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高野房太郎とその時代 (27)




4. アメリカ時代(5)

一時帰国

高野房太郎が寄稿した『読売新聞』、主筆は高田早苗

 1887(明治20)年10月初め、房太郎は帰国しました*1。それも、なんと日本に滞在したのはわずか1ヵ月ほどの短期間です*2。渡米してまだ1年もたっていないのに、なぜ大金を費やして、はるばる日本へ〈とんぼ返り〉の旅をしたのでしょうか? ちょうど満20歳になる直前でしたから、ことによると徴兵検査を受けるためだったのかなと、ふと思いましたが、戸主は徴兵の対象外でしたし、徴兵逃れに留学する人がいたほどですから、この線はまずないでしょう。この謎の答えは、弟・岩三郎の回想にあります。つぎに見るように、ごく簡単な記述ですが、それだけに、かえって帰国目的をはっきり伝える貴重な証言となっています。

 其後一度東京へ帰り(私は第一高等学校に入ってゐた)、長崎にあった小さい山を二百円(今では二千円くらいにならう)で売り、それを資本に商ひをやるべく、再び渡航した。行きの船は三等で船賃は四十弗位であった*3

 つまり、この一時帰国は、房太郎がかねてから抱いていた目的──アメリカで商売を始めること──を実現するためのものでした。いわば、最初の渡米はその下見の旅だったわけです。1年たらずの滞在でしたが、おそらく房太郎は自分の英語力に自信をもち、またアメリカ社会に比較的容易に適応できたことから、これなら異国の地での飛躍が可能だと考えたのでしょう。ただそれには資金が必要で、この帰国はそれを調達するための旅だったのです。
 しかし資金調達といっても、20歳そこそこの若者、それもなんの実績もない男に出資する人がいるはずもありません。けっきょくは、父の死後、蓄えを減らす一方だった高野家に残されていた財産のひとつ、「長崎にあった小さい山」を処分することで200円を得たのでした。当時の200円は大金ですが、とんぼ返りの往復旅費だけでもその半分はかかりましたから、サンフランシスコで日本雑貨店を開業するには、とても足りません。おそらく房太郎は、母にねだって浪花町の家を処分した時の残りの金を出して貰ったり*4、親戚からも、多少は借金したのではないかと思います。

 ところで、いま引用した岩三郎の証言ですが、その細部の正確さには疑問があります。それははたして高野家が長崎に山林を所有していたかどうかという点です。それと言うのも、前にも紹介した高野家『要用簿』に、この「長崎にあった小さい山」の記録がまったくないからです。長崎銀屋町に宅地を所有していた事実は『要用簿』に記載があり、房太郎は父の死後、その地券の名義を書き換える手続きをとっています。仮に山林も所有していたのであれば、同じ箇所に記入されていて当然だと思われるのですが、何らの記録もないのです。ことによると、売却したのは山ではなく、銀屋町の土地だったのかもしれません。
 こうした房太郎の行動は、周囲の人びとからは危惧の念をもってみられていました。なかでも、親代わりだった井山憲太郎──姉きわの夫──は強い懸念をいだいたようです。彼の日記『白雲深処草堂日誌』の1887(明治20)年11月14日付けには、「午前東京米国及長崎ニ呈スル意見書ノ草案ヲ作リ、……入夜意見書ノ浄書ヲナシ十一時就寝」と記されています。意見書のなかみは分かりませんが、井山が房太郎の計画に不安を抱いていたことは確かです。

 この帰国にはもうひとつ目的がありました。それは販売する商品を買い求め、アメリカに送ることでした。彼が考えていたのは日本雑貨の販売でしたから、帰国を機に商品を仕入れたのです。このことは、彼が『読売新聞』に寄稿した「米国桑港通信」の第1回に明記されています。つぎはその該当部分の写真ですが、問題の箇所は下段の5行目以降の割り注の部分です。もっとも、ただでさえ字が小さい上に不鮮明ですから、その部分を引用しておきましょう。

高野房太郎がO.F.T.生の名で『読売新聞』に寄稿した「米国桑港通信」第1回(2)。下段が引用部分。
 「余は今商業家諸君の参考に供せんが為め、我横浜港より雑貨を輸出するに当り、其元価を米金百弗と見積り、其方数を四十英立法尺即ち一噸と仮定し、之に要する経費を左に掲げん。
  一 米金八弗 横浜より桑港迄船積運賃 但し当時カナダ汽船とピーオー汽船と競争を試み居る故、其運賃額も一定せずと雖も、此額は余が十月下旬、即ち両社競争の際輸入したる荷物の運賃なれば茲に掲ぐ。
  一 米金三弗 横浜積込及荷造諸入費
  一 米金卅五弗 海関税(平均三割五分の割)
  一 米金三弗 桑港税関仲次人手数料
  一 米金壱弗五十仙 桑港にての運送費
   〆米金五拾弗五十仙
右は経費の一概をあげたる者なるが、日本に於て米金の値壱円廿五銭と見積り、此経費を日本の価格に替算すれば六拾三円拾弐銭五厘と為り、元価の五割強に当り、加ふるに其生活費用其他店費等を加へなば、此物品は米国に於て凡そ日本金弐百五十弗〔円〕(米金弐百弗)内外に売捌かざるべからざるに至らん。今、当時桑港の税関の海関税を略挙せば左の如し。
陶器六割、絹物五割、漆器三割五分、鼈甲弐割五分、象牙三割、写真弐割五分、扇子団扇三割五分、刀剣三割五分、玩具三割五分、絹傘五割、日傘四割五分、竹細工三割(但細工又は彫をなさゞれば竹は無税)〔『読売新聞』明治20年12月24日付〕」

 この引用箇所をでもうひとつ注目されるのは、房太郎が125円分の商品を仕入れ、それに対する運賃や関税としてさらに63円余を支払っている事実です。往復の船賃100円を加えれば、288円になります。「長崎にあった小さな山」で得た200円では、開業資金として不足だったに違いないと推測した根拠です。

  ところで、この一時帰国は、商売とは別のことで、房太郎の生涯に重要な意味をもつものとなりました。それは、この一時帰国の直後から、彼は『読売新聞』の通信員を委嘱され、〈社友〉として、アメリカから通信を送ることになったのです。もちろん定期的な収入の入るポストではありませんし、原稿料さえはたして支払われたかどうかわかりません。しかし、これによって、彼は新聞通信員としての第一歩を踏み出したのでした。この経験があったからこそ、後年、労働組合の組織活動に従事しながら、その生活費をアメリカの労働組合機関紙誌へ通信を送ることで支えようと企てることになったのでしょう。私としても、これらの通信のおかげで、アメリカ時代の房太郎が、どのような問題に関心をいだき、どのように考えていたのかを知る手がかりを得ているわけです。
 無名の房太郎が、『読売新聞』通信員になることが出来たのは、同紙の主筆であった高田早苗との縁故によるものだったことは、まず確実です。「横浜時代」で述べたように、高田早苗は、横浜の若者たちがつくっていた講学会主催の講演会に講師としてたびたび出席し、幹事である房太郎のことも知っていました。おそらくこの一時帰国の際に、房太郎は、その年に『読売新聞』主筆となったばかりの高田早苗と会ったのでしょう。帰米するとすぐ、房太郎はO.T.Fのペンネームで、『読売新聞』へのを寄稿を開始しています。その「米国桑港通信」第1回は、明治20年12月22日付に掲載されましたが、その内容については、また後でふれることになるでしょう。「洋行論」の影響といい、この『読売新聞』通信員といい、青年時代の高野房太郎を理解する上で、高田早苗*5の存在は無視し得ないものがあります。



*1 『読売新聞』明治21年5月1日付に掲載された 「米国桑港通信」第2回に、「昨年十月余が一旦帰朝したる際」とある。
また、1892年1月13日付け高野岩三郎宛書簡でも、「四年前小生再航の節」と記している。

*2 「米国桑港通信」の第1回分の執筆日付けは1887(明治20)年11月29日です。つまり11月末にはアメリカに戻っています。また、井山憲太郎の日記の11月14日の項に、「東京米国及長崎ニ呈スル意見書ノ草案ヲ作リ」とあります。したがって、この日記が執筆された11月14日以前に、房太郎はすでに日本を離れていることが分かります。

*3 「兄高野房太郎を語る」『明日』1937年10月号。「私は第一高等学校に入ってゐた」とありますが、当時の正式名称では、「第一高等中学」で、岩三郎は1887(明治20)年9月に、その予科三級に入学していました。

*4 房太郎がアメリカへ戻って半年もたたない翌年3月、高野家の財政がきわめて逼迫していたことが、井山憲太郎の日記でわかる。「コノ夜東京ヨリノ来信ヲ見ルニ財政困難ノ向キヲ報ズ。実ニ読ムニ忍ビザ〔ル〕悲惨ノ情アリ」(『白雲深処草堂日誌』1888(明治21)年3月17日付)。

*5 高田早苗(1860〜1938) は東大卒業と同時に東京専門学校(後の早稲田大学)の創設に参加し、政治・法律を担当した。『読売新聞』主筆となったのは、弱冠27歳のときである。1921年から31年にかけ、大隈の後を受けて早稲田大学総長となった。 坪内逍遙とは大学時代からの親友で、逍遙が高田早苗の感化で西洋小説を濫読するようになったという話は有名である。「当世書生気質」のモデルとしても知られている。また改進党系の衆議院議員、文部大臣などとして、政界でも活躍した。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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