高野房太郎とその時代 (28)4. アメリカ時代(6)日本物産店──夢の実現と破綻
アメリカに戻った房太郎は、すぐ日本物産店オープンの準備にとりかかりました。日本から送った荷物の通関手続きをはじめ、商品の仕入れルートの確保、店を開く場所を探して家屋の貸借契約を結んだり、広告の文案を考えるなど、未経験のことがらを、つぎからつぎへと片づけなければなりませんでした。いくら英語ができるといっても正規の教育を受けたわけではなく、アメリカ生活も1年余でしかない二十歳の若者が、法律や慣行の異なる外国で、このように込み入った問題を処理するのは、容易なことではなかったでしょう。 ところで、それ以前に解決しておかなければならない大問題がありました。ほかならぬ資金の確保です。つまり、彼が日本からもちかえった金額では、サンフランシスコ市内に店舗を構えることなどとういてい不可能だったのです。房太郎はその創業費を約300ドルと試算しています。日本円なら400円を超える額です。それには、出資者か共同経営者を募るほかありませんでした。いつごろ、どのような経緯で、またどのような条件で約束したのか分かりませんが、最終的に房太郎は NAKAGAWA U. & Co (中川商会) の共同経営者として実業界にのりだしました*1。共同経営者といっても店名にTAKANOの文字がないところをみれば、主たる出資者はジェシー街521番地に住んでいたナカガワ某氏*2だったのでしょう。店舗はストクトン街10番地(10 Stockton)におかれました。これは、サンフランシスコの中心部を横切る大通りのマーケット通り(Market Street)とストクトン通りが交差する角地に近い場所です。市内随一の広場ユニオン・スクエアにも近く、立地面では文句なしの一等地でした。販売した商品は、ハンカチなどの絹製品、陶磁器、漆器、鼈甲細工、象牙細工、絵はがき、扇子・団扇・日傘など竹細工類でした*3。 開店したのが何時だったか、確かなことは分かっていません。ただ私は、1888(明治21)年の5月中旬であったのではないかと推測しています。それは、房太郎が1888年5月13日にサンフランシスコ市内で写真を撮影し、これを井山憲太郎・きわ夫妻に送っている事実があるからです*4。冒頭に掲げた写真がそれですが、これは、少年時代からの夢であった高野家再興の第一歩を踏み出したことを記念すると同時に、故国の親族への手紙に添えるために撮ったに違いないと思われます。眉をあげて、遠くを見ているような、いかにも希望にみちた若者の凛々しい顔だちですが、どことなしか当時の二十歳の青年にしては幼さを感じさせます。 しかし、房太郎の夢はいとも簡単に消え去りました。〈中川商会〉は、開店後わずか7、8ヵ月で破綻してしまったのです。この事実が分かるのは、岩三郎が「兄高野房太郎を語る」のなかでつぎのように述べているからです。 「始めマーケットストリートに日本品の商店を出し、バザーなどをやったが美事に失敗して店をたヽんだ*5。」
もうひとつ、破綻の時期が推定できる、より直接的な証拠があります。それは開店から1年もたたない1889年3月30日付の房太郎宛の手紙です。横浜正金銀行サンフランシスコ出張所の今西兼二が書いたものですが、その宛先の住所は、サンフランシスコではなく、メンドシーノ郡ポイント・アリーナのガルシア製材所気付なのです。スクールボーイ時代に働いたことのある、あのガルシア製材所です。内容は、音信不通になっている房太郎を友人たちが心配していることを伝えると同時に、書籍と洋服の月賦支払いの立て替え金の返済を求めています。なお、この貸し金は銀行の債権ではなく、今西が個人的に高野に用立てたもののようです。彼は房太郎が発起人となって創立した同攻会横浜支会の会員でしたから、二人はいわば旧知の間柄でした。また、友人のなかに中川の名があるところを見ると、事業に失敗はしても、共同経営者と不仲になってはいないことがうかがえます。 明治廿二年三月三十日 では、なぜ、房太郎の事業は、このようにすぐ破綻してしまったのでしょうか? その理由をつぎに考えてみたいと思います。ただ長くなりますので、これについては回を改めて見ることにしましょう。 注
*1 サンフランシスコで店舗を開設する場合の創業費が300ドルに達することは、「米国桑港通信」第2回(1)参照。
NAKAGAWA U.(U. NAKAGAWA & Co.) r. 521 Jessie 実際には、この住所録が出た時には、すでに U. NAKAGAWA & Co.は破綻していたのでしたが。 *2 なお、共同経営者の一人「NAKAGAWA U.」は、新潟県三島郡大野村出身で、後にタコマ市のパシフィック通りに住んでいた中川宇三郎の可能性が高い。この時期にアメリカに在住していた日本人はまだ少数で、姓ばかりでなく名のイニシャルまで一致している人物がほかにいたとは考えにくい。なおこの名は、外交資料館文書『在米本邦人ノ状況並渡米者取締関係雑件』中にある藤田書記官巡回復命書附属文書「Tacoma在住日本人」(明治24年、1891年現在)に記録されたことで残されたものである。その前年まで、高野房太郎もタコマに在住し、パシフィック通りのレストランで働いていた。これも、間接的にではあるが、NAKAGAWA U.が中川宇三郎と同一人物である可能性を示すものであろう。 *3 「米国桑港通信」第1回(2)〔『読売新聞』明治20年12月24日付掲載〕の海関税の内訳参照。なお、かつて房太郎に英語を教えたことのあるキングスランド夫人からの礼状(1888年12月27日付)で、彼が同夫人へのクリスマスプレゼントとしてハンカチとScreen(布張りの衝立か、屏風であろう)を贈っていることが判明する。これらも、おそらく店で扱っていた商品のなかから選んだものであろう。 *4 この写真の裏には次のように記されていた。ハイマン・カブリン編著『明治労働運動の一齣』冒頭の入交好脩氏による「口絵写真解説」参照。 「西暦千八百八十八年五月十三日写之 *5 「兄高野房太郎を語る」の初出は、『明日』1937年10月号。なお、法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.145、1968年10月に再録されている。なお、岩三郎が、「バザーなどをやった」と書いているが、おそらくこれは、日本商品の販売店を英語で、'Jpanese Bazar' と呼んだことを誤解したためと思われる。なお、房太郎は、中川商会での日本物産の販売だけでなく、煙草を日本に輸出することを計画し、1888年10月にノースカロライナの W.Duke, Sons & Co.、ニューヨークのW. S. Kimball & Coなど数社に、輸出価格を照会する手紙を出している。 |
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