大学ノートの落書き──向坂逸郎先生のこと
二 村 一夫
はじめて向坂逸郎先生にお目にかかったのは、1968年4月5日のことである。なぜ月日まではっきり憶えているかといえば、大原社会問題研究所が毎年この日に開いていた高野岩三郎・櫛田民蔵両先生追憶会でのことだったからである。場所は法政大学の総長会議室、外壕公園の桜がことのほか美しい年であった。
メインテーブルには向坂先生をはじめ大内兵衞、野上弥生子、宇野弘蔵、谷川徹三、久留間鮫造といった錚々たる顔ぶれが居並び、私はその向い側の末席に控えていた。大内先生の司会で会は始まり、出席の面々がこもごも立って、高野岩三郎・櫛田民蔵両先生の思い出を語られた。多くは毎年繰り返される話であったようだが、前年入所したばかりの新米の私には、どれもこれも興味深かった。〔写真はこの日のもの、テーブルに着いておられる左端が向坂先生、その隣から宇野弘蔵、大内兵衞、久留間鮫造、野上弥生子、谷川徹三の諸先生〕
向坂先生は、主に櫛田民蔵氏について話された。櫛田さんは、論文を執筆する時には誰かにその構想を語り、その意見を求めるのが常であったという。向坂先生はしばしばこの相手に選ばれた。そうした折りの櫛田先生には相手の都合などお構いなしのところがあり、時に閉口させられたとして、ようやく切符を手に入れ楽しみにしていた早慶戦の日に櫛田先生の襲撃をうけたことを語られた。
お二人とも甘党で、甘酒を汲みながら地代論をめぐって論争された思い出など、三十数年も昔のことが、まるで昨日のことのようであった。
上鷺宮の向坂家にお邪魔したのは、その後まもない頃であった。向坂さんが学生時代に筆記された高野岩三郎先生の統計学講義のノートを大原研究所に寄付して下さることになり、それを頂きにあがったのである。高野先生が東大を辞める前年、1919(大正8)年の講義記録で、小型の大学ノート3冊に細かい字できれいに記されていた。
見開きの右側には高野先生の講義内容が、左側には小見出しをはじめ、図表や参考文献、注などが記入されている。あまり多く本を書かれなかった高野先生の統計学の体系を知る上でも貴重な記録である。いたるところに赤線が引かれ、向坂青年の勉強ぶりがうかがえるが、それと同時に興味を惹かれたのは、ノートの冒頭に記された落書きである。
「向坂逸郎博士著 一路集 鷺酒一路」
「石川啄木 革命派詩人集会」
「本日集リシモノハKakumeiha Sijin」
「Marxの見たる文化と経済的」とある。
学生時代の向坂逸郎がすでにその生涯の仕事に学問を選び、革命やマルクス主義に強い関心を抱いていたこと、また啄木に心惹かれる詩人の魂の持ち主であったことを窺わせてくれる。
もうひとつ大事な発見があった。それは、このノートに挟まれていた紙である。それは向坂氏が1921年の5月から9月にかけて注文した洋書の控えである。
よく知られているように、向坂逸郎氏が大学時代に集められた書物はドイツ留学の際に処分されてしまった。だから、先ごろ大原社会問題研究所が寄贈していただいた向坂文庫の本はすべてドイツ留学以降のもので、それ以前の収集書はごく限られたものしか残っていない。その意味で、マルクス、エンゲルス、トマス・モア、ウイリアム・モリス、マックス・ベア、モルガンなど35冊のこのリストは注目されよう。
実はその日、私にはもうひとつ別の目的があった。先生の有名な書庫とその蔵書を見せていただくことである。1969年2月に大原社会問題研究所は創立50年を迎えるので、その記念事業として《復刻シリーズ 日本社会運動史料》の編集・刊行計画をたてていた。ただ、研究所の資料だけではどうしても揃わないものがあり、機関紙・誌の欠号探しが当時私の仕事のひとつだった。おそるおそる申し出た私の望みはすぐかなえられ、先生は先に立って案内して下さった。
〈トーチカのような書庫〉として有名なその建物は、人の手を入れず自然のままにされた庭の端にあった。マルクス、エンゲルス、レーニンのレリーフで飾られたコンクリートの壁、赤い鉄の扉が印象的であった。しかし、それ以上に私を圧倒したのは、蔵書の内容である。特に堺利彦旧蔵の資料の中には私がそれまで名前だけは知っていてもまだ見たことがなかった第三次平民新聞、日本労働者新聞をはじめ堺利彦が獄中で読んだ『資本論』、幸徳秋水が獄中で読んだルソーの『告白』など日本社会主義運動史の記念碑ともいうべき品がいくつも残されていたのである。これらは、その年の5月、研究所の創立50周年を記念して開いた展示会《社会運動の半世紀》展に拝借した。
その後、復刻は順調に進み、その中には『労農』『前進』『先駆』といった先生の古戦場ともいうべき雑誌も含まれていた。その都度お伺いしてはペンネームや雑誌の刊行事情について質問し、また資料を拝借した。いつも奥様が玄関に座って出迎えられ、辞去する時には必ず先生が玄関まで見送って下さった。その折り目正しさに、上鷺宮のお宅にうかがう時はいつもいささか緊張した。
初出は『社会主義』第250号(1986年2月)、1997年10月13日加筆。
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