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大阪労働学校の人びと



二村 一夫



1 はじめに

 今からちょうど60年前、1922年(大正11年)6月1日、ここ大阪に1つの学校が生まれました。名前を大阪労働学校といいます。おそらくこの名を御存知の方は少ないでしょう。それも当然で、この学校は16年間しか続きませんでした。しかも学生数は多い時で50〜60人、少ない時には20人程度の小さな学校で、それも月水金の週3回、夜7時から9時までの夜学でした。16年間で45期の間の入学者の延べ数は2000人余り、延修了者は約1300人でした。2学期で卒業でしたが、中には4学期も5学期も続けて受講した人がいますから、実際にこの学校を卒業した人数は500人前後だったと思います。
 しかし、この小さな学校は日本の教育の歴史、とくに労働者教育の歴史のなかでは、かなり大きな存在です。1920年代、大正から昭和の初めにかけては、大阪の他にも、東京、横浜、川崎、川口、京都、尼崎、神戸、岡山など全国各地に30を越える労働学校が生まれました。しかし会社が作った養成所や政府や地方自治体が経営した労働学校ではない、いわゆる「独立労働者教育」を目ざした学校で10年以上続いたのは東京と大阪だけでした。
 さらに大阪労働学校で注目されるのは、その教授陣です。この学校のキャッチフレーズのひとつは「ブルジョアに大学あり、プロレタリアは労働学校へ」というのでしたが、ここの教壇に立った先生の顔ぶれは大学に勝るとも劣るものではありませんでした。その一端は、この学校の講師の中から7人もの大学総長が生まれたことからもうかがえます。法政大学の大内兵衛、同志社大学の住谷悦治、関西大学の岩崎卯一、広島大学の森戸辰男、愛知大学の小岩井浄、早稲田大学の阿部賢一、長崎大学の具島兼三郎といった方々は皆ここの先生でした。
 その他、学者では高野岩三郎、櫛田民蔵、久留問鮫造(以上経済学)、新明正道(社会学)、中島重(政治学)、運動家では細迫兼光、河野密、河上丈太郎、杉山元治郎、弁護士では田万清臣、色川幸太郎、ジャーナリストでは笠信大郎、尾崎秀実、阪本勝など、その中からは後の文部大臣あり、最高裁判事あり、県知事ありと、まことに多士済々です。別に大学総長や大臣だから偉いというつもりはありませんが、大阪労働学校の教授陣が多くのすぐれた人々を擁していたことは確かです。

 第3に、この学校で学んだ学生は、数は多くはありませんが、日本の労働運動の重要な担い手になりました。講師もふくめると、この学校の関係者の中から20人を越える国会議員が出ていることの中に、その影響力の大きさが示されていると思います。党派的には民社党から共産党まで、その中から3人の委員長(河上丈太郎、西尾末広、西村栄一)が出ました。ここでは、その多くの関係者の中から、労働学校で中心的な役割を果した人を数人選び、その人びとを通して大阪労働学校の歩みを明らかにしてみたいと思います。


2.賀川豊彦

 大阪労働学校創立の中心となったのは賀川豊彦です。その他にも大阪毎日の記者の村島帰之、総同盟大阪連合会の西尾末広も熱心でした。しかし、学校の創立基金として当時の金で5000円、今なら2500万円にもあたる大金を出し、初代の校長となり、創設期の大阪労働学校の性格を決めたのは賀川でした。ご承知のように彼はキリスト教の宣教師です。21蔵の時、賀川は神戸神学絞に在学中でしたが、神戸のスラム街に住み込み、貧しい人々と起居をともにしながら伝道にあたりました。彼がこうした行動に出た背景には、結核のため自分の命はあと2年しかないと思い、いったんは自殺まで考えますが、どうせなら残された人生を意義あるものにしようと考えたためだといいます。ところが不思議にもスラムでの生活の中で、当時はまだ不治の病と考えられていた結核を克服してしまいます。
 後年、彼はその波瀾に富んだ半生を『死線を越えて』という自伝小説にまとめ、その本はなんと105万部も売れたのです。この大ベストセラーで、21万円もの印税を得た賀川は、その一部を大阪労働学校の基金にしたのです。21万円といってもピント来ないでしょうが、おそらく今なら10億円を超える金額です。
 ところで、まだそうした金を手にする前、5年間をスラム伝道に従事した賀川は、1914年(大正3年)アメリカに留学します。主として、ニューヨークにあるプリンストン大学で生物学、心理学、神学などを勉強しますが、それ以上に賀川がアメリカで学んだのは、というより体験したのは労働組合運動の重要性でした。彼はニューヨークでスト中の洋服仕立工6万人の大デモを目のあたりにしてショックを受け、また心にひらめくものがあったのです。神戸のスラムでの5年間、彼は貧しい人々を救おうと必死に努力しましたが、その成果は微々たるものでした。それなのに、スラムに流れ込んでくる人々は後をたちませんでした。その多くは労働者だった人々でした。そうした人びとは低賃金で、病気になったり、あるいは失業すると、たちまちその日の暮しに困り、スラムに落ちこむ結果となったのでした。貧しさ故の酒や博打も事態を悪化させる一因でした。
 労働者の生活を安定させること、それがスラム問題解決の近道だ。それには労働組合の力で賃金を引き上げるようにすればよい。こう考えて賀川は日本に帰ってきました。1917年(大正6年)のことです。たまたま当時は日本の労働運動が本格的な発展を始めた時でした。第一次大戦のブームで工場は拡張を続け、労働者は急増していました。物価の値上りは著しく、各地で労働争議が頻発していました。こうした事態を背景に、1912年に東京で創立された友愛会は労働者の親睦団体から労働組合へと脱皮しつつあり、全国に組織を伸ばしていました。なかでも阪神地方はその拠点でした。
 帰国した賀川は、すぐに鈴木文治がはじめた友愛会に参加し、その労働組合化を主張し、たちまち関西地方におけるトップリーダーの一人になります。彼は単なる賃上げ要求だけでなく、労働組合の力で新しい社会──生産者議会、消費者議会、政府の三位一体の社会──の実現を主張したのです。1921年、大正10年の春から夏にかけ、関西の労働組合は経営者に一大決戦を挑みます。その指導者となったのは他ならぬ賀川でした。各組合は相ついで争議をおこし、経営者が労働組合の存在を認め、組合との交歩によって賃金を決めるよう要求しました。そのピークが神戸の三菱造船所、川崎造船所がいっしょになって単一争議団を作って運動した争議でした。この戦前最大の争議は、警察や軍の弾圧にくわえ、造船不況の影響もあって、最終的には組合側の敗北に終りました。

 大阪労働学校の創立が計画されたのは、この争議の敗北直後の1921年11月のことでした。漸進主義、合法主義、非暴力主義を主張した賀川は、川崎・三菱争議の敗北で影響力を失い、労働運動の第一線から退き、労働学校や農民組合運動に重点を移したのです。彼は「愛にもとづく人格運動」としての労働運動を主張し、それには労働者教育が重要だと考えたものと思われます。
 一方、当時の労働者、とくに組合活動に加わっていた労働者は、「勉強したい」「教育を受けたい」という強い要求を持っていました。第一次大戦後、大学・高校の新設など高等教育は急速に拡大されていましたが、それでも高校・大学まで進学できたのは小学校を卒業した人の2%に過ぎませんでした。当然のことながら大学に行けたのは金持ちの子弟が主で、労働者や農民の子はいかに才能があっても尋常小学校(6年)か高等小学校(8年)を終えれば働きに出なければなりませんでした。日本では義務教育の段階では、イギリスのパブリックスクールの様な特権階級の子弟だけの学校は多くなく、ほとんどの小学校では金持ちの子も貧乏人の子も机を並べて勉強しました。ですから、日本中いたる所で、大勢の子供が、自分より出来の悪い者が上級学校に行けるのに、目分は家が貧しいために進学を断念しなければならないという辛い体験をしました。こうした経験は、かなりの人に「世の中はどこか間違っている」と強く感じさせることになりました。労働運動に参加した青年の多くは、このような体験の持ち主でした。ですから、大阪労働学校がその創立宣言で、「我等は有産階級の独占から教育を解放すべきことを要求する」、「我等は学ぶべき権利を持っている、我等は有産階級に奪われた大学を奪還しなければならない」と呼びかけた時、その一語一語は、いま私たちが考える以上に、当時の人びとには、その胸に迫る強い響きを持っていたのです。この宣言はまた、日本の労働者階級が、教育権を「学ぶべき権利」を持つことをはじめて打ち出したものとして注目されています。

 ところで、賀川は学校が発足すると校長に就任し、生物学と心理学の講義をします。その頃彼は労働者教育は自分の「一生の仕事」とまで書いています。しかし、実際には、労働学校と同じ頃に始めた日本農民組合やイエスの友会などの活動でとびまわっていて、まもなく労働学校に顔を出さなくなります。もともと賀川は先見性にすぐれ、非凡な着想を次から次へと具体化することに喜びをいだく人だったようです。彼が生涯の間に始めた事業はたいへんな数にのぼります。大阪労働学校や日本農民組合だけでなく「日本一のマンモス生協」と呼ばれる神戸・灘生協の前身の神戸購売組合、中野総合病院や佐久総合病院の母体となった医療協同組合、リズム時計の前身・農村時計製造会社、キリスト新聞社など、いずれも彼のアイディアが具体化したものです。しかし、彼は自分が着想し、人を説き、金を出しはしましたが、事業を育て上げることにはあまり熱心ではありませんでした。よく言えば、自分が着想し、出資した事業でも私することをせず、人に任せました。創業の人ではあったが、守成の人ではなかったと言えましょう。



3.学生たち

 最初に主事として労働学校の運営を任されたのは、東大卒業直前から、大阪市社会部が設立した大阪市民館で働いていた松沢兼人でした。しかし松沢主事は間もなく病気で辞任し、専任者を欠いた大阪労働学校は危機に陥ります。松沢主事の後をついだ人が組合活動などで多忙のため、事務連絡が行き届かず、休講があいついだのでした。普通だったら、ここで大阪労働学校は潰れてしまったでしょう。そうならなかったのは何故かといえば、学生の質の高さでした。質の高さと言っても、単に学力とか記憶力とか、偏差値の高さで示されるようなものではありません。そうではなく、問題の原因を見抜き、自分たちで解決する能力の高さです。彼等はただ休講に不満をもち、抗議しただけでなく、原因が責任をもって学校運営の実務を処理する人がいないためであると分ると、自分達の間から5人の委員を選び、分担して学校を自主的に運営したのです。この学生委員による学校経営は1923年から25年まで約2年間続けられます。
 この間、学生委員長として学校運営の中心になったのは井上良二でした。彼は総同盟大阪機械労働組合の活動家でしたが、朝早く魚市場で焼芋を売って生活を支えながら、労働学校の事務を処理しました。しかし井上は単なる事務員ではなく、講義に必ず出席してノートをとり、それをプリントして学生に配ったのです。また、講師の話が難しい時には質問して説明を求め、さらには講師に注文して教え方そのものを改めさせる「講師教育」を意識的に実行します。また、術語を易しく解説した『労働者必携の字引』といったパンフレットを編集して発行しました。ついには講師が急に休んだ時など、その代りに「労働組合論」「労働争議戦術論」「選挙戦街論」「ブルジョア新聞論」「経済学」「唯物史観」など、さまざまなテーマで講義をするまでになります。彼は学生委員会による経営が終った後も主事として残り、1931年に大阪府会議員に当選したためその職を辞するまで、文字通り大阪労働学校の大黒柱でした。井上の後任として主事になったのは桑島南海士でした。彼もまた小学校を卒業するとすぐ労働者となり、大阪金属労働組合の活動家として活躍した青年でした。

 ところで、その頃の労働者にとっては、僅か週3回の夜学でも休まずに通いとおすことはなかなか容易ではありませんでした。朝5時か6時には起き、1日10時間から12時間もの重労働の後で机に向えば、すぐ眠気がさして来ます。『女工哀史』を書いた細井和喜蔵は東京労働学校の学生でしたが、眠気をさますために尖った鉛筆で絶えずひざを刺していたと伝えられているほどです。
 しかも仕事が忙しくなれば残業を強制され、学校に行く時間はなくなりました。それだけではなく、労働学校に通っていることがわかれば、それだけで首になるおそれがありました。警察は陰に陽に労働学校に圧迫を加えていました。もちろん卒業したからといって何の資格も得られません。ですから50人入学しても、1カ月もたたないうちに受講者は20人たらずになるのが普通でした。兎にも角にも1学期を終了することができたのは、平均60%前後でした。その中で注目されるのは、学生委員による自主経営の時期の修了率が70%から80%と高いことです。学校運営に直接参加したことでクラス活動が活発になり、学生の間に連帯感が生まれ、勉学意欲も高まった結果がこの数字に示されているように思います。



4.高野岩三郎

 だが、学生委員による経営は長くは続きませんでした。委員の中に仕事の都合で学校に来られない人ができ、事務が滑りがちになったのです。そこで井上が主事として学校に専念することになりました。だが問題は財政でした。
 その頃の1カ月の収入は学生が納める授業料の25円だけでした。これでは教室として借りていた教会に家賃も払えず、講師への謝礼もゼロでした。とても主事に給料が出せる状況ではなかったのです。これを助けたのが白樺派の作家・有島武郎でした。といっても有島は、1923年に自殺しており、本人がそのことを知っている訳ではありません。御承知のように有島家は大財産家で、武郎は生前から賀川や石本恵吉などとともに、さまざまな社会運動の有力なパトロンでした。彼は自殺する時、遺言で、その遺産の処理を東大新人会のOBで組織していた社会思想社に委ね、社会思想社はこれをもとに労働者教育会という財団を創立し、各地の労働学校に資金援助を始めたのでした。大阪労働学校も毎月20円の補助を受けました。それ以上に大きな意味を持った援助は、有島財団が1万円余で大阪労働学校専用に土地と建物を買ってくれたことでした。「学校とはキャンパスであり、設備である」というのは大内兵衞が「法政大学総長就任の辞」で喝破したところです。もちろん教育にとって最も重要なものは人であって物ではありません。しかし一定の物的条件なしには人と人のふれ合いを持続させることが難しいのもまた事実です。いつでも自由に集まり、話し合い、読書する場を得たことは、大阪労働学校の存続にとって大きな力になりました。
 ところで、この校舎の取得の際、またその後の大阪労働学校の発展の上で重要な役割りを果たしたのは、当時、天王寺にあった大原社会問題研究所の所長・高野岩三郎です。彼は学生委員会にかわって組織された大阪労働学校経営委員会の責任者になることを進んで引き受け、財政問題解決のために熱心に働きます。彼は自分の著書の印税をそっくり寄附しただけでなく、友人、知人を説いて同校の後援会員とし、毎月10円づっの寄附を約束させました。では、高野は何故このように大阪労働学校に肩入れしたのでしょうか。それには訳があります。彼には兄がいました。高野房太郎といえば御存知の方も多いと思いますが、日本で最初に近代的な労働組合運動をはじめた人物です。房太郎は、賀川豊彦より20年以上も前にアメリカに渡り、同じように労働運動に関心をもち、アメリカ労働総同盟の日本オルグとして活躍しました。岩三郎が決して豊かな家の出でなく、しかも父が早世し母の手で育てられたのに東京帝国大学を卒業し、母校の教授になることが出来たのも、兄のおかげでした。房太郎はアメリカで苦学しながら毎月10ドルを岩三郎の学資として送り続けたのでした。房太郎が創立した組合は短命に終り、彼自身も35歳の若さでこの世を去りました。ですから岩三郎にとって労働組合運動の育成は兄の遺志をつぐことであり、友愛会の評議員などいろいろな形で組合運動を援助していました。房太郎はまた労働運動における教育の役割りを重視し、強調していましたが、岩三郎はこの点でも兄の志を生かし、大原研究所で市民講座や読書会を開いて労働者教育を試みていました。彼が大阪労働学校を積極的に応援したのは、こうした事情があったのです。

 高野が経営委員長に就任したことを機に、大原研究所の所員の多くが講師陣に加わったことも、大阪労働学校にとっては大きな意味をもちました。なかでも森戸辰男と後藤貞治が果した役割は大きく、ただ講師としてだけでなく、経営委員や会計として高野を助けました。大阪労働学校にかけた高野の抱負は大きく、これを更に発展させて「労働者教育ヲ特色トスル社会科大学ヲ含ム綜合大学」を大阪に設けたいという希望をもっていました。これは実現しませんでしたが、それにいたる第一歩としてゼミナール形成の高等科が設けられました。



5.む す ぴ

 しかし、1928年の3・15事件以後、労働運動に対する弾圧は激しく、その影響は大阪労働学校にも及びました。翌29年3月には、かつて講師として生物学を教えたことのある山本宣治が右翼に刺殺されました。弾圧は労働運動の内部対立を招き、組合経営の労働学校の中には分裂の渦にまきこまれ、消滅したものもあります。しかし大阪労働学校は、高野が「不偏不党の立場」を強調していたこともあって、対立を校内に持ちこむことなく、この危機を乗り切りました。しかし、満州事変、中日戦争と戦時体制の急速な進展によって遂に労働運動は圧殺され、大阪労働学校も日中戦争開始直後の第45期を最後に閉校に追いこまれました。
 本来なら、最後に大阪労働学校の歴史的意義についてお話しすべきでしェう。しかし、正直のところ、今の私にはそうした問題にはっきりした答を出すことはできません。この学校の閑係者が、戦前はもちろん戦後でも、日本の労働運動、社会主義運動で大きな役割りを果したこと、それは確かです。しかし、それらの人びとにとって大阪労働学校がどのような影響を及ぼしたのか、まだわかっていません。これからの研究課題です。研究課題といえばもう一つあります。私は、大阪労働学校は戦後の日本の教育全体にとっても、かなり大きな影響をもったのではないかと考えています。それは、この学校の関係者が戦後の日本の教育界で果した役割りが予想以上に大きいからです。たとえば、その一人として森戸辰男がいます。先ほども申しましたが、彼は高野を助け、大阪労働学校の経営に非常な力を注ぎました。彼は第10期以降第45期まで13年間にわたって1回の休みもなく無給で講師を続け、また経営委員会にもほとんど皆出席です。彼がいなかったら大阪労働学校はもっと早くつぶれていたかも知れません。
 その森戸辰男は、戦後、片山内閣の文部大臣として教育改革に関与しました。その後も中央教育審議会の会長など、規在の日本の教育に大きな影響力をもってきました。彼にとっての教育、とくに社会教育の原体験は大阪労働学校でした。その経験が、戦後の教育改革にどのように生かされたのか、あるいは生かされなかったのか、またどのようなプラス、マイナスをもっていたのか、といったことは今後どなたかに検討していただきたい問題の一つです。





 初出は『法政通信』No.123(1982年7月号)。1982年5月2日に大阪市立労働会館で行われた「法政大学市民講座」における講演内容を要約加筆したもの。







Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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