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《書評》

隅谷 三喜男 編著
『日本労使関係史論』



評者:二村 一夫



 本書は、事実上、隅谷三喜男教授の還暦記念論文集の第1集である。(注1) 
「事実上」というのは、後輩や教え子がそれそれ論文をもちよって先生に献呈するという通常の記念論文集とはちがって、還暦を祝われた隅谷教授を中心に進められた共同研究の成果をとりまとめたものだからである。
 共同研究のテーマは〈日本における労資関係発達史の実証的研究──明治末期より第二次大戦に至る──〉であり、そもそもの意図は、隅谷教授の記念碑的業績『日本賃労働史論』の続きをやる、ただし「一般的な体裁のよい通史をめざすのではなく、手わけをして、まず肝心かなめの場所に日本資本主義の岩盤にまで達する確かな手応えのあるクイを打ち込んでみたい、というにあった」(あとがき)。
 こうして選ばれた「肝心かなめの場所」は次のとおりである。
  第1章 工場法体制と労使関係  隅谷三喜男
  第2章 第一次大戦前後の労資関係──三菱神戸造船所の争議史を中心として  中西洋
  第3章 昭和恐慌下の争議──1932年東京市電気局争議に即して  兵藤氈iつとむ)
  第4章 日本帝国主義の崩壊と「移入朝鮮人」労働者──石炭産業における事例研究  戸塚秀夫
  第5章 戦後労働組合の出発点  山本潔
 はじめの計画では、このほかに「第一次大戦後の労働政策」、第二次大戦下の「戦時労働政策」および「産業報国運動」があったが、担当者の個人的な事情で執筆にいたらなかった。私事にわたるが、評者自身、この共同研究会の一員であったが、途中で急に海外に出張することが決まり、隅谷教授はじめ研究会の他のメンバーの諸氏に御迷惑をかけてしまった。この機会をかりておわびしたい。

 第1章「工場法体制と労使関係」(隅谷)は、「明治四十年代から第一次大戦中に至る期間の労使体制を〈工場法体制〉としてとらえ、そこにおける工場法を中心に労使関係を解明」することを課題としたものである。ここで隅谷教授は、従来の工場法に関する諸研究が、1911年の同法成立をもって考察を終えていること、しかし、1916年の同法施行にいたる経緯の分析もまた重要な意義を持つことを指摘し、主として明治42年法案以後、1916年の工場法施行令の枢密院での再修正にいたる経過とその間における、官僚、経営者の対応を検討されている。
 『日本賃労働史論』で工場法の前身ともいうべき〈職工条例〉について研究され、「社会政策論の再構成」(1965)、「労働保護立法の理論」(1966)の二つの論稿で工場法成立の論理の解明を企てられ、さらに『日本労働運動史料』第3巻で工場法成立・施行に関する諸資料を集めて解説を付されるなど、工場法成立史の研究でも先頭を切ってこられた隅谷教授は、さらに近年における下田平裕身、石井寛治、池田信、籠山京、坂本悠一の諸氏の研究をもふまえ、工場法施行にいたるまでの経緯を詳細にあとづけ、教えられるところが多い。
 しかし率直に言って、この論稿全体については疑問がある。それは、標題にも付され、したがってこの論稿の核心をなすと思われる〈工場法体制〉という規定にかかわっている。教授によれば、〈工場法体制〉とは「工場法によってその時期の労使関係ないし労働問題が、集中的に表現される関係を意味する」という。
 疑問の一つは、〈工場法体制〉と規定される時期が不統一ではないかと思われることである。いま引用した文に続けて、教授は「したがって厳密には大正五年秋以降を指すものである」とされ、また「明治四十年以降は、〈工場法体制〉の形成期と考えてよいであろう」(3ぺ一ジ)とのべられているが、そのすぐ後で「ともあれ、明治四十年代から第一次大戦中にいたる期間の労使体制を〈工場法体制〉としてとらえ」(4ページ)と、形成期であった筈の時期は、いつの間にか〈工場法体制期〉そのものになってしまうのである。さらに、「〈工場法体制〉は成立と同時に変質と解体が進み」(40ページ)と述べられるにいたると、一体〈工場法体制〉期は実際に存在したといえるのかどうかと首をひねらざるを得ないのである。
 これと関連しての疑問は、教授がこの論稿で主として考察の対象にされた「明治四十年代から第一次大戦にいたる時期の」「労使関係ないし労働問題」が「工場法によって」(実際には工場法の成立・施行に対する官僚、経営者の動向によって)「集中的に表現される関係」にあったといえるのかどうかである。 もし、そうであるならば、この時期の労使関係は工場法制定、施行の経緯を追求することで集中的に解明しうる、ということになるが、果してそうであろうか。結局、問題は〈工場法体制〉という概念が、あるいは〈工場法体制〉という概念を用いることの意義が、評者には理解し難いということである。
 最後にもう一点、教授は「工場法自体が〈主従の情誼〉と一体のものとして、労使関係の新たな体制の一環に位置付けられた」と主張されている。しかし、そこでは岡商工局長の講演の一節が引かれているだけで、この主張の裏づけは示されていない。評者自身は工場法の施行が、労働者の権利意識を育てる一つの大きな契機となったと考えており、工場法の施行によって「今や〈主従関係〉は労使関係の基底として不動の地位を確立した」(38ベージ)とされるのには、もう一つ納得しがたい点が残る。



 第2章「第一次大戦前後の労資関係」(中西)は、力作揃いの本書中にあって、なお質量ともに文字通りの圧巻である。これはある意味では当然で、本章は今回の共同研究の成果というより、中西氏が長年にわたって資料を収集し、研究史の総括によって方法をみがきあげながら進めている、壮大な、しかし、これ迄のところは、まだその第l期〈幕営時代〉しか発表されていない未完の研究プラン『日本における労資関係の発達──三菱資本と重工業労働者──』(注2)の第6期にあたる部分で、まさに待望ひさしい第2弾だからである。
 本稿は、その副題が示すように、三菱神戸造船所という一経営を対象に、1906年から1919年までの間に発生した6つの労働争議の分析を通して、第1次大戦前後における日本の労資関係の特質の解明を企てたものである。
はじめに、「分析観点と方法」が提示される。そこでは、日本の労資関係の〈変動のフシ〉としての戦争の意義が指摘され、分析の課題は通常のように〈……戦〉でなく〈……戦前後〉であるべきことが強調される。第2に一経営の争議史を対象として日本の労資関係にアプローチすることの「積極的な方法上の含意」がのべられる。この部分は、従来中西氏が何回か別稿で論じてきたことであるためか、いささか簡単に過ぎ、はじめての読者にはその意図が充分つかみ難いのではないかと思われる。本稿(注2)の2論文、あるいは「日本における〈社会政策〉=〈労働問題〉研究の現地点──方法史的批判(3)」(『経済学論集」第37巻第3号)、とりわけその90〜93ページの参照をすすめたい。
 第1節の「〈第一次大戦前後〉の労資関係の概括」では、まず(a)「重工業における三菱資本」、(b)「三菱における労務政策体系」が簡潔に描かれたのち、(c)「三菱神戸における労資関係基礎指標」として、生産実績・賃金水準・労働市場に関する指標が図表によって示され、同所における労資関係の推移が概観される。なおここにあげられ一旋盤工の〈賃格〔Wage‐rate〕プロファイル〉(1905−1945年)によって、氏は、賃金決定が「わが国においては、職工個々人の技倆と彼の企業への貢献度に対する管理者の個別的且つ随時的評価を通して行われていた実況を明示すると共に、〈減給〉=賃金切下げという調整方法は──景気の極端な萎縮、労働市場における完全な買手市場の実現という事態のもとでも──決して用いられることがなかった」という事実を指摘している。一職工の事例で「わが国においては」と一般化できるかどうかは疑問だが(もっとも随所に見られるこの種の明快な断定は中西論文にいわば中西ブシともいうべき一種の魅力をもたらしているのであるが)、興味ある事実である。ついで、(d)「三菱神戸における労資紛争の画期」では、第2次大戦前に同所で生起した8つの労資紛争が、i)沈滞期、ii)高揚期、iii)再編期、iv)全面的抑圧期の4段階に区分され、本稿では、沈滞期および高揚期がとりあつかわれることが予告される。
 ここからが、いよいよ本論で、〈沈滞期〉の労資紛争、〈高揚期〉の労資紛争のそれぞれについてまず「情況」として、a)経営の概況と労務管理体制、b)労働市場状況と労働者構成、c)労働運動と社会情勢、が示されたあと、各期それぞれ3つの争議が、i)争点、ii)行動、iii)結未、iv)意義、の4点について分析される。
 〈沈滞期〉の争議としてとりあげられるのは、1909年の鉄工職同盟休業、1913年の第二機械工場同盟休業、1916年の鉄工職鋲打一部同盟休業である。〈高揚期〉についても同様であるが、それぞれの争議は主として神戸造船所から本社造船部長に宛てられた書簡やそれに附された文書を主たる材料としているだけに、一般の新聞記事などでは容易に把握しがたい背後の事情まで明らかにされている。ここではとうてい一つ一つの争議の分析まで紹介することはできないが、〈沈滞期〉とされる1916年以前の争議のいわば総括規定を紹介しておこう。

「当面する時期の労資紛争の中心主題が、この重工業企業の中で、(a)近代的な工場編成原理に最もなじみやすい機械工場においては新鋭技術者と職工達との間で、そして他方、(b)最も非工場的な作業編成を余儀なくされる船台上の鋲打工程では古参の小頭と職工達との間て争われることになったという対抗の新旧二様の図式を指摘ぜざるを得ない。これらの争点の当事者たる第一線経営管理者のビヘイヴィアは、この相違に従って、一方では近代的画一的であり、他方では属人的差別的であったと考えられる。」 だが、第一次大戦、「そして1915年後半期から始まる経済の急速な拡大開始にも拘らず、労資紛争の質は1916年までは、ほぼ〈大戦以前〉的質のものに止まっていた。

 〈高揚期〉の労資紛争では〈沈滞期〉と同じくまず情況が概観されたあと、1917年の轆轤職ほか各工場同盟罷業未遂、1918年造罐職ほか同盟罷業・暴動、1919年諸工場職工動揺・怠業の3つが分析される。ここで、当然のことながら、各争議は決して単発のものではなく「一連続の因果連関をもつもの」であることが次第に解明されていく。その連関のなかで重要な役割を担うのは友愛会兵庫支部、なかでも新型熟練職種たる機械工メムバーによる労働組合化をめざす動きであり、三菱資本はこれに受動的対応を余儀なくされ、「主従的家族主義」から「労資協調主義」ヘとその労資関係理念は推転する。
 中西氏がここでとりあげた重工業における労資関係の発展については、われわれはすでに兵藤つとむ、池田信氏によるすぐれた研究を有している。(注3)ともに、三菱神戸造船所をも含む重工業全体を対象とし、1880年代から1920年代までをカヴァーした労作である。本章は三菱神戸造船所という一経営を対象に、時期的にも1906年から1919年という十数年間を限ったモノグラフではあるが、日本の労資関係の歴史的特質の究明という面では、明らかに両書をこえている。この成果は、何よりもはっきりした問題意識と鋭い方法によるものといえよう。ただ、欲をいえは〈幕営時代〉をあつかった論文ほどには、資本・労働ともに、その特質、とくに変化・発展を貫くいわば〈日本的〉特質がもう一つ鮮明ではないうらみがある。(注4)

 第3章「昭和恐慌下の争議」(兵藤)もまた、第2章と同じく、一経営体の労働争議に焦点をしぼった事例研究である。周知のように昭和恐慌下の争議といえば、中小企業を基盤とするものが多かったのであるが、「はじめに」で、筆者は課題を「大企業の労働争議の事例研究」に限定し、その上で1930年〜32年の主要争議の一覧表から、紡績業・石炭業を「第一次大戦以来労働者の中枢部分としての地位を高めてきた都市の男子労働者にかかわるものではなかったことを考慮にいれて対象からはずす」。
ついで「住友製鋼所・芝浦製作所などの機械金属部門における争議」が「民間大企業における争議という点では恰好の素材をなしているが、資料的な制約もあるので」落とされ、結局、「昭和恐慌下に頻発した都市公営企業争議の代表的なもの」で総同盟や全労が「〈大右翼〉の形戎に向った時期に発生したという意味で注目すべき」1932年の東京市電争議に対象を設定する。
そこでの狙いは、「この争議の特異性のうちにひそむ歴史的必然性を解明しうるならば、昭和恐慌下における労資対抗の様相にその特異な位置から逆に照明をあてる素材となりうるように思われる」ことであった。
 まず、1「第一次大戦後の電気局労使関係」で、32年争議に先だつ、東京市電の労使関係が概観され、1919年末から20年にかけての3度の争議、さらに1929年12月と30年4月のストを通して、当局に育成された従業員団体が次第に労働組合化し、〈ストライキ・ユニオン〉の方向へ歩み始めたことが、もう一方の当事者である電気局の「責任倫理に欠けた経営体質」とともに指摘される。
 2「交総ゼネスト計画とその挫折」では、軌道事業の斜陽化に加え、恐慌の影響で経営が悪化した電気局が、人件費削減方針をうちだしたのに対し、東交(東京交通労働組合)が加盟する交総(日本交通労働総聯盟)が計画した全国的ゼネストが挫折するにいたるまでを、組合内の左右対立、とくに全協傘下の東交革反派(革命的反対派)の動きを中心に描いている。
 3「更生案をめぐる争議と強制調停」は、本論文の中心部分で、人員整理・賞与・手当の削減を中心とする「更生案」をめぐる争議の過程が、発端からスト突入直前に「労働争議調停法制定以来初の強制調停の発動によって」幕をとじる迄の経過が詳しく述べられる。
 4「東交の方向転換」は、32年争議の敗北を契機として生まれた「組合分裂の危機回避の過程を通じて」、東交が「〈ストライキ・ユニオン〉から団体協約を求める組合へと方向転換を遂げ」る経緯がのべられ、最後に「結び」で32年争議の歴史的意味が検討される。
 この論文は、これまで何回か「立ちおくれ」が指摘されながらも概説的研究が主であった1930年代初頭の労働運動史にまっこうから取り組み、しかもこの期の運動に重要な地位を占めた東交の運動を詳しくあとづけた仕事として貴重である。しかし、筆者が意図した「この争議の特異性のうちにひそむ歴史的必然性の解明」という点では成功したとは言い難いように思われる。そもそも、この争議が、いかなる意味で「特異」であったのか、必ずしも明らかでない。また、兵藤氏は、東交革反派の活動を細かに追い、全協が〈大衆的独立反対派〉の形成をテコとして、「改良主義組合」のうちにその右翼化に抗する大衆的闘争組織を生み出した事実をあげ、「単純に〈社会ファシズム論〉にもとづく全協の〈セクト的非合法主義〉が組合間の統一行動を阻害したことのみを強調すること」(下線原文)に疑問を呈されている。これは、それ自体重要な指摘ではあるが、「特異性のうちにひそむ歴史的必然性を解明」するという課題からすれば、何故東交が革反派の拠点となり得たのか、もっとつっこんで明らかにしてほしかった。なお、交総の革反派のセクト主義に関しては、大阪交通労働組合編『大交史』(労働旬報仕、1968年)に、ある程度具体的な問題をふまえた評価があり、この問題を論ずるのであれば、これに言及し、検討を加える必要があったのではなかろうか。

 第4章「日本帝国主義の崩壊と〈移入朝鮮人〉労働者」(戸塚)は、第二次大戦中に「移入」された朝鮮人労働者が、日本帝国主義の崩壊過程に如何に主体的にかかわったかを、北炭夕張に焦点をあわせて検討したものである。戸塚氏のはじめの意図は、日本の戦後危機の形成・展開過程で、「移入朝鮮人」が先進的役割を果したという氏の仮説(注5)を実証的に吟味することであった。北炭夕張が選ばれたのは、同鉱業所が戦時日本の石炭産業における重要拠点であった上に、戦争末期には7000人もの「移入朝鮮人」労働者(実に在籍労働者の6割)を集積していたこと、さらに戦時中に帰国要求のストライキ、武装闘争が組織されたという証言があり、戦後も朝鮮人労働組合が組織されたこと等によるものであった。
 戸塚氏は、2「北炭夕張における〈移入朝鮮人〉労働者の状態」、3「北炭夕張における〈移入朝鮮人〉労働者の運動」で、北炭の所蔵する豊富な業務記録を主たる資料にし、さらに当時の労務管理者や「移入」された朝鮮人からの〈ききとり〉で補いながら、1939年の「集団移入」開始から、敗戦後の1945年10月の大衆的ストライキと朝鮮人労働組合の結成にいたる〈移入朝鮮人〉労働者の生活と行動を見事に描いている。
 そこで明らかにされたのは、北炭夕張では、「大量の朝鮮人労働者が集積されながら、戦時中にさしたる抵抗闘争がおきなかったばかりでなく、終戦後においても一旦ほとばしりはしめた朝鮮人労働者の抵抗のエネルギーは、多分に会社組合的な朝鮮人労働組合のリーダーシップのもとに収拾されてしまう」ということであった。
 一体、何故そうなったのか、これが4「〈移入朝鮮人〉労働者の動向規定要因」で検討される。第1の要因は、北炭夕張の労務担当者が追求した「皇民化」教育と家族主義的労務管理の〈成功〉であった。第2は、これを背後から支えた警察権力(戦後は占領軍)による取締りであった。ちょっと横道にそれるが、この分析を読んで思い浮べたのは、藤田省三氏が『天皇制国家の支配原理』の冒頭の注で、「天皇制支配原理の見事な要約」として引用していた石炭統制会坂田進の朝鮮人労務管理に関する論文中の一句である。曰く、「朝鮮労務者に臨むに厳父としての務めは政府の力を以てし慈母としての務めは労務管理者が徹底的に力を致す」。何と見事に事態を表現していることか。第3に、朝鮮人労働者の主体的問題が検討され、その教育・文化水準の低さが日本帝国主義の朝鮮統治の〈成果〉として把握される。
 こうして、最後に戸塚氏は、かねて提示していた〈移入朝鮮人〉労働者が戦後危機の形成展開過程で果した先進的な歴史的役割についての仮説的命題を実証するには、北炭夕張は適切な対象ではなかったこと、またさらに、北炭夕張が〈移入朝鮮人〉労働者問題でもっていた比重を考えると、この仮説的命題そのものが一定の限界を持つことを率直に承認される。
 以上見たとおり、戸塚論文は、仮説を実証するという限りでは成功しなかった。しかし、それはこの論文が不成功に終ったことを少しも意味しない。むしろ、これによって〈移入朝鮮人〉問題のもつ拡がりと深さが浮きぼりにされたといえよう。その拡がりは、単に〈移入朝鮮人〉に限らない。前掲書の同じ箇所で藤田省三氏が指摘しているように、「『皇国臣民』に鍛造すべき対象として体制に自覚されている朝鮮人に対するもの」(下線は原文傍点)は、それだけ「一層明瞭に天皇制ファシズムの支配原理を自己表白する」ものであるから、ここに活写された〈移入朝鮮人〉労働者に対する管理のありようは、日本人労働者に対するそれと異質のものではなかったと思われる。
 この点に関連してもう一歩つっこんで検討してほしかったのは、「戦前の国是を前提とする限り、極めて良心的な、極めて巧妙な管理」、あるいは「精神主義的・訓育的管理」を担った労務管理者たちが北炭夕張に存在していた背景についてである。 この点に戸塚氏はふれていないが、夕張は足尾とならんで、明治の大日本労働至誠会以来、長い労働運動の伝統をもち、第一次大戦後も全国坑夫組合、全日本鉱夫総聯合会の一大拠点であった。〈移入朝鮮人〉管理を担当した労務管理者たち、またその労務管理諸方策はこれに対抗して生まれたものであった。たとえば〈移入朝鮮人〉の管理方針策定の中心にいた北炭本店労務課長前田一は、明らかにその一人である。戸塚氏は、「北炭労務課は朝鮮人労働組合が北炭の他の鉱業所の〈移入朝鮮人〉とも連絡をとらぬよう指導していた」事実を述べているが、この横のつながりを断つことは、「会社組合」の「理論家」前田一の強調した点であった。
 なお、前田は、各社の労務管理を特徴づけ、三井は「福祉施設的労務管理」、三菱は「警察的労務管理」、北炭は「精神修養一点張り」とのべていること(注6)を紹介しておきたい。

 第5章「戦後労働組合の出発点」(山本)は、第二次大戦後の労働組合に関する最初の実証的研究として高く評価されている東大社研の『戦後労働組合の実態」(注7)を、その調査原票にたちかえって再検討したものである。再検討のポイントは2つで、第1は組合結成の「中心人物」の性格、第2は組合結成の動機である。
 第1の点に関してまず問題とされるのは、戦後の労働組合と戦前の労働運動との関連である。『戦後労働組合の実態』(以下『実態」と略称)は、「結成中心人物の労働運動の経歴の有無」を問い、回答者1694名のうち、戦前の労働運動の経歴を持つ者が168名(9.9%)にすぎなかったことから、「一般に、戦後の労働組合が戦前の労働組合運動の経験と一応無関係に結成された」と分析していた。
 この結論は、この調査の主宰者であった大河内一男氏によって、戦後の組合結成は「すべて、いわゆる新人」によってなされたと主張され、この「見解が通説として流布した」。
 これに対し、山本氏は、「決定的に重要なことは、一組合に一人でも運動経験者がいたか否かである」として、調査原票の再集計によって、「調査412組合中で、戦前における〈労働運動経歴〉のあるリーダーを中心として結成された組合は113組合、27.4%となっている。(中略)しかも、規模別にみると、大規模組合ほど戦前の労働運動との継承関係は強く、1,000人以上規模の大組合には35.8%、3分の1以上が戦前の運動経験者を中心として組織されている」、とくに「戦後の組合結成の動向をリードした初期に結成された組合では戦前の運動経験者のはたした役割は決定的」であったことを明らかにしている。
 問題点の第2、組合結成の「動機」について、『実態』はその調査結果として「大勢に順応して」結成された組合が61.3%を占め、「要求を出すため」に結成されたもの34.8%をはるかに上まわっていることを示していた。
 山本氏は、この調査結果にもとづいて大河内一男氏がくだした、次のような評価を問題にする。すなわち、大河内氏は、戦後の労働組合の急速な結成は労働組合に好意的な「占領政策」によるもので、「日本人の事大思想」が、労働者に労働組合への「積極的参加」が「時流」に乗った「安全な」「賢明な」生活態度であることをさとらしめた。
 これに対し、山本氏は、組合の結成時期別に『実態』の調査原票を再整理することによって、1945年10月、11月には「要求を出すため」に結成された組合が70%前後、「大勢に順応して」が20%前後であったが、46年2月以降、両者の比率は逆転することを明らかにし、次のように結論する。
 「大勢に順応」の大勢は、はじめに「要求を出し」て闘争した日本の労働者階級自身によって作られたもので、「日本人の事大思想」が占領政策に迎合して組合結成にはしらせたという主張は誤りであると。
 以上の分析をふまえて、山本氏は、組合結成の中心人物の性格について、さらにつっこんだ検討を加えている。ここでも『実態』が「結成中心人物」全体を問題にしているのに対し、山本氏は「労働運動の経歴」がある者の果した役割を重視して、これを摘出して再集計する。その結果得られたのは『実態』が、「結成中心人物」の性格を「一般的にいえば年齢31〜40歳、勤続5〜10年、学歴高小卒中卒程度の中堅の職員および役付工員が主体であった」と要約しているのは改められる必要があり、「年齢40歳以上、勤続15年以上、学歴高小卒ないし中卒程度の層が」「組合結成の指導者層」を構成したとする。さらに山本氏は、「結成中心人物」の「労働運動の経歴」の内容について、世代論的考察を加え、最後に、戦後の運動で重要な地位を占めた5つの単組をとりあげ、いずれの場合も、戦前の「労働運動の経歴」のある者が指導的役割を果したことを明らかにしている。
 山本氏による『実態』の再検討は、まことに明快で、その結論は説得的である。ただ、運動径験の「世代論的方法」による分析は興味深い試みではあるが、データ不足は否めず、また5年きざみで世代の差を論ずるのは、いささか機械的に過ぎるのではないか。


 最後に、本書全体の問題について若干ふれておきたい。おそらく、多くの読者は、章別構成が時代順であるにもかかわらず、本書から日本の労使関係の変遷についての全体象を把握することが困難であるとの不満をもたれるのではないかと思う。その一つの理由は、当初のプランにあった「第一次大戦後の労働政策」、「戦時労働政策」、「産業報国運動」の3章が未完に終ったためであろう。ただ、もともと、この共同研究が「体裁のよい通史」をめざすものでなかったことを考えると、これは当然の結果といえよう。
 また共同研究とはいっても、参加者の多くが、以前からすすめてきた自己の研究テーマにひきつけて対象を設定しており、それだけに「共同研究」としては、何となくまとまりが悪いと感じられるのかも知れない。
 しかし、注意深く読んでいくと、一見多様なテーマでありながら、そこに共通するものを見出すことが出来る。それは、筆者の多くが、一経営を対象として労資関係を分析する、とくに労資紛争を手がかりに問題にアプローチするという方法をとっていることである。第1章、第5章はこの点異っているが、山本氏の場合は、その研究プラン全体を見ると、読売争議、東芝争議など戦後の主要争議の事例研究を中心にして、戦後労働運動史を再検討する作業に精力的にとり組んでおり、第5章はその一環としてとりあげられているのである(注8)
 実は評者自身、かつて、戦前期の日本労働運動史に関する文献のサーヴェイで、「一経営を対象に、その資本蓄積の運動にともなって変化する労資関係の具体的な存在様式を解明」すべきであると主張したことがある(注9)。本書によって、その提唱が誤りではなかったことを知り、まことに喜ばしい。
 とくに、第2章は労資関係史研究において一経営を対象とする争議の事例研究が如何になさるべきかについて、方法的に学ぶべきところが多い。また、第4章も経営を対象とする事例研究がもつメリットを充分に明らかにしている。もし、この研究が〈移入朝鮮人〉労働者全般を対象にすすめられていたならば、筆者は、あらかじめ抱いていた仮説に適合する多くの事例を発見しえたであろう。だが、その場合、そのようにして「実証」された命題と現実との乖離は、ついに認識されることなく終ったに相違ない。 ところで、一経営を対象とする事例研究での大きな隘路に、企業内資料の利用が容易でないことがある。しかし、本書は、この隘路が決して乗りこえ得ないものではないことを明らかにしている。できれば、ここで用いられた経営内資料が、広く一般に公開されることを望みたい。

 書評の結びがとんだお願いになってしまったが、お願いついでにもう一つ、『日本労働運動史料』編集のために集められた諸資料も、どこか1カ所で閲覧できるようにならないものであろうか。隅谷教授はじめ関係者の配慮をわずらわしたい。




【注】

1)  第2集にあたるのは、隅谷三喜男編著『労使関係の国際比較』(1978年3月刊)、第3集は同「現代日本労働問題」(未刊)でともに東京大学出版会刊。

2) 〈幕営時代〉については「日本における重工業経営の生成過程──幕営長崎製鉄所とその“労資”関係」として『経済学論集』第35巻第1号〜第3号(1969年5月〜10月)に発表されている。なお、研究プラン全体の構想については「日本における労資関係発達史の研究状況」(『経済学論集』第37巻第4号、1972年1月)142ページ参照。

3) 兵藤[つとむ]『日本における労資関係の展開』(束京大学出版会、1971年)。池田信『日本機械工組合成立史論』(日本評論杜、1970年)。

4) なお、本章については、池田信氏が「研究動向……労使関係論 8 労働運動史」(『季刊労働法」第106号、1977年12月)でコメントを加えている。

5) 詳しくは、戸塚秀夫「戦後日本の労働改革」(東京大学杜会科学研究所編『戦後改革 5 労働改革』1974年、東京大学出版会)を参照されたい。

6) 中村隆英、伊藤隆、原朗編『現代史を創る人びと 1』(毎日新聞社、1971年)135ページ参照。

7) 東京大学社会科学研究所編『戦後労働組合の実態』(1947年8月調査、1950年、日本評論社刊)、のち本文のみ、大河内一男編『労働組合の生成と組織』として1956年、東京大学出版会より再刊。

8) 山本潔『戦後危機における労働運動──戦後労働運動史論──第1巻』(御茶の水書房、1977年)参照。

9)二村一夫「労働運動史(戦前期)」(労働問題文献研究会編『文献研究・日本の労働問題《増補版》』総合労働研究所、1971年所収)。

 


隅谷三喜男編著『日本労使関係史論』、東京大学出版会、1977年、A5判ix+310ページ、ISBN3036-51122-5149)

初出は『経済学論集』第44巻第3号、1978年年10月、1997年10月16日一部の記号、語句を訂正。




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