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二村一夫《随筆集》  『さまざまな出会い』

へそ曲がり仲間──大原慧さん

 私が大原さんと初めてお目にかかったのは1956年、労働運動史研究会の準備会時代のことです。歴研大会の後で開かれた全国の労働運動史研究者の交流会の席上でした。春子夫人が作成された年譜では「彼にとっての冬の時代」と記されている時期にあたります。しかし、そのころの大原さんから「冬の時代」といった暗さを感じたことはありません。私が鈍感だったからかも知れませんが、まだ皆若く、それぞれの研究に熱中して、意気軒昂たるものがあったからではないかと思います。

 研究対象が近かったこともあり、また少々「へそまがり」なところがあるのを「同類」と思われたのか、大原さんにはたいへん親しくしていただきました。特に1959年に氏が私の住んでいる中村橋からひとつ隣の駅、富士見台駅の近くに引っ越してこられてからは、しばしばお宅にお邪魔しました。庭付きの広い家での一人住まいでちょっと驚きましたが、猫の番をかねた留守番だとのことでした。何かと理由をつけてはよく押し掛けましたが、とくに労働運動史研究会の名で三一書房から出した『日本労働運動の歴史』の編集作業を一緒にした時のことは忘れがたいものがあります。
 私がお宅を訪ねた時、大原さんはいつも和服姿でした。普段はあまり歳の差など気にせずにいた私も、これにはいくらか世代の違いと同時に育ちの違いを感じさせられたものです。大原さんは「やくざ」を自称していましたが、その育ちの良さは隠せませんでした。

 労働運動史研究会は1957年7月に正式に発足し、2人とも塩田庄兵衛事務局長のもとで「事務局員」になりました。後には運営委員と名を変えましたが、当時は文字通りの雑用係で、研究会の案内状の作成や発送、会場設営、報告のテープおこしなどを分担していました。発会式をかねた第1回研究会の時などは、私が大学院生だった法政大学が会場だったこともあって、椅子運びや水運びに追われ、「幸徳秋水研究の問題点」と題して田中惣五郎、絲屋寿雄、塩田庄兵衛の3先生の報告はほとんど聞けませんでした。「水運び」とは何かと思われるでしょうが、ひどく暑い日だったので生協から氷をもらい大ヤカンに冷水をつくり報告者や参加者にサービスしたのです。しかし、この頃が、労働運動史研究会が最も活力に満ちていた時代だったように思われます。毎月の研究会には数十人が集まり、機関誌も定期的に出ていました。大原さんがお膳立てした松岡荒村および西川光二郎夫人の西川文子さんの「平民社の人びと」を主にしたききとりは今も鮮明に記憶に残っています。

 大原さんと最後に会ったのは1983年の夏でした。たまたまウォーリック大学社会史研究所の所長であったロイドン・ハリソン教授が来日され、慶応大学で「労働貴族論」について報告された時に一緒になり、帰りに2人で大いに飲み、かつ話し合ったのです。大原さんは、間もなくイギリス留学の予定でしたから、私はイギリス体験の先輩として家族全員で外国生活を大いにエンジョイしてくるよう勧め、彼は前から続けている片山潜研究を本にまとめたら、つぎには郷土の先輩でもある北一輝を研究すると、その抱負を語ってくれたのでした。伝記研究に優れた作品の多いイギリスで学んだ後の成果に期待して別れました。ところが、それから1年半ほど後にシェフィールドで客死されたとの知らせをバークレーで聞き、信じがたい思いでした。片山潜についての研究もなかばで、まして北一輝についてはほとんど書き記すことなく世を去ったのは、彼自身さぞや心残りだったことでしょうが、私としても残念無念というほかないところです。



初出は「大原慧さんを偲ぶ会」編『追憶の大原慧』1995年11月
大原慧さんは、1985年2月に、留学先の英国シェフィールドで客死された。享年58歳。






written and edited by nimura, kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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