高野房太郎とその時代 (12)父の死旅人宿・長崎屋は開業間もない明治12年夏には「明治版ミシュラン」の『食類商業取組評』で〈東の大関〉にランクされるという繁盛振りでした。しかしその喜びもつかの間、悲運が高野一家を見舞いました。父仙吉が死去したのです。明治12(1879)年8月26日、まだ34歳の若さでした*1。もともとあまり丈夫ではなかったのに、慣れぬ土地での慣れぬ生活、慣れぬ仕事による心労がその寿命を縮めたものでしょう。あとに残されたのは母かね70歳台、妻ます32歳、長女きわ13歳、長男房太郎10歳、次男岩三郎7歳の一家5人です。高野家は文字どおり「女子供」ばかりの世帯になってしまいました。 仙吉の死にともない房太郎が高野家の戸主となります。それと同時に、旅人宿兼回漕業兼売薬業・長崎屋主人ともなったのです。旅人宿や回漕業の営業には鑑札が必要でしたが、いずれも房太郎の名で免許を受けています。売薬業といっても、扱う種類は限られており〈紫雪〉*2などの数種の薬を商うだけでしたが。こうした鑑札や免許などの重要事項を記録した『要用簿』が残っていることはすでにふれました。そこには鑑札に関する記録だけでなく、神田区役所や日本橋区役所、あるいは警視庁や三菱会社などへの「届書」「願書」のたぐいがいくつも書き残されていますが、いずれも高野房太郎の名義で出されているのです。 なかには、なんと東京大学医学部学生に対する保証書もあります。おそらく長崎屋に止宿していた学生に頼まれたものでしょうが、小学生の房太郎が東大医学部教務局に宛てて、被保証人の大学生に「校則を守らせるのはもちろん、一身上のことは私が一切引き受ける」と一札を入れているのです。官僚主義的形式主義とでもいうべきか、明治的大らかさというべきか、いささか漫画的ではあります。 もちろん父が死去した時、房太郎はまだ満10歳7ヵ月の少年でしたから、高野家の戸主といい、長崎屋の経営者とはいっても、それは名目にすぎませんでした。どちらも実際は後見人の母マスが取り仕切っていました。年寄った姑と未成年の子3人をかかえた上に、長崎屋を切り盛りするのは、いかに男勝りなマスといえども並大抵な苦労ではなかったでしょう。彼女が長男を頼りにし、その一日も早い成長を願ったであろうことは容易に想像されます。 一方房太郎にとって「高野家戸主」となった事実は、彼のその後にずっとついて廻りました。どこへ行っても、どこで暮らしていても、房太郎は高野家の家長としての責任を意識せずにはいられませんでした。おそらく本人としては、忘れたいと願った時があったでしょうが、周囲がそれを許しませんでした。伯父彌三郎、母マス、姉キワ等は房太郎に大きな期待を寄せ、弟岩三郎はいつも兄を頼っていました。母や伯父は、房太郎に「おまえは高野家の戸主だよ、東京一の旅館だった長崎屋の再興はすべてお前の肩にかかっているのだよ」としばしば言い聞かせたに違いないと思われます。
この期待の重荷がどれほどのものであったかは、これからも折にふれてお話しすることになるでしょう。もし、房太郎がこうした立場におかれなかったら、彼の生涯はもっと違ったものになっていたでしょう。この戸主としての「イエ」の重みは、そうした責任をあまり感ぜずにすんだ人びとと比べてみればはっきりします。たとえばほかならぬ弟です。岩三郎は次男であったために家業を再興する責任を免れ、希望する勉学一筋に励み、東京大学大学院にまで進学することができたのでした。
もっとも、房太郎がこうした家に対する責任を初めから重荷と感じていたわけではないでしょう。渡米するまでは、何の迷いもなく母や伯父の期待に応えようとしていたかに見えます。父の死までは不幸な目にあったことがなく、裕福な家の長男として伸び伸びとと育てられ、学校でも優等生だった房太郎にとって、成功はすぐ手が届くところにあるように感じられていたのではないか、と推測されるのです。 【注】
*2 〈紫雪〉は金沢の石黒伝六が特許をもつ売薬であった。長崎屋は〈紫雪〉のほかにも司命丸など数種の薬の販売免許を受けていた(『要用簿』)。 *3 片山潜の家系の詳細は、長谷川博「片山家の系譜」(『労働運動史研究』18号、1959年11月)参照。 |
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