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高野房太郎とその時代 (11)



東京の小学生 ─ 千代田学校のこと

馬喰町三丁目千代田学校の夜景、三代広重「生徒勉強東京小学校教授双六」部分、『明治大正図誌』1より

 高野兄弟が東京で最初に通った学校は、「第一大学区第一中学区十一番小学千代田学校」でした。上の絵は当時の千代田学校ですが、なんと夜景で空には満月が出ています。玄関に円柱、その上はバルコニーで、門にはガス燈が灯されています。わざわざ夜景にしたのも、小学校には珍しいこのガス燈を描きいれたかったからでしょう。一目見れば銀座煉瓦街のコピーと分かる洋風建築です。737坪の広い敷地に130坪の堂々たる校舎でした*1。三代広重の「東京小学校教授雙録(すごろく)*2に描かれたことで、新築後4年たらずで焼失した短命な校舎の姿が残りました。高野兄弟はここで勉強したのです。

三代広重「生徒勉強東京小学校教授双六」部分、『明治大正図誌』1より

 ところで、千代田学校の所在地は絵にもあるように馬喰町三丁目ですが、これは高野家の真ん前でした。じつは長崎屋の門前は江戸時代の「初音の馬場」跡です。関ヶ原の合戦の際に徳川方が馬揃えをしたことで知られた場所ですが、その跡地を第一大区十二小区の29ヵ町が払い下げをうけ、寄付を募って学校を建てたのです。十一番小学というのは、第1中学区内で11番目の公立小学校という意味です。上の絵を見ると「ほかの小区には負けないぞ」と、小伝馬町、馬喰町はじめ十二小区の町民が競ってカネを出したことが窺えます。

 千代田学校は明治10年3月20日に開校式を開き4月1日から授業を始めました。まるで高野兄弟のために準備したかのようなタイミングです。房太郎らがいつから通学し始めたのかは分かりませんが、開校時か開校直後だったに違いありません。
 さてこの校名ですが、『新修日本橋区史』は「小伝馬町が舊千代田村であったと言ふことに依る」と説明しています。しかし、この区史の記述は間違っていると思います。もちろん江戸城拡張の際、城郭内にくりこまれた旧千代田村民が小伝馬町に移されたのは事実です。しかし第十二小区29ヵ町全体で寄付を募って建てた学校に、ひとつの町の名を冠することは考えられません。しかもその所在地は小伝馬町ではないのですから。

 ではなぜ千代田学校かといえば答は簡単で、校長先生の姓が千代田だったからです。寺子屋から発展した学校は、しばしば校名に先生の名字をつけました。この千代田学校もその前身は寺子屋で、その〈お師匠さま〉が千代田信安先生だったのです。彼は明治2年に小伝馬上町一番地で私塾〈好学堂〉を創立し、主として習字を教えていました。明治5年の「学制」布告にともない私立の下等小学になりましたが、千代田信安はその教師の資格をとるために速成の小学教員養成の講習を受け、手習いだけでなく算術や地学、究理学なども教えるようになりました。生徒の多くが周辺の商店の小僧さんたちだったのでしょう、明治8年には夜学校を開いています。千代田学校になっても商業夜学校を設けていました。おそらくガス燈も、そのための設備だったのでしょう。
 小伝馬町には千代田神社〔千代田稲荷〕という社があり、その神職は千代田姓でした。信安も神職で、〈好学堂〉の開学願書には「氷川神社祠掌」と記していますから、千代田稲荷の神職の息子だったと推測されます。29ヵ町の町民は、公立小学校を新設する際、町内の神職の子で教師としても実績のある千代田信安に運営を委ねたものでしょう。信安、時に満30歳と8ヵ月でした*3
 当時の小学校の規模は、公立の場合で生徒数は200人前後、教師の数は4、5人というところでした。男女別でみると、先生は圧倒的に男で、女教師は東京の公立学校全体でも20人といません。生徒の男女比は学校によっても違いますが、平均すると男2人から3人に女1人程度でした。また大部分の学校は共学でした*4。千代田学校も共学だったことは確実です。

 ところで、高野兄弟は千代田学校でどんなことを学んだのでしょうか? それを知る手がかりを内田魯庵(ろあん)が残してくれています。房太郎とほぼ同年の魯庵は「明治十年前後の小学校」という一文で、当時の小学校の様子を描いています*5。全文を読んでいただくともっと面白いのですが、ここではごく一部だけを引用します。ちなみに魯庵が通った学校は向柳原の松前学校(のち育英小学校と改称)で、房太郎の家から歩いて20分とはかからない近距離にありました。千代田学校も、松前学校とそれほど違ってはいなかったはずです。

 「私が茲へ入学したのはタシカ明治七年であったが、初めに福沢先生の『世界国尽』を授けられた。家庭で大学や唐詩選の素読を教えられていた私には『世界国尽』が馬鹿々々しかったが、口調が面白いので飴屋の唄と一緒に暗誦した。『世界国尽』がウヰルソンのリーダーの翻訳の読本と変わったのは夫から一年ばかり後だった。其頃の小学教科書は大抵西洋の教科書の翻訳だったから今のと違って世界的で、歴史や理化学の階梯は読本で教へられた。其頃の西洋の教科書には聖書の記事が多かったので、其の翻訳読本を課せられた私達は早くからモセスやアブラハムやソロモンやサムソンの名や伝説を吹き込まれた。随って今の小学生よりは其頃の方が世界的興味を多量に持っていた。」

 「福沢先生の『世界国尽』」とは、福沢諭吉が寺子屋で使われていた『国尽くし』を手本に、子供向けの教科書として書いた和綴じの6冊本です。寺子屋の『国尽し』は日本の国名や地名を列挙し、覚えやすいよう七五調にしたものですが、『世界国尽』はその世界版です。ほんの一節だけ紹介しておきましょう。はじめは右の画面の本文の箇所ですが、これだけでは内容が分かりにくいので、房太郎の故郷、長崎を読み込んだくだりも加えておきます。原文には句読点がありませんがこれも適宜入れておきます。また漢字にはすべてルビがふられていますが、ここでは一部だけをカッコ内に入れておきます。

『世界国尽』の冒頭
 「世界国尽(せかいくにづくし)
     発端(ほったん)
世界は広し万国はおほし〔多し〕といへど大凡(おおよそ)、五つにわけし名目(みょうもく)は」

「円き地球のかよひ路は、西の先にも西ありて、まはれば〔廻れば〕帰るもとの路。(たまき)の端の際限(かぎり)なき、「太平海」の西の方「亜細亜州」の東なる、我「日本」を始とし、西のかたへと乗出し、その国々を尋るに、〔中略〕
瀬戸を隔てて日本国、九州肥前の長崎より、支那の東岸(ひがし)の上海へ、海路(うみじ)僅に三百里、蒸気船の旅なれば、十日の暇を費して、往きて帰るに(あまり)あり」

 大きな字で書かれているのは、これが単なる地理の教科書ではなく、お習字の手本でもあったからです。諭吉の工夫は、世界地理や各国についての基本的な知識を七五調にまとめ、さらに頭注と6冊目の付録で、先生向けにより詳しい情報を盛り込んだ点でした*6

 魯庵も書いているようにこの時期の小学教科書は翻訳もの全盛期でした。『世界国尽』も諭吉自身が断っているように英米の地理、歴史の本を自由にとりまとめ翻訳したものでした。「ウヰルソンのリーダーの翻訳の読本」というのは、アメリカのReader of the School and Family Series by Marcius Willson を文字どおり直訳しています。『小学読本』と名付けられ、教科書の中でもっとも普及したものだそうですが、なぜこんな翻訳調のものが普及したのか理解に苦しむひどい出来です。たとえば、巻2の第1課はつぎのとおりです*7

 「この女児は、人形を持てり、汝は、人形を見しや、○この人形は、愛らしき人形なり、○汝は人形を好むや、○然り、我は甚だ、これを好めり」

 翻訳調というだけでなく、とんでもない悪文です。学制期の小学教育は、こうした寺子屋と文明開化の奇妙な混合物だったのです。果たしてこんな教科書でどんな日本語教育ができたのでしょうか?
 ただ、魯庵も言うように、この当時の教育が世界を意識し、世界に目を向けた子供たちをつくりだすものであったことは確かです。こうした教育のなかで、房太郎も海外への雄飛を夢見るようになっていったのでしょう。




【注】

*1  千代田学校のことは東京市日本橋区役所編集発行『日本橋区史』第3冊(1916年)、同『新修日本橋区史』下巻(1937年)、東京都中央区教育委員会編集発行『中央区教育百年の歩み』(1974年)による。

*2  「東京小学校教授雙録」は明治10年10月12日の日付で、多賀甚五郎が刊行したものである。東京の主要な小学校の絵をコラージュにしている。建物の絵もだが、教師や生徒の服装や持ち物なども当時の小学校の様子をうかがわせてくれる貴重な記録といえよう。現物は東京都立中央図書館所蔵。小木新造・前田愛編『明治大正図誌 東京(一)』(筑摩書房、1978年)所収。

*3  千代田信安については、彼が東京府に出した「家塾開学願書」「私立夜学校開業御届」(東京都立教育研究所編集発行『東京教育史資料体系』第一巻、第二巻、1971年刊、所収)で、ごく簡単な履歴などが分かる。また、千代田稲荷については『新修日本橋区史』下巻(1937年)973、983ページ参照。

*4 「明治八年学事現状取調書」によれば、公立小学は東京府全体で47校、私立小学13、私学147校であった。このうち公立小学については「管下公学校表」に名称、住所、教員数、生徒数などがある(東京都立教育研究所編集発行『東京教育史資料体系』第3巻、1972年刊、所収)。
 もうひとつ千代田学校についての興味ある史料は明治15年の日本橋区内の公立私立の小学校の一覧表です(東京都中央区教育委員会編集発行『中央区教育百年の歩み』1974年、所収)。あいにく千代田小学(千代田学校の改名)は、火事で丸焼けになった直後で、校名以外は空欄です。ほかの公立学校をみるといちばん生徒数の多い有馬小学が男生徒254人に女生徒190人、一方いちばん小さい十思小学が男43人、女18人です。他はいずれも200人前後です。なかでも面白いのは、といってはちょっと不謹慎ですが、この時、千代田信安は小伝馬上町で「千代田学校」を主宰しているのです。生徒数は男27人、女17人です。年間授業日数が176日とほかの学校より100日以上も少ないのは、この年の途中で私学として千代田学校を開校したからでしょう。

*5  野村喬編集解説『内田魯庵全集』第3巻(ゆまに書房、1983年刊)所収。なお、この全集本では、引用箇所は「福沢先生の『世界圖畫』」となっているが、明らかな誤植なので『世界国尽』と訂正して引用した。

*6  『世界国尽』は1968年に日本近代文学館から装丁なども原本同様に復刻された《名著復刻全集近代文学館》本によった。なお『福沢諭吉全集』第2巻(岩波書店、1959年)、『福沢諭吉選集』第2巻(岩波書店)などにも収められている。

*7  仲新監修、伊藤敏行・江上芳郎編『学校の歴史 第2巻 小学校の歴史』(第一法規、1979年)53〜54ページ。





法政大学大原社会問題研究所        社会政策学会

編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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