいは配転・出向・応援など労働者の職務そのものを頻繁に変更することによって実現されている。そうしたことが可能であるのは、欧米のように〈職種〉の枠組みが明確でなく、特定の職務は特定の資格をもつ特定の職種の労働者しか従事してはならない、といった慣行がないからである。

 一方、欧米で〈職種〉の概念が明確となったのは、まさにクラフト・ギルドやクラフト・ユニオンの存在によるものであった。クラフト・ユニオンがその組織を確立するには、組織対象となる職種範囲を明確にすることが決定的に重要である。周知のように欧米の労働運動史では、組織範囲をめぐる労働組合間の紛争、いわゆる demarcation dispute は珍しい出来事ではない。これに対し、日本では、そうした組織の縄張りをめぐる紛争は皆無ではないが、多発したことはなく、それほど大きな問題になったことはない。

 〈日本的労使関係〉の特質を示すエピソードとしてしばしば語られるところだが、欧米の労働者がその職業を問われれば、旋盤工、プレス工、あるいは塗装工といった職種名で答えるのに、日本の労働者はトヨタの○○係長などと企業名と肩書きで答えるというのも、こうした職務範囲の不明確さと関わっている。日本企業は、大卒の正社員の採用にあたって職種を限定することは稀で、入社時点ではどんな仕事をするのか決まっていないのが普通である。入社後は短期間にいくつか異なった職場で働かせ、その適性を判断する。こうした立場にある社員がその職業を聞かれた時、職種では答えようもなく、企業名を答えるのは当然である。ブルーカラーの場合は、特定の職場で比較的長いあいだ働くことが多い。
しかしその場合でも、特定の職務に固定的に従事するわけではなく、勤続年数が増すにつれ、しだいに熟練度の高い仕事に変わるのが普通である。また、同じ職場に欠勤者がいたりたりすれば、熟練度の低い仕事に従事することも稀ではない。同じ職場なら、複数の職務を担当することはごく普通におこなわれている。業績が悪化した企業では、生産労働者を、一時的にセールスマンとして働かせるといったことさえおこる。欧米のように、特定の職務に関する熟練は自分の〈財産〉だと考えている労働者を相手に、こうした対応は不可能である。

 さらに日本では「技術者と生産労働者が緊密なコミュニケーションのもとで相互協力的な関係を維持し、いわば〈技術・生産一体主義〉とでもいえる職場組織を確立している」ことが、QCサークルなどの改善提案が実現する基礎にあるといわれている(20)。これも、こうした特定の職務は特定の職種の労働者だけしか従事できないといった慣行がないこと、さらに第2次大戦後に、工職身分格差が縮小されていたからこそ可能となったのである。

 また欧米では、熟練労働者と非熟練労働者(後には半熟練労働者も)との区別は一般に明確で、賃金格差も大きい。これに対し、日本では熟練労働者と半熟練労働者との境目はきわめてあいまいである。今日の日本の労働組合の大部分が企業別に組織されていることはもちろん、後述するブルーカラー労働者のホワイトカラー化を可能にした重要な条件は、この craft tradition の欠如である。

 逆に言えば、欧米の労使関係を理解するには、ギルドやクラフト・ユニオニズムの伝統が、今日にいたるまできわめて強い影響力をもっていることを忘れてはならない。この点は、クラフト・ユニオンを労働運動の当然の出発点とみる欧米の労使関係研究者や労働史研究者、あるいは彼らから学んだ研究者がしばしば見落し、あるいは軽視しているところである。

2 「社会的地位」に対する労働者の敏感さ

【ブルーカラーとホワイトカラー】

 日韓両国の労使関係に共通するもうひとつの特徴は、労働者が自らの社会的地位にきわめて敏感で、とくにブルーカラー労働者はホワイトカラーとの処遇上の差異に、大きな不満を抱いてきた、あるいは現に不満を抱いている点である。もっとも、戦後の日本では、「ブルーカラー労働者のホワイトカラー化」と呼ばれる事態が進行したため、この点に関する日韓両国の共通性は見え難くなっている。しかし、明治維新以降1950年代までの日本は、ブルーカラー労働者はホワイトカラーから〈不当な差別〉を受けているとの憤懣を抱いていたのであり、その点で現在の韓国と共通する性格をもっていたことは明らかである。

 戦後の日本でブルーカラーのホワイトカラー化がすすんだのは、労働組合が工職混合組合となり、労働運動が〈身分差別の撤廃〉を要求して、しだいにこれを実現していったからである。一方、韓国におけるブルーカラーとホワイトカラーとの関係は、戦前、あるいは敗戦直後の日本の状況に近い。たとえば、ホワイトカラーは月給、ブルーカラーは日給か時間給であり、学歴は同じ場合でさえ両者の間にはかなりの賃金格差があり(21)、またブルーカラーの場合には定期昇給制度が存在しない(22)
 もっとも、敗戦直後の日本と比べ、今日の韓国労働運動においてはブルーカラー労働者の比重が大きく、その主導権も現場労働者層にあるといわれている。すなわち金鎔基氏は、金三洙氏他の調査に依拠して次のように記している。

「韓国の組合運動の主導層は、ホワイトカラーのみの職場を例外にすれば、製造業では現場労働者層である。製造業に限っていえば、事務職(高卒も含む)の加盟を認める組合は全体の47%、大卒ホワイトカラーの加盟を認める組合は32%に過ぎないと報告されている。大企業の場合は混合組合の割合がより高いと推測されるが、その場合も、組合運動のリーダーシップは現場労働者、しかも役付工ではなく、一般労働者に握られている」(23)

 戦後初期日本の労働運動が一般にホワイトカラー、それも大学卒業などの高学歴の職員のリーダーシップが強かった(24)ことと比べると、かなり異なっているといえよう。
 しかし、この調査結果は同時に、韓国の労働組合運動が、欧米の労働運動よりはるかに日本の労働運動に近い性格をもっていることも明らかにしている。欧米では、今なお、労働運動はブルーカラー労働者だけの運動であった時代の影響を強く残し、ホワイトカラーとブルーカラーが同一組織に属することはほとんどない。ブルーカラーだけでなくホワイトカラーの加入を認める労働組合もあるにはあるが、実体的にはホワイトカラーとブルーカラーとは異なった部門に属し、その連合的な性格が強い。ところが、金三洙他調査から明らかなことは、韓国では、ブルーカラー主体の製造業においてさえ、労働組合の半数近くが高卒事務職の加入も認め、3分の1近い組合が大卒事務職の加入さえ認めている事実である。

 なお、別の調査(25)によれば、企業規模が大きくなるほど事務職の加入を認める組合の比率は高いという。すなわち、500人以上規模の労働組合では、高卒事務職の加入を認める組合は71.6%に達し、大卒事務職についても60.4%が加入資格を認めている。この調査では、企業規模を問わない場合でも、高卒事務職の加入を認める組合は調査対象259組合の59.8%であり、大卒事務職の加入を認める組合は調査対象260組合の51.5%で、金三洙他調査より高い数値を示している。
 もっとも、これは単に規約上のことで、大卒事務職の組合加入を認めている労働組合でも、実際上その31.6%の組合では大卒事務職員は1人も加入しておらず、これを含め65.8%の組合は大卒加入対象者の25%未満しか組織していない。また高卒職員の場合も、加入対象者のうち1人も加入していない組合が17.2%、加入者25%未満の組合が54.8%であるという。

 しかし、この調査結果はまた、韓国において混合組合がかなりの比重をもつことも示している。すなわち、大卒事務職員の加入を認めている組合の25.3%はその組織対象者の75%以上を組織しており、高卒事務職員については31.2%の組合が組織対象者の75%以上を組合員としている。つまり、調査対象全260組合中34組合は大卒ホワイトカラーをブルーカラーと同一組合に組織しており、48組合は高卒事務職を含む〈混合組合〉なのである。この数は、けっして無視し得るものではない。
 さらに組合員数を考慮に入れれば、工職混合組合は、上記の数値以上に韓国労働組合運動中で大きな比重を占めていると推測される。なぜなら組合員5万人と韓国最大の組織人員を擁する韓国通信労働組合、あるいは組合員約1万人のソウル地下鉄公社の労働組合は、ともに工職混合組合なのである。しかもこの両組合は、単にその組織人員が大きいだけでなく、活発な活動を展開し、その社会的影響力も大きい(26)

【社会的上昇志向の強さ】

 さらに注目されるのは、ホワイトカラーとブルーカラー間の格差を問題として、いわゆる〈学歴身分格差〉廃止要求が、今日の韓国労働運動の主要な争点のひとつとなっている事実である(27)。他ならぬこの要求こそ、戦後の日本の労働組合が追求した〈経営民主化運動〉の基本をなし、いわゆる〈日本的労使関係〉の形成に重要な意味をもったものである。

 もちろん学歴によって賃金水準に差があり、ブルーカラーとホワイトカラーの処遇が違うのは、韓国だけではない。ブルーカラーは日給か時間給、ホワイトカラーは月給であるのをはじめ、両者の間に労働時間の長短、就業時間・終了時間の違い、休日数、年金や諸手当、解雇予告期間など、その処遇における格差の存在は多くの国で一般的に見られるところである。たとえばイギリスでは、ブルーカラーとホワイトカラーが別の駐車場に車を駐め、出勤・退勤には違った門を通り、食堂や便所も別々であるといった事例が、1965年においても存在していた(28)
 しかし、労働者の入門証の色が違っていたことが発端となった大宇造船争議で、労働者側が「社員は家族、工員は家畜」というビラを出した(29)事実が端的に示しているように、韓国のブルーカラー労働者は、そうした処遇の違いを当然とは考えず、不当な身分的差別と感じているのである。

 日韓両国の労働者がこうした不満を抱いたのは、両者の価値観や感情に共通するものがあるからであろう。両国の労働者は、ともに社会的上昇志向が強く、身分格差に敏感である。別の面からみれば、両国とも、人間関係をつねに上下の関係、あるいは〈身分〉の違いとして意識し、自分と他者との差にきわめて敏感な社会である。これは歴史的に形成されたものに違いない。そのことを明瞭に反映しているのは言語である。両国ともに、会話の際には一人称、二人称を適切に使いわけるなど、対話者との間柄にふさわしい敬語、謙譲語を使うことが要求される。この要求を満たすには言語能力だけでなく、対話者との関係を適切に判断する必要がある。つまり、韓国でも日本でも、人びとは、日常的に自分と他者との関係を意識させられているのである。そうした言語そのものが、その社会の人間関係のあり方を反映したものであると同時に、そうした言語の存在が、人間関係を上下関係として意識させることになっているといえよう。

 もっとも、仮に各人の学歴がそれぞれの能力や努力の結果だけに左右されるものならば、学歴による処遇の違いを〈不当な差別〉と感ずる人は少ないであろう。しかし1950年代以前の日本や、しばらく前までの韓国では、勉強が嫌いなために肉体労働を選んだわけではなく、家庭が貧しかったために進学できず、やむなくブルーカラー労働者になった者が少なくなかったであろう。そうした境遇にある者が多ければ、彼らはホワイトカラーとの処遇の違いを〈不当な差別〉と感ずるに違いない。

 さらにいえば、韓国社会では伝統的に肉体労働を蔑視する傾向が強く、そのことがブルーカラーへの社会的評価を低め、不満を欝積させる一因となっている。日本でも、戦前は工場労働者を蔑視する考えは強かったが、それは工場労働が貧困のためやむなく従事する職業であり、賃金も低かったことの反映で、肉体労働そのものを蔑視するものではなかった。同じ「汗を流し体を使う労働」に従事する者であっても、高い技術をもつ職人は社会的に尊敬され、本人もその仕事に誇りをもち、家業としてそれを子孫に伝えようとする傾向をもっている。日本の大学出の技術者の間では、生産現場を重視して技術の改善をはかる「現場主義」と呼ばれる伝統が存在する。また、大学卒の新入社員を、まず生産現場に配置する慣行をもつ企業は少なくない。こうした考え方の相違が、今後、韓国における「ブルーカラーのホワイトカラー化」問題にどのように影響するか、大いに注目される。

 なお、日韓両国がともに社会的上昇志向が強いもうひとつの理由は、つぎに見るイギリスなどとくらべ、ブルーカラーとホワイトカラーとの間に、使用言語や趣味、あるいは衣食住などの文化面において、越え難いほどの垣根が存在しないからであろう(30)。言語や趣味といった文化面での違いは、幼いときからの家庭の躾などによるもので、短期間で身に付くものではない。しかし、日韓両国とも、高い学歴さえ得られれば、短期間で比較的容易に高い地位、高い身分に上昇できる。両国が、世界的にも高い進学率を記録しているのは、こうした事実を反映していると思われる。

【イギリス社会における階級意識】

 一方、よく指摘されるように、イギリスのブルーカラー労働者の間には「〈奴等〉と〈俺たち〉意識」('Them' and 'Us' consciousness)が強かった。もちろん現在では、そうした意識も大きく変化しているであろうが、20世紀の中葉までは色濃く残り、その影響は今に及んでいる。アメリカでも、労働組合員などの間には、イギリスほどではないが、同じような意識が存在する。この「〈奴等〉と〈俺たち〉意識」は、ブルーカラー労働者への他階級からの蔑視に対する、彼らの怒りを反映したものであろうし、その点では、第一次大戦前後の日本のブルーカラー労働者が〈下層社会〉として蔑視されたことに対して抱いた、「不当な差別に対する憤懣」(31)と共通するものがある。ただ、イギリスの労働者階級は、その怒りを、日本の労働者のように「〈俺たち〉も〈奴等〉と同じ社会の一員にしろ」と要求するのではなく、〈俺たち〉だけの世界 ─ 独自の生活様式、社会的慣習、言語 ─ などをもつ独自の世界を作り上げ、そのなかに閉じこもったのである。ブルーカラー労働者がそうした態度をとったのは、よく言われるように、彼らが労働者階級の一員であることに誇りを抱いていたからでもあろうが、それだけではない。他の階級、とりわけ下層中産階級が、社会的、文化的に両者の境界を越えがたいものにする努力を続けていたからでもあった(32)

 戦後の日本では、マルクス主義経済学に基づく「階級構成論」が、ホワイトカラーの大部分を労働者階級に分類してきたこともあり、また労働運動もブルーカラーとホワイトカラーが一体となった運動で、組合もブルーカラーとホワイトカラーが同じ組織に属していたこともあって、ホワイトカラーも労働者階級の一員と考える傾向が強い。そのため、ともすれば英語の 'working class' という言葉は、本来、ブルーカラーだけを指す言葉であったことが忘れられがちである。

 イギリスでは、ホワイトカラー、つまり事務職員や販売職などは、小売業者らとともに下層中産階級(the lower middle class)と見なされてきた。周知のように、'middle classes' は、'upper class'(貴族)と労働者階級以外の人びと、つまりブルジョアジーまで含む広い概念であるが、ホワイトカラー自身、自らを'middle class'の一員と考え、意識的に、労働者階級と一線を画すことに努めてきたのである。
 ホワイトカラーの下層は、収入面ではブルーカラー上層と大きな違いはなく、むしろ中産階級としての体面を保つための出費を強いられて、経済的にはブルーカラーよりかえって苦しい状態にある者も少なくなかった。にもかかわらず、あるいはそうだからこそ、ホワイトカラーはその衣服や住居、趣味、使用言語などでブルーカラーとは明確な一線を画すことにつとめてきた(33)。「〈奴等〉と〈俺たち〉意識」といったブルーカラー労働者の意識は、こうした中産階級意識との対立のなかで強化されたに違いない。



II 日本と韓国の労使関係の違い

 日本と韓国の労使関係の共通性を探るなかで、すでに両者の相違点もある程度は見てきたが、ここで改めて両者の違いを考えてみよう。

1 企業体質、企業経営者の性格の相違

 日韓の労使関係を比べて見たとき、誰でもすぐ気づくのは、両国の企業体質の差、より端的にいえば経営者の性格の相違である。
 一般に日本の大企業では、経営の意思決定をおこなうのは取締役会、実質的には代表取締役を中心とする常務会である。取締役の圧倒的多数を占めるのは、その企業内で社員として数十年のキャリアをへて取締役に抜擢された人びとである。彼らは株主としてはほとんど力をもたないが、その経営内で長年つちかった経験により、企業経営者として力を振るう。業績が悪化し経営陣の刷新を余儀なくされる場合には、最大の債権者であり同時に大株主であるメインバンクが役員の選任に関与し、社外から経営者を送り込むこともあるが、これも業績が回復すれば内部昇進者と交代するのが通例である。
 これに対し、韓国の大企業は、創業者であるオーナー経営者、あるいはその息子や兄弟など、血縁で結ばれたごく少数の人びとによって支配されている。彼らは大株主として会社を所有すると同時に、経営についてもその最終的な意思決定権をもつ、文字どおりの資本家である。
 つまり日韓両国では「企業は誰のものか?」と言う点で大きな違いがある。もちろん、法的には韓国も日本も、欧米同様、会社は資本家=株主のものである。しかし、戦後の日本企業は、株主より、そこで働く正規従業員の利益をより重視する傾向が強い。業績不振で赤字が続いた時でも、今の日本企業では、アメリカ企業型のレイオフによるリストラをすぐに実行することは困難である。何年間か連続して株式配当をゼロにしても、雇用確保に重点をおいたリストラを進めるであろう。

【日本企業──所有と経営の分離を促進した歴史的条件】

 こうした相違が生じたのは何故であろうか? そのひとつの理由は、日本と韓国の主要企業の歴史に60年から70年の差、あるいは三井、住友など近世の大商家を起点とすれば数百年の違いがあるからであろう。しかし、資本主義の歴史がさらに長い欧米と比べても、日本企業における所有と経営の分離はより徹底しており、株主の力は弱い。そうした点から見ると、単に歴史の長短だけでは説明がつかず、歴史的な諸条件に違いがあると考える他ない。
 おそらくこの点で何より大きな意味をもったのは、戦後の占領政策によって遂行された財閥解体、公職追放であろう。これによって、大経営のトップの座を占めていた財閥家族や大株主が、各企業の取締役会から徹底的に排除されたのである。1946年におこなわれた第一次の〈財界追放〉では、238社、約2000人の経営者が役職から排除され、さらに1948年にも財閥家族や財閥関係者を中心に、3625人の役員経験者が追放された。この穴を埋める形で新たに各会社の取締役会に参加した人びとは、ほとんどがその企業の内部でキャリアをつんだ専門経営者であった。
 このように内部昇進の経営者が主流をしめた理由について、宮島英昭氏は、a) 〈財界追放〉後の経営者の指名が、株主より専門経営者に強い選好をもつ財閥解体政策の実施機関、〈持株会社整理委員会〉の事実上の承認を必要としたこと、および、 b) 経営者の選任に、企業内で発言力を高めた労働組合が関与したこと、の2点をあげている(34)

 もうひとつ、戦後改革とならんで重要な歴史的要因として見落とせないのは、日本の諸組織の構成原理となっている「家」制度である。周知のように、日本の「家」は、単に血統の継承を目的とするより、家の資産や家業の継承を主目的とするものであった。武士は「家禄」、農家では「先祖伝来の土地」、さまざまな職種の職人の家や商家などでは「家業」の存続がもっとも重視された。家長に男の実子がいなければ、家産の保持や家業の維持存続のため、血縁的にはその「家」と無関係な者が養子や婿としてその「家」の一員となり、家長の地位を継ぐことはごく普通におこなわれた。そればかりか、もし実子の素行が悪かったり、能力が劣る場合には、それを廃嫡し、非血縁者に家業を継承させることさえ、けっして珍しくはなかった。
別の面からみれば、家長はその「家」のなかでこそ大きな力をもっていたが、絶対的な支配者というより「家」の管理責任者であり、もし「家」の継承・発展に相応しくない場合は、その地位を追われることさえありえたのである(35)

 そうしたなかで、大きな商家では、家長は象徴的な権威をもつ存在にとどまり、家業の運営の実権を〈専門経営者〉ともいうべき支配人や番頭に委ねる慣行も生まれていた(36)。そうした慣行を受け継ぎ、日本の財閥系企業のなかには、戦前から、財閥の家族とは血縁関係のない者が経営の実権をにぎるものが少なくなかった。財閥解体、公職追放政策が、多くの企業にとってマイナス要因とならず、むしろ短期間で新たな活力をもって再出発しえた背景には、そうした慣行のもとで、〈専門経営者〉層やその予備軍が生まれ育っていたことがあった。日本の大企業における所有と経営の分離が、世界的に見てもきわめて徹底したものとなったのは、この2つの歴史的要因によるところが大きいと考える。

【戦後日本企業の経営陣】

戦後の日本企業の実権を握った「企業内昇進型の専門経営者」の地位をよりいっそう安定させたのは、金融機関を中心に、各企業間の株式持ち合いがすすみ、〈安定株主〉が増加したことであった。また、戦後の日本企業が、短期の運営資金だけでなく、設備投資に必要な資金までをも銀行借入に大きく依存したことも、株主の発言権を低めた。こうして、戦前のように取締役会に株主が加わることはなくなり、取締役会の圧倒的多数が内部昇進者で固められ、取締役会がそのまま専門経営者集団となったのである。監査役でさえ、一人は社内から選ばれることが普通である。欧米では、大株主や債権者の代表を含む取締役会とは別に、経営の運営に当たるマネジメント・チームが構成され、社外重役らによる取締役会がマネジメント・チームを管理・監督する形態が多い。しかし、日本企業では、取締役会がそのままマネジメント・チームを構成することになった(37)。その結果、日本企業の経営者は、株主に配慮し高配当を可能にするような短期的利潤を問題にせず、より長期的な観点にたってマーケット・シェアの拡大、企業規模の拡大を志向するようになったのである。

 このように、経営者の多くが内部昇進者によって占められたため、賃金は非競争的な年功的要素の比重の高いものであったにもかわらず、従業員相互の昇進をめぐる競争は激化した。日本企業の従業員は、入社から30年前後もの長期間にわたって互いに競争し、トーナメント方式による選抜で、最後まで勝ち抜いた者が経営者となるからである(38)。長期間の競争であり、ある段階でマイナス評価を受けた者にも競争意欲を保持させねば、全体としての企業活力が低下するから、単純なトーナメント方式ではなく、敗者復活戦も加味して再度チャレンジする可能性を残す形をとる企業の方が多いのであるが。
 また、企業内労働組合も、外部からの経営陣への参加に警戒感を示し、気心の知れた内部昇進者によって経営陣が構成されることを歓迎した。企業合併の企てが、労働組合の反対によって不成立に終わった例は少なくない。
 さらに日本企業の経営者に関してしばしば注目されてきた点のひとつは、労働組合の役員経験をもつ者がかなりの比率で存在することである。1981年現在、日経連加盟企業313社に対する調査によれば、かつて労働組合の執行委員を経験した者が重役となっている企業は232社に達し、重役の総数6121人中、組合執行委員の経験者は992人(16.2%)に達している(39)

【韓国企業の経営者】

 韓国企業は文字どおりの同族企業が一般的である。つまり、創業者とその家族や親族が大株主として株式を所有しているだけでなく、各企業の会長、副会長、社長、常務理事などに創業者の家族・親族が多数就任して、経営に直接参与している点に特徴がある(40)。そのように家族・親族の多数が経営陣に加わっている理由のひとつは、韓国の財閥系企業の多くが1950年代以降の創業で、経営体としてあまり年数がたっておらず、内部昇進による専門経営者層が育っていないことがあろう。創業直後の企業において、創業者が経営の主導権を握るのは、韓国だけでなく、日本もふくめどこの国でもごく普通のことである。しかし、創業が1947年とすでに半世紀を経ているラッキー金星の場合をみると、今は故人となっている創業者の息子や娘婿、さらには創業初期から経営に参加していた創業者の弟やその息子、娘婿など27人が、グループ企業の経営に参加している(41)

 このように、韓国の企業は、日本よりはるかに血縁の絆が強い家族制度のもとで、創業者とその兄弟、さらにその息子や孫が経営に参加することがごく普通に行われている。また、相続にあたって、祖先の祭祀を継承する長子に多くを配分する不均等分割であるが、子供全員に遺産が配分される分割相続の慣行が、時間の経過とともにより多くの創業者の親族を経営に参加させることになっている。こうした慣行は、結果として、創業者と血縁関係のない社員が内部昇進によって専門経営者となる機会を狭め、専門経営者層を育成する上でマイナスになっていると想像される。


2 政治的・法的環境

日韓の労使関係を規定する条件で、もうひとつ大きく違っているのは、労働運動をとりまく政治的・法律的な環境である。両国とも労働基本権を憲法上の権利として規定している点では共通しているが、実際の労使関係法制、とくに「労働組合法」について大きな違いがある。

【日本の労働組合法制】

 日本の場合は第二次世界大戦の敗戦の結果として、占領軍の支配下で、団結権、団体交渉権、スト権の労働基本権が憲法上の権利として確定した。さらにそれに先だって制定された労働組合法をはじめとする労働諸法令は、世界史的にみても先進的な内容のものであった。とくに労働組合法の〈不当労働行為〉に関する規定は、アメリカにおいても僅かその10年前に制定されたばかりのワグナー法で初めて認められたもので、労働組合側にきわめて有利な内容のものであった。すなわち、経営側は以下のような行為を禁止されたのである。

  1. 労働組合員であること、あるいは組合活動を理由にして、従業員を解雇し、あるいは差別待遇をすること。
  2. 組合への非加入や脱退を雇い入れの条件とすること。
  3. 正当な理由がなく団体交渉に応じないこと。
  4. 経営者が組合活動に介入し、これを支配すること。

 その後1948年には、占領軍の政策転換にともなって公務員の団体交渉権、争議権が剥奪され、労働組合法や公務員法も改訂された。さらに、朝鮮戦争勃発直後から〈レッド・パージ〉が実施され、多数の共産党員やその同調者が、官公庁や企業から追放された。この公務員の団交権・争議権の剥奪と〈レッド・パージ〉とは、占領軍の保護育成策のもとで急速に発展した労働運動に大きな打撃となった。
 しかし、その後も公務員の団結権は否認されなかったから、公務員労働組合は組織を維持し、活発な活動を継続した。また、公務員労組による争議行為も続けられ、昼休み中に開会した職場集会を就業時間になっても続けるといった〈時間内職場集会〉から、ストライキにいたるまで、さまざまな形態の運動が展開された。もちろん、それらの争議行為は違法とされ、解雇や減給などの処分を受けたのであるが。いずれにせよ、戦後日本の労働法制は、労働組合運動の自由を保証する点では、国際的にみても高い水準にあると言ってよい。

 もっとも、そうした法による保護のもとでも、実際には企業や官庁において、労働組合の活動家、とりわけ共産党員やその同調者に対する、昇進昇格差別は一般的だった。また、経営に同調しない労働組合活動家などに対しては、さまざまな手段を用いてその孤立化を図り、最終的には退職に追い込むといったやり方も広く実行された。しかし、就業規則違反などの場合は別として、思想信条や労働組合活動を直接の理由として解雇することは、法的には不可能であった。もちろん、現実にはさまざまな理由をつけて労働運動家の解雇は行われた。しかし、その場合でも、被解雇者は労働委員会や裁判所に救済を求めて訴えをおこせば、かなり高い比率で勝訴しえた。

 労働政策については、別に報告が用意されているのでここでは省略する。ただ、日本の労働行政では、ILO同様の三者構成の原則がまもられ、労働省はじめ各省庁の政策決定に関する審議会には経営者とならんで労働組合の代表が参加するなど、その発言権が広く認められてきたことだけは指摘しておきたい。もっとも、そうした機関へ代表の参加を認められている労組は連合系に偏っており、全労連系の代表が参加する例は稀であるが。また各労働組合は、社会党、民社党、共産党などと密接な連携を保ち、立法面でも一定の影響力をもってきた。近年における政界再編によって、政党と労働組合の関係は流動的で、労働組合の影響力の低下傾向は否めないが、今なお、かなりの影響力を保持している。地方自治体でも、労働組合は首長選挙や自治体選挙を通じ、無視しがたい存在である。

【韓国の労働組合法制と政治】

 一方、韓国においても、1948年に、労働三権は「法律の範囲内」という制約付きではあるが、憲法上の権利として保障された。しかも、48年憲法は、他国の憲法にはあまり例のない、「営利を目的とする私企業において労働者は法律の定めによって利益分配に均霑する権利がある」ことまで規定されたのである(42)。しかし、この労働基本権を具体化した労働法は、憲法制定5年後の1953年まで定められず、さらに「利益分配均霑」に関する法律はついに制定されることなく終わった。また、制定された1953年労働4法も、条文上は不当労働行為など日本と共通する先進的な内容をもつものであったが、労使関係の実態とあまりにかけ離れていたこともあって、「〈展示効果〉を狙っただけの名目的な立法」(43)に終わったという。朝鮮半島が米ソ対立の焦点となり、国家安全保障が最優先される専制的な政治体制のもとで、労働運動は厳しい制約下におかれた。その後も、軍が政権を掌握したこともあって、労働運動は治安問題としてつねに厳しい取り締まりの対象となった。労働法は、1963年、73年、80年と再三改正されたが、いずれも労働組合運動の自由を制約し、行政官庁の広範な介入を認めるものであった(44)

 1987年の労働者大闘争後の憲法改正、労働関係法の改正によって、自主的な労働組合運動を展開する条件は大幅に拡大された。しかしこの改正法においても、専制時代の諸規定がいくつも残った。すなわち労働組合の政治活動は禁止され、〈第三者介入〉の禁止などの名のもとに労働運動の自由が規制され、しかも、その違反には刑事罰が課せられている。さらに、公務員や教員には労働組合の結成すら認められていない。また、民間企業でも、「既存労働組合と組織対象を同じくしている」場合には労働組合の結成を認めないという〈複数労組設立の禁止〉規定が存在する。民主化宣言からすでに10年近い歳月が経過したのに、依然としてそうした条項は改められていない。
 さらに韓国の労使関係を理解する上で重要なことは、この国では、法律の規定以上に、行政官庁の法の解釈運用が大きな意味をもつことである。さらに言えば、制度よりも権限をもった人間の裁量の余地がきわめて大きい(45)。たとえば〈民主労組〉に対し、行政官庁が、労働組合設立申告の際に、複数労組禁止規定などを運用することにより、実態のない〈幽霊労組〉に「設立認証証」を交付するといった形で、事実上の労働組合設立妨害をおこなっている事実がある(46)。そうした行政面での実態を知ることなしに、労働法制の文言だけでは、韓国の労使関係は理解しえない。しかも、労働行政を担当しているのは、単に労働部といった専門官庁だけではない。むしろ行政面でより大きな権限をもっているのは、大統領とそのブレインである大統領秘書官たちである。とくに労使関係についていえば、社会福祉担当の大統領首席秘書官の果たす役割が大きいという。たとえば、1996年春の公共部門労働組合の争議に際しては、ソウル地下鉄労組の解雇者復職問題が、当事者であるソウル市地下鉄公社の頭越しに、公共部門労働組合代表者会議の代表と大統領秘書官との交渉によって決定されている(47)


3 意思決定方式の違い

【合意形成を重視する日本】

 日韓両国の労使関係の比較にあたって、重要な相違点として検討を要するのは、両国の諸組織の運営方式や意思決定方式のあり方である。韓国の意思決定は一般にトップ・ダウン型であるのに対し、日本は伝統的にボトム・アップ型、より正確には「関係者の合意形成を重視する意思決定」である。この意思決定方式の違いは、政治機構や企業経営において顕著であるが、それだけでなく労働組合をふくむ諸組織の運営においても明瞭に異なっている。

 合意形成を重視する日本の意思決定方式は、戦後に始まったものではなく、その背後には長い歴史がある。その原型となったのは、おそらく徳川時代に確立した政策決定・執行方式であろう。徳川幕府の官僚機構は、一人の人間に権力が集中しないようにすることを主眼にシステムが組み立てられていた。たとえば、老中や寺社奉行、町奉行などの主要ポストには複数の者が任命され、重要事項については全員の合議により、日常政務の執行は月毎に交代する〈月番〉が単独で決定していた。また、政策決定に当たっては、上位者の諮問に応じて下位の実務担当者が答申を提出するか、あるいは下位の者が作成した提案を順次に上位者に〈伺い〉をたて、最終的にはトップが承認する、いわゆる〈稟議制度〉が広く採用されていた(48)。つまり、政策決定に際し、上下各レベルの関係者の意見を広く聞き、すべての関係者の合意形成が志向されていた。
 こうした組織運営のあり方や意思決定方式は、幕府だけでなく、同業組織を含む日本のさまざまな組織に広く見られるところである。たとえば、鉱山の坑夫の相互扶助組織である友子同盟でも、その運営の責任者である〈大当番〉や、財政を握っていた〈箱元〉は1ヵ月交代でその任にあたり、組織としての正式な意思決定は、全員参加の山中議会や総代会における全員一致によっていた(49)

 こうした合意形成を重視する意思決定方式は、今日でも、企業をふくむ日本のさまざまな組織で選好されている。諸官庁が、重要政策の決定にあたって、あらかじめ利害関係者ら多数が参加した〈審議会〉に諮問し、その答申に基づいて最終決定をおこなうこと、多数決よりも全会一致を好む傾向、あるいは高級官僚はじめ多くの役職が短期間で異動・交代を繰り返すことなど、こうした伝統的な政治文化と無関係ではないであろう。

【強力なリーダーシップに期待する韓国】

 服部民夫氏は、韓国企業では「意思決定の権限が上部、ことに家族経営者に集中しており、それに基づいたトップダウン式経営が行われている」ことを指摘した上で、そうした経営方式が採用されている根拠として次のような諸点をあげている(50)

  1. 韓国企業の歴史が浅く、創業者またはその二世の世代であること、
  2. 経営環境変化の早さに対応したオーナー経営者の決断力と意思決定の早さが各企業の成長の大きな要素であったこと、
  3. 政界との個人的なつながりが企業の成長にとって重要な要因であったこと、
  4. 韓国の経済成長は、低賃金と同時に巨大投資による大量生産方式の採用によった。こうしたリスクの大きい巨大投資はオーナー経営者であったからこそ可能であったこと、
  5. オーナーに権限が集中していたため、人材育成が遅れたこと。

 これらは、いずれもトップ・ダウン型の韓国企業における経営方式をもたらした要因であることは確かであろう。ただ、こうした意思決定の上部集中は、単に企業経営に限られず、韓国の諸組織に広く見られることを考えると、以上の要因だけでは説明しえない問題があると思われる。
 たとえば、政治の世界である。ここでは朝鮮半島の南北双方において、半世紀にわたって大統領や主席といった最高指導者に強大な権限が集中し、特定の個人によるカリスマ的指導力を重視するトップ・ダウン型政治が行われてきた。もちろん、ここでもさまざまな要因が働いているであろう。とくに南北が相互に対立し、ある時は実際に交戦状態に入り、その他の時も絶えざる軍事的な緊張関係にあったことが、こうしたトップ・ダウン型政治をもたらした条件のひとつだったことは明らかである。ただそうした直接的な要因だけではなく、もっと長期的な歴史をもったこの国の〈政治文化〉の存在を考える必要があるのではなかろうか。

 このことに気づいたのは、韓国では、労働組合の運営においても大統領制的なシステムがとられていることを知ったからである。すなわち、公文溥・萩原進氏らによるD自動車労組に関する調査によれば、同労組の役員選挙では、委員長以下の組合4役の候補者がワンセットとなったチームを形成するrunning mate 制がとられ、当選したチームは、執行委員全員(32人)を指名できる仕組みとなっているという。この事例が、どれほど一般化できるのかは今後さらに調査を要するが、他の労働組合においても、執行部を握ったグループが強力なリーダーシップを発揮しうるシステムが広く存在するように見える。
 このように、労働組合についてさえ大統領制的なシステムが採用されるということは、韓国が指導者の卓越した個人的リーダーシップを重視する社会だからではないかと考える。これに対し、日本の場合は、特定の個人の考えによる決定よりも「全員が期せずして一致した」といった匿名的な決定方式が好まれる。

 もっとも、両国間のこうした違いを、文字どおりのトップ・ダウンとボトム・アップとして二極対立的にとらえるだけでは、現実を正確に把握することにはならないであろう。韓国の場合で卓越したカリスマ的指導者の重視といっても、おそらく全ての指示が指導者個人の考えによるわけではなく、彼を支える多数のスタッフがおり、その組織的な政策形成による場合も少なくないであろう。ただその政策が表に出る際は、卓越した指導者の個人的なリーダーシップが強調され、それによって特定の個人のカリスマ性が増し、好結果をもたらすことになるのであろう。

 一方、日本の場合でも、卓越した個人が存在し、そのすぐれた指導力が有効に機能する事例も少なくない。ただそうした場合にも、そのリーダーシップは特定の個人の名を冠することなく「関係者全員の一致した決定」という形をとる。何よりそうした方式をとる方が広く受け入れられ、結果的に成果があがるのである。


III 今後の展望と課題

1 展 望

 最後に、日韓両国の労使関係が、今後どのように変化するか、その展望について若干ふれておこう。
 日本の労使関係についていえば、この数十年、あまり大きな変化はなく安定的に推移してきており、近い将来、劇的な変化が起こることは考え難い。ただ変化の動因が全くないわけではない。それは、今日の企業社会においては〈二級市民〉的存在のままに置かれている女性労働者が、差別廃止を目標に掲げ、活発な運動を展開する時であろう。労働運動をふくむ社会運動のもっとも強力な動因は「不当な差別に対する憤懣」である。現在は大きな差別を被っていても、さまざまな理由から、それをかならずしも「不当」とは感じていない女性労働者が少なくない。ただ、そうした事態が永久に続くことはないであろう。

 一方、韓国の労使関係は1987年以降、急激な変化を続けており、近い将来においても、大きな変化が予想される。
1) 韓国の労使関係をめぐる状況のうち、ごく近い将来に変化の可能性をはらんでいるのは、労働法制である。今日の韓国の労働運動がきわめて対抗的な性格を帯びている原因のひとつが、労働組合運動に対するきわめて制限的な法律の存在にあることは明らかである。その改革にむけ、労使関係改革委員会が設置され、そこでの議論をふまえて新労働法に関する政府案が策定提示されたばかりである。そこでは、上部団体については複数労組の存在が認められることになったという。この法案が成立した際、合法化された民主労総の影響力が増大することは明らかである。一方、韓国労総がどのような影響を受けるかは予断を許さない。近い将来には困難であろうが、いずれは両者が統一する可能性も皆無とはいえまい。
 もっとも、本稿を書いている1996年12月現在、新しい労働法がはたして成立するか否かさえ不確定な情勢である。さらに、次期大統領選の結果がどうなるかによっても、労使関係の今後は大きく変化するであろう。そうしたこともあって、韓国の労使関係の今後を具体的に予想することは困難であるが、1987年の労働運動の自由拡大は、労働者が自力で獲得したものだけに、その自由化への動きを押し止めることは不可能であろう。

2) つぎは、韓国の労働組合が企業内組合から、産業別労働組合へ脱皮できるか否かである。今回の交流シンポジウムの間に、多数の韓国の労働問題研究者や労働運動指導者と意見を交換する機会があったが、その際、韓国労総、民主労総といった立場の相違を超えて、多くの方々が、企業別組合を産業別組織に脱皮させることを、当面する重要課題と考えておられることを知った。この問題に関する私の考えは、すでに論じてきたところからお分かりいただけるであろうが、以下のような諸点を見ても、相当な困難が予想されると考える。

  1. 経営側や政府サイドが、企業別組織を選好すると予想されること、
  2. 現在の労働法改革論議のなかで、在籍専従制の廃止が問題となっているが、これに対しては労働組合側が強い反対の態度をとっていること、
  3. 民主労総の中核組合のひとつが企業グループ別組織であることなど。

 ただし、労働組合の組織形態を法的に規制し、産業別労働組合と産業別経営者団体との団体交渉を強制するならば、産業別組織の確立は可能であろう。しかし、そうした強権的方法を労働運動の側が選択することはないであろうし、企業別労働組合を強制してきた政府の側が、そうした政策をとるとは考えがたい。

3) もうひとつの問題は、近い将来、韓国企業において所有と経営の分離が進展する可能性の有無である。父系の血統の存続を重視するこの国で、非血縁者を事業の継承者に選ぶといった方針が、経営内で自発的に採用される可能性は低いであろう。ただ、政治権力が大きな力をもちうる国であり、財閥に対する国民の批判の声も強いだけに、思い切った企業関連法制の改革や相続税制の変更によって、いっきに事態が変わる可能性も皆無ではないのであるが。

 さらに韓国企業は、財閥を中心に、多角化戦略を押し進め、つぎつぎと新分野へ事業を拡大し続けている。関連分野への垂直的な多角化であればともかく、水平的な多角化で、創業者やその親族にとってまったく未経験の分野となると、どうしても外部から専門知識をもった人材を招かざるをえないであろう。したがって、当然、オーナーとその家族だけでなく、非家族の専門経営者の比重は高まっている(51)
 ただそうした場合でも、おそらく重要な意思決定はオーナーがおこない、専門経営者層は主として日常業務の執行にあたる形をとっているかに見られる。ただ、そうした最終決定権をもちえない地位のままでは優れた専門経営者は育たず、また有能な人材ほど定着しないことになるのではないか。

 4) もうひとつの問題は、韓国企業におけるホワイトカラーとブルーカラーの関係の変化である。韓国の労使関係、労働運動の今後を考える際、この両者の関係がどのようになるのかは、重要なポイントである。
 すでに見たとおり、労働者が全体的に強い社会的上昇志向をもっていることを考えると、今後とも〈学歴身分制〉撤廃要求が消え去ることはないであろう。経営側もそうした要求を無視できないと同時に〈日本的労務管理〉に学んで、そうした労働者の要求を積極的に利用し、能力主義的労務管理へと切り替える企てを進めるのではなかろうか。さらに次にみる、高学歴化の進展を考えると、かりに労働者側の要求がなくても、経営サイドは、この問題の解決を迫られることになろう。

 1987年以降、多くの企業でホワイトカラーとブルーカラーの格差は縮小傾向をたどっており、なかには浦項製鉄のように〈学歴身分制〉を廃止した企業もあらわれている。おそらく韓国では、ブルーカラーのホワイトカラー化はかなり早いテンポで進展するのではないかと予想される。

 ただし昇進問題について、韓国では日本とは異なった方式をとる可能性が高いことが予想される。日本の場合は、正規従業員であれば、新入社員から課長、部長、さらには取締役や社長まで、建て前上はキャリアの差である。つまり、誰もが原理的には経営陣の一員にまで昇進できる可能性をもっている。しかし韓国の場合、ほとんどの企業がオーナー経営者によって支配されており、経営者と従業員の境目は明確である。また、経営者とその候補者は、最初からオーナーの縁故者や一流大学出身者によって固められる傾向が強い。つまり、ホワイトカラー内のエリートコースに乗った者と、一般事務職・技術職との境は日本より高い。さらに、両国の経営組織における意思決定方式の相違は大きく、しかも、それは企業の歴史の長短によるものというより、両国における〈政治文化〉の違いを背景にもっている。
 以上の諸点を考慮すると、韓国においてブルーカラーのホワイトカラー化が進んだとしても、近い将来に〈日本型〉の協調的労使関係が形成されるとは考えがたい。

 関連して注目されるのは、世界史的にみても例のない、韓国における高学歴化の急速な進展が、労使関係に及ぼす影響である。日本において、ブルーカラーのホワイトカラー化が進展した背景のひとつに高校進学率の上昇があったが、韓国における大学進学率の急上昇は、近い将来、ホワイトカラーとブルーカラーの関係に見直しを迫る大きな要因となろう。
 韓国では高等教育(『ユネスコ文化統計年鑑』の「第3段階教育」)の在学率は1980年には14.7%に過ぎなかったが、90年には38.6%、94年には50.8%と急増している。以上の数値は両性の平均値であり、これを男性だけについて見ると、同年次でそれぞれ21.3%、51.3%、63.6%となっている。ちなみに日本の場合は、1980年では30.5%と韓国を上回っていたが、91年では30.4%で横這い状態にある(52)
 こうした韓国社会の急速な高学歴化にともなって、大学卒業者の就職難は年々深刻化している。1992年の大卒者の就職試験に応募した者の約40%は就職浪人であり、同年の大卒者就職率は50%近くにまで落ち込んだという(53)。最近では、その状況はさらに悪化し、1995年では大学卒業予定者20万人余、うち徴兵と進学予定者を差し引いた13万人〜14万人に加えて、就職浪人10万人余、計24万人前後の求職者に対し、求人は9万〜10万人に過ぎないという(54)

 また、今回のシンポジウム後の調査で、この高学歴者の就職難が、われわれの予想を越えた影響をもたらしつつあることを知った。それは一部公企業において、大量の大学卒業者が、高卒資格のホワイトカラー職種ばかりでなく、ブルーカラー職種にまで進出し始めていることである。これまで、しばしば指摘されてきたのは、韓国では儒教的価値観の影響で、高等教育を受けた者は肉体労働を拒否する傾向が強いことであった。
 しかし、ソウルの地下鉄公社では、高卒が資格要件である駅務や整備工場従業員にまで大学卒業者が大量に進出している。すなわち、1996年度に採用された駅務員の80%までもが大学卒業者であり、今では駅務員の半数以上が大卒者で占められているという。大卒者は油にまみれて働かねばならない整備工場のブルーカラー職種にも進出し、その比率は半数に迫りつつあるという(55)
 また、大卒求職者の間で1、2を争う人気企業で、一般職の就職試験競争率が60〜200倍にも達した韓国通信では、公開試験によらない技能職の約40%が大卒者で占められ、さらに技能職より下位に位置づけられる〈傭員〉のなかにさえ、20%前後の大学卒業者がいるという(56)。これはひとつには、ソウル地下鉄、韓国通信がともに公企業であるため、官尊民卑の傾向が強い韓国では、ブルーカラーとはいっても社会的地位が相対的に高いことによって選ばれているところがある、と言われる。同様の事態は日本でもおきており、高卒を前提としてきた国家公務員のV種で大卒の受験者が急増し、1996年度の合格者11,546人のうち4,709人は大卒者であったという(57)。ただ、日本の場合はホワイトカラー職種で、その比率も40.8%にとどまっている。これに対し韓国の場合はブルーカラー職種にまで進出しており、しかもその比率は日本よりはるかに高い。いずれにせよ、韓国の高学歴化は世界のどの国より急速に進展しており、今後、ブルーカラーとホワイトカラーの関係を軸として労使関係全体を大きく変える可能性をはらんでおり、注目を要する。


 2 今後の研究課題

1 集団主義と個人主義

 本稿は、労働者の性格については、両国間の共通の側面を強調するに終わってしまった。しかし、両国の労働者の間に異質の側面があることも明らかである。たとえば、多くの論者は、日本人が集団主義的傾向をもつのに対し、韓国人は個人主義的志向が強いことを指摘している。こうした違いが、両国の労使関係にどのように影響しているか、今後さらなる検討が必要である。

2. 諸組織の意思決定、運営におけるリーダーシップの比較

 すでにある程度は論じたところであるが、労働組合をはじめ諸組織の運営におけるリーダーシップの実態は、十分に明らかになっているとは言いがたい。この点の解明は、労使関係だけでなく、日韓両国の比較研究を進める上で重要なテーマであろう。もちろん、実態を明らかにするだけでなく、両者の違いの背後にある歴史的条件を追究する必要がある。

3 儒教文化の問題

 今回、ある程度は準備しながら、最終的には省かざるをえなかったのは、儒教文化の問題である。
 近年の東アジアにおける急速な経済成長は、その共通の背景としての儒教文化に対する関心を高め、直接この問題をテーマとした文献も少なくない(58)。労使関係は、人間同士の関係であるだけに、それぞれの民族の人間観と関わりをもつことは明らかで、そうなると当然のことながら宗教が問題となる。実際、韓国の労使関係について学んでいると、さまざまな局面で、ある事態をもたらした要因として儒教文化の影響が指摘されている。たとえば、日韓両国における高学歴志向や社会的身分に対する強い関心などは、おそらく儒教の価値観と密接な関連があるとみてよい。
 ただ、この問題を論じた文献に多く見られるのは、日韓両国において、ある特定の時期にのみ存在した、あるいは存在している問題のすべてを、直接的に儒教の影響で説明する傾向である。そこでは、労使関係における歴史的な変化が、あるいは歴史的に変化する可能性が無視され、儒教との関連が無媒介的に論じられている。しかしこの問題を論ずるには、筆者の準備は明らかに不足しており、あらためて別の機会にとりあげたい。




(1) 本稿は1996年10月7日に法政大学大原社会問題研究所と仁荷大学校産業経済研究所との共催で韓国・仁荷大学校において開催された第2回韓日交流シンポジウムに提出した報告書を手直ししたものである。報告書をハングルに翻訳してくださった金基元韓国放送大学校教授、コメンテーターの李鐘久聖公会大学校教授をはじめ、有益な示唆を与えられた参加者各位に心からの謝意を表したい。

(2) 1990年に韓国労働研究院が実施した「労働組合実態調査」によれば、工場別あるいあは事業所別労働組合をふくむ企業別組合は、全体の98.1%を占めているという(白弼圭『韓国労使関係の新構造』日本経済評論社、1996年、171頁)。これは、日本の企業別組合比率より5%前後高い数値である。

(3) 戦後初期の日本の労働組合も、企業別というより事業所別組合が主であった。

(4) 小玉敏彦『韓国工業化と企業集団』(学文社、1995年)160頁。

(5) 1980年代後半におこった大宇造船、現代重工など財閥系企業の争議の際も、財閥グループの総帥(通常はグループの会長であるが、現代財閥の場合は形式的には一線を退いていた鄭周永名誉会長)が直接交渉に乗り出さなければ争議は解決しなかった(小玉敏彦『韓国工業化と企業集団』、学文社、1995年、200頁)。この事実は、各企業の社長に企業経営に関する重要事項を最終決定できるだけの権限が認められていなかったか、あるいは組合側がグループ総帥の発言でなければ、最終決定として認めなかったことを意味していよう。おそらくはその双方であったのではないか。

(6) 安春植『終身雇用制の日韓比較』(論創社、1982年)、262頁。孫昌熹『韓国の労使関係 ─ 労働運動と労働法の新展開』(日本労働研究機構、1995年)、99-100頁。

(7) 拙稿「企業別組合の歴史的背景」法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』no.305 1984年3月。 同「日本労使関係の歴史的特質」(社会政策学会編『日本の労使関係の特質』、御茶の水書房、1987年、所収)、同「戦後社会の起点における労働組合運動」(『シリーズ日本近現代史』4、岩波書店、1994年、所収)など。

(8) 横田伸子「1980年代の韓国における労働市場構造の変化 ─ 製造業生産職男子労働者を中心に」(『アジア経済』第35巻第10号、1994年10月15日)。

(9) David Montgomery, “Workers' control of machine production in the nineteenth century" in Workers' Controle in America, Cambridge University Press, London, 1979

(10) Marcel van der Linden & Jürgen Rojahn (ed.), The Formation of Labour Movements 1870-1914: An International Perspective, 2volumes, Leiden, Brill, 1990.

(11) 市村真一編『アジアに根づく日本的経営』東洋経済新報社、1988年、111頁。

(12) 『日本労働研究雑誌』435号、1996年7月、34頁。

(13) 西洋中世都市に関する近年の研究では、中世都市の自由や自治を過度に強調し、近代市民社会の原型といった評価をすべきでないことが指摘されており、また国によって王権と都市自治権の関係に違いがあることも明らかになっている(林毅『西洋中世都市の自由と自治』敬文堂、1986年)。しかし、日本の都市と比べた場合、西洋の中世都市が封建制の枠内における〈特権〉としてではあるが、自由と自治を保持していたことは明らかである。

(14) 日本でも、戦国時代までは、織田信長に制圧される前の堺のように、周囲を濠で囲い、商人が兵を雇って自衛するといった、自由都市的な性格をもつ都市が存在した。

(15) 乾宏巳『江戸の職人 ─ 都市民衆史への志向』吉川弘文館、1996年、188頁。

(16) 乾宏巳前掲書。

(17) 上村雅洋・宮本又郎「経営組織と経営管理」(安岡重明・天野雅敏『近世的経営の展開』岩波書店、1995年)。

(18) 孫昌熹前掲書、148頁。

(19) Hagen Koo(ed.), State and Society in Contemporary Korea, Cornell University Press, 1993, pp.136-137. ただKoo教授のように、職人組織の弱さを、直接、儒教文化の伝統だけで説明することには若干疑問がある。

(20) 伊藤実『技術革新とヒューマン・ネットワーク型組織』日本労働協会、1988年。

(21) Choong Soon Kim The Culture of Korean Industry;An Ethnography of Poonsan Corporation University of Arizona Press, Tucoson & London, 1992, pp.102-.

(22) 安春植「韓国における人事・労務管理の発展」(4)、『大原社会問題研究所雑誌』417号(1993年8月)。

尹辰浩「韓国造船業での現場権力をめぐる労使葛藤」『大原社会問題研究所雑誌』457号(1996年12月)。

小玉敏彦『韓国工業化と企業集団』(学文社、1995年)第5章参照。

(23) 金鎔基「韓国の自動車A社における人事制度改革」(上)『大原社会問題研究所雑誌』450号、1996年5月、19頁。なお、この記述のもとになっている調査は、つぎの文献である。金三洙・李宗薫・李周浩『労使関係制度改善のための研究──労使関係制度に関する世論及び実態調査分析』国民経済教育研究所、1992、ソウル。

(24) 拙稿「戦後社会の起点における労働組合運動」(『シリーズ日本近現代史』4、岩波書店、1994年、所収)参照。なお、韓国でも民主労組の運動では、知識人出身の労働運動家の役割が非常に大きかった事実が指摘されており、世界史的に見れば、より日本に近い性格をもっていると言えるのではないか(丁榮泰「民主労働組合運動の成長と政治活動」『大原社会問題研究所雑誌』457号、1996年12月号)。

(25) 丁怡煥『製造業における内部労働市場の変化と労使関係』(ソウル大学校博士論文。白弼圭『韓国労使関係の新構造』日本経済評論社、1996年、183頁による)。

(26) 白弼圭前掲書参照。一般に韓国の労使関係研究では、自動車や造船など輸出産業の労働組合が注目され、他の部門はともすれば見落とされがちである。しかし、韓国で今もっとも活発な運動を展開している組織のひとつに公共部門の労働組合が結集している公共部門労働組合代表者会議(公労代)があり、そこには韓国通信労組やソウル地下鉄労組も加盟している。

(27) 金鎔基前掲論文、小玉敏彦前掲書などのほか、つぎを参照されたい。法政大学比較経済研究所 小林謙一、川上忠雄編『韓国の経済発展と労使関係──計画と政策』(法政大学出版局、1991年)。

(28) George S. Bain, The Growth of White-Collar Unionism, Oxford University Press, 1970, pp.48-65.

(29) 深川由起子「先進国への道と課題──産業民主主義は可能か」(渡辺利夫編『概説韓国経済』(有斐閣、1990年)所収。

(30) 韓国における社会的地位上昇志向には、歴史的な背景がある。すなわち、李朝社会の特権階層であった〈両班〉は「生得的な身分では決してなく、しかも両班たることの客観的な基準がなかったために、下位の階層から両班階層に上昇しようとする動きが必然化」する「両班志向社会」となった(宮嶋博史『両班(ヤンバン)──李朝社会の特権階層』中央公論社、1995年、)のである。

(31) 二村一夫「企業別組合の歴史的背景」法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』no.305 1984年3月。

(32) そこに形成されていた両者間の断絶が、いかに深いものであったかは、内藤則邦『イギリスの労働者階級』(東洋経済新報社、1975年)および、そこで紹介されているジョージ・オーウェルの次の証言から知ることができる。 George Orwell, The Road to Wigan Pier, 1937.(土屋宏之・上野勇訳『ウィガン波止場への道』筑摩学芸文庫、1996年)。また、1970年代においてさえ労働者階級の文化がいかに根強く生き続けていたかは、Paul Willis, Learning to Labour, 1977.(熊沢誠・山田潤訳『ハマータウンの野郎ども』筑摩学芸文庫、1996年)を参照。

(33) ジェフリー・クロシック編著、島浩二訳『イギリス中産階級の社会史』法律文化社、1990年(Jeoffrey Crossick, The Lower Middle Class in Britain:1870-1914.

(34) 宮島英昭「専門経営者の制覇」(山崎広明・橘川武郎編『日本経営史4 〈日本的〉経営の連続と断絶』岩波書店、1995年)

(35) 笠谷和比古『士(サムライ)の思想──日本型組織・強さの構造』日本経済新聞社、1993年。
平山朝治『イエ社会と個人主義──日本型組織原理の再検討』日本経済新聞社、1995年。

(36) 上村雅洋・宮本又郎前掲論文。

(37) 宮島英昭「財界追放と経営者の選抜──状態依存的ガヴァナンス・ストラクチュアの形成」橋本寿朗編『日本企業システムの戦後史』東京大学出版会、1996年。

(38) R.P.ドーア「権威と仁徳──経済的成功に儒教が果たす役割」R.P.ドーア著・田丸延男訳『貿易摩擦の社会学──イギリスと日本』岩波新書、1986年

(39) 『日経連タイムス』1981年9月17日付。

(40) 服部民夫『韓国の経営発展』文真堂、1988年。
Chan Sup Chang and Nahn Joo Chang, The Korean Management System:Cultural Political, Economic Foundations, Quarum Books Westport, Connecticut and London, 1994.

(41) 服部民夫「韓国〈財閥〉の将来──「財閥の成長と衰退」試論」(牧戸孝郎編著『岐路に立つ韓国企業経営──新たな国際競争力の強化を求めて』名古屋大学出版会、1994年)。
なおこの数は1991年現在のもので、1985年現在では30人であった(服部民夫『韓国の経営発展』271頁)。

(42) 兪 根「韓国における労働基本権の制限」『広島法学』18巻1号、1994年

(43) 孫昌熹『韓国の労使関係──労働運動と労働法の新展開』(日本労働研究機構、1995年)146頁

(44) この間の韓国における労働組合運動の実情については、以下の文献を参照。
金潤煥著、中尾美知子訳『韓国労働運動史』(柘植書房、1978年)。
李丞玉編訳『韓国の労働運動──胎動する闘いとその思想』(社会評論社、1979年)。
中尾美知子・中西洋「米軍政・全評・大韓労総──朝鮮'解放'から大韓民国への軌跡」(1)〜(4)(東京大学経済学部『経済学論集』第49巻第4号、1984年1月〜4月
Jang Jip Choi, Labor and the Authoritarian State:Labor Unions in South Korean Manufacturing Industries, 1961-1980, Korea Universtiy Press, 1989.
吉田千代「韓国労働運動史の一駒──1970年代女子労働者の闘争と都市産業宣教活動」(『三田学会雑誌』、1990.9)
ソウル労働運動連合編・梁官洙訳『全記録 ソウル労連』(柘植書房、1988年)

(45) 伊藤亜人『暮らしがわかるアジア読本 韓国』河出書房新社、1996年、64〜68頁。

(46) 金基元「韓国・三星財閥における労使関係の変化」『大原社会問題研究所雑誌』450号、1996年5月。

(47) 韓国公共部門労働組合代表者会議ソ ダルウォン政策局長(1996年10月9日)、およびソウル地下鉄労働組合ソク チスン委員長からの聞き取り(1996年10月11日)による。
なお、三満照敏・国立国会図書館社会労働課長および金大煥・仁荷大学校教授の教示によれば、今後の労使関係に大きな意味をもつ労働法制の改革問題を審議する〈労使関係改革委員会〉のキーマンもこの社会福祉担当首席秘書官であるという。

(48) 笠谷和比古前掲書参照。

(49) 二村一夫『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』(東京大学出版会、1988年)参照。

(50) 服部民夫前掲書、109-115頁。

(51) Chan Sup Chang and Nahn Joo Chang, op. cit., p.72.

(52) 『ユネスコ文化統計年鑑 1995』原書房、1996年所載の「教育段階別在学率」の第3段階在学率。

(53) 三満照敏「韓国/不況下での大卒者の就職難」(『日本労働研究雑誌』399号、1993年3月)

(54) 金敬勲編著・梁泰昊訳『韓国が変わる──新世代の生活と意見』(亜紀書房、1995年)253頁。

(55) ソウル地下鉄労働組合ソク チスン委員長、ホン スンヨン首席副委員長からの聞き取り(1996年10月11日)による。

(56) 韓国通信労働組合パク ホ組織処長、同チャン ギョスン対外協力局長からの聞き取り(1996年10月12日)による。

(57) 『日本経済新聞』1996年11月15日付夕刊。

(58) 金日坤『東アジアの経済発展と儒教文化』(大修館書店、1992年)。
谷口典子『東アジアの経済と文化』(成文堂、1994年)。
李健泳「企業経営と社会文化構造の日韓比較」(牧戸孝郎編著前掲書所収、1994年)。
板谷茂・本田實信・中嶋航一・柳太洙・柳町功『アジア発展のエートス』(勁草書房、1995年)。




初出は『大原社会問題研究所雑誌』No.460(1997年3月号)。その後、法政大学大原社会問題研究所編『現代の韓国労使関係』(御茶の水書房、1998年)に収録した際、若干加筆した。




【関連文献】


法政大学大原社会問題研究所        社会政策学会        編集雑記

更新履歴            著者紹介



 Wallpaper Design ©
あらたさんちのWWW素材集


     先頭へ

Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
E-mail:
nk@oisr.org


QLOOKアクセス解析