『二村一夫著作集』バナー、トップページ総目次に戻る


高野房太郎とその時代 (66)




6. 労働運動家時代

期成会の活動(1)──演説会

 

 初期の労働組合期成会が、組織としてもっとも熱心に取り組んだ活動は、演説会の開催でした。発起会から2週間足らず後の7月18日に第1回演説会を神田青年会館で開いたのを皮切りに、分かっているだけで1年間に33回、つまり10日に1回弱のペースで演説会や談話会を開いています。しかも多い時には1200人を超える聴衆が集まっているのです。
神田青年会館。職工義友会や労働組合期成会がそれぞれ最初の演説会を開いたのをはじめ、その後も演説会場としてよく使った。手前の建物が演説会会場となった2階建ての大講堂。鹿鳴館やニコライ堂を設計した建築家ジョサイア・コンドル設計。
  房太郎はそのすべての会合に出席して演説していることが『日記』の記述から分かります。ちなみに、房太郎についで出演回数が多いのは片山潜で、出演者氏名が判明している17回のうち13回に出演しています。房太郎と片山潜のほかは、いずれも一桁で、知識人としては鈴木純一郎と島田三郎が各3回、佐久間貞一、高野岩三郎、村井知至が各2回です。あとは1回だけですが、松原岩五郎、佐治実然、チャールズ・ガルスト、三好退蔵、留岡幸助らの名があります。注目されるのは、知識人だけでなく、労働者会員のなかに「常連弁士」が生まれていることです。たとえば東京砲兵工廠の鍛冶工・高橋定吉が7回、同仕上げ工の間見江金太郎が4回演説しています。なお、33回の会合すべてを房太郎ら期成会幹部がお膳立てしたわけではなく、会員の有志が主催したり、ほかの団体の総会に招かれ講演した例も、いくつか含まれています。
  いずれにせよ、マイクのない2階建ての大講堂で1200人もの聴衆を前にしての演説は、小柄な房太郎にとって、相当に体力を消耗する肉体労働でもあったことでしょう。それに、今ではとても想像もつかないことですが、そのころの演説会は庶民の娯楽としての性格もあったのでした。テレビもプロ野球もなく、ナイヤガラの滝やニューヨークの街頭を撮しただけの白黒映画=「活動写真」の興業が始まったばかりの時代、人びとは入場料を払っても演説会を聞きに行ったのです。そうした耳の肥えた聴衆を満足させる演説をするのも容易ではなかったに違いありません。

 ここで、いま分かっている限りで、期成会が創立後1年間に開いた演説会や談話会、つまり房太郎が出演した演説会等の会場と日時、それに分かっている限りで房太郎の演題と聴衆の数を、記録に留めておくことにしましょう*1。これを見ると期成会の活動範囲が分かります。東京、それも下町が主ですが、横浜で5回、横須賀と大宮で各2回の会合を開いています。

  1.   7月18日(日) 神田青年館
  2.   7月26日(月) 米沢町車屋(鑢製造業組合組合総会)
          高野「組合奨励の演説」
  3.   8月15日(日) 芝三田ユニテリアン教会(400余人)
          高野「労働組合期成会について」
  4.   8月21日(土) 石版印刷工組合集会所(同組合総会)
  5.   8月22日(日) 埼玉県大宮末吉座
  6.   8月31日(火) 牛込鶴扇亭(鉄工400人)
          高野「労働者ノ責任」
  7.   9月 1日(水) 両国井生村楼(東京船大工組合総会)
          高野「組合員の責任」
  8.   9月12日(日) 横浜港座(800人)
  9.   9月15日 本郷弓町基督教会堂(600人)
  10.   9月18日(土) 神田青年会館(1200余人)、
          高野「我資本家に告ぐ」
  11.   9月20日(月) 薬研堀初鷹(東京雛人形組合発起会)
          高野「組合設立の必要」
  12.   9月26日(日) 京橋区木挽町弘集舘
  13.   9月28日(火) 本所回向院前武蔵屋
  14.  10月 9日(土) 両国井生村楼
  15.  10月16日(土) 横浜賛成員に演説
  16.  11月 2日(火) 芝愛宕下
  17.  11月 8日(月) 横浜蔦座
  18.  11月16日(火) 本所回向院前武蔵屋で談話会
  19.  11月17日(水) 横浜久保田氏方で談話会
  20.  11月20日(土) 神田錦輝館(1000余人)、
          高野「資本と労力の調和」
  21.  12月 1日(水) 神田青年会館(鉄工組合発会式)
          高野「開会の辞」
  22.  1898年1月 9日(日) 本所二州楼(200余人)
  23.   1月29日(土) 大宮末吉座
  24.   1月30日(日) 横浜蔦座
  25.   1月31日(月) 芝七福亭
  26.   2月 7日(月) 本所二州楼
  27.   2月20日(日) 神田青年会館(300余人)
          高野「破壊的労働運動」
  28.   2月27日(日) 横須賀立花座
  29.  4月10日(日) 上野公園内鶯亭(奠都三十年祭祝会、会員800人)
  30.   4月22日(金) 神田松月亭
  31.   5月15日(日) 京橋区新栄町聯合会事務所
  32.  5月21日(土) 芝兼房町玉翁亭
  33.  6月19日(日) 横須賀立花座(700余人)

 房太郎の演説振りがどのようなものだったのか、第1回演説会についての一会員の感想を見ておきましょう。「鉄工組合員MI生」が『労働世界』に寄せた回想で*2、1年前をふり返っての文章だけに、かえって演説会がどれほど強い印象を与えたのかをうかがうことが出来ます。なお、強調は引用者によるものです。

 想起す去年七月なりき。天外に声あり。
曰く、今午後六時神田青年会館に於て労働問題大演説会ありと。〔中略〕
袂を投じて急駆傍聴に赴く。已に定席なし。堂上堂下寒山深夜の如し。ヤガテ登壇せられたるは一個平民的の偉丈夫、今在神戸の城常太郎氏なり。先づ開会の旨意より起して組合の必要止むべからざるを説く。緊一節険一層、語究まるが如くにして際なく、喝采声裡に壇を降れり。
 二に顕はれしは誰ぞ是れ今の幹事長たる怪躯精悍の飛将高野房太郎氏なり。銅鉄の鋭く尖りたるに錆たるがごとき音調もて所謂国家経済の理屈を取て飽迄自由学派を口撃せられたり。
 最後登壇せられたるは是れぞ我が掌活動的の領袖、否労働者たい今日の摩西片山潜氏なり。余は当時の演題を已に記憶に失ひしと雖、要するに是皆労働者百万の心胸を穿てり。司会者は沢田半之助氏なり。

 もうひとつ、1898(明治31)年2月20日に、神田青年会館で開催された演説会については『労働世界』がやや詳しく報道しています*3。当時の演説会の雰囲気を知る意味で、これは全文引用しておきましょう。ここでも強調は引用者によるものです。

  青年館上の労働演説
 去月廿日夜、神田青年会館上において労働演説会を開く。当日折悪しく寒風吹き荒み天気頗る不穏なりしかば聴衆は甚だ少なかりしと雖も尚三百余名あり。
 満舘感激して労働演説を聞き、その得る所蓋し風寒を冒して出席したる労に酬ゐて余りあるべし。弁士は片山、高野、留岡、高橋、竹林の五氏にして、或は沈痛或は壮烈或いは快活、能く聴衆を泣かしめ、之を怒らしめ、之を敬服せしめ、これを慰諭したり。
 最初の演説は労働者として名乗り出たる竹林、高橋の両氏にして、その演説は以て今日の我労働者の意志を代表するに足れり。能く団結の勢力を説明し、能く労働者の地位を慰む。曰く
 
世間三尺の童子に汝は何となることを希望なるやと問へば、皆答へて私は官員さんになると云ふ。誠に情ない。何故に立派な職工さんとなって見事な物品を作り外国に誇て見せると云はざるや。
 我国の通弊穿ち得て妙なり。次は
    片山潜氏の沈痛演説
なり、氏は例に依て沈痛激越の口調を以て労働者の心肝をえぐり、徹頭徹尾権利の一言を以て貫通し、現時の労働者は何故に斯くの如く無気力なるやと絶叫す。次は
    留岡幸助氏の流暢演説
にして、滔々数千言労働は国民の要素なりてふ一義を敷衍して或は訴へ、或は説き或は解釈し或は物語り労働に関する現時の謬想を攻撃し、労働の真面目を説明して尽くせりと云ふべし。
    高野房太郎氏の慷慨演説
は例に依て悲壮なり、懇切なり、訴訟なり、陳状なり。破壊的労働運動なる題を掲げて、先ず聴衆の心胆を寒からしめき。而れともその説く所は始めより終わりに至る迄一貫して平和主義を主張し、今日の労働運動は破壊的労働運動を避けんが為めの運動なりと論断して、陳言弁疎至れり尽くせり。最後に叫んで曰く、天下の資本家にして天下の労働者にして真に労働運動の本義を理解せば破壊的労働運動なる文字は今夜限りその跡を我国に絶たしめん。

 散会せしは九時半なりき。

 最後に演説会の経費について見ておきたいと思います。この頃、演説会を開くとなると、いったいどのような費目にどれほどの経費がかかったのでしょうか? この演説会の費用は期成会の『会計簿』が残っていますから、内訳まで分かっています*4。演説会の記事などでは分からない、舞台裏の準備状況もうかがうことが出来、なかなか興味深い内容です。

労働組合期成会会計簿による。演説会費用
【支出】
草履五百足代  6円
下足番5名雇賃  2円25銭
青年会館電灯料 1時間1円25銭 5円
青年会館へ寄付 3円
後掃除人雇賃  50銭
石油及蝋燭代  11銭
青年会小使両名へ謝礼 1円
広告5000枚印刷代   2円50銭
傍聴券200枚印刷代    35銭
鉛筆3本代        6銭
小僧4名へ謝礼     50銭
紙代         60銭
青年会書記へ謝礼   1円
茶菓代        26銭
広告配布人足賃及車代  25銭
工業協会渡、広告配布郵便賃  1円25銭

合計  金24円63銭

 最大の支出項目は下足関係の費目で、全費用の3分の1、8円50銭に達しています。新築の洋風建築である青年会館の講堂でも、まだ土足のまま会場に入ることはできず、下足番を置き、下足札と草履を渡して入場させる仕組みだったのです。当時の東京の悪路は有名でした。田山花袋は回想記『東京の三十年』の冒頭で「東京は泥濘の都会」と記しています*5し、ベルツは明治35年2月1日の日記で「雨。東京の街路はおそろしい泥たんぼである、しかもこれが、あれほどやかましく騒がれ、あれほどたくさんの金を使った改修工事のあとと来ている」と書いているほどです*6。しかも多くの人が下駄履きだったのですから、洋式の大講堂でも下足をとらざるを得なかったのでした。なお、聴衆が1200人を超えたというのに、買った草履は500足だけなのは、おそらく職工義友会の演説会の時の残りがあったからでしょう。
  直接の会場費にあたるのは青年会への寄付3円ですが、書記への謝礼、小使への謝礼各1円も、これに相当するでしょう。それに電灯料や掃除人の賃銭も広い意味では会場費の一部とみるべきでしょう。青年会館の大講堂が電灯を設備した最新の集会場だった点も注目されますが、その電灯料も1時間当たり1円25銭もかかったのでした。
  さらに、この支出内訳から、演説会の宣伝方法も分かります。広告チラシをつくり、これを人力車夫に頼んで配布したのでした。同時に、佐久間貞一が会長をつとめる東京の同業組合連合会ともいうべき東京工業協会の組織網を使って、傍聴券やチラシが配布されています。
  ただ、労働組合期成会が誕生したことにより、房太郎らが費用を自分で負担する形はなくなりました。会員の有志から総額28円余もの寄附があり、支出を完全にまかなうことが出来るようになったのでした*7。かつて房太郎はゴンパーズに宛てた手紙*8で、集会の経費を労働者から募ることの困難さを訴えていたのですが、始めてみれば案外簡単にこの難問も解決したのでした。

 私たちは、これからも同様の集会を開くことを強く望んでおり、この目的達成のための資金集めに、いろいろ工夫を凝らしています。しかしあなたもよくご存知のように、これがなかなか容易なことではありません。1回の集会を開くには40円もの金がいるのですが、私たちだけでこれを負担するわけにはいかず、さりとて労働者から資金を募ることも不可能です。かといって、私たちは喜んで資金を寄付してくれる同情者を見つけることも出来ずにいます。集会開催を断念せざるをえない事態にならないことを願っています。




【注】

*1 主として「労働組合期成会成立及発達の歴史」により、『高野房太郎日記』、『労働世界』『毎日新聞』記事等によって補った。なお、神田錦輝館での演説会の日時は「発達の歴史」では11月20日だが、『労働世界』第1号(復刻版10ページ)記事では11月21日となっている。

*2 『労働世界』第10号(1898(明治31)年4月15日)、復刻版p.99。

*3 『労働世界』第7号(1898(明治31)年3月1日)、復刻版69ページ。

*4 労働組合期成会の会計簿は、高野房太郎の遺品のひとつとして残った。現在は法政大学大原社会問題研究所所蔵。 

*5 田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫、1981年刊)7ページ。

*6 トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』(岩波文庫、1979年)244ページ。

*7 「労働組合期成会成立及び発達の歴史」(『明治日本労働通信』、岩波文庫、1979年)389ページ。

*8 1897年4月15日付、高野房太郎よりゴンパーズ宛て書簡。(『明治日本労働通信』、岩波文庫、1979年)42〜43ページ。 





法政大学大原研究所         社会政策学会


編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
E-mail:
nk@oisr.org

 Wallpaper Design ©
あらたさんちのWWW素材集



    先頭へ