高野房太郎とその時代 (63)6. 労働運動家時代「我国最始の労働問題演説会」創立されたばかりの横浜船大工組合が支援を求めて来たのに励まされたのでしょう、職工義友会の面々は、横浜から帰るとすぐ、次の目標にむけて活発な活動を開始しました。その目標とは、自前の演説会、つまり職工義友会主催の労働問題演説会を開くことでした。おそらく横浜からの帰途、汽車のなかで高野と城とが相談して決めたものでしょう。この日から、房太郎のそれまでのノンビリした生活は一変し、忙しい毎日を送ることになります。 演説会を開く際にまず問題となったのは、その経費をいかに工面するかであり、ついで出演してくれる弁士を探すことでした。演説会を開くには、会場費や宣伝費などだけで20〜25円はかかりました。小学校教員の初任給が8円の時代のことですから、1回の演説会にはその3ヵ月分にも当たる費用が必要だったのです。さらに、労働組合運動の意義を理解し、しかも無償で出演してくれる弁士を探さねばなりませんでした。会員が4人しかいない職工義友会にとって、会員だけでは、知名度はもちろん、聴衆を惹きつける弁舌の点でも不安がありました。どうしても、会員外から、集客力のある弁士を依頼する必要がありました。 経費をどのように工面したのか、正確なところは分かっていません。ただ、『日記』に記録された支出費目や金額をみると、基本的には房太郎をはじめ職工義友会の会員が自腹を切ったものと推測されます。もちろん、佐久間貞一や鈴木純一郎ら支持者からの支援もいくらかはあったでしょうが。房太郎についていえば、すでに執筆を終えていた『実用英和商業会話』の原稿料50円を、6月21日に大倉書店から受け取っています*1から、これが諸費用をまかなう上で大いに役立ったに相違ありません。 一方、講演会の会場の確保や、出演依頼の経緯は、房太郎の日記からかなり具体的に判明します。以下のように記されているのです。 6月12日(土)
つまり、講演会開催の具体的な準備を始めたのは、6月12日のことで、そこで6月25日の会場の借り入れを申し入れ、片山と松村介石に演説会に弁士として出演することを依頼しているのです。
なんと準備期間は、当日を入れても2週間しかありませんでした。なお、日記にある「青年会」とは神田美土代町にあった東京基督教青年会のこと、「丹羽氏」は同会の書記・丹羽清次郎です。このYMCAの「神田青年会館」は、アメリカのクリスチャンの援助によって、1894(明治27)年に竣工したばかりの三階建ての建物で、ニコライ堂とならぶ神田近辺のランドマーク的な存在でした。ここには千数百人が入る大講堂があり、電灯の照明設備があるなど大規模な集会場としては東京随一でした。 演説会の弁士が決まれば、つぎは聴衆を集めることが問題でした。その宣伝ルートのひとつには「東京工業協会」がありました。4月6日、同会の総会の際に房太郎が演説し、『職工諸君に寄す』を配布したことはすでに述べました。佐久間が会長をつとめる東京の同業組合連合会ともいうべきこの組織を通じて、入場券やビラが配布されました。より広く宣伝するために広告ビラが作成され、演説会の前日に人力車夫を雇って労働者の集まりそうな場所で、配布させています*4。 このように具体的な経緯を見ると、房太郎らが演説会の開催について経験がなく、ごく短期間で準備した状況が浮かび上がってきます。しかし、実際には、6月25日夜の演説会は大成功をおさめたようです。その夜の様子を、房太郎はゴンパーズ宛の書簡*4で、次のように報告しています。ただし、その前の便りで、4月6日の東京工業協会総会での講演会を「職工義友会主催の演説会」と小さな嘘をついていましたから、この手紙でも辻褄をあわせるため、「職工義友会がまた公開演説会を開いた」としている点に注意する必要はありますが。 ふたたび良いお知らせができるのはこの上ない喜びです。職工義友会がまた公開演説会を開き、しかも大成功をおさめたのです。集会は6月25日の夕刻、神田の基督教青年会館ホールで開かれました。われわれの運動を妨害する連中がまたやって来た上に、雨とぬかるみ道だったにもかかわらず、約1200人ものさまざまな職業の労働者が集まりました。弁士は、職工義友会の一員である城〔常太郎〕氏、YMCAの講師である松村介石牧師、著名な資本家で働く人びとへの同情者・佐久間貞一氏、ハーヴァード大学卒業生の片山潜氏、そして私です。労働大衆の集会で、これほど多くの人が集まり、しかも熱烈な会合は、この国ではかつて例のないものでした。拍手大喝采がこの日の「常態」で、弁士が労働大衆の悲惨な状態にふれ、彼らに一致した行動をとるよう勧める発言をする度に、満場は熱烈な喝采に包まれました。 この手紙だけでは、房太郎がゴンパーズに運動の成果を過大に報告したのではないかとの疑問も出てきます。しかし、この夜の会合が多くの聴衆を集め、反響も大きかったことについては『毎日新聞』でも報じられています。各弁士の発言内容など、集会の模様がより具体的に分かりますから、その記事を全文引用しておきましょう*6。この記事と、演説会の10日後には労働組合期成会が創立されている事実とあわせ考えれば、房太郎の報告に誇張はないとみてよいでしょう。 労働問題演説会 このように、雨にも関わらず、1200人もの聴衆が集まっただけでなく、その反応は熱狂的で、房太郎はかえって不安を抱いたほどでした。その夜の雰囲気を、房太郎はゴンパーズ宛て書簡*5のなかで次のように記しています。 とはいえ、この集会はまた、日本の労働大衆がきわめて危険な心理状態にあることも教えてくれました。弁士が資本家を厳しく非難する発言をする度に熱狂的な反応があり、労働大衆が資本家に対し強い憎悪感を抱いていることが、むき出しになったのです。この激しい憎悪は、もし適切に指導されなければ必ずや混乱状態をもたらし、その機をとらえて悪意ある労働者の偽りの友があらわれ、自分勝手な欲望のために労働者をあおり、さらなる混乱をもたらすに相違ありません。そうなれば、この国における労働運動の計画は計り知れない損害を被るに違いありません。こうした事実が分かったことで、私のかねてからの決意、すなわち激烈な言葉は使わず、純粋で単純な労働組合主義に具現されている保守的な考えだけを述べること、また、労働者の、あらゆる急進的な行動を非難する、という決意は強くなりました。同時に、労働者の熱意を最高度に保持し、また労働組合を組織する仕事を強固な基盤の上に築くために、努力を傾ける決意です。 こうした聴衆の熱意をみて、房太郎らは運動推進に向けて次の一歩を踏み出すことを決意し、演説会の最後に運動参加の意思のある人びとは会場に残るよう呼びかけました。それに応えて、連絡先の住所を残した人は40人に達しました。その場で、近いうちに労働組合期成会の発起会を開くことを決め、この「我国最始の労働問題演説会」は成功裡に幕を閉じたのでした*7。 【注】*1 高野房太郎『日記』1897年6月21日付に「夜鈴木純一郎君来リ大倉書店ヨリ会話書原稿料ヲ受取ル」と記され、出納欄には収入として原稿料50円、支出は母に返済10円と記されている。「会話書」については、第56回「和英辞典と英会話本」参照。 *2 松村介石の名物講師ぶりは、当時介石の講演を聞いたことのある三浦金吉によって次のように描かれている(加藤正夫『宗教改革者・松村介石の思想』近代文芸社、1996年、133ページ)。 先生の風貌は、頭はくりくりで目はギョロギョロ、顔色黒く、服装は紋付き羽織に袴を着し、一見国士の風を帯びて居られた。(中略)その高潮に達した時には、慷慨悲憤、切歯扼腕、惰夫をして起たしむるの慨があり、そうかと思うと、諧謔機智を以て聴衆を一時に笑わしめられた。(中略)私は先生の講話を聞き、十五分もすると、身がゾクゾクとして来て、その魔力に魅せられ、その熱情に動かされ、狂喜、尊敬、崇拝の情が燃えるが如きことがしばしばであった。 *3 片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』(岩波文庫、1952年。なお岩波文庫版では、なぜか著者の一人である西川光二郎の名が省かれている。)27ページ。 *4 この宣伝活動の経緯も高野房太郎『日記』に記されている。 6月19日(土) *5 高野房太郎よりサミュエル・ゴンパーズ宛て1897年7月3日付書簡。『明治日本労働通信』(岩波文庫、1997年)48〜53ページ。 *6 『毎日新聞』1897年6月27日付雑報欄。
*7 「日本最初の労働問題演説会」がいつ開かれたかは、簡単には答えにくい問いである。実質的にみれば、1897(明治30)年4月6日の演説会も「労働問題演説会」であり、これを「日本最初の労働問題演説会」とする論者も少なくない。ただ、この会合は東京工業協会の総会であり、その時に開かれた演説会に高野房太郎が招かれ、労働組合運動について弁じたものであった。はじめから労働運動の宣伝を目的として開かれた演説会としては、この1897年6月25日の職工義友会主催の会合を以て嚆矢とすべきであろう。 6月25日 |
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