高野房太郎とその時代 (24)4. アメリカ時代(2)コスモポリタンホテルから福音会へ
1886(明治19)年12月19日、房太郎がアメリカにおける第一夜を過ごしたのはサンフランシスコのコスモポリタンホテルでした。なぜそのように断言するかといえば、前回紹介した井山憲太郎の書簡下書きの中にこのホテルのエレベーターのことが出てくるからです。また、なぜ第一夜かといえば、よほどの大金持ちか短期滞在の観光客でないかぎり、渡米者がホテルに泊まるのは到着直後に限られるだろうからです。
冒頭の絵は、コスモポリタンホテルの用箋のレターヘッドからとったものです。ご覧のとおり4階建てで、規模もなかなかのものといってよいでしょう。サンフランシスコのホテルの中では〈安ホテル〉の部類ですが、房太郎の目には、かなりの〈豪華ホテル〉と映ったに違いありません。「イレベーター」などという、まだ当時の日本には1台もなかった文明の利器が備えられていることに彼は驚嘆しているのです。立地もサンフランシスコの目抜き通りマーケット街のすぐ南の便利な場所にありました。正式の住所は5番街の100〜102番地、連邦造幣局(US Mint)の向かい側になります。 いかに格安とはいえホテル暮らしは高くつきますから、そう何日も泊まるわけには行かなかったでしょう。次に彼が宿舎に選んだのは、おそらく在米日本人キリスト教徒の団体〈福音会〉が運営していたサンフランシスコ市内か対岸のオークランドにあった宿泊所だったと思われます。もちろんこれも推測によるものですが、井山の書簡下書きに「福音会」の名が出て来ますから、まず間違いはないでしょう*4。石坂公歴もコスモポリタン・ホテルに2泊して、オークランドの福音会に移っています*5。房太郎もオークランド福音会に行った可能性が高いと考えられます。
福音会は1877年10月、房太郎が渡米する10年ほど前に、アメリカ在住の日本人クリスチャンによって組織された団体です。在米日本人団体としては最も早く設立された組織で、宗教活動だけでなく、身よりのない在米日本人苦学生の救済活動に力を入れていました。創立の中心となったのはメソジスト派の美山貫一、小谷野敬三らでした。彼らはアメリカ人牧師オーティス・ギブソン師をはじめとするメソジスト教団の援助を受け、サンフランシスコ市内に部屋を借り、日本人「苦学生」のために安価な宿舎と食事を提供していたのです。 「福音会はきびしい情況のもとで出発した。会合のために確保した部屋は、ワシントン・ストリート916番にあった中国人メソジスト監督派伝道館の一室であった。その部屋は地下室にあったので窓がなく、きわめて暗く、日中でさえ明かりが必要だった。家具といっても、壊れたテーブルや椅子代わりの蜜柑箱のような木枠だけだった。テーブルに釘を打ち付け、蝋燭を立て、明かりとした。ここに35名の会員が土曜の晩ごとに集まり、ギブソン師の指導で聖書を研究した。会費は月35セント、会員は会長、会計、書記を選出した。初代会長は小谷野敬三であった。
房太郎らが泊まった時は、すでにこの草創期から10年が経っています。福音会も何回かの分裂や統合をくりかえし、所在地も、ワシントン街ではなく、ゼシー街531番に移っており、オークランドに分会が出来ていました*7。おそらく、寝具などはいくらか改善されていたでしょうが、基本的な情況は草創期とそれほど大きな違いはなかったと思われます。 【注】*1 米国桑港寓周遊散人原著・東京石田隈治郎編輯『来たれ日本人──別名桑港旅案内』(東京開新堂、明治19年12月刊)82〜83ページ参照。もうひとつ日本人客をターゲットにしていたのは、ミッション街547番地にあったニューコンチネンタルホテルでした。石田編の前掲書は、ニューコンチネンタルホテルについて「特別下等にて賄付宿泊料とも一日一弗なり。然れどもコスモポリタンホテルに比すれば飲食の器皿并に室内寝台等不潔なり」(84ページ)と記しています。なお、サンフランシスコのCity Directory によれば、コスモポリタンホテルもニューコンチネンタルホテルも、所有者はデニス・バックレー(Denis Buckley)でした。どのような人物かは分かりませんが、房太郎が同ホテルの仕事を辞めたときにバックレーから貰った身元保証書が残っています。 *2 前掲書、83〜84ページ。 *3 「靴工の元祖 城常太郎」鷲津尺魔『在米日本人史観』(1930年、羅府新報社)所収。 *4 「貴書中福音会の規程不行申所にて学業の不相成と貴君等を訪ひし日本人の渡米の不得策を説きし二点は一時小生の脳裏に不快を」 *5 自由党で公歴の同志であった林副重が、徳島監獄に囚われていた村野常右衛門に宛てた明治20年2月4日付けの書簡で次のように記している(色川大吉『新編 明治精神史』中央公論社、1973年、152ページ)。 「石坂公歴氏ニハ十二月二日桑港へ向ケ出帆 同月十九日無事到着 目下加里布尼亜州王駆乱土街〔カリフォルニア州オークランド街〕十五丁目日本人美以美教会ニ寓居罷在候」 *6 ユウジ・イチオカ著、富田虎男・粂井輝子・篠田左多江訳『一世──黎明期アメリカ移民の物語り』(刀水書房、1992年)19ページ。原著書は、Yuji Ichioka THE ISSEI:The World of the First Generation Japanese Immigrant, 1885-1924, The Free Press, New York,1988. *7 同志社大学人文科学研究所編『在米日本人社会の黎明期──《福音会沿革史料》を手がかりに』現代資料出版、1997年刊、247ページ。ただし、後出の注8で紹介する林書簡は、「加里布尼亜州王駆乱土街〔カリフォルニア州オークランド街〕十五丁目日本人美以美教会」と記しており、サンフランシスコだけでなく、対岸のオークランドのメソジスト教会に寄宿した者も少なくないのかもしれない。 *8 『来たれ日本人』所収「ゴールデンゲート福音会止宿所規則」、同書147〜149ページ。
*9 片山潜『渡米案内』(労働新聞社、1901年刊)の第7章「著者在米の経験」に「他の同航者と共にクレ街の日本美以ミッションに行き厄介になりたり。」
と記している。
「之は博識なる余もツイ気づかずに居た事で、そんな大学もあるのかなァなどヽ好い加減に見過ごして居たが、謂はれを聞けば何ァンの事だ、是即ち彼が桑港あたりで皿洗ひ生活を送った事を意味するのである」。 しかし私は、この「ベースメントユニバーシチー」というのは、おそらく福音会のことであろうと想像しています。というのは、福音会が借りた部屋は、どこも家賃の安い地下室=ベースメントにあったからです。福音会はこれを宿泊所とすると同時に、夜学校を開いていましたが、おそらく山崎今朝弥はこうした福音会の夜学校で学んだことを「ベースメントユニバーシチーを出て」と称したのだろうと思うのです。 *10 福音会については同志社大学人文科学研究所編『在米日本人社会の黎明期──《福音会沿革史料》を手がかりに』(現代史出版、1997年)、阪田安雄ほか編『福音会沿革史料』(現代史出版、1997年)、ユウジ・イチオカ著、富田虎男・粂井輝子・篠田左多江訳『一世──黎明期アメリカ移民の物語り』(刀水書房、1992年)などが詳しい。 |
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