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《編集雑記》12 (2005年1月〜6月)

年頭のご挨拶

読者各位への年賀状



労働組合期成会『工場法案に対する意見書』のこと

 この度、労働組合期成会の『工場法案に対する意見書』を、別巻3『高野房太郎関係資料(日本語編)』に収録、掲載しました。この菊判16ページの小冊子の原本は、国立国会図書館および東京大学経済学部図書室に残されていますが、国会図書館の近代デジタルライブラリーにはまだ収録されていませんから、いささかの意味はあるでしょう。
  奥付を見ると、編集兼発行者は労働組合期成会、代表者として高野房太郎の名が記されています。執筆も高野房太郎であった可能性が高いと思われますが、確定できないので『明治日本労働通信』には収録しませんでした。
  もともとは、工場法案を審議していた農工商高等会議の議員らに期成会の意見を伝えるために作成されたもので、1898(明治31)年11月1日に、議員全員に配布されたことが、議事録から判明します。しかし、国会図書館所蔵のものは明治31年10月31日印刷、11月3日の発行となっています。つまり農工商高等会議の議員には、発行日前に配布されたようです。
  意見書の内容は『日本運動史史料』第3巻に収録されており、既知のものです。ただ、この小冊子は、日本最初の労働運動文書として著名な、しかし現物が残っていない『職工諸君に寄す』をはじめ、『労働者の心得』など労働組合期成会が刊行した印刷物が、どのような形態のものであったかを知る手がかりを与えてくれます。いずれも秀英舎で印刷され、量的にもほぼ同程度です。内容だけ伝えられている『職工諸君に寄す』が、この小冊子と同一の形態のものであったことは、まず間違いないと考えています。
〔2005.2.15〕


高野房太郎の旧跡探検(その5)──貸席・柳屋跡

柳屋の跡地に建つ「みずほ信託銀行本店」

 高野房太郎の旧跡探検の続きです。今回は労働組合期成会が第1回月次会を開いた日本橋区呉服町の貸席・柳屋の跡を訪ねてみたいと思います。貸席・柳屋は単に期成会の会合場所であっただけでなく、1897(明治30)年8月末から1899(明治32)年6月中旬までの2年ほど期成会が事務所を置いていた場所でもあります。そのうえ柳屋は、房太郎の妻となった横溝キクの実家でした。したがって柳屋は、房太郎の旧跡としては、公私両面で最重要の場所といってよいでしょう。
  実は、この柳屋があった辺りは、変化の激しい東京でも、もっとも変貌著しい地域のひとつです。首都高のコンクリートの橋脚や道路が橋の上に覆い被さっている「日本橋」の無惨な姿は良く知られていますが、「呉服橋」周辺はもっとひどい状態です。なにしろ地名のもとになった呉服橋そのものが、外濠の埋め立てによって失われてしまい、交差点の名称と首都高速道路のランプの名に残っているだけなのです。
  ただ幸いなことに、東京都中央区立京橋図書館が『中央区沿革図集[日本橋篇]』という便利な本を編集刊行してくれています。それと朝日新聞社から出ている『復元江戸情報地図』を使うことで、柳屋の土地の歴史は、比較的容易にたどることが出来ました。
  まず下に掲げた地図を見てください。これは、江戸時代の呉服町周辺を復元したものです。この地図で、呉服橋の向かいに、赤く囲んで示した地所が、呉服橋や呉服町の名の由来である、幕府御用の呉服師・後藤縫殿助ぬいのすけの屋敷です。

江戸時代の呉服町周辺、中央区京橋図書館編『中央区沿革図集[日本橋篇]』所収の「江戸の下町復元図」より

 この呉服師の後藤縫殿助ぬいのすけは、金座の後藤庄三郎とともに、外濠と日本橋川の合流点にかかる一石橋いちこくはしをはさんだ両側に屋敷を与えられていました。そこから、一石橋という橋の名が生まれたと言うのは有名な話ですから、ご存知の方も多いでしょう。後藤(五斗)と後藤(五斗)であわせて一石という洒落から生まれた名です。
  ところで、今回調べてみて驚いたのですが、柳屋があった東京市日本橋区呉服町1番地は、ほかならぬこの呉服師・後藤縫殿助の屋敷跡の主要部を占めていました。赤線で四角く囲んだ広い地所が後藤家の屋敷跡で、このうち伊勢屋吉之助ら4戸の奥にある細長い地所を除いたものが呉服町1番地になります。柳屋は、呉服橋と一石橋の2つの橋に名を残している大商人の屋敷跡の大部分を所有していたのですから、横溝キクの実家はかなりの身代だったに違いありません。ちなみに金座の後藤の屋敷跡に建てられたのが日本銀行本店の旧館です。

 『中央区沿革図集[日本橋篇]』によれば、この柳屋跡の呉服町1番地の地所は、安田善次郎の東京建物の本社となり、さらに小湊鐵道本社や安田信託銀行を経て、現在はみずほ信託銀行本店となっています。住居表示でいえば、東京都中央区八重洲1-2-1です。ただしかつて柳屋があった位置は、みずほ信託の建物の位置ではなく、敷地内ではあっても外濠通りと永代通りの交差点に近い、公園風になっている地域に当たります。また道路の拡幅によって、かつての柳屋の敷地の一部は永代通りに繰り込まれているようです。柳屋の跡地に建つ「みずほ信託銀行本店」
  この期成会の旧跡に行くには、東京駅八重洲口を出て、外濠通りを左に行き永代通りとの交差点の角になります。マピオンの地図で現在地を確認しておきましょう。地下鉄では一見すると大手町駅が最寄り駅に見えますが、地下道を延々と歩かないと改札口まで辿り着きません。三越前駅か日本橋駅の方がだいぶ近いようです。
  さすがに江戸城門前の呉服所跡地だけあって、この呉服町からは、さまざまな商店が誕生しています。たとえば、太田胃散の創業者太田信義はここに居を構えて『日本外史』を刊行していたり、クリーニングの白洋舎創業の地であり、さらには竹久夢二が、そのデザインした品々を販売する「港屋絵草紙店」を営業していたとのことです。
〔2005.3.5〕



社会政策学会史料のこと

 今月はじめから、私がボランティアで担当している社会政策学会のサイトに、学会史の欄を設け、社会政策学会年譜(1896〜1924)と第1回から第6回大会までの「大会記事」、それに創立会員である山崎覚次郎高野岩三郎の回想を掲載しました。年譜は、1978年に「社会政策学会史」小委員会の名で作成され、《社会政策学会史料集成 別巻》として刊行された『社会政策学会史料』の巻末に掲載されたものです。小委員会の名で発表されていますが、実際には故関谷耕一会員がほぼ独力で作成されたもののようです。史料的な制約から、1896(明治29)年以降、1903(明治36)年あたりまでは比較的詳しいのですが、その後は毎年1回開かれた大会についての記録が主で、ほかの事項はあまりふれられていません。時間があれば、会員の日記類でも調べて追補したいと思っています。
  「学会史」とはいっても、今回掲載したものは、すべて戦前期の学会に関する記録です。現在の社会政策学会は第二次大戦後の1950年に創立されたのですが、戦前の学会関係者の了承を得て、その名称と財産を継承しています。なるべく早く、戦後の学会についても年譜などを作成しておかねばならないとは思いますが、これは私の責任範囲外です。

 「大会記事」は、戦前の学会が刊行した機関誌『社会政策論叢』の巻頭に掲げられているものです。回によって精粗はありますが、各大会とそれを機に開かれた講演会が、どのように準備され、どのようなテーマについて、どのような討論が行われたかが分かります。単なる一学会の歴史というだけでなく、日本の社会科学研究の歩みを探る手がかりにもなると思います。
  これらの史料をデジタルテキストに変えるのは、学会機関誌総目次を作成したときと同様、リブロ電子工房にお願いしました。なにしろ100年近い昔の印刷ですから今の活字との違いが大きく、したがってOCRがきかず、結局、一字一字を手入力することになったようです。JISコードのない文字もありますし、入力にはたいへんな時間がかかったに相違ありません。
  デジタルテキストがあるので、通常ならHTML化は簡単に済むのですが、総目次の時と同様、今回も手こずりました。総目次の場合に苦労したのは、各種のブラウザーや解像度の異なるモニターで、表示を共通させることでした。今回は、それとは違い、100年近い昔の日本語表記を、できるだけ読みやすくするための編集作業に思いのほか時間がかかったのです。現在の日本語との違いはいろいろありますが、まず気になったのは、句読点の打ち方でした。現在なら文句なしに句点、つまり「。」を打つところが読点「、」で済まされています。おそらく、原稿が筆で書かれた頃の習慣なのでしょう。原稿用紙がまだ使われていなかったのかも知れません。今回は分かりやすさを旨として、読点(とうてん)を句点に変えたり、区切りなく続いている箇所に、多数の読点を加えました。
  それと、現在ではあまり使われない漢字が多出することも、問題です。はじめはルビを振ることで処理しようとしました。しかし、あまりに難読字が多く、ルビ関連のタグは1箇所10個必要ですから、作業に時間がかります。その上総ルビにすると、ルビに対応していないブラウザーではかえって読みにくくなるので、やめました。結局、漢字を使うことにあまり意味のないもの、たとえば「其」などは、なにも断らずに仮名に変えました。ただし、原則をたてずに作業を始めたので、処理の仕方が不統一です。時間を見て、おいおい訂正しますので、しばらくご猶予ください。

 周知のように、戦前の社会政策学会は、ドイツの社会政策学会をモデルに設立されました。当時は学会の数が少なかったので、高等教育機関に所属する経済学研究者を中心に社会科学関係の学者を網羅した社会政策学会の影響力は、今では考えられないほど大きなものだったことが、これらの大会記事からうかがえます。なにしろ会員の出席は数十人ていどの大会に、新聞各社が記者を派遣し、七、八百人から千人を超える傍聴者が集まっているのですから。
〔2005.4.15〕



『社会政策学会年報』総目次のこと  社会政策論叢総目次  《編集雑記》目次  《編集雑記》その11


高野房太郎の旧跡探検(その6)──「神田青年会館」跡

神田青年会館

 今回は、神田美土代町(みとしろちょう)にあった東京YMCAの「青年会館」跡の探検です。正式名称は「東京基督教青年会館」ですが、一般には「神田の青年会館」とか「神田青年会館」と呼ばれていました。右の写真がそれですが、ここは明治労働運動の〈古戦場〉ともいうべき場所です。
  1897(明治30)年6月25日、職工義友会はここで「我国最始の労働演説会」を開いています。房太郎は、この日、この会館講堂の壇上から、満員の聴衆に向かって「労働組合期成会」の設立を呼びかけたのでした。その後も期成会は、第1回演説会や鉄工組合の創立大会をはじめ初年度だけで5回も神田青年会館を使っています。そのほか、房太郎・岩三郎の高野兄弟が揃って出演した社会政策学会の「対工場法案学術講演会」や、片山潜と社会政策学会の金井延、桑田熊蔵が論戦を展開した「活版同志会演説会」、さらには金子堅太郎独演会など、数多くの労働問題演説会がここを会場として開かれたのでした。

『労働世界』第27号巻頭、将来の労働組合

 労働組合期成会の会員たちが、この建物にどのようなイメージを抱いていたのかをよく示しているのが、『労働世界』1899(明治32)年新年号の「労働者之将来」と題する挿絵です。ここに描かれた建物には「労働組合本部」の看板が掲げられていますが、モデルになったのは、まず間違いなく神田青年会館でしょう。右上の写真と見比べてみてください。
  この赤煉瓦造りの建物を設計したのは、ニコライ堂や鹿鳴館(ろくめいかん)などで知られたかのジョサイア・コンドルです。1894(明治27)年に竣工し、5月5日に開館式を執り行っています。会館の様子を「献堂開館式」の記事から、もう少し詳しく見ておきましょう。

 今会館の模様を概記せんに、庭内三百余坪の余地あり〔敷地総面積約500坪〕。四時の草樹鬱蒼として本館の美観を添ふ。本館は前後二部に分たれ、前部は三階造りにて、下階に入るには左右の側面よりし、内に運動場、教場台所、暖室蒸気炉室あり。二階の正門は前面の石階段より入る。取付きの広間に事務所及び新聞雑誌閲覧室、次に書籍室、此二室の傍らなる廊下を挟んで幹事室と装飾美麗殆ど学生の宮殿とも称すべき迎賓室あり。内に安楽椅子、ソーファ等を備えて以て会員の慰楽に供ふ。下階より三階に通ずる石階段あり、三階には理事及び保管人室及び懇談集会室及び夜学校室四個あり。此懇談室は景色清絶にして教会及び青年会其他信用ある人々に自由に貸与へ、拡く其便益を頒つと云ふ。塔と其傍らなる物見処に出づれば、満目東部の光風を襟帯に挟むが如し。さて本館の後部は即ち千人を入る可き座席を備へたる演説室にして前部の二階及び下階より入る可く、又演説の聴衆は南面の大門より入る可しと。

 ここに記されているように、会館の演説室=大講堂は、当時としては珍しく階上部分にも座席が設けられています。収容人員千数百人、電灯照明、スチーム暖房の設備があるなど、明治日本におけるトップレベルの集会場でした。とはいえ土足では館内に入れず、下足番を置き、草履に履き替えさせていたというのも、いかにも泥んこ道で有名な明治の東京の集会場でした。こうした事実が分かるのは、労働組合期成会の会計簿が残っていたからなのですが。

 この「神田青年会館」は、関東大震災で倒壊するまで、東京市内有数の大規模会場として、講演会はもちろん音楽会などさまざまな会合の場となっています。当然のことながら、松村介石かいせき、内村鑑三、植村正久、井深梶之助、小崎弘道、安部磯雄ら日本の著名なクリスチャン多数がここで講演しています。
  また、菊池寛は『半自叙伝』で「私が、講演を初めてやったのは、東京日日(大阪毎日の分身)に頼まれて、神田の青年会館においてである。「文芸批評論」という題でやった。芥川と一緒であった。片上伸、昇曙夢などという顔触れで自分が最後であった」とのべています。さらに、1922年に来日したアインシュタインもここで「物理学における空間と時間について」と題する講演をしています。テナーの藤原義江が、「帰国第一回独唱会」を開いたのも「神田青年会館」でした。
  その他、鉄工組合をはじめ数多くの団体がここで創立大会や発会式を開いています。たとえば、1895年日本救世軍、1901年鉱毒地救済婦人会、1906年日本エスペラント協会、1920年の日本社会主義同盟、1922年日本庭球協会。このように、東京YMCAの「神田青年会館」は、日本キリスト教史において重要な役割を果たした建物というだけでなく、近代日本の社会運動、文芸・文化・芸術の歴史においても見逃すことの出来ない、大事な場所でした。

 前置きがすっかり長くなりました。そろそろ旧跡探検の方に進みましょう。会館の所在地は当時の表示では東京市神田区美土代町3丁目3番地、これは現在の東京都千代田区神田美土代町7にあたります。町名は昔のままですし、YMCAはここで英語専門学校やホテル専門学校、さらにはホテルも経営していましたから、現地へ行きさえすれば、すぐ見つけられるだろうと思いこんでいました。ところが、今回美土代町へ行ってみて驚きました。YMCAのYの字も見あたらないのです。美土代町は小さな町ですから、いちおう隈なく探してみたのですが、見つかりません。あちこち尋ねた末分かったのは、財団法人東京YMCAがバブル期にここにビルを建てたもののテナントが集まらず、結局58億円もの負債返却のため、1世紀余にわたって日本キリスト教史に大きな足跡を残してきた美土代町の土地建物をすべて処分し、2003年7月末で神田美土代町からYMCAの名が完全に消え去った事実でした。現在、デニーズ神田小川町店(美土代町にあるのに、美土代町の名を使っていないのです)に隣接する東京YMCAの跡地には、地上20階、地下2階の「神田美土代町ビル」の建設が始まっていました。地下鉄の駅でも、案内表示のYMCAの文字は上にテープを貼って消されていました。せめて跡地の一角には、ここに東京基督教青年会館があったことを示すプレートか記念碑くらいは建てて欲しいものです。東京の近代史跡としては有数の場所なのですから。

旧神田青年会館跡地、美土代町ビル建設中旧神田青年会館跡地に掲げられている神田美土代町ビルの建築計画
〔2005.5.27〕


高野房太郎の旧跡探検(その7)──キングスレー館跡

キングスレー館、神田区三崎町3-1所在

 今回は、神田三崎町にあったキングスレー館の跡を探りたいと思います。キングスレー館は高野房太郎の旧跡というより、片山潜の旧跡です。しかしここは『労働世界』の発行所・労働新聞社の所在地でもあり、期成会の会合もしばしば開かれていますから、房太郎にとっても所縁の深い場所です。

右上の写真の左側の柱に掲げられているキングスレイ館の看板。字がかすれているが「琴具須玲館」と記されている。

 片山潜がキングスレー館を開設したのは、自伝によれば1897(明治30)年夏でした。同年3月、アンドーヴァー神学校の先輩である宣教師ダニエル・グリーンから毎月25円の支援を受けることが決まったことに伴うものですから、もう少し早かった可能性はありますが。イギリスのキリスト教社会主義者チャールズ・キングスレイ(Charles Kingsley,1819-1875)の名を冠したことからも分かるように、キリスト教社会事業の本営たることを企図したものでした。
  もっとも、高野房太郎が職工義友会主催の演説会出演を依頼するために訪れた片山宅、あるいは横山源之助と房太郎が初めて顔をあわせたキングスレー館は、右上の写真の建物ではありません。最初にキングスレー館が開設されたのは、同じ神田区三崎町ですが、1丁目12番地の借家でした〔片山潜『わが回想』(上)248ページ。住所は『労働世界』第5号、労働新聞発売所の広告による〕。この神田区三崎町1丁目12番地はかなり広い地域を占めていたので、今となっては最初のキングスレー館があった場所を具体的に特定することは出来ません。ただ大凡の目安で言うと、日本大学経済学部の裏手にある「東京グリーンホテル水道橋」辺に始まり、坂を上ってJR中央線沿いの道路と交差する辺りまで、つまり小栗坂沿いの三崎町1丁目1番地から2番地が、ほぼ旧三崎町1丁目12番地に相当します。MapFanWebでその辺りの現在図を見てください。 最初のキングスレー館が置かれた千代田区三崎町1丁目1番地〜2番地周辺。

 しかし、幼稚園を設置するには、この借家では認可条件を満たさなかったため、片山はアメリカの大学時代の友人に支援を求め、同じ三崎町内ですが3丁目1番地に新たに家を建て、1898(明治31)年4月頃、ここに移転しました〔『労働世界』第11号、「片山潜・きんぐすれい館」転居広告」。詳しくは第64回「片山潜と高野房太郎」参照〕。冒頭に掲げた「琴具須玲館」の写真は、この3丁目1番地に新築された建物です。この設計施工を担当したのは、渡米前からの友人であり、帰国後もいろいろ世話になっていた伊藤為吉でした。舞踊家・伊藤道郎、舞台美術家・伊藤熹朔、俳優・千田是也(伊藤圀夫)らの父、画家・中川一政の岳父です。また為吉の子供たちは、片山が経営した私立三崎町幼稚園の最初の園児になりました。
  この「琴具須玲館」を本拠に、片山潜は1914(大正3)年にアメリカに渡るまでの15、6年間、さまざまな事業を展開しました。主なものは看板が掲げられている「私立三崎町幼稚園」、それに『労働世界』とその後継誌を発行した「労働新聞社」でした。しかし片山の活動の特徴は、キングスレー館の名ですべての事業を展開するのではなく、各種の活動に応じて独特の名称や独自組織をつくっている点です。とりあえず名前だけあげておきましょう。「会話翻訳専修会」「帝国交詢社」「万国郵便切手販売交換」「大学普及講演(University extension lecture)」「西洋料理教授」「青年倶楽部」「日曜の楽み」「職工教育会」「夜学会」「共同家屋建築会」「都市問題研究会」「筆戦社」「日本料理人組合」「渡米協会」「社会主義社」「社会主義図書部」。
 このうち「幼稚園」「大学普及講演」「青年倶楽部」「日曜の楽しみ」「職工教育会」「夜学会」などは、三崎町という東京砲兵工廠の労働者の居住地域におけるソーシャル・セツルメント的活動で、キングスレー館本来の事業とみてよいでしょう。一方、「労働新聞社」や「共同家屋建築会」「都市問題研究会」「日本料理人組合」「社会主義図書部」などは労働組合期成会への参加をきっかけとして、しだいに比重を増していった社会・労働運動の一環でした。
  しかし「会話翻訳専修会」「帝国交詢社」「万国郵便切手販売交換」「筆戦社」「渡米協会」などは、キリスト教社会事業や社会運動の一環というよりも、キングスレイ館の財政安定、ひいては片山潜の生活安定を図るための活動ともいうべき性格を色濃くもっていました。なお「帝国交詢社」は職業周旋、海外渡航周旋、地方の子弟に対する入学周旋などを事業内容とする組織で、職員を雇用して業務に当たらせていました。『労働世界』の後継誌である『社会主義』の刊行が困難になったとき、同誌は『渡米雑誌』と名を変えて刊行を続けたのですが、アメリカ留学を希望する貧乏学生を助けて渡米させることは、この「帝国交詢社」の活動から始まったのでした。なお『筆戦』は青少年の投稿雑誌ですが、現在どこにも所蔵されていませんから、実際に刊行されたか否かも不明です。

 ところで、このキングスレー館の所在地である東京市神田区三崎町3丁目1番地は、丸の内などとともに、陸軍の練兵場を三菱が払い下げを受けた地域でした。つまりそれまでは唯の野っ原だった場所を、三菱がディベロッパーとなり、新たに道路を整備し、煉瓦建ての貸家を建て、さらには土地を賃貸しして家を建てさせた新開地でした。地主が一人だったからでしょう、三崎町3丁目は1番地だけでした。つまり3丁目に2番地以下はなく、全ての家が1番地だったのです。1丁目と2丁目を合わせた面積より広い地域を占めている3丁目がすべて同一番地ですから、東京市内でも屈指の郵便配達泣かせの地域でした。ちなみに東京砲兵工廠の助役で鉄工組合の役員でもあった村松民太郎や松田市太郎の住居も三崎町3丁目1番地にありました。
  こうなると、普通では現在地の探索が不可能になるところですが、実はいくつか手がかりがあります。それは『労働世界』に掲載されている転居広告に「三崎町3丁目1番地12番、日本法律学校横」と記されている事実です。さらに幸いなことに、鈴木理生『明治生まれの町神田三崎町』(青蛙房、1978年)という三崎町百科ともいうべき本があります。その中には「明治三十年代はじめの三崎町」と題する地図が載っており、片山幼稚園の所在地が明記されているのです。これを現在の地図と見比べると、容易にキングスレー館跡は確定できます。それは、現在の住居表示でいうと千代田区三崎町2丁目3番地1号、つまり日本大学法学部本館の北側奥、学生部のある辺りが、それに該当します。
  なお、キングスレー館が「日曜の楽しみ」と題する精神教育をテーマとする定例講演会の広告を『労働世界』に出していますが、そこでは館の所在地を「三崎町三ノ一南横町十二」と記しています。実は、この南横町を現在の日本大学法学部本館は校舎のなかにとりこんでしまっているのです。このため、かつては「白山通り」と「水道橋西通り」間を貫通していた南横町は、法学部本館によって分断されてしまった形です。

日本大学法学部本館正面、キングスレー館跡はこのずっと奥にある日本大学法学部本館東側と東仲通り。キングスレー館跡は時計のある辺りから奥の左手中央。

 三崎町は鉄工組合最大の組織基盤であった東京砲兵工廠に隣接していましたから、キングスレー館のほかにも、房太郎の旧跡と呼びうる場所がいくつかあります。鉄工組合城北聯合会の事務所跡そのひとつが、鉄工組合城北聯合会の事務所跡です。城北聯合会の事務所は、鉄工組合第1支部、第5支部、第7〜11支部など、東京砲兵工廠の各支部が集まったいわば「砲兵工廠支部連合会」が独自に設けた事務所です。所在地は、神田区三崎町2丁目2番地でした。また鉄工組合第10支部の共働雑貨店が、三崎町三丁目一番地の松田市太郎方に設けられていました。
  後者は3丁目1番地としか分かっていませんので、その跡地を確定することは困難です。しかし城北聯合会があった2丁目2番地は、現在の千代田区三崎町2丁目1番地、三崎神社通りに面した神田三崎町郵便局の右斜め向かい、現在は駐車場になっている辺りになるでしょう。キングスレー館跡からはほんの目と鼻の先、南横町を三崎神社通りに出ればすぐ目の前です。徒歩1分とかかりません。
〔2005.6.5〕



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Written and Edited by
NIMURA, Kazuo

『二村一夫著作集』
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