横山源之助の名は、彼の代表作『日本の下層社会』とともに広く知られている。日本資本主義の発達を論じた著作において、また、日本の労働者階級の歴史を描いた書物のなかで、彼は「歴史の証人」としてしばしば登場し、その作品は逸することのできない「目撃者の証言」として、くりかえし引用されている。 かつて有斐閣のPR誌『書斎の窓』が「わが国経済学の先駆者達」と題する連載特集を組んだ時、多くの著名な大学教授連にまじって横山が選ばれた事実が示すように、彼に対する評価は高い。にもかかわらず、横山源之助その人について、われわれの知るところはあまり多くはなかった。前記の特集で「横山小伝」の筆者であった西田長寿氏の文字通りの労作「横山源之助著『日本之下層社会』の成立──その書史的考証」(『歴史学研究』1953年1月号)のほかは、横山の作品が刊行された際の解題的な小論がいくつかあるだけであった。
本書は、この著名な、しかし謎に包まれたところの少なくない人物についての、最初の本格的な評伝である。源之助と同郷の、富山県魚津出身の筆者が、学生時代からただひたすらに、この一人の男の生涯を追い続けてきた執念の結晶であり、二十数年間の蓄積の重みを感じさせる書物である。
まず、その構成を見よう。まえがき、あとがきを別に、つぎの8章から成っている。
1) 米騒動の浜辺で──生い立ち
2) 二葉亭四迷の門へ──青春・放浪時代
3) 下層社会ルポ作家としての出発
4) 開幕期労働運動と横山源之助
5) 過労にたおる──帰郷
6) 労働運動への復帰──右派労働運動の旗挙とその潰滅
7) 後半生の横山源之助──後期作品管見『日本の下層社会』以後
以下、章を追って紹介し、若干のコメントを加えたい。
第一章「生い立ち」
書き出しから印象的である。筆者が「評伝文学にと、いささかならず心をおいた」と自負されるだけのことはある。この章のテーマは、彼の出生にまつわる秘密──実父母は名前さえ不明、わかっているのは彼が魚津の網元とその家で働いていた下女の子であったことだけ──が、その人生に暗い翳をなげ、同時に〈しいたげられた者への味方〉としての生涯を決定づけたことである。
また養父が腕のよい左官であったことが、源之助の働く者への愛着、とくに職人層への強い親近感の背景にあったことが説き明かされている。
第二章
地方出の一法律書生が、弁護士試験の失敗もあって、文学と社会問題に惹かれていく過程を縦糸に、二葉亭四迷を中心に松原岩五郎、内田魯庵、それに川島浪速らとの交友を横糸として、その青春・放浪時代が横山自身の筆を通じて描かれる。実はこの「横山自身の筆で描く」手法は、この本の一つの特徴である。時には数ページにわたって、また時には向じ文章が二度、三度と使われている。
引用の多い文章はえてして読みづらいものだが、この本はそうした点をあまり感じさせない。むしろ横山のように、その全作品に目を通すことさえ容易でない人物の評伝では、引用が多いことはむしろ長所になつている。読者はここで初めて提供される豊富なデータをもとに、各自の〈横山像〉を心に描きながら読み進むことができるからである。
横山の作品は、主として新聞や有名無名の雑誌に発表され、今では簡単に見ることができない。7、8年前に刊行され始めた『横山源之助全集』が完結していれば事態はちがったろうが、2巻が出ただけで出版社は、雲散霧消してしまった。何とはなしに、横山の薄幸がその死後もついてまわっているかと思わせるような出来事であった。
閑話休題。
第二章では二葉亭の影響が強調されている。これは事実その通りであろう。ただここでもう一歩ふみ込んで追究してほしかったのは民友社とのかかわりである。より具体的にいえば、『国民之友』の酒井雄三郎のコーロッパ通信の影響である。横山が二葉亭を回想しつつ自らを語った一節は、この点を暗示しているのではないか。曰く
「当時社会主義者などといふ者が、未だ現はれず、偶々『国民之友』に社会問題に関する二、三の論文が掲載された位が関の山、混沌たるものであったが、空想に憧れていた当時の僕は、逆に独逸(どいつ)や白耳義(べるぎー)の社会運動を想像して、窃に労働者の救済を以て任じてゐた」。
酒井がべルリンで開かれる列国労働問題会議について報じ、また第一回メーデーについて通信したのは1890年のこと、さらに翌年にはブリュッセルから、ベルギーのゼネストを報じている。これらの報道に横山が強い関心を抱いていたことは明瞭で、それに影響をうけなかったとは思えない。つまり、二葉亭に会う前に、横山は『国民之友』によって、その社会問題に対する関心をかき立てられていたのではないか。二葉亭、松原岩五郎、嵯峨の舎御室、内田魯庵の面々は、いずれも『国民之友』を舞台に活躍していた。源之助が彼等を知ったのも『国民之友」を通じてではなかったか。
第三章
この章では横山の「下層社会ルポ作家」としての業績が検討され、また島田三郎との微妙な関係や、樋口一葉をめぐる斎藤緑雨との〈さやあて〉が描かれる。源之助の人柄をうかがわせる材料が豊富に盛りこまれており、興味探い。
第四章
ここでは第六章とともに、横山と労働運動との密接な関係が論じられる。横山が、高野房太郎や片山潜とならぶ開幕期労働運勤の中心的な担い手であったことが強調されている。横山源之助を何よりも〈労働運動者〉と規定すること、これこそ筆者が最も力をこめて主張するところであり、下層社会の記録者という従来の〈横山像〉に修正を迫る点である。労働組合期成会の機関紙的存在であった『労働世界』にとって、横山が、単なる寄稿家という以上の関係にあったことは、すでに西田長寿氏によって指摘されていた。しかし、彼が同紙の「編集部の黒衣」であり、「家庭欄」の創設にあたり、内田魯庵らを執筆陣に組織したことなどは、本書ではじめて明らかにされた事実である。横山が、従来知られていた以上に、運動にコミットしていたこと、これが横山を正しく理解する上で重要なポイントであることは、この本で改めて教えられた点である。
ただ筆者は、この新しい論点を強調するあまり、横山の運動上での役割をいささか過大に評価しているのではないか。またそのことが、文筆家としての横山をいささか過小に評価することになったのではないか。たとえば、筆者は彼を「労働運動イデオローグの最高峰に立ったといえる」と位置づけ、横山の著書「『内地雑居後の日本』は、社会主義を日本的風土に適応しようとした最初の書であったろう」と評価されている。しかし、こうした主張をされるには、『内地雑居後の日本』の内容についての検討が不可欠であり、その上で、これを高野、片山、幸徳らの著作と比較検討する作業が必要であろう。
実のところ評者には、横山がどのような社会主義の理論をもち、これをいかに「日本的風上に適応」しようとしていたのか、よくわからない。『内地雑居後の日本』をよめば、彼が労働組合の結成をよびかけ、普通選挙権を要求し、社会主義を支持していたことは明瞭である。しかし彼がどのような社会主義を構想していたのか、そこでは全く不明である。その労働組合論にしても、高野や、片山をしのぐ独自の理論もっていたとは思えない。
私は、横山を「労働運動イデオローグの最高峰に立った」人物と見るより、彼自身が『労働世界』に寄せた文章で、自らの「資格を明らか」にするとして述べた一句、「余は今日日本の労働運動に就きては全く局外者なり常に下層社会を研究し居る一書生のみ」という自己規定の方が、はるかに横山の実像に近いのではないかと考える。
また、横山源之助の作品が今なお生命を保っているのは、彼が鋭い人間社会の観察者であり、その観察したところを生き生きと表現する筆力、構成力をもっていたからであることは、明白である。立花氏が、横山源之助を労働運動者として総括したこは、彼のこの側面を結果的にいくらか軽視することになったのではないか。とりわけ、横山の人物評論について「才能の乱費」であった、と片づけてしまうことは疑問がある。
以上、この労作を熟読して抱いた疑問を主として記してきた。しかし実際は、疑問よりは、はるかに多くを教えられたのであり、本書が横山源之助研究としてはいうまでもなく、労働運動史研究の上でも必読の書となることは疑いない。
立花雄一『評伝 横山源之助──底辺社会・文学・労働運動』、
創樹社、1979年4月刊行、278頁
初出は、『法政』302号、1980年5月。ただし、1997年9月30日、ホームページへの掲載にあたり部分的に修正した。
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