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高野房太郎とその時代 (20)




3. 社会人一年生──横浜時代(6)

研磨会と振商会、講学会

中央学術雑誌創刊号

 房太郎は、商法学校の同期生・富田源太郎を介して、井上仁太郎、乗田弥吉ら同年代の横浜の若者と知り合いになり〈研磨会〉と称する団体を組織しました。その名が示すように、向学心に燃える少年たちが互いに学び、切磋琢磨する集いです。その創立は、一説によれば明治16年4月ですが、別の史料では翌明治17年の1月ごろとなっています*1。いずれにせよ、この日時は「研磨会」の会名を使いはじめたのが何時かというだけのことで、その中核となったグループはそれ以前から存在していたのです。
 ところが正式に発足してから間もなく研磨会は分裂し、振商会と講学会という2つの団体に生まれ変わっています。分裂の原因は分かりませんが、〈振商会〉は富田源太郎、乗田弥吉らが中心となって演説会などの対外活動に力を入れ、一方、房太郎が主として関わった〈講学会〉は自己啓発を目的とする学習活動に重点をおいています。こうした両者の志向の違いが分裂の原因のひとつだったことは確かです。ただし、対外活動については乗田らよりはるかに積極的だった井上仁太郎が講学会に参加していますから*2、ほかにも理由があったのでしょう。さらにいえば振商会と講学会は合同で懇親会を開いていますし*3、房太郎が渡米する際に開かれた送別会には富田源太郎も出席していますから*4、喧嘩別れしたわけではなく、活動分野を異にしたにすぎないものと思われます。

 〈振商会〉については、『横浜毎日新聞』に演説会の予告記事がいくつか残っているだけですが、〈講学会〉のことは『中央学術雑誌』にややまとまった記録が残されています。『中央学術雑誌』は、早稲田大学の前身である東京専門学校の同窓会ともいうべき〈同攻会〉の機関誌です。横浜講学会に関しての初出記事は第7号(明治18年6月10日)で、つぎのように記されています。

「昨明治十七年一月ノ交ニ当テ横浜ノ有志者協力シ金圓ヲ拠集シテ書籍ヲ講読シ並ニ学問上或ハ商業上必須ノ問題ヲ討議スルノ会合ヲ開ケリ。同年十二月ニ及ビテ会員漸ヤク加ハリ書籍漸ヤク増ス。是ニ於テ更ニ規模ヲ拡張シ、講師ヲ東京ヨリ招聘シテ政治学、法律学、経済学ヲ攻究センコトヲ企テ名ケテ講学会ト云フ。乃チ文学士高田早苗、法学士岡山兼吉両君ノ承諾ヲ得テ毎月数回本町町会々所ニ於テ両君ノ臨講アリ。

 つまり、明治17年1月につくられた会合〔研磨会〕を母体に、同年12月に「講学会」の結成が企図されたというわけです。後で紹介する別の記録によって、その創設は明治18年2月のことであることが判明します。〈講学会〉の活動は主として2つで、ひとつは書籍の共同購入、もうひとつが講師を招いて政治学・法律学・経済学などに関する学術講演会の開催でした。

 当時、書物はきわめて高価なものでした。たとえば1883(明治16)年から84年に刊行され、その頃としては大ベストセラーだった矢野龍渓の『経国美談』は、前編が300ページ余で95銭、500ページ余の後編は1円35銭でした*5。職人のなかでも高収入の大工の手間賃でさえ1日50銭前後でしたから、本1冊が2日から3日分の賃金に相当したわけです。そんな高いものはよほどの金持ちでなければ買えませんでした。そこで何人かが金を出し合って本を買い、回し読みする集まりがそこかしこに生まれていました。たとえば、その頃はまだ横浜と同じ神奈川県に属していた多摩地域には数多くの学習会がつくられていたことが知られています*6
 多摩地域の結社の多くは自由民権運動の一環として組織された「学習結社」でした。〈横浜講学会〉も広い意味では自由民権運動に連なるものですが、ただ多摩地域の結社の多くが自由党系だったのに対し、横浜講学会は立憲改進党系でした。おそらく横浜毎日新聞の島田三郎あたりの影響があったものと想像されますが、講学会の演説会に講師としてやってきたのは東京専門学校の創立メンバーである高田早苗、天野為之、岡山兼吉らだったのです。彼らはいずれも東京大学を卒業したばかりの若者でしたが、大隈重信を中心とするグループに属し、東京専門学校で週30時間もの講義をした上に、全国各地へ手弁当で講演に出かけていたのです。「改進党の党勢拡張のため、学術講演の名目で」各地に遊説していたと言われています*7
 しかし、実のところ彼らはまったく時事を論じていません。少なくとも横浜講学会で説いていたのは、学術的、あるいは文明論的、または実用的な内容のものばかりでした。高田早苗の演題をみると「英語をもって日本の邦語となすべきの説」とか「耶蘇教東漸の利益を説いて仏徒に望むあり」「有神論」あるいは「洋行論」といったものです。他の講師も、岡山兼吉が「信用論」「商業論」「法と兵との関係」、天野為之は「又々天帝の存否を論ず」「国債論」、市島兼吉は「手紙書き方の改良」「支那人学ぶ可し学ぶ可からず」「宗教家と理学者と何れか宗教に忠なるや」といった調子です。演説の具体的な内容も『中央学術雑誌』で紹介されていますが、政談演説に類するものはまったくありません。しかし、この演説会で房太郎らは多くを学んでいます。なかでも高田早苗の「洋行論」などは、房太郎の生涯を決めたといっても過言ではないほど大きな影響を及ぼしています。これについては、あらためて取り上げることにし、ここでは前回紹介した伊藤痴遊の回想の最後の箇所をもう一度引用しておきましょう。講学会の若者たちが、この演説会をどのように受け止めていたかが良くわかりますので。

「天野為之、高田早苗、山田喜之助、木村清四郎等の先輩に出講を請うて、その説を聴いた。別に討論会を開き、課題を設けて論争した。あるいは内地雑居の可否とか、あるいは自由貿易と保護貿易の是非とかいうような問題を討議したのであるから、どうしても予備知識をもつ必要上先哲の書物を読む必要があり、正則の学科は踏まずとも、之によって得た我々の知識は相当に深いものがあった。」

 房太郎が講学会の中心的なメンバーであったことは『中央学術雑誌』の記録のそこかしこから伺うことができます。そのひとつは、1886(明治19)年1月に講学会が改組し「同攻会横浜支会」となった際の記録です。この時、房太郎は「告在横浜人士」と題する改組の呼びかけの文章に、4人の発起人のひとりとして名を連ねているのです*8。これこそ高野房太郎が公の文書にその名を明記した最初のものですから、全文を紹介しておこうと思います。古風な文体で、決して読みやすい文章ではありませんから、お急ぎの方は読み飛ばしてくださって結構です。その趣旨は、おおよそ次の通りです。
  1) 日本が欧米の文明社会に追いつくためには、学問の普及が不可欠である。
  2) 横浜は日本と海外を結ぶ要の地であり、そこに住む者の責任は重大である。
  3) しかし横浜の人民の多くは、こうした学問の重要性を自覚していない。
  4) この現状を打破するため、われわれ有志は講学会を組織して岡山・高田の両講師から学び、大きな成果をあげることができた。
  5) 今回、さらに組織を拡大し、討論会なども開くので、ぜひ参加してほしい。

「    告在横浜人士
諸君我ガ国一タビ海港ヲ開テヨリ社会ノ風気日ニ高尚ノ域ニ進ミ百般ノ事業月ニ其面目ヲ更ム。文明ノ進歩蓋シ遅々タラザルナリ。然リト雖ドモ眼ヲ放テ欧米ノ社会ヲ観察スレバ文運ノ進歩更に駿々トシテ底止スル所ヲ知ラズ。後進ノ邦国ヲシテ終ニ追及スルヲ得ザラシムルガ如ク然リ嗟呼後進ノ邦国タルモノ当ニ何ヲカ為シテ疾ク彼レト并肩スルニ至ルヲ得ベキカ。蓋シ大ニ開進ノ速力ヲ増サント欲セバ愈々人智ノ発達ヲ促サザル可カラズ。人智ノ発達ヲ促サントセバ須ラク学術ノ普及ヲ計ルベシ。学術ノ普及為リテ始メテ人智ノ発達ヲ得、人智ノ発達ヲ得テ而シテ后開進ノ速力ヲ増ス。学術ノ普及ヲ計画スル実ニ今日ノ急務ト云フベシ。
抑我横浜港ハ内外ノ咽喉ニシテ外ニ向テハ内地人民ノ情態ヲ代表シ内ニ対シテハ全国ノ模範タリ。加旃欧米文明ノ事物皆此港ヲ経テ而シテ后全国ニ伝播ス。尚心臓ノ血液ヲ全身ニ分派シテ以テ人生ヲ保有スルガ如シ。其一挙一動関係ノ及ブトコロ広且大ナリト信ズ。横浜人民ノ責任亦重シト云フ可キナリ。夫レ然リ然ルニ横浜人民従来ノ状況ヲ察スルニ未ダ学術ノ効用如何ヲ知ラザルガ如ク恬然ト意ヲ学事ニ止ムル者ナキガ如シ。豈慨嘆ノ至ナラズヤ。茲ニ於テ乎有志者相謀リ広ク同志ヲ募リ本会ヲ起シ各自就業ノ余暇東京ヨリ学士ヲ聘シ経済法律政治ノ三科ヲ講究シ或イハ疑問ヲ討議シ以テ知識交際ノ一助トス。夫レ又横浜人民タルノ責任ヲ全フスルニ庶幾ナランカ。蓋シ経済ノ理明ラカニテ、而テ后チ商業振起スベシ。政治ノ思想富ンデ而テ后チ民利興起スベシ。人民普ネク法律ヲ知ツテ而シテ后チ世事紛擾ヲ免カル。斯クノ如ンバ即チ人智ノ開発其効ヲ奏シ社会ノ開進其速力ヲ増シ、蹶然一飛欧ニ駕シ米ヲ踵ク亦難ラズト信ズ。以上ノ開述ハ本年二月創メテ本会ノ起ル所以ニシテ爾来日尚ホ浅キモ講師岡山高田両君ノ尽力ト会員諸君ノ熱心トニ因リ現今会員ノ数通常地方ノ両部ヲ混じ百二十名ノ多キニ達シ且ツ東京ヨリ学士数名ヲ聘シ演説会ヲ開クコト前後両回已ニ報行(ママ)書ヲ発行スルモノ九回ニ及ブ。実ニ予想外ノ好果ヲ得、生等私カニ欣躍ニ堪ヘザル所也。今ヤ進んデ従来ノ方法ニ改良ヲ加ヘ、規模ヲ拡張シ愈々益々志ヲ一ニシ希望ヲ同フシ能ク事業ニ倦ムナク永ク屈セズ小ハ以テ己レ自身ノ基ヲ立テ大ハ以テ国家ノ大本ヲ固メ将来倶ニ共ニ文明ノ鴻澤ニ沐浴セン事ヲ期す。

  本会組織大要
一 毎月壱回左ノ諸学士ヲ聘シ討論会ヲ開ク事
 但当分ノ内左ノ諸学士ノ内順次壱名若シクハ貳名ヲ聘ス。又会員討論ノ決議ニ対シ学士ノ意見ノアル所ヲ知ランガ為メ毎討論会終結ノ後、列席学士ニ一場ノ演説ヲ乞フ事
 法学士          岡山 謙吉 君
 文学士          天野 為之 君
 東京専門学校講師  市島 謙吉 君
 文学士          高田 早苗 君
一 毎年四回東京同攻会員及ビ有名ナル学士ヲ聘シ演説会ヲ開ク事
一 毎月二回東京同攻会ニ於テ発行スル中央学術雑誌ヲ会員ニ頒布スル事
但シ全雑誌中ニ講学会記事ナル一欄ヲ設ケ本会ニ於テ執行スル演説討論ノ筆記其ノ他本会ニ関スル要件ヲ登録シ以テ本会編纂ノ報告書ニ変フ
一 本会々員タラント欲スル者ハ何人タリトモ入会ヲ許ス。但其宿所姓名ヲ事務所ニ通知シ幹事ノ許ヲ受クルヲ要ス
一 本会々員ハ別ツテ通常地方ノ二種トス
一 通常会員トハ横浜ニ居住スル者ヲ云ヒ其資格左ノ如シ
    一 本会ニ於テ開会スル討論会及ビ演説会ニ出席シ並ニ討論会ノ議題ヲ呈出スル事ヲ得
    一 本会ニ於イテ頒布スル中央学術雑誌ヲ受クル事ヲ得
    一 本会ノ役員ヲ撰挙シ及ビ役員タル事ヲ得
    一 毎月金貳拾銭会費トシテ前納スルモノトス
一 地方会員トハ地方ニ居住スル者ヲ云ヒ其資格左ノ如シ
    一 本会ニ於テ頒布スル中央学術雑誌ヲ受クル事ヲ得
    一 演説会及討論会ニ臨時出席スル事ヲ得
    一 毎月金貳拾銭ヲ会費トシテ前納スルモノトス
以上ハ則チ本会組織ノ大要ナリ。其詳細ノ如キハ規約書ニ就テ看ラルベシ。感ヲ予輩ト等フサレルヽ兄弟ヨ勇ミ進ンデ共ニ計画ノ任ニ当レ。之レ敢テ生等ノ私願ニ非ラズ。先覚者ノ本分ナリト信ズ。某等頓首敬白
         横浜住吉町貳丁目三拾貳番地
              講学会事務所

明治十九年一月

                発起人  白井  勝悟
                       三堀  為吉
                       秦野  安宅
                       高野 房太郎

 この呼びかけをまとめたちょうど1カ月後の2月14日に、講学会は町会所で第6回の討論会を開催しています*9。この日のテーマは「愛蘭(アイルランド)は英国より独立するの権利ありや」というものでした。討論会に先立って、高田早苗がまずアイルランド問題の歴史を説明した後、「アイルランドはイギリスから独立する権利があるか否か」をテーマにひとりずつ代表者を立て、討議を展開しています。この時、わが高野房太郎は「アイルランドには独立の権利がない」とする立場をとって演壇に立ちました。一方、伊藤痴遊の井上仁太郎は房太郎の意見に反対し、「アイルランドには独立の権利がある」との立場を支持して論戦に加わっています。結局、採決で房太郎の主張は4票差で敗れましたが、最後に講評に立った高田早苗は「アイルランドは人情の上よりいへば独立させたきものなれども政治学上より観察すれば独立の権利なきものなることを説き」、房太郎の結論を支持しています。

この討論会の後で役員選挙がおこなわれ、房太郎は5人の常議員の1人に選ばれています。この常議員のうち三堀為吉、田代包義、角田虎之助の3人とは、十数年後に彼がアメリカから帰国した後でも親しく交わっていることが分かっています。この討論会をはじめ、講学会での日々は、房太郎にとって忘れがたい青春の思い出となったに違いありません。



【注】

*1 『横浜近代史総合年表』によれば、研磨会の創立は1883(明治16)年4月のことである。「商業研究を目的とする研磨会、結成される(会員70人)」と記されている。ただ問題は、この事項の出典とされている『新聞集成明治編年史』には、これに該当する記事が見あたらないことである。今のところ同会に関する確実な記録としてもっとも早い時期のものは『横浜毎日新聞』1884(明治17)年3月29日で、「研磨会商業演説会を港座で開き、富田源太郎、内山敬三郎、鈴木重治らが演説」とある。明治17年1月創立説の根拠は、本文に引用した『中央学術雑誌』の記事である。ここで「金圓ヲ拠集シテ書籍ヲ講読シ並ニ学問上或ハ商業上必須ノ問題ヲ討議スルノ会合」というのは、明らかに研磨会をさしていると思われる。

*2  『中央学術雑誌』第23号(明治19年2月25日)には、講学会が改組した〈同攻会横浜支会〉の会員氏名表が掲載されている。そこには横浜居住の本会員42人、横浜以外に居住する地方会員14人、計56人の名があり、井上仁太郎は高野房太郎らとともに本会員のなかにある。しかし富田、乗田の名はない。

*3  『中央学術雑誌』第52号、明治20(1887)年6月の雑録欄につぎのような記述がある。

「横浜なる振商講学両会の会員諸氏には過般聯合懇親会を同地町会所楼上に開き、振商会員富田源太郎氏等の席上演説あり。東京よりは高田早苗氏招きに応じて来会し、宇川盛三郎氏も氏と同行したり。又会員乗田弥吉氏外数名の人々主任となりて新日本の商人と云へる茶番を催し頗る盛会なりしと云ふ。」

*4  房太郎の送別会に富田源太郎が出席したことについては、『中央学術雑誌』42号を参照。

*5 高野岩三郎「斉国名士経国美談のころ」『かっぱの屁』(法政大学出版局、1961年)所収。

*6 色川大吉『新編 明治精神史』(中央公論社、1973年)参照。

*7 京口元吉『高田早苗伝』(早稲田大学、1962年)99ページ。

*8 『中央学術雑誌』第22号(明治19年2月10日)

*9 『中央学術雑誌』第23号(明治19年2月25日)。
 なお、この討論会は第6回であるが、それ以前の討論会については記録が残っていない。また第7回は「貨幣の制度は単複本位いずれを採るべき乎」をテーマに3月14日に開かれることが予告されていたが、「都合により学術演説会」にきりかえられている。それ以降しばらくは、コレラ流行のため会合は中止されていた。ようやく同年9月19日になって次の討論会が開催されている。その論題は「支那人雑居の利害」「貧生米国行きの利害」で、ともに房太郎が強い関心をいだいたに違いないテーマである。〔以上、『中央学術雑誌』第23号、25号(明治19年3月25日)、38号(同年10月10日)〕。





法政大学大原社会問題研究所          社会政策学会


編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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