企業別組合の歴史的背景
はじめに
「企業別組合論の再検討」という題をつけましたが、今日は、なぜ第二次大戦後の日本の労働組合は欧米の労働組合とは異なった組織形態をとるにいたったのかを主に問題にしたいと思います。これは企業別労働組合成立の根拠は何かということで、企業別組合論の中心テーマのひとつでした。それだけに、多くの方が、さまざまな発言をされています。そこで、まず最初にこれまでの「企業別組合の成立根拠論」研究の問題点を整理し、ついでこれらの諸見解に対する私の意見を申し述べ、最後に私自身はこの問題についてどのように考えているかをお話しする、という順序で進めてまいりたいと思います。
ただ、最初に、私の議論の前提というほどのものでもありませんが、あらかじめお断りしておいた方がよいと思われる点が2つほどあります。
第1は、従来の「企業別組合成立論」は、「生成の根拠」と「存続の根拠」とを区別せずに論じています。しかし、企業別組合が生まれたのは何故かということと、さまざまな批判にもかかわらず企業別組合が40年近くも存続しているのは何故かということは、いちおう分けて考えた方がよいのではないか、という点です。企業別組合が生まれたのは、敗戦と連合軍による占領という、日本の歴史はじまって以来の激動期、政治的、経済的、社会的な大変革の時代においてでした。もちろん、企業別組合生成の根拠と、存続の根拠とは密接なかかわりがあるに違いない。しかし両者は全く同じではなかろう。私はそう考えています。そして、今日のところは、企業別組合が生まれたのは何故かということに焦点をあててみたい。
第2には、同じ企業別労働組合といっても、戦前と戦後のそれをはっきり区別すべきだということてす。企業別組合を、単に企業あるいは事業所を単位にした労働組合と定義すれは、第二次大戦前にも多くの企業別組合がありました。そして、研究者のなかにはこの企業別という点だけに注目して、戦前から企業別組合が存在したことを強調し、戦後の企業別組合とのちがいを無視あるいは軽視する方がおられます。その中には小松隆二氏、河西宏祐氏のような企業別労働組合に関するすぐれた専門研究者がふくまれています。
しかし私は、戦前と戦後の「企業別組合」は異質のものだ、という点をこそ強調したいと思います。どうしてかといえば、戦前の労働組合は、現場の労働者、ブルーカラーだけの組織でした。しかも、企業別組合でも、1企業に属する労働者を全員一括して組織するということはありませんでした。これに対し戦後の企業別組合は、ブルーカラーだけでなくホワイトカラーも含めたいわゆる〈工職混合組合〉です。将来は経営者側に移ることを自他ともに認めているようなホワィトカラー中のエリート層まで組合員にかかえています。これは皆さんよくご存知のことなのですが、企業別組合生成の根拠を論ずる時にはほとんど無視されています。しかし私は、この点はもっと重視されなければならないのではないかと考えています。 よく日本の労働組合の特色は企業別にあると言った上で、ただし例外があるとして全日本海員組合の名があげられます。しかしこの組合も、高級船員と普通船員が同一の組合に組織されている点に注目すれば「戦後日本的」だといえなくはない。あまりよくは知りませんが、外国の海員組合にはこうした例はないように思います。一見すると同一組合に属していても、内部でははっきり高級船員と普通船員とが分かれているのではないでしょうか。戦前の日本でも、高級船員は海員協会に、普通船員は日本海員組合にというように別組織でした。
企業別組合の発見
前おきはこのくらいにして、本論の企業別組合の成立根拠をめぐる研究史の整理に入ります。出発点は、もちろん、日本の労働組合が、欧米の労働組合とは違う企業別組織であることの発見でした。1945年9月、敗戦の翌月から早くも組合の結成が始まりましたが、「嵐のようなストライキ」とともに労働組合の組織化が進んだのは45年12月から46年前半にかけてでした。とくに労働組合法が施行された46年3月などは、1カ月間に3295組合が生まれ103万人もの組合員が増えました。ところで「この時期にはまだ誰も日本の労働組合が企業別組合であることに気づいていなかった」とよく言われてきました。私もそう思い込んでいましたが、今度ちょっと調べてみましたら、そうではありませんでした。1946年1月というかなり早い段階で、労働運動家はいち早くこれに気づいていたのです。1月17日、総同盟はその正式発足に先だって拡大中央準備委員会を開いていますが、その決定の中で次のように述べているのです。
「一般従業員が会社別従業員組織の希望を有することは、遺憾ながら彼等の当面する事実である。われ等はこの迷蒙(原文のママ)を打破しなければならないことはいうまでもないが、この現実に即して同一資本系統の労組代表者会議、又は未組織工場を含む職場代表者会議を組織し、未加盟労働者の組織化、闘争の強化をはかるべく努力しなくてはならない。」
この決定は「組織方針の根幹を産別単一労働組合の組織と健全強固なる労働戦線の全国的同盟体の結成に置く」とした上ですが、一般労働者の方は「会社別従業員組織の希望」をもっている事実を認めていたのです。
もっとも研究者の方は、まだこの段階ではこの事実に気づいていなかったようです。たとえば、中央労働学園の機関誌『労働問題研究』には「労働運動の日本的性格」といったテーマの論文がいくつも載っていますが、そこには企業別組合の「企」の字も出てきません。
しかし、労働運動家でなくても、労働運動をよく観察していた人びとは、1947年には、日本の労働組合が欧米の労働組合とは違うことに気づいていたように思います。たとえば、1946年の労働組合調査では、産業別、職業別はあっても、企業別という調査項目はなかったのですが、翌47年調査からは企業別を調査項目のトップに置いています。けれども、日本の労働組合の特徴が企業別にあることをはっきり認識しそれを問題として提起したのは、1950年(昭和25年)に出た2冊の本です。1つは東大社研編の『戦後労働組合の実態』、もう1冊は末弘厳太郎『日本労働組合運動史』です。
『戦後労働組合の実態』は大河内一男氏を中心に、氏原正治郎、塩田庄兵衛、隅谷三喜男といった戦後の労働問題研究を主導した錚々たる顔ぶれで行なわれた調査です。1947年8月現在で約l,000組合にアンケートを出し400弱の組合から回答を得ています。この報告書の序章で、大河内一男氏は「戦後の組合は、一言を以てすれば経営内的存在とも特徴化し得べきものを共通にしている」と鋭く指摘され、さらに次のように述べられています。
「単位組合は殆んどすべてが企業体単位に結成されて居り、その結果また組合は、労働者組合というよりは従業員組合という特質を与えられて居り、更に組合員資格としても、課長、係長等職制上の責任者であって通念上〈使用者〉の利益を代表すると考えられる人々までを含むものが極めて多く、特殊課長を除いた一般課長までを含むものが全体の三割近くあり、係長までを含むものに至っては全体の二分の一に及んでいる。このことは、戦後の労働組合においては、工員のみの組合の比率が著しく少なく、大部分が所謂工職一本の〈混合組合〉でありその比率が80%をこえている、という事態の結果である。」(太字は原文では傍点)
以上引用したところからもお分かりいただけるように、この報告書は、戦後の日本労働組合の特質をはじめて実証的に明らかにしたもので、日本労働問題研究の記念碑的作品といえると思います。
もう1冊の『日本労働組合運動史』の筆者の末弘厳太郎氏は日本の労働法学の生みの親であり、戦後は中央労働委員会の初代会長として、戦前戦後を通じて日本の労働組合運動の忠実な観察者であり理解者でした。『日本労働組合運動史』は、もともと外国人に日本の労働組合を「歴史とのつながりにおいて正しく理解して貰う」ことを目的に書かれたものてす。今ではあまり読まれないようですが、学ぶところの多い本だと思います。ウエッブ夫妻の『労働組合運動の歴史』の日本版といっては少しほめすぎでしょうが、戦後の労働組合運動が始まって4、5年の時点で戦前期からの通史を独力で書き上げ、しかも内容的にもすぐれた観察をおこなった力量は見事というほかありません。この本については、また後でふれますが、「労働組合の殆んどすべてが職場単位に結成され、雇傭関係を同じくすることを基礎として団結している」こと、「工場の職工と事務所の職員とが一になって組合を作ろうとするのは勿論、アメリカならば問題なく組合に入ってはならない高級従業員までが一般従業員とともに一つの組合を組織しようとする。そして、一般従業員もなるべく高級の従業員までも組合に入れようと、希望している」ことなど、『戦後労働組合の実態』とほぼ共通する認識を示しています。
出稼型論とその批判
このように、日本の労働組合が欧米とは異なった特徴をもっていることが明らかになると、当然、それはいったい何故であろうかが問題になりました。もちろん、今お話しした2冊の本も、さまざまな要因をあげてこの問いに答えようとしています。しかし、これを「企業別労働組合論」というかたちに整理して、意識的にその根拠を問題にし、その後の研究をリードされたのは大河内一男氏でした。
実は大河内氏は、このテーマに関連して、本で約20冊、論文なら200本は書かれています。もちろん基本的な点では共通しているのですが、これだけの数ですから力点の置きどころに違いのあるものが少なくありません。とくに時論的なもののなかには、主張に一貫性を欠く、あるいは相互に矛盾するものもあります。たとえば、ある時は組合活動家に経営内に徹しろと説いたかと思うと、別の論文では企業別脱皮を主張されています。もっともこれは矛盾というより、運動の状況に応じて適切な評論を加えられたもので、むしろ大河内氏の現実感覚の鋭さを示すものと言うべきかもしれません。
さて、この大河内氏が、最初に企業別組合成立の根拠について回答を示されたのは、皆さんよく御承知の「出稼型論」です。簡単に言うと、日本の労働者は、何らかの形で農村との結びつきを保っている点に特徴があるとして、これを「広い意味での出稼型」と規定されました。要するに、農閑期を利用した土建労働などへの季節的出稼ぎ、あるいは生涯の一時期だけを紡績工場や製糸工場で働く年季奉公的出稼ぎ、さらには農家の二・三男が都会の工場で働く場合も広い意味での「出稼型」だとされたのです。そして、この賃労働の日本的特質こそ日本のすべての労働問題を明治から第二次大戦後まで基本的に制約しているものだ、と主張されました。そして企業別組合成立の根拠については、つぎのように説明されたのです。
賃労働が出稼型であるということは、工場地帯における労働力の集積が少ないことを意味している。したがって労働者の募集は、企業ごとに、募集人を通じ、あるいは経営者や現にその企業で働いている人びとの血縁、地縁を頼っておこなわれる。そうなると、職種を基礎とした横断的な労働市場は形成されず、労働市場は企業ごとの縦割りのものとなる。そのような労働市場を基礎としてつくられる労働組合が企業別組織になるのは当然である、というのです。
ところで、この「出稼型論」が、一時期、日本の労働問題研究の通説の地位を占めた、とよく言われますが、私はそうは思いません。通説とか定説というのは、皆がその見解を支持し異論がないことを言うのでしょうが、「出稼型」を100%支持していた人はあまりいなかったと思われます。多くの人はこれに批判的で、さまざまな修正意見を述べていました。
企業別組合が生まれたのはなぜかという論点にかかわる限りで「出稼型論」に対する批判を整理して見ましょう。最初に批判を加えられたのは大友福夫氏で、1952年に出版された『統一的労働運動の展望』(遠藤湘吉、舟橋尚道、藤田若雄、大島清との共著、労働法律旬報社刊)という本のなかで次のように指摘されました。
「この説明によっては、日本の労働組合の組織形態が、戦前と戦後でいちじるしくちがうのは、どうしてなのかを納得のいくように解くこともできないし、また戦後の組合でも、わずかながら〈企業別従業員組合〉とちがう組織形態が生まれている事情も、必ずしも十分に説明することができない。」
要するに、大友氏は、戦前の日本の労働組合は、明治期の鉄工組合や大正期以降の友愛会、総同盟、あるいは評議会等、企業の枠をこえた職業別組合や産業別組合が主であったが、この事実を出稼型論では説明できないと指摘されたのです。このほか、大友氏は「出稼型論」は宿命論であり、どのようにすれば企業別から脱却できるかという行動の指針が得られない、といった実践的な立場からの批判も加えられています。しかし、大友氏の批判点のなかで大河内氏が「一本取られたな」と感じられたのは、出稼型論では戦前と戦後の組織形態のちがいを説明し得ないという点にあったと推測されます。後でお話しいたしますが、のちの大河内理論の転換はこの批判に答える狙いがこめられていました。
その次に「出稼型論」批判をおこなったのは舟橋尚道氏です。大河内一男編『日本の労働組合』(東洋経済新報社、1954年刊)の中で、次のような議論を展開されています。
「労働組合の組織は生産過程、産業構造、権力構造、労働市場などの資本主義社会におけるいわば客観的な要因によって規定され、他方では資本に対する労働者の階級闘争ときりはなすことができないという点で、すぐれて実践的、主体的な性格をもち、その意味においてきわめて多面的で複雑だからである。そして両者の関連を総合的に分析することなしには、組織問題の十全の把握は不可能だといって良いであろう。」(13ページ)
「〔組織を規定する客観的な要因〕のほかにも、国家による統制その他の経済政策、独占の性格等が組織に複雑な影響を与えるが、重要なのはこれらのあらゆる要因を構造的に把握して組織との関連を明らかにすることだと言えよう。したがってただ一つの要因を強調し、過大評価する場合には誤った結論をみちびきやすい。」(16ページ)
「労働組合の組織は資本家の組織のように社会的存在そのものの中に客観的にあるというわけではない。むしろ労働者が意識的あるいは主体的にみずからの手で形成しなければならないという性格をもっている。〔中略〕したがって、組織の主体的契機を無視して、ただ客観的要因にのみ規定される側面を強調すると宿命論におちいる危険性がある。」(17ページ)
明瞭な大河内批判、出稼型論批判ですが、名ざしを避けられたこともあってか論争にはなりませんでした。
もう一人、大河内氏により近い立場からの批判、いわば大河内理論の内在的批判をめざされたのは藤田若雄氏です。社会政策学会での報告レジュメとして書かれたものなので一般の目にとまらず、あまり問題にされたことはないものですが、社会政策学会年報第4輯『戦後日本の労働組合』(有斐閣、1956年刊)に収録されています。その主張はつぎのようなものです。
「大河内教授は供給の側面(労働者)を強調されるが、その場合われわれは大河内教授の供給の側面に対する追求の仕方に問題があると思つているが、その点にふれないとしても、そこから、いきなり企業別組織を論定することは無理である。われわれも供給の側面に立つが、大河内教授よりも需要の側面(資本)を分析し、それとの関連で企業別組織を理解して行かないと組織・運営・運動の特質が充分に把握されないと考えている。」(189-190ページ)
また、藤田氏は、同じ学会年報に「『企業別組合論』とその『批判』について」と題する論文を発表されました。これは、1956年時点でまとめられた企業別組合論研究史ともいうべき論文ですが、そのなかで次のような大河内批判を述べています。
「教授が『出稼型』とされるものは、戦前戦後を通ずる全体的な日本労働市場の特質である。かような特質を認めるとしても、戦前においても階段的な(原文のママ)変化を経て編成替を受けているのであり、戦後においても編成替を受けている。特に戦後においては、変革を強力に押し切る時期と、その任務を終えて機能変化を行う時期とがある。」(28ページ)
「新大河内理論」とその批判
このほかにも、多くの方がさまざまな出稼型論批判を展開されました。しかし大河内氏は、こうした批判に正面切って答えることは全くといってよいほどされませんでした。ところが、1959年、大河内氏は突如として、それまでの主張を大きく変えられたのです。そのことを最初に表明されたのは、その年の4月の労働運動史研究会の例会で「企業別組合の歴史的検討」という今日とよく似たテーマで報告された時でした。そこで、大河内氏は次のように主張されたのです。
第l次大戦以前の日本の労働市場、とくに熟練工の労働市場は横断的であった。労働者は1企業にしばりつけられることなく、転々と職場を移動した。鉄工組合などが横断的組織であったのは、このためである。しかし、大正後期から昭和初期の恐慌下で、大企業を中心に、労働市場の横断性を断ち切って、労働者を特定の企業に定着させるような労務政策がとられ、これに成功した。中規模以上の企業では、労働者は「子飼い」として雇い入れられ、企業内で養成訓練を受け、「年功」賃金の序列にのって定年まで同じ企業につとめるという「長期雇用慣行」が確立した。共済制度、企業内福利施設、家族手当や退職手当などが、この慣行を強化し、固定化するのに役立った。戦後の企業別組合は、このような、企業別に封鎖された労働布場と長期の雇用慣行という実績の上に成立したのである。
この主張では、これまで企業別労働組合の究極の決定要因とされてきた「賃労働の出稼型」はすっかり影をひそめ、代わって資本の労務政策が基本的な要因としてあらたに登場します。賃労働の特質から資本の政策へと、決定要因を180度転換させたといってよいと思います。出稼型論と区別するために、これを「新大河内理論」と呼ぶことにします。
ところで、この新大河内理論の登場以降、企業別組合の生成根拠論はあまり議論されなくなります。それは新大河内理論が、出稼型論と違い、通説化したからだとも言えましょう。労働運動史研究は労働争議研究に重点を移し、企業別組合論も生成根拠論よりは年功的労使関係論や内部労働市場論に焦点をあてるようになり、大河内理論はかつてほどポピュラーではなくなります。しかし、それというのも新大河内理論の大枠、つまり、かつては横断的な労働市場であったものが企業別に分断、封鎖され、その基盤の上に企業別組合は成立したのだという説明が、多くの人びとによって受け容れられたからだと思われます。
それでは、この新大河内理論は、企業別組合の生成を解明し得たといえるでしょうか。この点について考えてみたいと思います。いまお話ししたように、大河内氏は窮極の決定要因を賃労働の特質から資本の政策へと180度転換させました。しかし、論理構造そのものは、あまり変わっていません。因果関係が長い連鎖を形成し、しかもその関係が常に一方通行であるという仕組みそのものは、新旧大河内理論に共通しています。喩えはあまり良くありませんが「風が吹けば桶屋がもうかる」論的な論理構造なのです。その点では、出稼型論も新大河内理論も違いはありません。その論理の核心にあるのは、企業別組合の成立の根拠を、労働市場の企業別分断に求める点です。大河内氏のこの主張の背後には、労働組合というものは、労働力の売り手の組織であり、それ以上でもそれ以下でもないという確たる信念があります。氏にとって、これは議論や証明を必要としない大前提であり、古今東西を通じて変らない真理とでも考えられているように見えます。実は、ここが大河内氏と私との大きな違いです。大河内氏は、労働組合は賃労働の売り手の組織だということをいわば〈公理〉として議論を展開されます。私は、日本の労働組合を理解するには、日本の労働者がどのような要求、欲求にもとづいて団結してきたのか、その事実を歴史的に追究していくことが何より必要だと考えています。これについての私の考えは、後でお話しすることにして、ここでは、労働市場が企業別に分断されていたから労働組合は企業別たらざるを得なかった、という主張は正しいか、果たして事実で裏づけ得るかどうか、この点を検討してみたいと思います。
結論から先に言えば、私は、そのような主張は成り立ち得ないと考えます。いくつか理由はありますが、ここでは次の3点についてお話しすることで、ある程度ご理解いただけるのではないかと考えます。
(1) 先ほども申しましたように、企業別労働組合は戦前にも存在しました。いちばん早いのは日本鉄道の矯正会で1898(明治31)年に結成されています。しかし、何といっても労働組合があいついで結成されたのは1919(大正8)年のことです。これについては渡部徹氏が「第一次大戦直後の労働団体について」という論文を発表されています(『人文学報』第26号、1968年3月)。この論文によれば、1919年中に結成された労働団体は211あるそうです。このなかには女工供給組合のような労働組合とは言えないものもありますが、この211団体のうち「事業場内団体」に分類されているものが34あります。この34団体の実態について詳しいことはわかっていないのですが、東京砲兵工廠の小石川労働会、大阪砲兵工廠の向上会、八幡製鉄所の同志会、芝浦製作所の技友会、住友伸銅所の新進会、大阪鉄工所の帝国労働者組合といったように明らかに企業別労働組合と呼ぶべきものが少なくありません。また、建て前としては企業の枠をこえる組織で、渡部氏の分類ではセンター的労働団体や職種別団体に入っている組合であっても、八幡製鉄のストの中心となった日本労友会、東京市電の日本交通労働組合、足尾銅山の大日本鉱山労働同盟会など実質は企業別組合に近い存在もあります。なお、企業別組合、企業別組織と言ってきましたが、1919年に生まれた労働団体の多くは、企業別というよりむしろ事業所別組合でした。もっとも、ある団体はストライキを契機に組織された自主的労働組合であり、あるものはそれに対抗して上から育成された御用組合的存在といった違いはあるのですが。
ところで、この1919年の時点で、これらの組合の舞台となった金属・機械産業、鉱山業などの労働市場は企業別に分断、封鎖されていたでしょうか? 明らかにノーです。大河内氏自身、労働市場が企業別に分断され封鎖されたのは、「大正後期から昭和初期の恐慌下」であると述べておられます(たとえば「日本的労使関係とその系譜」、大河内一男『労使関係論の史的発展』有斐閣、1972年参照)。
(2) もちろん、今われわれが問題にしているのは第二次大戦後の企業別組合です。したがって、いま指摘した事実だけでは、労働市場の企業別分断が企業別組合を生成させたとの主張を否定するには充分とは言えないでしょう。
では、1946年から47年にかけて戦後の労働組合があいついで組織された時、果たして日本の労働市場は企業別に分断されていたでしょうか。また終身雇用制や年功制がこの時期に実質的な意味をもっていたでしょうか。とてもそうは言えないと考えます。
今さら申しあげるまでもありませんが、第二次大戦中、徴兵で軍隊にとられた若者は約700万人という厖大な数でした。一方で、軍艦や飛行機や砲弾など軍需生産は拡大せざるを得ませんでした。当然のことながら、工場、鉱山における人手不足は著しいものがありました。とても新規学卒者、「子飼い」の労働者だけに頼るわけにはいかず、非軍需産業から多数の中・高年労働者が徴用などで軍需産業に移されました。どの工場でも徴用工、動員学徒、女子挺身隊員、さらには強制連行された朝鮮人、中国人などが大きな比重を占めていました。ここで敗戦です。軍需工場は造るものがなくなったため閉鎖され、多くの人が職を失いました。軍需工場ではない場合も、人を雇って物を造るより、原料をそのまま横流しした方が儲かるので、いわゆる〈生産サボ〉が横行しました。労働者の方でも、食糧難の都会に見切りをつけ、あるいは工場の先行きに不安を抱いて、自分からやめていきました。首切り、自発的退職をあわせ、退職者が400万人はいたといわれます。これに加えて復員者が700万人、さらに海外からの民間人の引揚げ者等、全部あわせると千何百万人もの失業者が日本中にあふれていました。こうした時に、労働市場の企業別分断とか、終身雇用などが実質的な意味をもって存在していたと言えるでしょうか。また年功賃金にしても、物価が10倍、20倍、30倍とどんどん上がっていく状況下では長年勤続していた人を引きとめるだけの力を失っていました。
(3) もう1つ重要な見落としてはならない点は、労働市場のあり方が労働組合の組織形態を規定するという主張では、戦後日本の労働組合の多くが工職混合組合になった事実を説明しえないことです。大河内氏はもっぱら労働市場の企業別分断を強調されますが、日本の労働市場は、学歴別にも分断されているのです。工員と職員の労働市場は、はっきり別のものです。ブルーカラー労働者とホワイトカラー労働者の労働市場が全く別であることは何も日本だけに限りませんが、日本の労働市場の学歴別分断は特定の企業だけでなく、社会的に確立したものです。しかもこの学歴の違いによる労働市場の分断は、戦時中や敗戦直後の混乱の時期でも崩れませんでした。もちろん現在でも、中・高卒と大卒の労働市場は同じ企業でもまったく異なっています。入職時でも本社採用と現地工場採用といった違いがあり、その後の昇給、昇進の展望もはっきり異なります。もちろん同一企業の従業員として利害が共通する面はありますが、大卒ホワイトカラーと中・高卒ブルーカラーの間の矛盾、対立も決して小さなものではありません。それがなぜ同じ組合に組織されているのでしょうか?
大河内氏が主張されるように、労働組合は労働力の売り手の組織であるから、同一労働市場に属するものはとうぜん同一の組合に組織されることになる、という主張が正しいとすれば、日本の労働組合は企業別であるだけでなく同時に学歴別組合であるはずです。また同じ学歴でも、男子と女子では昇進昇給の展望が全く異なることが多いのですから、性別組合が存在して当然だということになります。しかし現実には、そのような学歴別組合や性別組合はほとんど存在していません。この事実は、労働組合の組織形態は労働市場のあり方によって直接的に規定されるものだという新大河内理論は、どこかで間違っているのではないでしょうか?
大河内理論批判者の企業別組合論
それでは、おまえは企業別組合の生成や工職混合の問題をどう考えるのか、と問われると思います。ただ、それにお答えする前に、先ほどお話ししたように、旧大河内理論=出稼型論に対する批判者は少なくなかったので、それら批判者の企業別組合生成論についても検討しておきたいと思います。とは言っても、全員の主張を検討する余裕はないし、またその必要もないと思われますから、ここでは企業別組合論に関して大河内批判を展開された高橋洸氏の見解だけを取り上げることにします。高橋氏は、労働組合の組織形態は労働者階級の闘争と結びつけ、その歴史的諸条件とかかわらせて把握しなければならないことを強調され、敗戦直後の日本の労働者階級がおかれた状況のなかから、企業別組織の必然性をつかむべきことを主張されました。その上で、日本の労働組合が企業別になった理由を次のように説明されています(「企業別組合主義とその克服の条件」、高橋洸『日本的労資関係の研究』未来社、1965年所収)。
敗戦直後、日本の労働者階級は工場閉鎖や大量解雇による失業、さらにはインフレによる実質賃金の大幅切り下げといった攻撃に直面した。労働者は自らの生活を守るためにストライキや「生産管理闘争」で対抗した。こうした闘争の発展と民主的自由の保障、占領軍の労働組合育成策のもとで、労働組合の結成は急速に進んだ。このような、さし迫った状況にあっては、1人1人を個別に説得して組合に加入させていくといった悠長なやり方をとっではおられず、工場、職場を単位として一挙に組織化が進められた。一方、資本家陣営も、労働組合の結成が避けることの出来ない時代の趨勢であることを察知し、企業の全従業員を丸がかえにする、上からの組織化をはかっていた。こうした上からの組織化工作に有効に対抗するためにも、事業所単位の一括組織化を進めることが必要であった。
私も、こうした考えに大筋で賛成です。しかしこの問題は戦後の状況だけでなく、もっと長い歴史的背景でとらえる必要があると考えます。企業別組合が生成された背景には、戦前からの日本の労働者の運動経験、運動の伝統が小さからぬ意味をもっていると考えています。これについては、また後でお話しいたします。
もう1つ、戦後の労働組合が「工職混合」となったことについて、従来の企業別組合研究がどのような答を出しているかを見ておきたいと思います。これについては、先ほどお話しした『戦後労働組合の実態』が、興味深いアンケート結果を掲げています。労働組合に対して、なぜ工職混合になったかと聞いているのですが、その答で最も多かったのは、職員も工員も労働者で、両者に本質的な違いはない、というものであったといいます。その他では、両者が協力してこそ組織は強力になり、有効にたたかえる、という答や、産業復興のためという答もあった。要するに、資本家は生産サボをやっているのだから、職員と工員が一緒になって協力して生産を再開し、産業を復興していくことが重要なのだ、というわけです。
こうしたアンケートについて、氏原正治郎氏が解析されていますが、そこでは工職混合になった理由として、次の3点を指摘しています。1)戦時、戦後の職員、工員に共通した生活の窮迫、2)敗戦による管理機構の混乱は、1)とあいまって両者の事実上の差別をなくした、3)組合の目標には身分制廃止、企業民主化、経営参加がふくまれており、そうした闘争組織の理想は、当然、混合組合である、というのです。
第1の点は、インフレによって職員と工員の賃金格差は実質的な意味を失い、生活に苦しんでいる点では職員も工員も変わらない。それに、戦時中から戦争直後は生産第一主義で、現場の労働者には各種の手当や現物給与があったから、ホワイトカラーとブルーカラーの実質的な賃金格差は縮小していた。場合によっては逆格差さえ存在した。これが工職混合組合をつくらせた背景であるという訳でしょう。しかし、これだけでは、戦後の労働組合が工職混合になったことの理由としては十分ではありません。もちろん職員までもが労働運動に加わったことは、これで説明できます。しかし、その場合でも、工職混合になるより、職員だけの組合をつくり、職員の賃金を工員よりも大幅に上げよ、という要求を出すこともあり得た、むしろ、その方が自然ではないでしょうか。第2点についても、同じことが言えます。
そこで、やはり第3の理由、すなわち身分制廃止、企業民主化といった要求を組合が掲げてたたかったことが重要な意味をもったと考えられる。しかし、この場合でも、何故、職員までもがこうした要求を出したのかが問題になります。ここで、まず明らかにする必要があるのは、占領下の経営民主化要求がもっていた意味です。戦後民主主義が、企業内では、何よりも身分制撤廃要求として受けとめられたこと、これが工職混合組合を形成する上で、決定的な要因だったと思います。これについても、ただ戦後だけでなく、長い歴史的背景があります。実は、これが今日の私の話の1つのポイントですから、最後に改めて問題にしたいと思います。
クラフト・ユニオンの不在
では、私自身が企業別組合生成の根拠をどのように考えているかについてお話ししてみたいと思います。実は、私の議論はある意味ではきわめで単純なものです。要するに、敗戦直後のように労働者が未組織の状況のもとで賃上げ、首切り撤回、経営民主化など、団結して解決すべき強いさし迫った要求をもっている時、同じ企業に雇われ、日常的に顔を合わせていっしょに働いている職場の仲間同士で団結するのはごく当たり前のことで特に説明を要しないのではないか、そう考えているのです。戦後の労働組合を企業別労働組合と呼ぶことが多いのですが、最初に結成された段階では企業別というよりむしろ事業所別で、多くの場合は職場別組織を基礎としていたように思います。このことは高橋洸氏や棚橋泰助氏などは早くから指摘されていましたが、企業別労働組合という言葉に引きずられたためかあまり重視されてきませんでした。しかし、最近、高木郁朗氏はこの事実に注目され、1960年代に、それまで事業所別労働組合の連合体であった企業連が、労働組合としての実質的な組織単位になったことを指摘されています。
いずれにせよ、戦争直後の労働組合運動の出発当初の組織形態は、大企業の場合は決して企業別ではなくて事業所別、あるいは直接の面接集団である職場別組織から始まったことは確かです。そして何故そうなったかは、あらためて問うまでもないほど自然なことだったと思います。私は、日本の労働組合はなぜ企業別になったかと問う前に、むしろ欧米の労働組合はなぜ企業の枠をこえ結集したのか、その方がよほど不思議で解明を要することではないかと考えています。
これについて、充分な答が出でいるとは思いませんが、欧米の労働者が企業の枠をこえて団結したのは、また団結し得たのは、クラフト・ギルドの伝統を抜きにしては考えられないと考えています。ご承知のように、欧米の労働組合はまず特定の熟練職種の労働者が団結し、徒弟制による労働者の養成・訓練を組合が握り、これによって労働市場をコントロールする職能別組合、クラフト・ユニオンとして始まりました。徒弟の数を制限し、労働者が余れば移民手当を出して外国に送る、労働時間の制限や生産量の制限をおこなうなどして、自分たちの労働条件の低落を防いできました。このような労働組合が成立し得たのは、クラフト・ギルドの伝統を抜きにしては考えられないと考えます。そしてこのようなクラフト・ユニオンの存在こそが、労働市場を横断的なものとして成り立たせていたのです。これについては、高橋洸氏が重要な指摘をされています。「欧米の労働市場の横断性は、自動的にそうなったと考えるべきでなく、労働組合運動が資本の労働市場分断策に対抗しつつ形成してきたという積極面でとらえる必要がある」(高橋洸前掲書57ページ)というのです。これは、重要な視点であろうと思います。
このように見てきますと、さきほど紹介した末弘厳太郎『日本労働組合運動史』が、次のように述べていることの重要さに気がつきます。
「日本には組合運動発生の初めからクラフト・ユニオンの伝統がない。だから職種を同じくする熟練労働者がその雇われている職場を超越して、職種毎に団結する思想は、戦後も殆んど一般化しなかつた。
(中略)このことは、決して現在日本の組合一般の健康を示すものてはなくして、或る意味においてはここに反って脆弱性の根源があるとも考えられる。戦後日本の労働者は主としてインフレの昂進による生活難と襲いくる失業の危険の前に、自己を守ろうとする動機から、急速に且つ半ば本能的に団結したに過ぎない。そして彼らは一般に組合の実際に関する経験と知識をもたないから、組織形態の如何が組合の活動上に、深い関係を持っていることを十分知つていない。そのため職種の差異によつて必ずしも利害関係を同じくしていない労働者が、雇傭関係を同じくするという理由だけから、職場単位もしくは企業単位の組合を作り、更にその連合から産業別組織にまで進むのが常道であるが、職種の違う労働者を無差別に一組合に纏めることが、しばしば組合内部の結束乃至行動の上に支障を来す原因になることを、十分覚つていない。」(日本労働組合運動史刊行会、1950年刊、180-181ページ)
この末弘氏の指摘、日本にはクラフト・ユニオニズムの伝統がない、ということは、きわめて重要な指摘だと思います。
このように言うと、日本にも企業の枠をこえた職業別組合は鉄工組合はじめいくつも例があったのではないか、と疑問を持たれる方があると思います。たしかに、これまでの日本労働運動史の通史では、鉄工組合や印刷工組合などは職業別組合であったとされています。大友福夫氏の出稼型論批判や、それを受けいれた形の大河内氏の議論も、こうした立場に立っています。
しかし実際には、この十数年来の日本労働運動史研究が明らかにしてきた事実は──主として鉄工組合や友愛会の支部を材料とした研究の結果ですが──日本の労働組合は欧米のような古典的な職能別組合=クラフト・ユニオンとしての実体をもつことがなかった、ということです。鉄工組合や友愛会などは確かに企業の枠をこえた労働者の組織ではありましたが、特定の熟練労働力の供給を組合が握り、労働市場をコントロールするといった力はまったく持たない組織でした。とてもクラフト・ユニオン=職能別組合とはいえないものでした。
では、なぜ鉄工組合などが徒弟制による入職規制をなし得なかったのか。これについての答は、今日コメントしていただく池田さんから出されています。なおこれは、引用ではなく要旨の紹介です。
鉄工組合が組織基盤とした日本の重工業は、軽工業の発展にうながされた自生的なものでなく、欧米の先進諸国の圧力に対抗するための軍事的、経済的要請から、国家の主導下に育成された軍工廠等の官営企業と国家の保護政策のもとに成立した造船所などの大企業が中心であった。これらの軍工廠、大造船所は欧米の先進技術を移植したから、在来の技術はそのままでは役に立たず、再訓練が必要であった。このため、旧来の職人層と重工業の職工層とは技術的にも、人的にも連続性にとぼしかった。また、導入された技術は、すでに大量生産に入りつつあり、トレードがジョブに分解されつつある段階のものであった。このため、当初は、手工的・万能的熟練をもった労働者も存在したが、これが安定した支配的な層として確立されることはなかった。さらに日清、日露、第一次大戦を契機に重工業は急成長をとげ、労働力需要は急増した。ここでは、入職規制による労働市場のコントロールなどは問題になり得なかった。(池田信『日本機械工組合成立史論』日本評論社、1970年刊、序章)
これは、重工業においてクラフト・ユニオンが成立しなかったことの説明としては、一応わかります。しかし私は、日本にクラフト・ユニオンが生まれなかったことの説明としてはこれだけでは充分でない、と思います。なぜなら、明治維新後でも旧来の手工的熟練がものをいい、技術的にも人的にも連続性のある職種はいくつもありました。たとえば、大工、石工、左官、瓦職人、指物師などの建築関係の職人、あるいは金属鉱山の坑夫(採鉱夫)などはそうです。そこでは欧米の技術導入による影響がまったくなかった訳ではありませんが、彼等の万能的・手工的熟練を崩すまでにはいたりませんでした。また、彼等は大工であれば太子講、坑夫は友子同盟といった自主的な組織をもっていました。ですから、もし彼等がその気であれば、徒弟制を介して特定の職業分野を独占し、労働市場をコントロールすることは可能であったと思います。
われわれは、労働組合というとすぐに近代的な工場労働者を思い浮かべますが、イギリスでも、フランスでも、アメリカでも、クラフト・ユニオンが主流であった時期の労働組合運動の担い手は、工場労働者よりもむしろ職人が主でした。たとえば、あの有名なジャンタ──イギリスの労働組合運動が地方的な組織から全国組織に移っていった時期に運動のリーダーシップを握った少数のクラフト・ユニオン指導者の集まりですが──のメンバーの多くは大工や指物師といった職人です。あるいはアメリカ労働総同盟・AFLの創立者のゴンパーズは葉巻タバコの職人で近代的な工場労働者ではありません。さらに労働騎士団などは、賃金労働者だけでなく自営業者までふくんでいました。
多くの国で、職人、とくに建築関係の職人は初期の労働組合の重要な担い手でした。しかし、日本ではそうなりませんでした。大工が太子講などで賃金を協定し、あるいは坑夫が友子同盟によって一定の徒弟期間を経たものでないと正規のメンバーにしないといった慣行をもっていた事実はあったけれど、どうもクラフト・ユニオンの「制限的慣行」といった強さをもつものではなかった。この問題は、日本の重工業の急速な発展と無関係ではない。もし仮に鍛冶職や鋳物職などがクラフト・ユニオン的な制限的慣行をもっていたならば、軍工廠や造船所への欧米の先進技術の導入に無抵抗であったはずはない。ところが実際には、近代技術の導入に、組織的に抵抗した事例はほとんど見られない。むしろ日本の職人は喜んで新しい技術を習得しようとするなど、きわめて適応力に富んでいたことが、幕末から明治初年に日本に来た「お雇い外人」らによって注目されています。
このように、職人の間での制限的慣行の欠如こそが、近代技術の導入を著しく容易にし、日本資本主義の急速な発展を可能にした1つの前提条件であったと思われます。近代技術の導入、日本資本主義の急速な発展がクラフト・ユニオンの成立を妨げたのではなく、クラフト・ユニオンの不在が近代技術の急速な移植を可能にした、と考えるべきではないでしょうか。
では、なぜ日本ではクラフト・ユニオンが生まれなかったのか。これについては、まだ私自身、はっきりした答を出すところまでいたっていません。しかし、この問題は、前近代社会における職人組織の性格と国家権力との関係がイギリスなどとは大きく異なっていたためではないか、と考えています。より具体的にいえば、西欧的なギルド制は日本には確立しなかったのではないかと思われるのです。そして、これは必ずしも日本だけの特徴、日本的特質とも言い切れないようです。たとえばイギリスのロシア史研究者によれば、革命前のロシアの労働者は職場指向、職場主義であったといいます。旋盤工や仕上げ工という職能別の結びつきよりも、同一企業の仲間意識の方が強く、企業一家に近かった。「俺は旋盤工だ」というより、「俺はプチロフ工場の者だ」と言ったという(Steve Smith, “Craft Consciousness, Class Consciousness:Petrograd 1917", History Workshop Journal, No.11, Spring 1981参照)。
手工業ギルドと労働組合の関係というと、すぐ思い出されるのは、ウエッブ夫妻によるブレンターノ批判です。夫妻は、ブレンターノを批判して、労働組合は手工業ギルドから生まれたのではないことを強調しました。手工業ギルドと労働組合との間には、直接的なつながりはない、系譜的な関係はない、という限りで、おそらくウエッブ夫妻の主張は正しいのでしょう。しかし、われわれがここで注目したいのは、手工業ギルドがつくり出した徒弟制による入職制限、7年という長い徒弟期間を経た者について厳重な資格審査をおこない、高い入会金を払わせる、といったやり方、あるいはメムバーの労働時間や労働能率を規制することで労働条件の低下をふせぐ、といったやり方が社会的慣行として認められていたことを抜きにしては、クラフト・ユニオンは生まれなかったに違いないことです。社会的慣行という意味は、職人がそのように要求していた、というだけでなく、彼等の雇い主や顧客もそれを受けいれていたということです。
これに対し、日本では、徳川時代の手工業者は、このような社会的慣行をつくりあげていなかったのではないだろうか、と想像しているのですが、果たしてどうでしょうか。ちなみに、ロシアでもギルドはきわめて弱体だったようです。
〈不当な差別〉に対する憤懣
では、いったい日本の労働組合はどのような性格のものだったのでしょうか。
今までお話ししてきたように、日本の労働組合は、労働力の売り手の組織としては弱体でした。しかし日本の労働者は、労働力の売り手としての組織的活動をしなかった訳ではありません。ストライキを武器にして経営者と交渉することはしばしばでした。ストによって賃金の引き上げをはかり、あるいは賃下げを阻止しようとしたことは、ストライキを事実上禁止したに等しい治安警察法第17条があった時でも、しばしば見られたことです。
しかし、ストライキによってしか労働条件の維持、改善をはかることが出来なかったことは、労働者の団結を企業の枠をこえた横断的なものとすることの妨げになったことも確かです。ストライキは一般に個々の経営者を相手として行われるものです。しかもこの場合、日本の経営者は「うちの従業員」とだけ交渉することを好み、外部の者の介入を拒否することが普通でした。今でも団体交渉に上部団体が入ることをいやがる経営者は少なくありませんが、戦前では労働者が他の組合の応援を得たりすると、交渉どころか全く会おうとしませんでした。
個々の経営者がそうであっただけでなく、国家の政策もこうした経営者の態度を支援しました。たとえば治安警察法の第17条は「同盟罷業ヲ遂行スル」目的で「他人ヲ誘惑若ハ煽動スルコト」を禁止していましたが、ある時期からはこの規定を画一的に適用するのでなく、企業外の労働運動家がリーダーの場合にだけ取り締るといったやり方をとりました。これは企業内の労働者がリーダーなら、首を切るだけでストライキを抑えうるためでもありましたが、結果的には労働運動を企業外の影響から遮断する効果をもちました。いずれにせよ、日本の労働者が労働条件の維持・改善をはかるには、主として個別企業を相手としてストライキをうつほかありませんでした。そして、そのことは日本の労働組合が企業の枠をこえで結集する上で小さからぬマイナスを伴っていた、と思われます。もちろん、個々の争議をとってみれは、企業の枠をこえた連帯の動きがまったくなかった訳ではありませんが。
ところで、戦前の日本の労働争議を分析してみると、日本の労働者が労働組合に何を求め、何を期待していたのかが、よくわかるように思われます。それはどういうことかといえば、日本の労働争議の多くは、単なる経済問題をめぐる争いではなく、道徳的、あるいは感情的な争いを伴うものが少なくない、とよく言われることにかかわっています。とくに大規模な激化した労働争議では労働者の日頃の憤懣が爆発し、それだけに彼等の本音があらわになるところがあります。その本音とは何かといえば「不当な差別に対する怒り」とでも言うほかないものです。
たとえば、1898(明治31)年の日本鉄道の機関方の争議では、ただ賃金の引き上げ要求だけでなく、機関方を「書記同等」の身分にすること、その職名を機関方は機関士に、火夫を機関助手に、掃除夫をクリーナーに改めよという要求を出しています。こうした要求の背後には、かつては他職種の労働者に比べはるかに高い水準だった機関方の賃金が、物価の上昇や他職種の賃金上昇の方が急速だったため、相対的に低下した事実がありました。ただ重要なことは、彼等が賃金を単なる経済問題、生活困窮の問題としてではなく、「書記同等」という地位の問題と不可分のものと考えていた点にあります。彼等は、自分達は単なる労働者ではなく技術者だと主張し、役員として処遇されるべきことを要求し、それにふさわしい高賃金を要求したのでした。
あるいは1907(明治40)年の足尾暴動においても、労働者が至誠会のリーダーが提起した要求に強い反応を示したのは、賃上げとともに、労働者にも内地米を販売せよ、という要求でした。当時、足尾銅山では、賃金と差し引きでさまざまな品物を会社の売店で売っていましたが、内地米は「役員米」と呼ばれて職員だけが購入でき、一般労働者は「南京米」しか買えませんでした。白米が食べたければ、町の米屋から高い金を出して買うほかなかったのです。もちろん職員と鉱夫の間の差別は、米の問題だけではなく、社宅の広さ、内便所か共同便所かなど、衣食住の全般にわたっていました。とくに坑夫(採鉱夫)の場合は、賃金決定にあたる職員がワイロを強要することに対して強い不満を抱いていました。鉱夫にも白米を売れという要求は、こうしたブルーカラーとホワイトカラーの差別に対する全般的な憤懣を象徴するものだったのです。
あるいは戦前の労働争議の争点によく出てきたのは、不公正な職制、えこひいきをする監督者の排斥です。これが足尾の場合と同じような性質をもっていたことは言うまでもないでしょう。また、第一次大戦前後の争議において、職工の身体検査、とくに門前での身体検査がしばしば問題になっています。要するに、退出時に製品や原料などを盗み出そうとしていないかを調べる。これは職工を泥棒あつかいにするもので怪しからん、という場合もありますが、せめて人の見ていないところでやってくれ、と要求する。
このように「差別に対する反対」が日本の労働者の強い要求であり「人間としてあつかえ」ということが労働組合運動の重要な目標であったことは、労働組合の活動家自身の口からも、しばしば語られています。つい先日も『朝日新聞』の「20世紀の軌跡」という連載のなかで、友愛会の婦人活動家であった山内みなさんの話が紹介されていました。ちょっと読んで見ます。
「女工たちが世間の人々からどう見られていたか、山内みなは、『東京市民以下の存在だった』という言葉をよく使った。女工たちがぞろぞろ歩くと、『今日は東京モスリンは休みだ』と、人はさげすみの目で見たという。
『だから演説会では、そのことを必ずいった。女工の問題といえば、まず賃金の問題と思うでしょうが、一番身にこたえていたのはそうじゃなかった』。『社会の人としての待遇を得たい』と演説した。山内の言葉の中には、『女工だって同じ人間だ』の思いがこめられていた。」
その頃の労働組合の機関紙誌を見ると、労働運動の目的は単なる賃金問題ではない、人間の解放の問題だ、という主張がよく出てきます。もちろん労働者が、自分たちが問題にしているのは、賃金ではなく社会の差別だと言ったのを額面どおりに受けとることは出来ないでしょう。賃金だって問題だったに相違ない。実際には、社会的差別と賃金の低さとは同じ問題だったと考えた方がよい。われわれは普段あまり意識せずに使っていますが、賃金など労働条件一般のことを「待遇」と言っています。「待遇改善」というのは「賃上げ」とほとんど同義で使われている。一方、この言葉は、部長待遇、課長待遇といった用例が示すように、地位とか身分とわかち難い内容をもっています。これは、ある意味で象徴的です。賃金が高いか低いかは、単なる経済問題ではなく、その額にその人の人間としての値打ちがかかっている。
これと、どこかで関わっていると思うのは、日本の労働組合の多くが「賃上げ」と同時に、相手の「誠意」ある態度を要求することです。どの会社の団体交渉でも、ごく普通に見られる光景だと思いますが、組合の要求が拒否されたり、要求とあまりにかけ離れた額の回答が出されると、組合側は何というか。「その誠意のない態度は何だ、もっと誠意のある回答を示せ!」とやる。賃上げ額は、いわば相手の誠意のバロメーターとしてあつかわれる。そして相手も、賃上げの余裕があるかないかと言った追及より、誠意の有無でやられる方が存外こたえたりする。もっとも、少し要領のいい経営者になると、組合側の要求にじっと耳を傾け、その要求の正当性も評価した上で、会社の窮状を声涙ともに下るといった態度で訴える。金は少ししか出さず、代りに誠意の大盤振る舞いをする。すると、組合側も存外おとなしく引きさがる、といった結果になる。まだこの他にも、この問題とどこかで関わっていると思われる事実がいくつもあります。たとえば、戦前の日本の大企業にはナニナニ労政と呼ばれた有名な労務管理者がいました。住友の鷲尾勘解治、三井の深川正夫といった人たちですが、彼らは皆んな修養主義、精神主義者になっていく。彼等は労働者との意思疎通を重視するのですが、そこでは論理よりも情緒にたよる傾向が強い。たとえば朝早く、労働者よりも先に出勤して便所掃除をやる。それも、あまり宣伝せず黙々とやる。こういうタイプの人間に一般の労働者は弱い。東大出の法学士で、将来は社長になるかもしれない男が、人のいやがる便所掃除をやる。実に感心なものだ、という訳です。
以上お話ししたことはみな、日本の労働者が、とくに戦前において、彼等のおかれた社会的地位に欝積した不満を持っていたことを示しています。社会全体のなかで、また企業の中でも、自分たちが正当に遇されていないという憤懣が労働者の間で広範に存在しました。それはなぜかといえば、やはり明治維新の変革の性格とかかわっていたと思います。明治維新によって封建的な身分秩序は崩壊した。「四民平等」は単なる建て前でなく、一定の実質をともなっていた。しかし、現実の社会は、文字通りの「平等」を実現した訳ではもちろんなかった。工場や鉱山での労働は、人々が喜んでするというものではなく、経済的な窮迫からやむなく従事するものだったから、一般社会は彼等を「下層社会」として蔑視しがちでした。これについては、例をあげてお話しするまでもないと思います。
労働者は一般社会において差別されただけでなく、経営内でも差別されていました。工場や鉱山では、作業の遂行に必要な職務の序列があります。生産そのものが要求する分業の体系がある。ところで、封建社会における生活体験しかない人びとが、こうした職務の序列を平等な人間相互の関係としてではなく、身分的関係として受け止めることは、ある意味では当たり前のことでした。労働者はその企業内秩序の最下層に位置づけられることになります。
しかし労働者は、これをやむを得ないことだとか、当然のことだとは考えませんでした。この点は、イギリスの労働者階級とは違っています。よく言われることですが、イギリスの労働者階級には「ゼム・アンド・アス」=「奴らと俺たち」という言葉がある。〈奴ら〉とは経営者はもちろん、その手先であるホワイトカラーでもあり、〈俺たち〉はブルーカラー、肉体労働者の仲間です。そこには、労働者階級としての強い連帯感があり「奴ら」は対する烈しい敵対感がある。しかし、同時に労働者の子が労働者であることは当然のことであるとも考えている。もちろん、そこにも明瞭な差別があり、労働者はこれに強い不満を抱いている。ただ同じ「差別に対する不満」といっても、イギリスの労働者の不満と日本の労働者の不満とでは大きな違いがある。
ここで両者の違いとしてとくに問題になるのは、労働者個々人の能力差についての考えです。欧米の労働者の場合は、自分がいかに体力があり技量がすぐれていても、1人だけ残業をしたり、能率をあげることはしない。もしそのようなことをすれば、仲間の仕事を奪い、賃金を切り下げる裏切り者ということになる。「他の連中があぶれないように、ゆっくり仕事をする」というのが当然のことと考えられている。ところが日本の労働者は、能力に違いがあれば、稼ぎに違いが出るのは当然だと考えている。同じ差別反対といっても、日本の場合は能力による差別であれば必ずしもこれを否定しない。日本の労働運動で、出来高賃金反対がなかなか大衆的な目標にならないのも、このためではないでしょうか。
だから、もし企業内での身分格差が、純粋に個々人の能力を反映したものであったなら、労働者の不満もそれほど強くはならなかったでしょう。しかし実際には、企業内の格差、とくに工職格差は、ブルーカラーの労働者にたいへんな不満を抱かせました。どうしてかといえば、それが学歴別であったことによると思います。ご承知のとおり、日本では早くから義務教育が普及しました。小学校では、地主の子供も小作人の子供も机を並べて勉強する。そこでは成績の優劣が評価の基準になる。もちろん、家庭の経済状態は成績にも影響しますが、成績の優劣はそれだけで決まる訳ではない。家が貧しくても、優秀な生徒はいくらもいる。しかし小学校を卒業したところで、家庭の経済状態が大きくものをいいます。家が豊かであれば、中学、高校、大学へと進める。高校、大学を出れば、企業では当然エリート・コースの職員です。中学出は職員にはなっても、多くは下積みで、出世しても係長、課長どまりということになる。家が貧しければ、小学校だけで、すぐ働かなければならない。その場合は、いかに能力があってもなかなか職員にはなれない。こうしたことが、勉強好きで良く出来た子供に、どれほど悔しい思いをさせたかは、今さら申し上げるまでもないでしょう。戦前の労働運動の活動家にはこの悔しさがバネになって、運動に加わった人が少なくない。これらの人々の自伝を読むと、よくわかる。皆一様に言っているのは、小学校の時はいかに良く出来たか、ある者は級長であり、あるいは2番だったという話です。先生は無理をしてでも中学へ行けと言ったけれど、家の事情が許さなかったという。
このあたりから、戦前の日本の労働運動家は、その活動のエネルギーを得ていた場合が少なくないのではないか、と私はそう考えています。日本の労働運動の重要な特色の1つに、きわめて短期間で運動を支える思想がつぎつぎに変化したことがあります。鉄工組合や初期友愛会で基調となったのは、労働者自身が腕をみがき、修養を積むことによって社会的地位を向上させよう、一般社会に受けいれてもらおう、というものでした。ところが、第一次大戦後になると、労働運動は、一般社会に「先ず吾人の人格を認めよ」と要求するようになる。労働者自身の修養も大事だが、それ以上に日本社会そのものが改造されなければならない、改革されなければならないと主張する。労働運動は単なる賃上げ運動ではない、人間解放、社会改造をめざす運動だという主張が強く打ち出されたのは、この頃のことです。「社会改造」の方法として、ギルド社会主義、サンジカリズム、さらにはボルシェビズムが、というように次つぎと新しい思想が受け入れられていきました。そして、1922(大正11)年の総同盟大会では、「我等は労働者階級と資本家階級が両立すべからざることを確信す。我等は労働組合の実力を以て労働者階級の完全なる解放と自由平等の新社会の建設を期す」という綱領を採択するにいたります。「資本と労働の調和」を説き、労資関係を夫婦の間柄になぞらえ、お互の思いやりの必要を説いていた同じ団体とは、とても考えられません。しかも、この間僅かに10年です。この急速な変化は、しばしば、日本の労働者階級の階級意識のめざめとして描かれてきました。そうした側面があることは確かでしょう。しかし、何故このような急速な変化が生じたか、というより生じ得たかといえば、やはり友愛会が労働力の売り手の組織としてはきわめて弱体で、むしろ会員を結びつけていたのは、一般社会の、あるいは企業の、労働者に対する「不当な差別」に対する憤懣だったためではないか、と思われます。「社会的地位向上」と「人格尊重・人間平等」の要求、さらには「労働者階級の解放と自由平等の新社会の建設」という主張の間に、それほど大きな断絶があるとは、労働者自身は意識していなかったのではないか、と思います。
実はこのように考えるのは、単に第一次大戦をはさんだ時期の労働運動思想の推移がこれによって理解しうるというだけでなく、その後の大企業を中心とした工場委員会など労資の意思疎通機関の普及、さらには戦時体制下における労資一体論の登場、さらには第二次大戦後の企業別組合が「工職混合」組織となったことも、この延長線上で考え得ると思うからです。
第一次大戦後のストライキと自主的労働組合のあいつぐ結成に直面した資本家が、「意思疎通機関」の設置で対応したのは、労働者の不満が単なる賃金問題でなく「何物よりも先に人としての待遇を求めている」ことを適確につかんでいたことを示していると思われます。意思疎通機関の設置は、それまでは職工が技術者や職員の一方的な指揮・命令に従うことは当然とみなしていたものを、職工も人間であり、さまざまな不満や要求をもつのは当然であると認めたことを意味していました。工場委員会の委員に選ばれ、経営者側の委員と一堂に会して発言の機会を認められるということは、企業の正式な構成メムバーとして認められたことを実感させたに違いありません。意思疎通機関だけでなく、企業内に養成所を設け、その修了者を職工エリートとして登用するといったやり方もとられます。あるいは、かつては経営者に近い者だけに支給していたボーナスや退職金が平職員にまで、さらには労働者にも、額は僅かですが支給される。その他でも、一部では労働者にも月給制──といっても日給月給ですが──導入されます。さらには、差別感をともなう「職工」という言葉をやめ、工員、工人、技能者、工務員、現業員、技術職といった、さまざまな呼称が生まれます。こうした事例は、労働者の間における「不当な差別」に対する憤懣の広範な存在と、企業経営者がこれをいかに重視したかを示しています。また労働者の不満が、イギリス労働者階級のそれとは異なり、能力による差別を受けいれるものであったことが、職工エリート層の創設といったやり方での「解決」を可能にしたことも見落せません。
さらに1930年代になり、労働者を戦争協力に駆り立てる必要が生じた時に強調されたのが「産業報国」と同時に「労資一体」であったことも、注目されます。この言葉は、国家のために尽くすという点では、労働者も資本家と対等の関係にあることを宣言したものといえます。ここにいたって、労働者は「産業戦士」として、資本家と肩を並べる存在になりました。単位産業報国会は、社長以下、全従業員がその構成メムバーでした。こうしたことが可能であったのは、労働者と職員の間に「奴らと俺たち」といった関係が存在しなかったからであることは明瞭です。
敗戦と占領軍による民主化政策は、労働者の永年の不満をいっきよに爆発させました。民主主義が、労働者にとっては、何よりも経営内での身分制の撤廃の要求となったのも、当然のことでした。大幅賃上げとともに、経営民主化は、生成期の戦後労働組合の中心目標でした。この時に生まれた労働組合が、職場単位の組織であると同時に、工職混合組合となったことは、これまでお話ししてきたような歴史的背景を抜きにしては理解できないのではないかと考えます。
最後の方は、時間に追われて少し駆け足になってしまいましたが、これでひとまず私の話を終わります。
〔附記〕論点をしぼったためにふれ得なかったことがいくつかある。これについては、さしあたり、拙稿「労働者階級の状態と労働運動」(岩波講座『日本歴史』18 近代5、1975年所収)(「第一次大戦前後の労働運動と労使関係」と改題し、本書に所収)を参照いただければ幸である。
初出は法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』No.305、1984年3月。
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