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日本労働運動史──1868-1914




1) 政治経済の概況

〔明治維新〕

 1868年は近代日本の出発点であった。この年、2世紀半にわたって続いた徳川将軍による支配は終わった。この明治維新の直接の契機は、欧米の列強がその軍事力を背景に日本に開国を迫ったことであった。明治維新からちょうど10年前の1858年に、徳川幕府はその圧力に屈し、アメリカをはじめオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で、長年の鎖国政策を改め、貿易を認める条約を結んでいた。この条約によって、1859年から、イギリスの綿糸をはじめとする大量の工業製品が日本に流入しはじめ、同時に生糸、茶の輸出は激増した。日本の綿作は壊滅し、生糸を使う織物業者らは原料の高値やその不足に悩んだ。さらに、金銀の国際比価の違いから、金が大量に流出したため、幕府は金の品位をいっきに3分の1に減らす金貨改鋳を実施した。これは急激なインフレーションをもたらし、とくに主食である米の価格は急騰した。全国各地でこうした事態に抗議する民衆暴動が起きた。外国の軍事的圧力や民衆騒擾に対応して、幕府や諸藩は軍備を強化せざるを得なかった。また幕府は、藩に対する統制を強化するため、一度は緩和した参勤交代制をふたたび強め、費用のかかるものとした。ただでさえ財政赤字に苦しんでいた各藩は、その財源確保のため、家臣の俸禄削減や租税の増徴に頼り、下級武士や民衆の生活はさらに困窮した。事態に的確に対処できない幕府に対し、支配層である武士の間にも不満が高まった。幕府反対派が多数を占めた長州など一部の藩は、朝廷と結んで公然と幕府を倒す運動を展開した。最終的には、幕藩体制は幕府や諸藩の財政危機と外国からの圧迫に対する政策をめぐる支配層の内部分裂によって自壊したのである。

 天皇は、それまで5世紀余の間、政治的な実権をほとんど失っていた。しかし、古代から続く天皇の歴史的、宗教的権威は生きていた。幕府も幕府反対勢力も、それぞれの正統性を確保するには、朝廷の支持を獲得することが重要であった。そして最終的には、薩摩、長州など幕府反対派がこれに成功した。この変革が明治革命でなく、王政維新("Restoration"=復古)と呼ばれる理由はここにある。しかし明治日本は、国際、国内両面での深刻な危機を乗り切るためには、自らを統一的な国家として再編し、政治的、経済的自立を確保することが急務であった。このため明治維新は、"Restoration" という言葉が示唆するような単なる反動的政変でなく、〈革命〉的変革としての性格をあわせもたざるを得なかったのである。1871年には、全国260余りの藩が正式に廃止され、中央集権的な明治政府が誕生した。同年末には<士農工商>の身分制度は廃止された。職業選択の自由、移住の自由などが認められ、資本主義経済発展の前提条件が作られた。しかし政治機構は、明治天皇を頂点に、幕府転覆に成功した旧薩摩藩、長州藩などの武士が官僚として実権を握り、専制的な支配をおこなった。

 1889年に大日本帝国憲法が制定され、議会も設置された。議会は貴族院と衆議院から成る二院制であった。貴族院は皇族と、旧大名や明治維新の功労者を任命した世襲制の華族、および多額納税者の互選による議員で構成されていた。衆議院は公選であったが、有権者は25歳以上の男子で、一定額以上の納税者に限られていた。その数は、1890年の第1回総選挙の時で45万人、全人口4000万人の1.1%に過ぎなかった。なお、選挙権資格は1900年に拡大されたが、有権者は100万人弱、人口比では2.2%であった。なお、男子普通選挙権が認められたのは1925年のことである。議会は単独では法律を決める力はなく、天皇の承認を必要とした。また政府は天皇が任命する大臣によって構成され、裁判も天皇の名によって行なわれた。軍隊は天皇直属とされ、内閣や議会の関与を認めなかった。憲法は国民の権利や自由を認めてはいたが、すべて「法律の範囲内」において許されるものとされていた。こうしたことが憲法の定める枠組みであったが、その実態は時代により、また法の執行に当たった関係者の性格によって違うものとなった。

〔経済発展〕

 明治政府は富国強兵、殖産興業をスローガンに、近代技術の導入に力を入れた。軍工廠だけでなく鉄道、電信、鉱山、機械、紡績、製糸、ガラス、煉瓦、印刷など各種産業分野に官営の工場を設立した。これらの工場では、欧米から輸入した機械を備え、外国人技術者を高給で雇い、技術の移転をはかった。この政策はすぐには成果を上げなかったが、1880年代後半に入ると日本経済は成長を開始した。日清戦争(1894ー95)、日露戦争(1904ー05)という2つの戦争を経過して、日本経済は急速な発展をとげ、日本は欧米以外ではじめて工業化に成功した国となった。〔第1図 掲載略〕(2)

 この間の経済成長の起動力となったのは繊維産業であった。開港以来、輸出の主要商品であった生糸の製造は、農家副業としての零細な家内工業に始まり、次第に多数の小規模なマニュファクチュアとして発展した。1905年にイタリアを、1909年には清国を抜いて世界最大の生糸輸出国となった。織物業は当初は国内需要が主であったが、同様に零細な問屋制家内工業から、マニュファクチュアとなり、輸出産業に成長していった。紡績業は国内の織物業の旺盛な需要に支えられ、当初から輸入機械を使用する機械制大工業として急速に成長した。1891年には綿糸生産額は輸入額を超え、さらに1897年には輸出額が輸入額を超えたのである。
 製糸業とともに早期から発展したのは鉱山業であった。銀や銅が鎖国中でも中国やオランダに輸出されていたことが示すように、日本の非鉄金属鉱山業は長い歴史を有し、17世紀後半には世界最高を記録するほど繁栄していた。主要鉱山の大部分は徳川時代に発見されていたが、採掘が進むと坑内の湧水を処理できなくなり、明治維新当時は多くの鉱山は廃山同様となっていた。しかし、1870年代になると、外国人技術者から官営鉱山に伝えられた開坑採鉱への火薬の使用や排水ポンプの導入が急速に普及し、これらの鉱山は再生した。炭鉱業も、はじめは外国船への燃料供給や製塩用が主であったが、輸出の増大と、国内での各種工業の成長にともない、動力源として急速な発展をとげた。
 1872年に東京・横浜間29キロで営業を開始した鉄道も、20年後の1892年には3108キロに達し、さらに20年後の1912年には1万1425キロに及んだ。
 金属機械産業は軍工廠や造船業を中心に成長した。これらの部門では、開国前から幕府や藩政府によって工場が設立され、欧米製の機械設備も導入されていた。明治政府は、これらを接収した上、さらに多数の官営工場を新設し、規模を拡大したたのである。




2)労働争議の概況

 第一次世界大戦前の日本の労働運動は、ストライキや小規模な騒擾が主であった。後に見るように、労働組合もいくつか結成された。しかしその組織力は弱く、短期間存在しただけだった。労働組合をめぐる問題は後で取り上げることとし、まずはこの時期の日本の労働争議の推移を見ておこう(3)



〔第1表〕労働争議およびストライキ件数年次推移(1870〜1914)
年 次労働争議
件  数
う ち
スト件数
年 次労働争議
件  数
う ち
スト件数
1870301893137
187110189476
1872201895117
18731018962514
187400189711281
18750018985340
18760018993419
18771019003722
18783019012616
18790019022817
18803019034126
1881201904108
18827119053022
18833019063622
1884101907234134
18855119089564
18868619094015
18872119104933
188812519114939
1889171019127544
18909519132817
189112819143718
1892177   

〔第2表〕 産業・職業別労働争議件数および比率推移(1870〜1914 5年単位)
産業・職業鉱山業職人不熟練労働者繊維産業金属産業争 議
総件数
期間
1870-74571.4228.600.000.000.07
1875-79375.0125.000.000.000.04
1880-84850.016.3318.800.000.016
1885-891125.036.8511.41125.012.344
1890-94813.81322.4712.11525.911.758
1895-99177.26628.13916.6208.5177.2235
1900-04117.72819.7128.52014.1128.5142
1905-097016.17617.56615.2296.74410.1435
1910-14145.93916.45322.32610.92610.9238
合計14712.522919.418515.712110.31018.61179
年平均数26.23.312.65.019.14.115.62.710.32.28.4

 この2つの表は、新聞や雑誌など多様な資料に残された労働争議の記録によって作成したもので、もともと同一の基準で集計された数値ではない。したがって厳密に統計的な比較は不可能であるが、年次的推移はいちおうの傾向を示しているであろう。なお、明治初期には、充分な通信網をもった新聞が少なかったため、実際に起きた争議でも小規模なものは記録されなかった可能性がある。また、参加人員や継続日数などについての情報は十分に得られていない。しかし、1897年に始まる政府のストライキ統計よりはるかに多くの件数を記録しており、政府統計よりいくらかは信頼できるであろう。一見して明かなように、この間の労働争議の波動は1896年を境に2つの時期に区分できる。さらに細かく見れば、前期は1888年前後で、後期は1906年を境に、違いを見せている。

〔1896年以前の労働争議の特徴〕

 この時期の前半、1887年以前では、労働争議は最高でも8件に過ぎない。それも多くは鉱山の争議で、これだけで総件数の 60% 近くを占め、またストライキより騒擾の形態をとったものが多い。なかでも高島炭鉱では、この時期の鉱山争議の半数にあたる10件の争議が起きている(4)。その他の鉱山でも三池炭鉱で3件、阿仁銅山、尾去沢銅山、院内銀山、佐渡金山で各1件と、著名な大炭鉱、大鉱山ばかりである。
 鉱山業以外の産業では繊維産業が7件と比較的多いが、これは1885年と1886年に、山梨県甲府町で小規模な製糸女工のストライキが5件続いて起き、これが地方新聞に報道されたためである。その前年の1件も甲府の製糸工場のストライキである。1884年まで繊維産業の争議はまったく記録されていない。実際に起きていないのか、たまたま記録されなかったためかは分からない。
 1888年以降、労働争議件数は90年と94年を除き、2桁台に達した。また騒擾よりストライキの形態をとるものが多くなったこと、職人と繊維関係の労働争議が、鉱山と肩を並べる水準に達したことが、それ以前と違っている。

 では、何故この期の前半に、炭鉱・鉱山、とりわけ高島炭鉱において、集団的な暴力)をともなった争議が起きたのか? その原因、というより1つの条件は、当時の日本では、多数の男子労働者が集まる経営は鉱山しかなかったからである。なかでも高島炭鉱は日本最初の近代的技術をそなえた炭鉱で、1869年には蒸気機関を原動力に使用して排水や運搬を行なっていた。高島は、1881年には4000から5000人の坑夫を雇用していたが、これだけ多数の労働者を集めるのは容易ではなかった。しかも、高島炭鉱は本土から離れた孤島にあったから、労働者の募集はいっそう困難であった。そうでなくとも、暗黒で危険な坑内労働に進んで職を求めるものは少なかった。この問題を解決するために採用されたのが、親方労働者による下請け制度である。親方労働者は、必要な人数を集めるためには、個人的な地縁、血縁を利用し、労働者に支度金や旅費を貸し、時には事実に反する好条件を提示するという詐欺か誘拐と同様な手段さえ用いた。いったん雇われた労働者は、借金にしばられ、自由に辞めることさえ出来なくなった。借金を踏み倒して逃亡しようとする労働者がいると、親方はリンチを加え、その移動の自由を制限した。こうした状態におかれた労働者は、すべてに激しい憤懣を抱き、ちょっとしたきっかけで、すぐ暴力を振るった。とりわけ、経営者がしばしば請負代価を切下げたり、その支払いを遅らせたため、会社と親方との間で対立がおき、親方の指揮による争議が起きたケースが少なくない。また作業請負の入札価格などをめぐり親方同士もしばしば対立し、これが鉱夫を巻き込んで、紛争に発展した事例もある。親方労働者による労働者供給請負制は、沖仲仕など不熟練労働者を多数雇用する事業でも採用された。港湾荷役などで多数の労働者が参加した争議が少なからず起きているが、この場合も、労働者が運動を主導したのではなく、親方が争議を起こし、労働者はこれに従った事例が多いと推定される。
 ただし、長い歴史をもつ金属鉱山では、炭鉱とは事情が異なった。ここでは、徳川時代から坑夫(採鉱夫・開坑夫)の間に友子同盟と呼ばれる互助組織が存在した(5)。採鉱夫等は日常的に会合して、意見を交換し、代表者を選出する慣行をもっており、また集会で決定されたことが坑夫の総意として全員を拘束したことが大衆行動を展開する上で積極的に機能したのである。
 なお、1885年、86年に甲府の製糸工場で起きた一連のストには共通の原因がある。すなわち、労働力として周辺地域の通勤女工だけに頼っていた甲府の製糸家が、工場間の女工の引き抜きを止め、賃金の上昇を抑える目的で同業者の間で同盟を結んだのである。ストは製糸業者同盟が、賃金の切下げや罰金の賦課を決めたことに抵抗したものであった(6)。なお、この時期だけでなく、第一次世界大戦以前の製糸業労働争議の半数近くが山梨県で起きている。一方、最大の製糸業地である長野県には全期間を通じて僅かに3件しか争議が起きていない。この両県の相違は、長野の場合、富山県や新潟県などより広い範囲から労働者を集め、寄宿舎制度や労働者を相互に競争させる賃金制等により、労働者を厳しく管理していたためであろう(7)

 ここで検討を要する問題がある。それは、この時期に、職人の争議が予想外に少ないのは何故かということである。明治維新前後に、多くの手工業の職人の生活は激変した。徳川時代、職人の最大の得意先は武士であった。職人は、刀や銃などの武器、あるいは奢侈品など、主として武士の需要を満たすため城下町に集められた。明治維新にともなう武士の没落は、これら武士を顧客とする職人の没落をも招いたのである。武士だけを顧客としたのではない手工業職人も、開国後、欧米から輸入された商品や新技術によって小さからぬ影響を受けた。たとえば釘製造職人のように安い外国製品の輸入によって職を失ったり(8)、木挽職人のように製材機械の輸入によって旧来の熟練が役に立たなくなるものも、少なくなかった。さらに明治政府は、〈仲間〉の解散を命じ、仲間が商品価格を規制することを禁止した。にもかかわらず、こうした激変に対する労働者の抵抗は、ほとんど見られない。
 こうしたことは職人だけでなく、近代産業の各分野でも見られた。たとえば、鉱山は労働者の抵抗が目立った分野であるが、そこでの争議の争点は、大部分が賃金問題や監督者排斥などで、採鉱や開坑に火薬を使用することに対する反対、鑿岩機の導入に対する反対、洋式熔鉱炉の導入に対する反対運動などは全く見られない(9)。このように、新技術の導入に対する抵抗がほとんどなかったのは、日本の労働運動の重要な特徴である。また、賃金の引き上げ要求や引き下げ反対の争議はあっても、出来高賃金制に反対したり、労働時間の短縮を求める争議はまったくない。その原因は、前近代社会における都市の特質や職人組織の性格、具体的にいえば西欧的なギルドの伝統の欠如によると思われる。これについては後で改めて取り上げよう。
 なお、鉱山だけでなく工場でも集団的暴行はしばしば起きているが、"machine breaking" はほとんどない。暴行といっても、事務所の窓ガラスを割る、係員を殴るといったことが大部分であった。この点は、後の大規模な騒擾の場合でも同じである。監督者に対する暴行といっても、死者が出た事例は稀である。

〔1897年以後の労働争議の特徴〕

 第2期は日本の資本主義が急速な成長をとげた時期である。この期の始まりの年である1897年は、また日本における近代的労働組合の出発の年でもあった。後述する労働組合期成会とその最初の組織化の成果である鉄工組合が、この年に誕生したのである。
 労働争議の発生件数でも、1897年は従来の水準とは比較にならない高さに達した。この1年だけで、それまでの10年間の総計を上回るストライキが起きている。この年の7月から、政府がストライキ統計を作成し始めたことにも、ストライキが重要な社会問題として意識されたことを示している。1898年以降、ストライキの波は低下傾向をたどる。それでも、その水準は1896年以前の2〜3倍の高さである。注目されるのは、近代的な工場・鉱山や鉄道業における労働争議が増加し、また争議が突発的でなく、組織的な準備をした上で開始するものが出始めたことである。
 その典型というより、むしろこの時期としては先進的な事例は、日本鉄道会社の機関車乗務員の争議である(10)。1898年2月に始まったこの争議は、日本最大の私営鉄道における企業内での身分の改善、昇給などを要求したものであった。機関士らは、秘密組織をつくり、各自が匿名で要求書を会社に郵送するよう呼びかけた。同時に列車の運行規定を機械的に守ることで列車をゆっくり走らせる〈遵法闘争〉を始めた。会社側が首謀者を発見して解雇したのをきっかけに、全機関庫に暗号電信で指令が発せられ、機関士はストライキに突入、同社の全線で列車がとまった。結局、会社側は機関士の代表との交渉に応じ、ストライキは労働者の勝利に終わった。またその前年には、横浜と東京の船大工が組合を組織した上で、賃上げを要求する争議を起こしている。

 後半の画期となる1907年は、10年前のピークをさらに超える労働争議が勃発し、第一次世界大戦前の最高を記録した。とくに産銅額が日本第1位と第2位の足尾銅山(11)、別子銅山で大規模な鉱夫の暴動があり(12)、軍隊が出動してようやく鎮圧した。この足尾銅山にも一人の社会主義者が組織した労働組合が存在し、その指導のもとで賃上げ運動が発展していたのである。暴動は、この組合を潰そうとした飯場頭等による挑発行動として始まったが、挑発者の予想を超えて大規模な騒動となった。この年には鉱山をはじめ軍事工廠や造船所などを中心に、230件をこえる労働争議、130件をこえるストライキがおき、数万人の労働者が参加した。
 では、こうした労働争議の高揚は何によるものであったのだろうか? 1897年の争議の急増の背景に消費者物価の上昇があったことは、当時から指摘されている。日清戦争の後、政府は軍備増強のため煙草の専売制の導入、酒税の新設など大衆課税による増税政策をとったため、物価が上昇したのである。都市部の消費者物価は前年比で14.3%の上昇であった。とくに1897年は米が不作であったため、食品価格の上昇率が20.6%と際だっている。 食品の値上がり傾向は1895年から続いており、4年前に比較すると1897年の食品価格は、実に42.2%も上昇していた(13)
 また1907年に労働争議が多発したのも、物価騰貴により実質賃金が低落したことに大きな原因があった。この時の物価騰貴は、20億円にのぼる日露戦争の戦費をまかなうため政府が間接税を中心とする増税政策をとり、さらに煙草専売制度の強化・塩専売制度の導入、外債募集による日銀券の増発を行なったことによるものであった。とりわけ専売制度の導入が塩、味噌、醤油などを生活必需品の騰貴を招いたのである。
 このように、労働争議のピークは、消費者物価、とくに食品価格の値上がりと密接な関連があったことは確実である。争議の主な要求も賃金の引き上げであったこともこれを裏付けている。
 ただ、この時期の労働争議の増加を、単に物価騰貴による生活困難だけで説明することはできない。というのは、労働争議の参加者の多くは、最底辺の労働者ではなく、むしろ相対的には〈高賃金〉を得ていた人びとであったからである。たとえば、日本鉄道会社の機関士の賃金は、1898年の争議当時でも、他の職業と比べいちじるしい高水準であった。にもかかわらず彼らが賃金増額を要求したのは、日清戦争後の物価騰貴によって、他産業の労働者の賃金は一般に上昇したのに、機関士の賃金は停滞していたからである。また、1907年の一連の争議の口火を切り、他の争議の点火剤となった足尾銅山の場合でも、賃上げ運動を展開したのは、労働者の中ではもっとも高賃金を得ていた採鉱夫であった。もちろん彼らも窮乏していた。しかし、その〈窮乏〉は食うや食わずといったものではなく、それ以前に、他職種の労働者に比べ、また他産業の労働者に比べて、相対的に〈豊か〉な暮しを経験した時期があったからであった。
 そうした相対的な豊さが失われた時、あるいは失われそうになった時、何かのきっかけで、彼らは運動に加わったのである。こうした傾向は、日本鉄道や足尾銅山だけでなく、過去に急速な拡張期をもっていた大経営一般に当てはまる。たとえば、1907年には足尾のほかにも、別子銅山、夕張炭鉱、幌内炭鉱で暴動がおきているが、これらの鉱山や炭鉱は、暴動時においても、他の鉱山に比べ相対的に<高賃金>であった。このように、相対的に労働条件の好い企業で暴動や争議が集中して起きたのは何故であろうか? 私はその理由を次のように考えている。これらの企業では、労働争議に先立つかなり前に、急速に生産を拡大した時期があった。そうした際は、周辺地域だけでは急増する労働力需要をまかないきれず、他の企業より相対的に高い賃金を払って広い範囲から労働者を集めなければならなかった。また、それらの経営は、一般に生産性が高かったから、相対的に高賃金を支払うことが可能であった。しかし、こうした企業でも、必要な労働力が確保された後は、賃金の上昇傾向は抑えられていった。しかし、労働者はいったん高い水準で形成された生活・消費構造を簡単には切り下げ得ず、また、親方労働者による中間搾取など、そうした高い賃金水準を前提に形成されていた収奪の仕組みも、実質賃金が下がったからといってすぐになくなりはしなかった。このため、インフレになると、家計に赤字が生ずるか、生活水準を切下げるか、おそらくその双方が避け難く、労働争議参加への誘因となったのである(14)。しかも、こうした多数の労働者を擁する大企業では、経営機構が官僚的となり、労働者の不満を的確に把握し、解決できる条件が整っていなかったのである。

〔労働争議の日本的特質(15)

 ところで、もうひとつ日本の労働争議の特徴として注目されるのは、ブルーカラーに対する差別をめぐる争いが少なくなかったことである。日本の労働争議には、単なる経済問題をめぐる争いでというより、道徳的あるいは感情的な争いを伴うものが少なくない。一般に激化した争議では、労働者の日頃の憤懣が爆発し、それだけに彼等の本音が表面化する。その本音とは何かといえば、〈差別にたいする憤懣〉であり、〈人並みに扱え〉という要求であった。技師や職長が労働者を著しく軽蔑したこと、資本家、経営者の誠意の欠如、人情を無視した行動などが争議激化の重要な要因となっている。後に見るように、労働組合運動においても、組合参加者は労働条件の改善といった経済的な問題より、労働者の社会的地位の向上、人格尊重といった呼びかけの方に強い関心を示している。もちろん、日本の労働者も賃金に無関心ではありえなかった。ただ、彼等の意識では、賃金の額は企業内の〈身分〉の反映であった。一般に、当時の日本では、高い身分の者は、道徳的にも優れている、というより優れているべきである、とされていた。そこでは、俸給や賃金の高さは、単なる経済問題ではなく、その人の人間としての評価の反映であったのである(16)

 何故こうした意識が生じたかといえば、やはり明治維新の改革の性格と関連があると思われる。明治維新によって封建的な身分秩序は崩壊した。身分制度の廃止は単なる建前ではなく、士農工商身分の解体という実質をともなっていた。このことは、幕藩体制のもと、生まれながらの身分によって制約されていた下級武士や農民、職人、商人等にとって、積極的な意味をもつ変革であった。しかし、維新後の社会は文字通りの平等を実現したわけではなく、職業による社会的な地位の違いは明瞭に存在した。天皇を頂点とする支配の体系は、社会的にも、企業内にも貫徹していた。権威、権力からの距離によって身分の高さが決まることに変わりはなかった。新たな職業である工場労働は、人びとが経済的窮迫からやむをえず従事するものであったから、一般社会は彼等を〈下層社会〉として蔑視しがちであった。工場労働者が職工と呼ばれるのを嫌い、しばしば職人と自称したことが示すように、工場労働はこれまで長い間なじんだ農工商身分よりさらに低いものとされた。労働者は一般社会においてだけでなく、経営内でも差別された。工場には生産そのものが要求する分業の体系、職務の序列がある。身分社会での生活体験しかない人びとにとって、こうした職務の序列を身分関係として理解するのは、ある意味で当然であった。
 日本の労働者もこの身分関係自体を否定したわけではない。ただ彼等は、自分が下層社会の一員として、あるいは企業内で底辺の存在として見られることを、やむを得ないこととは考えなかった。日本の労働者にとっては、労働者の子は労働者であることを当然と考え、労働者階級の一員であることに誇りを抱くといった価値観や "them and us"といった考えは、無縁であった。彼等は企業内における身分の上昇や、一般社会における地位の向上を重視していた。端的に言えば、日本のブルーカラー労働者は、労働者であることを何とか止めたいと思っている人びとであった。自分が駄目なら、子供には教育を受けさせ、労働者であることを止めさせたいと思っている人びとであった。
 問題は、彼等が差別一般を否定していたわけではないことである。徳川時代の日本は、身分社会ではあったが、同時に、能力主義的な傾向も強かった。身分が上の者は人格的にも、能力面でも優れているべきであるとされていた。明治維新後、学校制度の確立とともに、こうした能力主義的な価値観は、いっそう強まった。能力がすぐれているなら、身分が上であっても差し支えない。能力が劣っている者が、自分より上の身分であることに強い不満を抱いたのである。ところで、企業内での職位=身分を決めたのは学歴であった。小学校卒業であれば肉体労働者、中学校卒業者は下級職員、大学を卒業した者はいずれは経営者になることを約束されていた。もちろん、学歴もある程度は各人の能力の反映である。だが、日本の労働者が強い不満を抱いたのは、学歴が、個人の能力より親の経済状態によって左右されたからである。日本では、義務教育の普及は早く、(学習院のような)僅かな例外はあったが、小学校は、親の社会的地位を問題にしなかった。地主の子も小作人の子も机を並べて勉強し、そこでものをいったのは成績や腕力であった。しかし小学校を卒業すると同時に、親の経済状態によって大きな違いが生まれた。家が貧しければすぐ働きに出なければならず、小学校卒業だけでは、いかに能力があっても肉体労働者にしかなれなかった。こうした事態に対する憤懣が、活動家が労働運動に参加する動機として、大きな意義をもっていたのである。労働運動の担い手が、最低辺の労働者であるより、相対的には高賃金の労働者が多かったことは、この層が能力があり、こうした差別に敏感であったことにもよろう。日本鉄道会社の機関士が、ストライキに際して要求したのも、会社内での昇進であった。会社はこの要求を認め、労働運動の中心的な活動家を職制に登用したのである。労働組合は、これによって活動的な組合員を失うことになるにもかかわらず、これを大きな成果として歓迎したのである。


3) 労働組合運動

〔労働組合の概況〕

 日本の労働組合運動の出発点となったのは、1897年7月に発足した労働組合期成会であった。もっともこの会そのものは労働組合ではなく、労働組合運動を促進するための宣伝・教育団体であった。その会員も労働者だけでなく、知識人や、ごく少数ながら労働運動に好意的な資本家さえ含んでいた。期成会の創立を企てたのは、1891年に、サンフランシスコで、在米日本人による労働問題の研究会・職工義友会(17)をつくっていた高野房太郎、沢田半之助、城常太郎らであった。彼らは、アメリカの民衆の高い生活水準に感銘を受け、それを支える基盤としての労働組合を発見し、日本にもこれを組織しようとしたのである。トップリーダーの高野は、アメリカ滞在中に、アメリカ労働総同盟のサミュエル・ゴンパーズ会長にも会って教えを受け、正式にAFLの日本オルグ に任命されていた(18)。後にコミンテルンの執行委員会のメンバーとなる片山潜も期成会に参加し、高野とともに運動を指導した。高野らの呼びかけに応じて労働組合期成会に参加した中で多数を占めたのは金属機械産業で働く労働者であった。彼等は、同年12月に、鉄工組合を結成した(19)。鉄工組合は短期間で発展し、結成1年後には32支部、3,000人を組織した。最盛期には東日本を中心に42支部を有し、入会者は延べ5,400人に達している。このうち11支部は東京砲兵工廠、6支部は石川島造船所の工場、5支部は日本鉄道会社の車両修理工場や機関庫である。
 なお、鉄工組合の創立と同じ日、片山潜は『労働世界』を創刊し、その主筆となった(20)。『労働世界』は、鉄工組合や期成会の活動を報じ、その事実上の機関紙としての役割を果たした。しかし、あくまで片山個人が発行した新聞であったから、後に彼が社会主義に接近するにつれて、期成会との間には微妙な対立が生じた。
 高野は、鉄工組合を、アメリカ労働総同盟をモデルとするクラフト・ユニオンにしようと考えていた。しかし、現実の鉄工組合はクラフト・ユニオンとは、ほど遠い存在であった。組合は労働市場を統制する力など持っていなかったからである。鉄工組合の組合員資格そのものが、徒弟制度を修了した熟練工だけに限っていなかった。金属・機械産業に働く労働者であれば、誰でも組合員として認めたのである。そればかりか、組合が衰退傾向を示してからは、加入を希望する者であれば、金属労働者でなくても受け入れている。こうした状況では、組合が一方的に賃金などの労働条件を決定できるはずもなかった。
 鉄工組合が、組合員募集のためのセールスポイントにしたのは、怪我や病気で働けない組合員に手当を出す共済活動であった。しかし、クラフト・ユニオンとしては不可欠の失業手当の制度はなかった。共済制度は労働者を組合に引きつけるのに役立った。だが、実際には、結成から僅か2年足らず後には、この共済活動が組合財政を圧迫し、組合の衰退を招く一因となった。

 鉄工組合の他にも、1898年4月はじめに、2月のストライキに勝利した日本鉄道会社の労働者は矯正会を組織した(21)。矯正会は、日本鉄道会社の機関士、火夫だけを組織した企業内組合であった。しかし、ストライキを契機に組織されただけあって、労働条件の維持改善をはかるという点では、鉄工組合よりもはるかに強力であった。ただ、他の鉄道会社の機関士等が矯正会への入会を希望したのに、これを拒否し、あくまで企業内組織にとどまった。なお、前述のように日本鉄道会社には、鉄工組合の支部が存在したほか、線路工夫も独自の組合を組織して待遇改善運動を行なっている。
 同じころ、東京の印刷工も労働組合を結成した。印刷工は、労働者の中では、高い知的水準を必要としたにもかかわらず、その賃金は低かった。このためもあって、印刷工の労働組合組織の企ては早くから始まっていたが、労働組合期成会の影響でようやく成立したのである。

 しかし鉄工組合をはじめ、これらの労働組合はいずれも3〜4年ていどしか存続しなかった。こうした結果をもたらした理由は後で検討したい。ただ、直接の原因は、政府が労働運動に抑圧的な政策をとったためであった。その政策を象徴するのは、1900年3月に制定された治安警察法で、この法律は生まれたばかりの労働組合運動に大きな打撃を与えた。
 もっとも治安警察法によって、労働組合運動が完全に挫折してしまった訳ではない。1902年には、夕張炭鉱の鉱夫・永岡鶴蔵、南助松を中心に大日本労働至誠会が組織された(22)。永岡は片山潜の影響で、日本全国の鉱山労働者を組織することを決意し、1903年に、日本最大の銅山・足尾銅山に入り、組織活動を展開し、警察や会社の妨害を受けながら、これに成功し、1907年はじめには賃上げ要求を軸に坑夫の間に影響を広げた。しかし、前述のように挑発的な暴動によって、多数の組合員が警察に逮捕され、組織は壊滅した。

 1912年には東京帝国大学の卒業生、法学士・鈴木文治が友愛会を結成した。友愛会は、労働組合への発展を意図してはいたが、結成当初はまだ労働者の親睦団体であり、団結して労働者の社会的地位の向上を目指す団体であった(23)。鈴木は、労働者自身が労働の神聖を自覚し、技能を磨き、修養を積むことで、一般社会に受け入れられる人となる努力をするよう説いたのである。その呼掛けに応えたのは、金属機械工業の熟練労働者、ついで海員であった。第一次世界大戦を機に、造船業や電機産業など日本の金属機械産業は急成長をとげた。これにともない賃金労働者も急速に数を増した。第一次大戦後には、ILOの創立など国際的に有利な環境にも助けられ、友愛会は日本を代表する労働組合へと成長することになる。しかし、1914年では、友愛会は会員3,000人程度の小組織に過ぎず、まだ親睦団体としての性格が強かった。


〔日本の労働組合運動の特徴〕

 いずれにせよ労働争議がかなりの頻度で発生し、集団的暴行をともなう激しい形態をとった事例も少なくないのに比べ、この時期、労働者の組織的な運動は弱体であった。また、労働組合の組織人員は、その組織対象となる労働者数に比べて余りに小さかった。
 たとえば、この時期のもっとも先進的な労働組である鉄工組合をとってみよう。その組合員数は最高時でも3,000人程度で、組織対象となる金属機械産業の労働者数約6万人の5%に過ぎない。しかも、実際に会費を納入したのは、その半数以下であった。その支部も、大部分は東京周辺に限られ、大阪、呉など西日本にはまったく組織基盤をもたなかった。また、その組織が実質的な活動を行なったのは3〜4年の短期間であった。矯正会も1901年には治安警察法に勢いづいた会社の圧迫と、警察の弾圧に屈して、組織を解散している。
 問題は、当時の労働組合が、労働条件を維持向上させる上できわめて弱体であったことである。なにより、日本にはクラフト・ユニオンの名に値する組織はほとんどなかった。地域的に、同一職業の者を完全に組織し、その労働市場の支配権を組合が握ることはなかった。熟練労働者の訓練は会社側が行なうことが多く、労働組合は熟練労働力の供給を規制出来なかったのである。もちろん、だからといって、日本に労働組合が存在しなかった訳ではない。矯正会が創立以前にストライキによって労働条件を引き上げた事実はあり、大日本労働至誠会も賃上げ運動を展開している。ただ、日本の労働組合はストライキの他には、労働条件を維持改善する手段をもたなかったのである。だが、どの組合もストライキを行なうには財政的に弱体で、しかも治安警察法は事実上これを禁止していた。
 今日に至るまで、日本の労働組合の多くは、企業の枠を超えて労働条件を規制する力がきわめて弱い、いわゆる〈企業別労働組合〉である。ほとんどの組合は事業所別の組織である。もっとも、鉄工組合や友愛会は複数の企業に支部を有していたから、外見的にはクラフト・ユニオンと変わらないように見える。実際、従来の日本労働運動史では、鉄工組合をクラフト・ユニオンと規定している(24)。しかし、その実態は、同一企業の同じ職場の労働者から成る支部の集まりであった。地域的に、同一職種を組織する支部は存在しなかった。このため、組合員が解雇されたり退職すると、自動的に労働組合からも離れることになりがちであった。
 むしろ、鉄工組合にせよ友愛会にせよ、この時期の労働者団体のうちで、ある程度成功したものに共通して見られる性格は、労働者の社会的地位の向上を目標としたことであった。とりわけ労働者が自ら修養をつみ、技術を錬磨することで一般社会に認められようと主張するものであった。労働者の酒浸り、博打の流行、喧嘩といったことは、運動の指導者だけでなく活動家の間でも矯正を要することと考えられていた。日本鉄道会社の矯正会がそうした〈旧弊〉を是正する意味を込めて矯正会と名乗り、禁酒運動を展開したのはこのためであった。また、『労働世界』も、労働者間での博打の流行に反対し、貯蓄を奨励している。こうしたことは、日本のブルーカラーが、社会的差別に強い憤懣を抱いていたことの反映であったに違いない。


4) 政治運動

〔知識人中心の社会主義運動(25)

 労働者の被選挙権はもちろん選挙権も認められていなかったから当然だが、この時期、労働者が政治活動に積極的に参加することはなかった。労働組合期成会にしても、その政治活動としては、工場法案修正の運動を展開した程度である。ストライキを事実上禁止した治安警察法に対してさえ、見るべき反対運動を展開していない。ただし、期成会の活動の中で、警察や日本鉄道会社の労働運動に対する圧迫を経験した片山潜は、次第に政治運動の重要性を認識しはじめる。それと同時に、彼は社会主義的傾向を強め、『労働世界』に〈社会主義欄〉を設け、海外の社会主義運動の情報を伝えた。この当時の片山の〈社会主義〉は、大日本帝国憲法のもとでも、普通選挙さえ実現すれば、議会を通じて革命が可能であるとするものであった。それでも、こうした片山の主張は、穏和な労働組合主義に立ち、社会主義反対の立場をとる高野房太郎の主張と対立した。
 日本における社会主義運動は、知識人による社会主義の学術的研究から始まった。その中の一部の人々は、次第に社会主義を信奉するようになり、1898年には片山潜、安部磯雄らによって「社会主義の原理とこれを日本に応用するの可否を研究」する社会主義研究会が設立された。1900年に同研究会は一歩を進め、その名も社会主義協会と改め、社会主義の宣伝啓蒙運動を開始した。さらに、その翌年、安部、片山らは、日本最初の社会主義政党、社会民主党を結成した。同党は、その綱領に、階級制度の全廃、軍備の全廃、生産手段の公有など8カ条の「理想」と、貴族院の廃止、普通選挙の実施、治安警察法の廃止、労働組合法の制定など28カ条の当面の要求を掲げた。しかし、政府は直ちにこれに結社禁止を命令した。この党の発起人は6人であったが、注目されるのは幸徳秋水を除く全員がプロテスタントのキリスト教徒であったことである。日本鉄道会社の矯正会の中心的な活動家もクリスチャンであり、また禁酒運動に熱心な人々であった事実が知られている。日本全体ではキリスト教徒は1%を越えたことはないのに、日本の初期社会主義運動では、キリスト教徒が高い比重を占めたのである(26)
 何故このようなことが起きたのか? ひとつには明治維新まではキリスト教が禁止されていた日本で、また宗教的色彩の濃い天皇制の支配の下で、しかも家父長的な家族制度によって自由を束縛されていた個人が、キリスト教徒となるのは、周囲の強い反対を招いた。こうした状況では、キリスト教徒は社会制度の矛盾を意識せざるを得なかったからであろう。また、逆に社会制度の不当を意識した人々にとって、キリスト教は、その精神的な拠り所となったこともあろう。さらに、19世紀から20世紀はじめの日本で、金持ちでない者が行くことが出来た外国はアメリカだけであった。当時のアメリカは社会的福音運動(Social Gospel)の高揚期であった。
 なお、外国へ留学した日本人は、科学的、合理的な志向をもつ者が多かったから、キリスト教の中でもユニテリアン(Unitarianism)の影響を強く受けた。たとえば社会民主党の宣言を執筆した安部磯雄や、友愛会の創立者の鈴木文治もともにユニテリアンであったし、社会主義研究会や友愛会の本拠が置かれていたのも日本ユニテリアン協会の本部の建物であった。
 こうしたこともあって、日本の社会主義運動は、理論的、翻訳的な傾向が強く、知識人中心の運動となりがちであった。たとえば『労働世界』をはじめ、当時の日本の社会主義運動の機関紙は必ず英文欄を設けていた(27)。これは日本の運動家の国際的な関心の高さと、国際交流への意欲の高さを示すものではあったが、それだけ普通の労働者の日常とはかけ離れたものとなったことは否めない。

 日本の社会主義者が、ある程度の社会的影響力を示す活動を展開したのは、日露戦争直前と戦争中のことであった。幸徳秋水と堺利彦が中心となり平民社を創立し、『週刊平民新聞』を発行し、日露戦争反対の論陣を張ったのである(28)。彼等は敵国であるロシアの社会主義者にも連帯を呼びかける手紙を送り、また第2インターナショナルのアムステルダム大会には片山潜を代表として送った。
 日露戦争後の1906年1月に成立した西園寺内閣は、社会主義者の運動を認める政策を打ち出したので、堺らは日本社会党を結成した。ただ、社会民主党の経験から、綱領は掲げず、その党則に「国法の範囲内において社会主義を主張す」と定め、解散命令を免れ、日本で最初に活動を認められた社会主義政党となった。しかし、まもなく日本社会党内部に、直接行動による革命を志向し、選挙や議会活動を否定する幸徳秋水らと、普通選挙権の獲得による労働者の議会活動により社会主義の実現をめざす片山潜らとの対立が激化した。結局、1907年の大会で、党則を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改めたことなどから、政府は同党の結社禁止を命令した。その後、直接行動派の中には、天皇の暗殺を口にする者もあらわれた。1910年、政府はこれを利用し、社会主義者が天皇の暗殺を企てた「大逆事件」として多数の人々を逮捕し、幸徳ら12人を死刑に、12人を無期懲役に処した。以後、社会主義者に対する取締りは苛烈をきわめ、社会主義運動は〈冬の時代〉を迎え、その再生は第一次世界大戦の終了を待たなければならなかった。
 いずれにせよ、この時期では、日本の社会主義運動は、基本的には知識人を中心とする思想運動に過ぎなかった。労働組合が弱体であったこともあって、労働者の政治運動への参加は、限られた少数者による個人的な参加にとどまった。そのほとんど唯一の例外は、足尾銅山の大日本労働至誠会の中心的な活動家5〜6人が日本社会党に入党したことであった。労働者や小作人が組織的に政治舞台に登場するのは、第一次世界大戦後、とりわけ1925年の普通選挙権の承認にともない、無産政党が生まれてからのことであった。


5) 分析──労働組合運動が弱体であった原因

 では、日本においては何故、労働組合運動が発展しなかったのか? これが問題である。労働者階級の運動の発展の決定要因は何か、というのがこの国際共同研究プロジェクトの課題であるが、日本の場合は、この課題に反対側から接近する方が比較研究の目的にかなうであろう。要するに、日本における資本主義は、短期間で欧米の後を追うことが出来たのに、労働者階級の運動は、欧米のように安定的で恒常的な組織として発展しえなかった理由を探ろうと思うのである。
 1) これまでしばしば指摘されてきたのは、小農経営の強固な存続によって、全人口に占める労働者の数的勢力が相対的に小規模であったことである。次に掲げる第3表がそのことをよく示している。
〔第3表〕農業労働人口と非農業労働人口の推移
期 間総労働
人口(A)
農業労働
人口(B)
非農業労働
人口(C)
B/AC/A
1872-7521,41415,5555,85972.627.4
1876-8021,73015,6246,10671.928.1
1881-8522,11515,6506,46570.829.2
1886-9022,68315,6257,05968.931.1
1891-9523,45815,5097,94966.133.9
96-190014,11915,6188,50164.835.2
1901-0524,75215,8438,90964.036.0
1906-1025,28816,0049,28463.336.7
1911-1525,95015,76010,19060.739.3
【備考】1) 人口の単位は千人、比率の単位はパーセント。
    2) 出典は梅村又次「産業別雇用の変動:1880-1940」『経済研究』第24巻第2号(1973年4月)



 すなわち農林業に従事するものは1870年代から1915年まで1550万人から1600万人の間を横ばい状態で推移し、ほとんど変化を見せていないのである。一方、産業化の進展にともない非農林業人口はかなりの速度で増加した。すなわち、1872年から75年では586万人、1886〜90年には700万人、1896〜1900年には850万人、1911〜15年には1000万人を越え、40年間で70%以上増加した。しかし、全有業人口に占める農林業人口の割合は依然として高い水準を保ち、1910年代前半においても、60.7%を占めていたのである。非農林業人口比率は、1870年代前半で27.4%、1890年代前半で33.9%、1910年代前半で39.3%にとどまったのである。もちろん、この非農林業人口の数値がそのまま、労働者数を示すわけではなく、公務、商業、サービス業などを含んだ数である。ごく大まかに言って、労働者はこのほぼ半数であったと推定される(29)
 2) さらに、大きな問題は、工場労働者の半数以上は製糸、紡績などの労働者であったが、その90%近くが女子、しかも多くは年少者であった事実である(30)。1903年現在で10人以上を使用する工場労働者48万3,839人中、繊維産業部門の労働者は27万0,974人と56%を占めているが、そのうち女子労働者は24万0,171人、実に89%に達している。実際には、製糸業や織物業では10人未満工場の比率が高いから、女子労働者の比重はさらに大きい。この事実は、日本の労働運動の発展にマイナスの影響を及ぼした。何故なら、彼女らは前近代的な農村の家父長制のもとで、常に服従を強いられてきたのであり、そうした者に、雇用主への反抗を意味する労働運動への参加を期待することは無理であった。加えて、彼女らの大多数は出稼労働者であり、生涯の一時期だけを工場で生活したに過ぎない。彼女らは通常、12〜13歳で入職し、20〜22歳ころ結婚によって退職した。とくに製糸工場の場合は、一般に冬季は休業したから、製糸女工はすべて季節的な労働者であった。このように、生涯を労働者として働くことを考えてもいない農民の娘が、労働者階級の一員としての自覚をもつことは困難であった。彼女らの抵抗は、せいぜい工場からの逃亡、あるいは他の工場への移動という形でしか示されなかった。これらの諸点は日本の労働運動を制約した条件として重要である。
 3) だが注意すべきは、女子労働者が半数以上を占めていたのは工場労働者だけに限った場合のことである。もし鉱山業や運輸通信業など男子労働者が圧倒的多数を占める分野や、男子中心の職人、たとえば大工や石工などを含めて考えると、労働運動の担い手となりうる労働者は、絶対数としては決して小さな数ではなかった。しかも、日本では早くから都市化が進んでおり、労働者階級の多くは東京、大阪などの大都市に集中していた。また、そうした男子労働者を雇用する企業のなかには、大規模事業所が少なくない。1909年には、呉海軍工廠の2万1,000人をはじめ3,000人以上の労働者を雇用する工場や鉱山は30も存在し、その多くは主として男子労働者を雇用する企業であった(31)
 職人の総数を示す統計はないが、主要な職種についての数値は残っている。それによれば、たとえば大工は1880年代から1910年代にかけて16万人から18万人いた。この他、7〜9万人の木挽、2.5〜3.5万人の石工をはじめ杣職、左官、さらに建具職人、瓦職人、屋根職人、煉瓦職人などを合計すると、建築関係の労働者だけでもどんなに低く見積っても30万人を下ることはない。この他にも鍛冶職人、家具工、蹄鉄工、陶工など各種手工業の職人も決して小さな数ではなかった(32)
 労働組合運動の潜在的な参加者たりえたのは、これら職人だけではない。職人の人数は年次による変動が比較的小さいが、運輸通信関係の労働者は、時代を追って急増した。たとえば、鉄道事業の従業者は1885年には1940人に過ぎなかったが、1895年には3万1,451人、1905年には7万7,571人、1914年には15万0,152人と増加している(33)。労働者数そのものではないが、運搬関係の労働者の数を反映する荷車の台数は1878年の17.3万台から1885年には49万台、1896年には105万台、1910年には146万台と伸びている(34)。このように見てくると、第一次世界大戦前においても、日本の労働運動の前提となる労働者の数的勢力は決して小さなものではなかったことは明かである。
 これらの労働者は、経済的にも、社会的にも、さまざまな不満を抱いていた。たとえば、賃金は資本家の利潤と比べ低く、また国際的な水準からみても低かった。とくに2つの戦争の後、軍備増強のための増税による物価の上昇期に、労働者はその実質賃金を減少させ、生活水準は低下した。こうした事態に労働者が強い不満を抱いてたことも、労働争議が多発した事実からも明かである。こうした諸条件を考えれば、労働者が、労働組合を組織し、あるいは参加する必要性を感じていて当然であったと思われる。にもかかわらず労働組合運動の安定的な発展は見られなかった。これは何故であろうか?
 4) これに対する答えとして、しばしば指摘されてきたのは、専制的で強力な政府が存在し、労働運動に対し敵対的な態度をとりつづけていたことである。とりわけ重要なものは、1900年に制定された〈治安警察法〉の第17条で、同条はストライキの誘惑、煽動を刑事罰をもって禁止していた。この法律の制定に示されたような政府の労働組合に対する敵対的な態度、具体的にはさまざまな組合の集会を禁止した警察の弾圧、さらにはそれに力を得た経営者の組合圧迫が、鉄工組合や矯正会の崩壊の直接的な理由であったことは確かである。
 この点に関連して重要なことは、明治政府の労働運動に対する厳しい対応は、日本の労働運動が引き起こした現実の問題に対応するためであるより、先進諸国の先例に学んでの予防治安対策としての性格が強かったことである。警察は労働運動を、その実力以上に警戒し、つねに芽生えのうちに摘みとろうとしたのである。その際、警察は、法律をきわめて恣意的に解釈し、運用した。もともとは労働運動対策のためではない諸法律が、労働争議の抑圧のために適用された。治安警察法(1900年)制定前から、警察は労働運動に対してきわめて敵対的であった。一方、労働者保護法は、資本家階級の反対によって制定が遅れた。工場法が成立したのは1911年のことであり、それが実際に施行されたのは、さらに5年以上後の1916年であった。こうした政治的・法的制約が労働運動の発展を妨げた大きな要因の1つであった。
 だが、労働運動に対する弾圧は日本だけに存在した条件ではない。どこの国でも、運動の初期にはしばしば見られたことである。しかも、治安警察法はストライキの誘惑・煽動を禁じたにすぎない。実際には、こうした法律の存在にもかかわらず、ストライキは多発したのである。一方、日本には、労働組合の組織化それ自体を禁止する法律は存在しなかった。現に、足尾銅山では、治安警察法のもとでも労働組合が組織され、短期間ではあるが存続したのである。こうした事実は、労働運動の組織的な弱さを、政治的・法的な制約だけで説明することが出来ないことを示している。
 5) ここで注目されるのは、日本においては、欧米のようなクラフト・ユニオンがかつて存在したことがない事実である。もちろん日本にも労働組合は誕生したが、それらはクラフト・ユニオンとはほど遠いものであった。鉄工組合にしても矯正会にしても、徒弟制による入職規制は出来ず、というより初めからその意図をもたなかったのである。
 この事実を日本の一部の研究者はつぎのように説明している。すなわち、鉄工組合などが組織基盤としたのは軍工廠や造船所、鉄道であった。これらの企業では、欧米の先進技術を移植したから、日本在来の伝統的技術はそのままでは役に立たたなかった。そのため、重工業の職工は、企業によって養成されざるを得なかった。また、導入された技術は、すでに大量生産に入りつつあった時期のもので、その熟練の性格は、トレードがジョブに分解されつつある段階のものであった。このため西欧のように、手工的・万能的熟練をもった労働者が安定的な層として形成されることがなかった。また、これらの重工業は急速に成長したから、熟練労働力に対する需要を急増させた。こうしたところでは、入職規制による労働力のコントロールといったクラフト・ユニオン政策は問題になりえなかった、というのである(35)
 しかし、実際には、軍工廠や造船所などの近代的な工場でも、鍛冶工や鋳物工など、在来職種の職人の熟練がある程度役立つ職業は存在した。工場内では、労働者の親方が作業を請け負う間接雇用制が存在し、労働者の養成も、親方労働者に任される部分は小さくなかった。また、熟練労働者に対する労働力需要が増加するという状況は、むしろ労働者による労働市場のコントロールを行なうには有利な条件であったはずである。先進技術の導入の問題だけでは、日本にクラフト・ユニオンが成立しえなかったことを十分に説明していない。これをより明瞭に示しているのは、手工業の職人や金属鉱山の鉱夫の事例である。すなわち、明治維新後でも旧来の手工的熟練がものをいい、技術的にも人的にも連続性のある産業や職種はいくつもあった。たとえば大工、石工、左官、瓦職人、屋根職人、建具職人、畳職人など建築関係の職人である。これらの職業分野では、技術習得のための徒弟制はもちろん存在し、また自主的な互助組織も存在した。それにもかかわらず、彼等は入職規制による労働市場の統制を企てていない。さらには、争議についての分析の際述べたように、外国からの新技術の導入に反対する「制限的慣行」も見られない。
 欧米では、労働組合の生成期において、運動の中心となったのは工場労働者よりも職人であった。それなのに、日本では大工など古い伝統をもつ職人がついに労働組合運動の中心的な担い手となったことがない。日本における労働組合運動の弱体の決定要因として、この事実はきわめて重要である。
 6) 何故このようなことになったかといえば、そこには歴史的な要因があると考える。具体的にいうと明治維新以前の日本における都市の性格が西欧の中世都市とは異なっていたことである。徳川時代の日本には、ヨーロッパのような自由都市は存在せず、ヨーロッパ型のギルド=自律的・自治的な商工業者の組織が存在しなかったのである。
 17世紀以降の幕藩体制のもとで、日本の都市は領主の直接の支配下におかれた城下町が主であった。都市の住民組織は、基本的には、領主の支配のために置かれていた。職人組織も、領主の〈役〉=租税としての労働、を負担するための組織として上から作られたものであった。1721年に幕府は組合結成令を発したが、これは物価統制のために、商人や職人に組合を組織させたもので、組合への参加人員の制限を禁止している。もちろん日本の職人組織も賃金や労働時間等について規制しようとしなかったわけではない。しかし、そうした〈職人仲間〉による賃金規制の企ては、物価を引き上げるものとして領主によって禁止された。加入制限の企ても一部で見られたが、同じく領主によって禁止され、それにたいする抵抗は起きていない。生産者がその労働条件などを自主的に決定することは、領主によって禁止されただけでなく、消費者によって社会的に承認されることもなかった。一般の人々も、賃金の協定や組合への参加者数を制限することは、不当であると考えたのである。日本語に、英語の"stint" にあたる言葉が存在しないことは、日本には作業量の自律的規制というギルド的慣行がなかったことを示していよう。
 このことと関連して、相互の競争についての日本と西欧などとの労働者間の考え方の違いが注目される。西欧のギルド慣行では、労働時間や作業量、賃金など、相互の競争の制限こそ基本であった。ところが、日本では、競争を正当とする能力主義志向が強く、能力の高いものは高い報酬をうけて当然であるとする考えが根強いのである。こうした考えが、クラフト・ギルドの欠如を結果したのか、クラフト・ギルドの欠如が、こうした考えを一般化したのか、どちらが原因で、どちらが結果であるかを判断するだけの材料はない。しかし、この違いは、ギルド的慣行が社会的に承認されているか否かによるものであろう。日本の労働運動の歴史には、出来高制に対する反対運動の事例がないに等しいのも、このことと無関係ではない。また、新技術の導入に対しても、日本の労働者はほとんど抵抗してこなかった。欧米の労働組合のいわゆる〈制限的慣行〉は日本にはなかったのである。このことが、企業がつぎつぎと新しい技術を採用するのをきわめて容易にしたのである。クラフト・ギルド、クラフト・ユニオンにとっては、職種の概念が社会的に確立していることが重要であるが、日本ではこの点も弱く、熟練労働者と半熟練労働者、非熟練労働者の区別はあいまいである。日本の労働者が伝統的に、職種間移動に抵抗力をもっていないのもこのためである。また、日本の労働者が、特定の職種に帰属するより企業帰属的であるのも、これとかかわっている。今日の日本の労働組合の大部分が企業別に組織されていることなど、日本の労使関係の重要な特徴は、この craft traditionの欠如を抜きには理解できないのである(36)




〔注〕

(1) 本章のテーマにかかわる日本語の基本文献は、すでに30年余り過ぎたものであるが、次の2冊である。 1) 大河内一男『黎明期日本の労働運動』岩波新書、1952年。
2) 隅谷三喜男『日本賃労働史論』東京大学出版会、 1955年。
 なお、英文の本では、次のものが参考になる。とりわけ、Gordon の本は、最近の日本における労働史研究の成果を吸収した上に、独自の見解を示している。なお、本章では読者の便宜を考え、日本語の文献は統計数値などの根拠および重要な研究に限り、なるべく英語で書かれた文献について詳しく紹介することにしたい。
1) Sheldon Garon, The State and Labor in Modern Japan., Berkeley and Los Angels, 1987.
2) Andrew Gordon, The Evolution of Labor Relations in Japan: Heavy Industry, 1853-1955.,Cambridge Mass., 1985.
3) Robert A. Scalapino, The Early Japanese Labor Movement., Berkeley,1983.
4) Stefano Bellieni, Notes on the History of the Left-Wing Movement in Meiji Japan.,Napoli, 1979.
5) George Oakley Totten, The Social Democratic Movement in Prewar Japan. ,New Haven & London, 1966.

(2) 図1 の出典は篠原三代平編『長期経済統計』第10巻 鉱工業(東京 1972)。

(3)  第1表は青木虹二『日本労働運動史年表』(Tokyo, 1968)および法政大学大原社会問題研究所編『社会・労働運動大年表』(Tokyo, 1986)をもとに、筆者が独自に集めた新聞記事等によって作成した。

(4)  高島炭鉱の暴動については村串仁三郎『日本炭鉱賃労働史論』 (Tokyo, 1976)を参照。ただし、ここでの暴動原因についての理解は二村の解釈が加わっている。  

(5)  友子同盟が、労働争議を組織する上で積極的な役割を果たしたことについては、二村一夫『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』(東京大学出版会、1988)の第1章参照。

(6)  甲府の製糸女工のストライキについての研究としては米田佐代子「明治19年の工夫製糸女工争議について」(歴史科学協議会編・梅田欣治編集解説『労働運動史』所収、校倉書房、1981年)。 

(7)  1885年から1914年の間に、製糸業において起きた労働争議は全国合計で 48件で、うち 22件 45.8% を山梨県が占めている。一方、生糸の生産高で見ると長野県は 1891年 は 21万4000貫、1911年では 86万1000貫であるのに対し、山梨県は同じ年次に 6万5000貫と17万3000貫 である。(石井寛治『日本経済史』(東京大学出版会、1972年)

(8)  たとえば,徳川時代から釘の特産地として知られた西日本のある町では、約300戸が釘の生産に従事していた。しかし、輸入釘との競争に敗れ、その数は30ー40戸に減少した隅谷三喜男『日本賃労働史論』pp.38-39。

(9)  足尾銅山における洋式熔鉱炉の導入過程とこれに対する労働者の対応については二村一夫『足尾暴動の史的分析』 pp.222-282 。

(10)  日本鉄道会社機関方のストライキについては、青木正久「日鉄機関方争議の研究」労働運動史研究会『黎明期日本労働運動の再検討』労働旬報社、1979年所収。

(11)  英文で足尾暴動および、暴動をめぐる研究史を論じた文献として、つぎを参照。Paolo Calvetti, The Ashio Copper Mine Revolt(1907) - A Case Studyon the Changes of the Labor Relations in Japan at the beginning of the XX Century (Naples, 1987)。
NIMURA,Kazuo, Translated by Terry Boardman & Andrew Gordon, The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan, Duke University Press, 1997

(12)  別子銅山の暴動については、次を参照。星島一夫他『新居浜産業経済史』 1973。

(13)  大川一司他編『長期経済統計 第8巻 物価』東洋経済新報社。一橋大学経済研究所を中心に多数の研究者の長い間の研究の積み重ねの上に完結したこの《長期経済統計》〔英語名はEstimates of Long-term Economic Statistics of Japan since 1868、略称はLTES。この全14巻のシリーズは、単なる統計集ではなく、1868年以降の諸統計を詳しく検討し、異なった基準によって作成された統計を接続させ、統計がない年についても推計値を示している。全ての表は日本語と英語で記され、また推計の手続き(estimating procedures)についても英文の summary が付されている。日本研究の基本資料としてきわめて有用である。

(14)  相対的には高賃金の労働者がストライキの担い手となっていること、およびその原因については、二村前掲書、第3章、第4章、とくにpp.344-346を参照。

(15)  この節と次節の最終部分については、次の2つの論文での研究を基礎にしている。
二村一夫「企業別組合の歴史的背景」法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』no.305 1984年3月
「日本労使関係の歴史的特質」(社会政策学会編『日本の労使関係の特質』,御茶の水書房,1987年,所収)。

(16)  Thomas C. Smith, “Merit as Ideology in the Tokugawa Period" Thomas C. Smith, Native Sources of Japanese Industrialization, 1750-1920. (Berkeley & Los Angels, 1988). (17)  職工義友会については、二村一夫「職工義友会と加州日本人靴工同盟会」労働運動史研究会『黎明期日本労働運動の再検討』労働旬報社、1979年所収。

(18) 高野房太郎とサミュエル・ゴンパーズ Samuel Gompersとの関わりについては、次を参照。
隅谷三喜男「高野房太郎と労働運動──ゴンパースとの関係を中心に」(隅谷三喜男『日本賃労働の史的研究』御茶の水書房、1976年所収)。

(19) 労働組合期成会および鉄工組合については数多くの研究があるが、今なお、20年近く前に出された、つぎの2つが重要である。
1) 池田信『日本機械工組合成立史論』(Tokyo,1970).
2) 兵藤つとむ『日本における労資関係の展開』(Tokyo,1971).
また、鉄工組合の組合員の特質を検討した論文として、三宅明正「近代日本における鉄工組合の構成員」『歴史学研究』No.454(March 1978).
英文の論文としては、次のものがある。
Kanae Iida, “'The Iron Workers' Union in the Earliest Stages of Japanese Labour Movement: the Rise and Fall of a Craft Union.
Keio Economic Studies x.1 (1973). なお、ここで 飯田鼎氏が the iron workers' union と翻訳しているのは、本章の the metalworkers' unionと同じ 鉄工組合 Tekkokumiai のことである。

(20) 片山潜に関する英文の伝記に次のものがある。 Hyman Kublin Asian Revolutionary: The Life of Sen Katayama,Princeton, 1964.

(21) 日本鉄道矯正会については、青木正久「日鉄矯正会の研究」『日本経済史論集』第3号(1984).

(22) 大日本労働至誠会については、二村一夫前掲書、 pp.20-66, 90-98参照。

(23) 友愛会研究に関する基本文献は、依然として20年以上前に刊行された次の本である。松尾尊よし『大正デモクラシーの研究』青木書店、 1966年。  なお、英文での友愛会研究には次がある。Stephen S. LargeThe Yuaikai 1912-19-- The Rise of Labor in Japan(Tokyo, 1972).

(24) 例えば隅谷三喜男『日本労働運動史』有信堂、1966年、pp.45-53。

(25) 20世紀初頭における日本の社会主義運動についての研究としては、次の研究が注目される。 岡本宏『日本社会主義政党論史序説』(Kyoto, 1968)。またこの時期の社会主義者達に関するすぐれた研究として、松沢弘陽『日本社会主義の思想』(筑摩書房 1973年)pp.3-101。
 英文書では、次を参照。John Crump The Origins of Socialists Thought in Japan,London, Canberra & New York, 1983.

(26) 日本でキリスト教を受けいれ、クリスチャンとなったのは、1870年代から80年代では主として士族であり、90年代以降は高等学校生徒、大学生をはじめ高等教育をうけた官公吏、会社員、教師、医師などの知識人であった。なぜ、日本のキリスト教はこのような特質を持ったのであろうか? その一因は言葉の問題にあった。西欧語とかけ離れた言語である日本語をマスターし、民衆に理解できる言葉で語り得た宣教師はいなかった。この障壁を越えてキリスト教を理解し得たのは、初期には中国語の読解力をもち、中国語訳聖書を読み得た士族であり、後には英語をマスターした知識人であったのである。しかし、同様な問題をかかえた韓国、中国では、キリスト教が教育程度の低い民衆を中心に広がっていったことを考えると、これだけでは説明がつかないこともまた明かである。やはり、中国の知識人が自国の文化的優越を確信する中華思想(中国第一主義)を持していたのに対し、日本の知識人は西欧文明を高く評価し、その文明の基礎となったキリスト教を積極的に理解し、受け入れようとする志向が強かったことによるものであろう。日本の社会主義運動が知識階級中心の思想運動にとどまったことと、キリスト教が主として知識人の間にだけ広まったこととは無関係ではない。この問題を追究した優れた論文に次のものがある。松沢弘陽「キリスト教と知識人」(岩波講座『日本歴史』第16巻、1976年)。

(27) 日本の初期社会主義運動と海外の社会主義運動、とりわけ第2インターナショナルとの関係について明らかにした文献に次のものがある。西川正男『初期社会主義と万国社会党』(未来社、1985年)。

(28) 幸徳秋水に関する英文の伝記には次のものがある。F. G. NotehelferKotoku Shusui: Portrait of a Japanese Radical,Cambridge, Mass. 1971.

(28) 労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第10巻、(労働運動史料委員会刊、1959年) pp.146-147。

(29) 1901年における長野県の205の製糸工場についての調査によると、労働者1万3620人中女子労働者は1万2519人と91.9%を占め、その女子労働者中の66%, 8284人は20歳未満であった(大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』第2巻(東京大学出版会、1975年) p.168.

(31) 石井寛治『日本経済史』(東京大学出版会、1976年) p.169。

(32) 梅村又次他編『長期経済統計 13 地域経済統計』(東洋経済新報社、1983年) pp.306-319。

(33) 南亮進他編『長期経済統計 12 鉄道と電力』(東洋経済新報社、1965年)。

(34) 梅村又次他編『長期経済統計 13 地域経済統計』(東洋経済新報社、1985年) pp.387-388.

(35) 池田信『日本機械工組合成立史論』pp.10-11。

(36) 二村一夫「日本労使関係の歴史的特質」(社会政策学会編『日本の労使関係の特質』、御茶の水書房、1987年、所収)。


Marcel van der Linden & Jürgen Rojahn(ed.),The Formation of Labour Movements 1870-1914; An International Perspective, Vol.II, Leiden, Brill, 1990. 所収の日本に関する部の日本語元原稿に加筆。本著作集が初出。




【関連論文】



法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会


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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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