高野房太郎とその時代 (64)
6. 労働運動家時代
片山潜と高野房太郎
今回は、房太郎と並んで労働組合期成会の中心的な指導者の一人であった片山潜について取り上げ、房太郎との比較なども試みようと思います。房太郎伝としてはちょっと横道にそれることになりますが、お許しください。
明治労働運動において片山潜が果した役割は、一時期、ともすれば過大に評価される傾向がありました。史料が限られ、研究も乏しかったからでもありますが、論者の政治的立場による偏りが生じがちだったのです。つまり、高野房太郎が社会主義反対の姿勢を鮮明にしていたのに対し、片山潜がコミンテルンの指導者にまでなった事実から、明治労働運動における高野の役割を軽視し、片山が果した役割を実際以上に高く位置づける論者が少なくありませんでした。今となれば、研究論文にそうした偏りはあまり見られませんが、日本史の通史や専門外の文献では、未だにその影響が広く残っています。
そのことも考慮し、ここでは片山潜と黎明期日本の労働運動との関わりを、まず史実に即して確認して行こうと思います。これは高野房太郎評価に際しても不可欠な作業といえましょう。日本の労働組合運動の発足時に、両者がどのような役割を果たしたのかを明らかにする必要があるからです。これからも片山潜については何回か触れることになりますが、今回は、彼が労働運動に参加するまでの経歴を見ておくことから始めましょう。
片山潜は安政6年12月3日、美作国粂郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)の農家・藪木家に生まれました。片山の姓は、19歳の時に形式的に片山幾太郎の養子となり、家督相続者として徴兵を逃れて以降使われたものです。幼名は菅太郎、長男を思わせる名ですが、実際は次男で、兄・杢太郎と二人兄弟でした。誕生日は西暦でいえば1859年12月26日、高野房太郎よりほぼ9歳の年長ということになります。婿養子であった父の国平は、菅太郎がまだ満3歳の時に離縁されており、再婚せずに藪木家を支えた母〈きち〉の手で育てられました。
藪木家は代々庄屋をつとめた旧家ですが、潜は次男でしたから自立の道を探らざるをえず、1881(明治14)年「学問で身を立てたい」と考えて上京しました。印刷工や塾僕として働きながら、岡鹿門の漢学塾や海軍兵学校の予備校的存在だった攻玉社に学びました。しかし、漢学で生活できるほどの文筆の才がないことを自覚し、前途に不安を抱いていた折、渡米した友人岩崎清吉からの便りに「米国は貧書生も学問の出来る国なり」と書いてあったのを読み、にわかに渡米を決意したのでした*1。なんの貯えもなかったのですが、岩崎の父や友人たちに援助を求めて旅費を工面し、1884(明治17)年10月に渡米しました。出発したのは房太郎より2年前ですが、アメリカ到着後間もなく25歳の誕生日を迎えるという、留学生としてはいささかとうが立った門出でした。
在米中の片山は、主に家事奉公人として、料理や給仕あるいは掃除・洗濯などの雑用に従事し、貧苦と辛く厳しい労働に耐えて金を貯め、それを学資として一段上の教育を受けるといった生活を続けました。中学校はカリフォルニア州オークランドのホプキンス・アカデミー、ついでテネシー州のメリーヴィル大学で学んだ後、アイオワ州のグリンネル大学(現アイオワ大学)に移り、ここで1892年にバチェラー・オブ・アーツ(文学士)を、93年にマスター・オブ・アーツ(文学修士)の学位を得ました。さらにアンドーヴァー神学校とエール大学神学部で学び、1895年にエール大学からバチェラー・オブ・ディヴィニティー(神学士)の学位を得ています。まさに「米国は貧書生でも学問が出来る国」であることを、身を以て実証した形でした。
このように見てくると、片山潜が、生まれつきの資質や育った環境・経歴などにおいて、高野房太郎とは、きわめて対照的な存在だったことが分かります。房太郎が長崎に生まれ、東京と横浜で多感な少年時代を過ごした都会っ子で、早くから海外に目を向け英語も学んでいたのに対し、片山潜は岡山県の北部、中国山地の山間の農村に生まれ育った男で、留学に際してもあらかじめの準備なしに、日本を離れています。また房太郎が高野家の嫡男として長崎屋の再興を宿命づけられ、周囲の期待を一身に集めていたのに対し、片山は、農家の次男坊で、婿養子の父とは生別し、在米中に母を亡くし、家からの援助もない代わりに、家のしがらみに縛られることのない自由な身の上でした。
また、房太郎がたえず先を見ていろいろ調べ、綿密な計画をたてた上で行動に移る慎重さをもつと同時に、情況が我に利あらずと見れば、すばやく転身する変わり身の早さを身上としていたのに対し、片山は細かく先を読むことはせず、手探りで行動しつつ考え、いったん大まかな目標を定めた後は、どんな苦難にも耐えてひたすら目的に向かって猛進する、いわば頑固と忍耐が着物を着て歩いているような男でした。
これらの事実は、労働運動における二人の態度の相違にも反映していますが、それに先立つ両者のアメリカ体験にも、決定的な違いをもたらしています。房太郎が実業界での成功を夢み、自学自習して資格取得の学校教育には目もくれなかったのに対し、片山潜は、ひたすら高等教育を受けることに執着し、文字通りの苦学を重ねて学位を取得しています。学位が片山にとってどれほどの重みをもっていたかは、彼が帰国後に著した書物の表紙に「マスターオブアーツ」の肩書きが掲げられ、彼が主筆をつとめた『労働世界』の広告では、この肩書きは「文学博士」と訳されている事実に示されています。また帰国直後にエール大学の日本人留学生を集め、「エール大学同窓会」の結成を呼びかけていることにも、彼の志向の一端がうかがえます。
高野が、帰国する前から日本で労働組合運動を創始することを企て、アメリカ労働総同盟のオルグに任命され、それを「北米職工仝盟団代表員」と名刺に刷りこんでいたのに対し、片山潜は熱心なクリスチャンとして帰国し、エール大学神学士でありアンドーヴァー神学校で学んだ学歴を生かして「専門の牧師とか伝道師」となることを望んでいたのでした。
しかし、帰国した片山に、思うような働き口はありませんでした。片山は、これを「同志社連中が跋扈して、組合教会では働けない」情況だと考えたのでした*2。こうした窮状を救ったのが、アンドーヴァー神学校の先輩でもあった宣教師ダニエル・グリーンでした。
アメリカのキリスト教界が設けた海外宣教のための基金から毎月25円の財政支援を受けるよう計らってくれたのでした。この援助を得て、片山は東京市神田区三崎町1丁目12番地に一軒の家を借り、1897(明治30)年夏「キリスト教社会事業の本営」キングスレー館を開設したのでした。
この時、片山は、生活の安定策もかねて、キングスレー館に幼稚園を併設しようとしましたが、それには一定規模の建物が必要で、最初の借家では認可されませんでした。そこで、片山はアメリカの大学時代の友人や先生に、日本におけるキリスト教布教の一環としての社会事業を始める計画を伝えて250ドル、日本円にして約500円の援助を依頼し、彼らの支援で1898年4月頃、ようやく三崎町3丁目1番地に自前の建物を所有することができ、ここにキングスレー舘を移し、また三崎町幼稚園も開設したのでした*3。
ところで、片山潜が職工義友会主催の「我国最始の労働問題演説会」に弁士として出演したことは、片山潜を一社会事業家から労働運動家へと飛躍させる機会となり、彼の生涯にとっての「一大転機」となりました。しかしそれは、彼の人生をふり返って見た時、結果的に転機であったことが分かるのであって、当時の片山が労働運動家を目指していた訳ではありません。彼が望んでいたのは、キリスト教に基礎をおく社会事業の展開だったのでした。その事は、片山も自覚しており、『自伝』のなかで次のように述べています*4。
近世日本に於て労働問題の声を揚げた者は、皆米国帰りの三人、即ち高野房太郎(高野岩三郎博士の兄)沢田半之助(銀座の洋服店)及城常太郎(靴工?)で、此等の尻押しをした者は鈴木純一郎と云ふ男であつた。始めて此三人が『労働者の心得』なる小冊子を発行して──その第一着の運動としては神田の青年会館で労働問題演説会を開いた。その演説会には予も頼まれて演説をした。〔中略〕
予はキングスレー舘の主人株ではあつたが別に之と云ふ定まつた職業もなければ、また金まうけも為て居無いし、何も演説が上手と云ふ訳でも無く或は労働問題の専門家でもなかつたが、演説家の頭数には利用されて、何時でもきまつて出席して演説した。で段々其の労働社会に知られるに至り……到頭労働問題の専門家と成るやうに成つた。
其の頃の予はあらゆる労働問題に関した演説会に出席したが、相談会にも加わっただけで別に之が幹部の一人でも何でもなかつた。
この回想は細部の正確さには問題がありますが──たとえば『労働者の心得』は労働組合期成会が発足してから刊行されたパンフレットで、最初に発行したものは『職工諸君に寄す』でした──、彼自身に関する部分は正確であると言ってよいでしょう。つまり、労働組合期成会が発足するまでの片山は、一応援弁士として運動を支援していたに過ぎなかったのです。そうした姿勢は、労働組合期成会が発足してもしばらくは続きました。片山が、労働運動に本格的に乗り出すようになるのは、1897年12月の『労働世界』刊行以後のことでした。したがって、これまでの多くの労働運動史のように、労働組合期成会の創立者として高野と片山を並記するのは正確な位置づけとは言えないと考えます。この点は、次回にあらためてふれることにしたいと思います。
いずれにせよ、仮に高野房太郎が片山潜と出会わなかったとしても、高野が労働運動家になったであろうことは100パーセント確実ですが、もし片山潜が高野房太郎と出会うことがなければ、片山が労働運動の指導者になることは、おそらくなかったでしょう。日本労働運動史において両者がそれぞれ果した歴史的役割を考える場合、この違いは決して小さなものではありません。
ところで、房太郎は、どのようにして片山潜と知り合ったのでしょうか。正確なことは分かっていません。ただ彼らがアメリカ時代にどこかで会い、知り合っていた可能性はありません。二人とも同時期にアメリカにいましたが、房太郎は長い間西海岸で過ごしており、一方片山は、房太郎が最初にサンフランシスコに着いた時には、すでにテネシー州に移り、その後はほとんど東部で過ごしています。唯一、二人が顔を合わせた可能性があるのは、シカゴの万国博覧会会場ですが、そこで二人が知り合いになった事実はないと思われます。もしあれば、片山は『自伝』のなかでかならずふれたことでしょう。
ここで、両者を結びつけた可能性のある人物がいます。それは片山の渡米前からの友人で、帰国後も近所に住み、いろいろ世話になっていた伊藤為吉です。一方、高野も伊藤為吉を知っていたことは、高野『日記』5月18日の項に「午后ヨリ伊東為吉氏ヲ訪フ」と記されている点から明らかです。
この伊藤為吉は、銀座の服部時計店の時計台や博品舘を設計し、あるいは濃尾地震後にいち早く耐震建築を提唱したことで知られる異色の建築家です*5。あるいは、舞踏家の伊藤道郎、舞台美術家の伊藤熹朔、俳優千田是也(伊藤圀夫)ら芸術家兄弟の父、画家中川一政の岳父と言った方が通りがよいのかもしれません。この伊藤為吉は、片山潜が渡米前に塾僕をしながら学んでいた芝の攻玉社の塾僕仲間で、しかも同室だったといいます。その後も築地で一緒に英語塾を経営しようとしたと言いますから、二人は古くからの友人だったのです。
建築家・伊藤為吉は、神田三崎町に4軒ほど自分で実験的に建てた家をもっており、片山潜も帰国直後、為吉の母・家寿の家に下宿させてもらっていました。片山がキングスレー舘を開設したのが三崎町であるのも、伊藤との縁故によるものでしょう。そもそもキングスレー舘を設計施工したのは伊藤為吉ですし、いっこうに園児が集まらないキングスレー舘の「三崎町幼稚園」に最初に入園したのは伊藤道郎ら伊藤家の子供たちだったのです。
高野房太郎が片山を訪ねる1ヵ月近く前に伊藤為吉を訪ねているところを見ると、房太郎は伊藤為吉とアメリカ時代に面識があったものと思われます。伊藤為吉は1885年2月から1887年4月までサンフランシスコを中心に活躍し、「日本人実業会」を組織するなど、実業に志をいだく在米日本人の間では良く知られた存在でした。房太郎がサンフランシスコに着いたのは1886年12月ですから、数ヵ月間ですが、二人が相知る機会があったのです。要するに、高野房太郎と片山潜が互いに知り合ったのは、伊藤為吉の紹介によるものであった可能性が高いのです。
【注】
*1 片山は、『渡米案内』第7章「著者在米の経験」のなかで、渡米を思い立った意図を、次のように述べている。
余が渡米せしは明治十七年の十月のことなりき。余は其節無一物の貧生なりき。如何なる原因が余をして渡米を思ひ立たしめしや。曰くあからさまに云へは二つあり。一は余は明治十四年の夏東京に出て或は活版屋の車廻しとなり、文撰の子僧となり、種々艱難の末、岡鹿門先生の漢学塾に入り塾僕となり漢籍を学ふ二年後野州藤岡の森欧村先生の許に同じく漢書を学ぶも愚鈍にして詩文を以ては生活の道を立つる能はず進退実に窮するの余、此に出でたると、其二は数月前に渡米せし学友岩崎清吉なる人が桑港の現状を報じて「米国は貧書生も学問の出来る国なり」と云ふ一信是なりとす。
なお、文中にある岩崎清吉は、後に日本製粉や東京瓦斯の社長となる岩崎清七のことである。
*2 帰国後、いざ職を求めるとなった時の様子を片山はつぎのように述べています。
「帰国後の春と夏とは山の者とも川の者とも解らず云はば無我夢中で郷里を訪問したり、夏場は暮らしたり、扨愈々予もパンの道を求めねばならぬ事となり、専門の牧師とか伝道師として頼んで見たが仲々同志社連中が跋扈して、組合教会では働けない、のみならず、働き口を呉れない」(片山潜『自伝』、岩波書店、1954年刊、210ページ)。
帰国直後の片山から、グリンネル大学時代の恩師パーカー教授に宛てた手紙にも、同様の事情が伝えられている。加藤秀俊「片山潜のいくつかの書簡について」(初出は、京都大学人文科学研究所『人文学報』、1964年10月31日
)からの引用である。
「東京およびその近辺での(布教活動の=著者註)将来は明るいように思います。しかし、東京の教会のいくつかにあたってみましたが、わたしを説教師として雇ってくれるところはひとつもありません。教会は、みんな貧しいのです。とりわけ、教会の信徒のたましいが貧しいのです」。
「同志社で何人かの人に会いましたが、同志社でも、わたしにむいた仕事はない、と思いました」。
*3 片山潜『わが回想』は、この時期のことを次のように記している。
退院後予は神田に一軒の家を借りて「キングスレー館」と云う看板を掲げ、セツルメント事業を始めたのは一八九七年の夏であった。〔中略〕
キングスレー館も一種の宗教に関係ある団体として取扱われた。直接表面の事業としては幼稚園を設立した。之が為に一軒の家を三崎町に建てたが、なかなか許可を得るのに困難した〔(上巻)248〜249ページ〕。
本文中の挿絵に掲げた写真は、神田区三崎町3丁目1番地に新たに建設したキングスレー館である。この建設について、片山自身は、『自伝』をはじめいかなる文献でも、アメリカの友人たちに財政的支援を求めた事実について触れていない。しかし、加藤秀俊「片山潜のいくつかの書簡について」は、この間の事情をつぎのように記している。後年の自伝『わが回想』などからは想像も出来ない熱心なキリスト教徒としての片山の姿を見ることが出来るので、かなりの長文ではあるが引用しておきたい。
だが、キングスレイ館設立のための費用はあつまらなかった。片山は、ここではじめてアメリカの友人に資金調達を依頼する。かれにとって、これは大きな決心であった。というのは、10年の滞米期間をつうじて、かれはアメリカ人からの同情を求めることを決してしなかったし、とりわけ、金のめぐみを求めることをしないのを信条としていたからである。もちろん、働くことで正当な賃金はうけた。だが、貧しさへの同情を金で受けとることを拒否しつづけていた。エール大学を離れて、いよいよ日本に帰る、というとき、同級生たちが見るに見かねて50ドルの、いわば餞別を調達してくれたときには、かれはそれを受けとり、その友情のあたたかさを書簡(2)のなかでパーカー教授宛にも知らせているが、それ以外には、金を求めることを決してしなかった。だが、キングスレー館設立については、かれは、さいごには、アメリカに援助を求めなければならなかった。かれは、友人のウェザリー(前出)に、こう書いた。
「10月1日から郵便料金が値上げになるから、郵便料が5銭で済むあいだに急いで書く。ウェザリー君、ぼくは、この仕事でからだも心も使い果たしてしまった。過去2カ月間、経済的にぼくは苦しみつづけてきた。物価が高くてどうにもならない。ぼくの仕事をたすけてくれる人間はひとりもいない。ぼくは幼稚園の建設から手をつけはじめたのだが、請負業者は仕事がのろいうえに、金のさいそくばかりする。だが、請負師もぼくが金を払わないとやってゆけないのだ。君におねがいする。ぼくの仕事のために金をあつめてくれ。こんなことをたのむのは、ほんとうにつらいことだ。だが心からのおねがいだ。君のあつめてくれる金にふさわしいだけの最善をぼくは尽くす。ぼくは、昼も夜も、ただイエスの力によって、この仕事が完成するように祈りつづけている。君も知っているとおり、ぼくはアメリカにいるあいだ、君たちアメリカ人に何も求めたことがなかった。ただ、いまぼくのやっている仕事が布教のための仕事だからこそ、こんなにして、ぼくは君におねがいするのだ。ぼくと、日本を、たすけてくれ」。
ウェザリーは、すでにのべたように、アイオワ大学からアンドーバーにかけての片山の友人である。現在グリネルに残っている卒業生記録でみると、ウェザリーも、ユニタリアン派の牧師として、マサチューセッツ、カンサスの諸州で活動していた人物である。アイオワ大学在学当時は、学生文芸誌の主筆をしたりもしていた。
この「悲愴な手紙」をうけとったウェザリーは早速、一部を引用しながらキングスレー館を援助しよう、というアピールを、セツルメント機関誌"The Commons"に書いた。
「片山は巨額の寄附を求めているのではない。かれは、かれの仕事を理解してくれる人たちから送ってほしい、と希望している金額は250ドルなのである。キングスレー館援助協会をアメリカで結成しよう。年間、ひとり1ドルずつ、片山に送ろう。勇敢な人物が所志を貫徹するのを、たすけようではないか」。
ウェザリーは、さらに母校アイオワ大学の学生・同窓生にも、学生新聞をつうじて片山の事業をたすけよう、と呼びかけた。「片山のつくりかけている幼稚園は資金不足のため未完成である。片山は在米中、つねに控え目な人物であった。かれがいま必要としている基金はわずかである。250ドルあればたりるのである。…どんなわずかな金額であろうと、わたし宛に送ってほしい。わたしはそれを片山にとりつぐ労をいとわない」。
ウェザリーの募金運動は成功した。1898年の春には、基金の一部が片山の手許にとどいた。アイオワの同窓生たちに片山は早速、感謝のことばを送った。
「友人たち。キングスレー館への親切な寄附に、まごころをもってお礼申し上げたい。君たちから送られた小切手は、ちょうど、わたしがどうにも身うごきできないようになってしまっていた時にわたしの手許にとどいた。工事はまだ思うようにはかどらないが、いまや、この事業は注目を浴びている。君たちの心からの寄附金を、わたしは1銭も無駄にしないで慎重に使わせていただくつもりだ」。
キングスレー館への募金運動にはパーカー教授ももちろん参加していたようである。書簡(7)の冒頭に、片山は「パーカー先生、わたしの仕事のために寄附をお送りいただき、ありがとうございました」と書いているからである。書簡(7)の日付は1898年1月17日付であり、ウェザリーを中心とした援助協会とは別個に、パーカー教授はとりあえず、個人的に片山に送金したのであろう。書簡(7)で、片山はパーカーにつぎのように書いている。
「わたしがいまやっている仕事は、アメリカでは珍しいことではありませんけれど、日本ではたいへんあたらしい種類の仕事です。したがって、その実行はたいへん困難ですが、まず、これまでのところ、どうにかやってゆけそうだと思います。わたしの仕事は、そとからみれば社会事業のようですが、その精神と組織はキリスト教によるものです。わたしは、日本の労働者階級にちかづき、かれらにキリストの愛と真理とを、いろいろな方法で説きつづけています。…ご想像もつくと思いますが。いま、日本は、大きな道徳的・知的・政治的な危機をむかえています。あらゆる分野が混沌としていて、改良がどこでも必要とされています。わたしがいまやっているのは、辛苦にみちた大衆を改良することですが、それは上流階級の人びとにも影響をあたえることになるでしょう」。
*4 片山潜『自伝』、岩波書店、1954年刊、216〜217ページ。
*5 伊藤為吉は、「異色の建築家」「耐震設計の先駆者」といった肩書きだけで説明がつく人物ではありません。クリーニング業、家具製造や「コンクリート石組立塀」といった自己の発明品を製造する実業家であり、多数の実用新案的発明で稼ぐ反面、重力発動機=永久運動機関の開発に精力を集中した夢想家でもあり、職工教育に力を入れて『職工新聞』を発行したり、「職工軍団」を組織し、「職工徒弟学校」を創設しようとした社会運動家でもありました。詳しくは、村松貞次郎『やわらかいものへの視点──異端の建築家伊藤為吉』(岩波書店、1994年)、千田是也『もうひとつの新劇史──千田是也自伝』(筑摩書房、1975年)など参照。
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