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高野房太郎とその時代 (51)




東回り航路(4)
      ─ シンガポール・香港・アモイ・長崎

姉夫妻との再会

シンガポールから香港・アモイ経由長崎へ

 1895(明治28)年2月26日、砲艦マチアスはシンガポールを出航し、最終目的地である東アジア海域に向かいました。南シナ海を一路北上し、3月6日、香港に到着しています。ニューヨーク出航は1894年11月20日のことでしたから、107日もの長い船旅でした。しかし、これで旅が終わったわけではなく、ここからがマチアス号本来の任務の始まりでした。アジア艦隊の一員として、以後2年9ヵ月、黄海や揚子江沿岸を中心に東アジア各地をパトロールする日々が続くのです。任務を終えたのは1897年12月、マチアスは同月16日香港を発ち、ボストンに帰港したのは1898年3月18日のことでした。全日程は実にあしかけ4年、3年4ヵ月に及んでいます*1

 マチアスは、東アジア最初の碇泊地・香港で、3週間を過ごしました。その主たる目的は長旅で痛んだ艦の手入れにあったようで、3月15日から2週間、カウラン(九龍)ドックに入っています。整備を終えたマチアスは、3月28日、香港からアモイに向かい、ここでも3月30日から3週間余、碇泊しています。
  4月21日、マチアスはアモイを出航しました。次の目的地は日本、それも房太郎にとっては生まれ故郷である長崎でした。久しぶりに見る郷里の光景に、房太郎の胸中にはさまざまな思いがわきおこったに違いありません。
  この長崎碇泊は4月25日から27日まで、実質2日の短さでした。それでも、あらかじめ知らせを受けていた姉のキワと、その夫の井山憲太郎がやって来て、房太郎に再会しています。井山家は、長崎からさほど遠くはない肥前唐津で医業のかたわら農業に従事していたのです。
  この時の様子は、キワの手紙で知ることができます。再会直後に、清国芝罘(チーフー)のアメリカ領事館気付で米軍艦マチアス乗り組みの房太郎に宛てて送ったものです。この書簡は、単に長崎碇泊中の面談の事実が分かるだけでなく、房太郎にいちばん近い身内の者が彼をどのように見ていたかを知ることが出来る、数少ない記録のひとつです。かなり長い手紙ですが、全文を現代語訳して紹介することにしましょう。

 五月二日にお出しになった手紙、六日に落手拝見いたしました。出帆の翌日は海が荒れ、そのために到着が遅れた由、しかしながら無事に到着されたとのことで、何よりのことと喜んでおります。
 お目にかかるのは十年振り、お顔を拝見して夢のような心地がし、あまりゆっくりお話しできぬまま、逢ってすぐお別れしなければならず、しばらくはまた手紙でのやりとりしか出来ないのは残念ですが、お互い元気でしたら、別れは逢うのはじめとの諺にもあるように、またお目にかかることができましょう。いずれ事業に成功され名をあげて日本に永住される時にゆっくりお話し出来る日を指折り数えて待っております。
 これからしばらくは、長崎に一週間碇泊される折があっても唐津までお出でくださるのは難しいようですが、もしお出でいただければばこの上なきことと思います。
  貴弟が出発された後しばらくは、貴弟の話ばかりでした。貴弟がいろいろ苦しく辛い生活を送ってこられた様子を聞き、私もあと半日早く長崎に着いていれば直接その話を聞くことが出来たのにと、残念でした。

  あなたはお読みになったことがあるかどうか存じませんが、あの万国史(正確な書名は失念しました)に記されているペールーという起業家が朝夕吟じていた、つぎのような詩があります。
見渡せば野の末山の端までも、花なき里ぞなかりける
今を盛りに咲き揃う、色香めでたきその花も
過ぎこしかたを尋ぬれば、憂きことのみぞ多かりき
霜降る朝には葉を落し、雪降る夜には枝を折り
枯れしと迄に眺められ、集りつどう憂きことの
積りつもりしその中を、こらえ忍びし甲斐ありて
のどけき春にめぐり逢い、新らしく咲き出るこそ
芽出度いな、世の為にとて盟をし、その身の上に
春の花のつぼみは憂きことと、知りなばなどか恨むべき
春の花こそためしなれ、春の花こそ芽出度いな
 貴弟の苦しい生活もこの詩の通りで、目出度い春が来るのを楽しみに、体が丈夫なのは親への孝行、父に代わって最愛の弟のために賤しい労働の辛さに耐え、親への孝行、弟思いの情をもって七八年もの歳月を耐えているのは、私などの及ぶところではありません。このように正道を守り孝行なのですから、いずれ事業に成功し、家名の再興に成功する日が来ることを祈っています。
 その日を目指して勉めや勉め! いずれは成功するというほど先のことではなく、一部はすでに達成されつつあります。他でもありません、岩三郎が二十三歳になるまで一度も落第せず、大学を卒業する栄光の日が近づいているのです。母も女としての道を守って思いやりと情け深さをもって岩三郎を育てているので、訪ねて来た人びとは誰もが、帰った後でもその愛情の深さに感銘を受けています。
 私はこの度、おとみ伯母を訪ね亀太郎さんの様子を見て大いに感ずるところがありました。彼はこの度の戦争を好機として兵站部の一翼を担い、月給四十五円で三ヵ月勤めましたが、あまりの寒さに帰って来たとのことでした。その衣裳をはじめあらゆるものが千円以上の年俸を得ている方々に匹敵するほどのものでした。月給四十五円では到底これほど立派なものを得ることは難しいはずです。いくらかは○○があったから出来たことではないかと思います。母や私は、この男の行きかたには不賛成で、たとえその日暮らしでも人としての正しい道を守ることを望んでいます。貴弟もきっと同感のことと思います。
 しかしながら、これは各人が決めることで我等が是非をいうことではありません。それなりに付き合っていれば良いことです。
 一 日清条約も無事に済んだとのことで、喜んでおります。もっとも政治や外交のことは私のような者が云々することではありませんから、これまで。
 一 私どももようやく本日松浦丸に乗り込んで、帰村いたしました。また御依頼の土産物はつぎのように取り計らいました*2。不足金はお返しくださるには及びません。
  一 壱円三十銭 左門町(反物)、 一 壱円三十銭 八坂町(反物)、 一 五十五銭 荒生屋老母ヘ、
  一 三円六十銭 大津礼造氏(反物)、 一 七円九十銭 藤岡(反物)、 一二円二十銭 井山(手提)、 一 十五銭東京電信、 一 四十銭東京為替手数料、  一 三十円東京送金、
  二十八銭 銀貨交換した際、両替屋より。
 今度ご入来の節は、すでに一度すんでいますから、一円五十銭程度の品でよいと思います。 また聞く所によりますとチーフーは果物が沢山とれるそうで、三四銭で籠盛りがあるそうですから、リンゴかブドウお買い入れください。
 それに、生まれ故郷ですからあちこちから房ちゃん、房ちゃんと言ってくる人が意外に多いかも知れません。見つけたらサンゴの数珠など買い求めておかれたらよいかと思います。おとみ伯母さんにも土産としてお持ちくださるよう。
 一 金指輪有難うございました。おかげさまで金指輪通になりました。
 だんだん暑い気候になりますから、甲板上でうたた寝などしないようご注意ください。草々。
     五月十一日                        井山キワ

  高野房太郎様 

 どうやら、房太郎は義兄とはゆっくり会うことが出来、在米中の生活についてもあれこれ話をしたようです。しかし、キワは長崎に遅れて着いたらしく、辛うじて顔をあわせはしたものの、あまり言葉を交わす時間がなかった模様です。房太郎が、故郷の親類縁者に土産を用意していなかったことを知った姉は、それを注意したのでしょう。房太郎はキワに銀貨50ドルほどを渡し、帰国土産を買うよう依頼しています。もっとも、渡した金の半分以上は、現金で東京の母と弟へ送られていますが。

 ところで、この手紙を最初に見た時は、キワが当時の女性としては異例といってよいほど能筆で、しかも万国史といった翻訳書からの引用もまじえて書いていることに、驚きました。さすがに高野兄弟の姉で、高い教養を身につけていたに違いないと想像したのです。しかし、手紙を何回もながめているうちに、これはどうも女性が書いたものではなさそうだ、と思うようになりました。現代語訳だけでは、私の疑念を説明しきれないので、別ファイルで、手紙そのものの画像と解読文を並べて見ました。ご参照くだされば、私の言いたいところをご理解いただけるのではないかと思います。
  なにより、この筆跡や文体、用語などは、どうみても女性のものではありません。キワの名で出されてはいるものの、どうやら実際にこれを書いたのは、井山憲太郎に違いないと思います。手紙の内容も、部分的にはキワの意見も反映しているでしょうが、どちらかと言えば憲太郎の考えがより色濃く反映しているようです。
  この手紙で目立つのは、姉夫婦が房太郎に立身出世を期待する強い思いです。姉夫婦は、房太郎に高野家再興の期待を寄せ「勉めや勉め」と叱咤激励しています。賤しい労働の身の上から脱却し、身を立て世に出るよう願っているのです。また、この手紙の中で、井山夫妻は、岩三郎が東京大学の卒業という、最高学歴を手に入れる日が近いことに触れ、それに対する房太郎の貢献を評価しています。しかしその一方で、戸主である房太郎が、父親代わりとなるのは当然だとも考えていたように感じられます。
  井山夫妻は、最高学歴を間もなく手に入れるところまで来ている岩三郎を誇りに思う一方で、房太郎に対しては、賤しい労働に従事し、辛い生活を送っている側面しか見ていません。房太郎が在米中に労働問題や経済学について学んでいたことは、この手紙を見る限りではまったく触れられていません。すでに『読売新聞』や『国民新聞』に論文を発表していたことは井山夫妻も承知していたに相違ないと思うのですが。早く米軍の水兵といった状態を脱却して、実業界で成功し、名をあげることをひたすら希望しているのでした。このように、周囲が、房太郎のありように不満をいだき、つねに弟と比べて見ていたことは、房太郎には、相当な精神的負担となっていたことでしょう。



【注】

*1 Dictionary of American Naval Fighting Ships, Vol. IV p 180. 同書のオンライン版DANFS Online(http://www.hazegray.org/danfs/)による。

*2 土産物の贈り先として出てくる人びとは、井山を除き、いずれも長崎居住の高野家の親戚、知己であったと思われる。そのことは『高野房太郎日記』巻末の住所録に、その名、あるいはその家族と思われる氏名が記されている。参考までに、住所録にある長崎在住者全員の氏名住所を列記しておこう。
金市やとし 長崎市銀屋町五一番戸
金市屋とし 長崎市西山七番戸
畑島省吾   長崎元馬込八八番戸
大津礼八郎  長崎市西浜町
藤岡文平   長崎市今鍛冶屋町三十番戸
金市屋亀太郎 同 西山七番戸
山市長重     同 八坂町廿六番戸
なお、八坂町は房太郎らの母ますの実家・山市家の所在地である。
 金市屋としは、西山七番戸から銀屋町五一番戸へ移転したのであろう。西山の方に取消線がある。あるいは、住所録にある「金市屋とし」は手紙にある「とみ伯母」と同一人物かもしれない。であれば、息子と推測される人物の名が「亀太郎」であることから推して、房太郎の父の姉であろう。ちなみに、父仙吉の長兄の名は「亀右衛門」であった。





Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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