高野房太郎とその時代 (74)
6. 労働運動家時代
鉄工組合の発展
1898(明治31)年1月、房太郎は29回目の誕生日を迎えました。20歳台最後のこの年は、房太郎の全生涯を通じ、公私両面において、もっとも充実した1年でした。
私的な側面では、前年12月31日付で弟岩三郎らとの共著で『和英辭典』を、1月16日には『英和商業会話』を、ともに大倉書店から刊行しています。大倉書店は夏目漱石の『吾輩は猫である』の版元として有名ですが、もともと辞書出版で知られた明治期の大出版社でした。そこから辞書と会話読本を出したのです。さらに、これは公的な活動とも結びついていましたが、アメリカの労働組合機関紙誌に毎月のように有料の「日本通信」を寄稿し、これで生活を支えていました。辞典の刊行と同時にアメリカの数多くの組合機関紙誌に定期的に英文通信を執筆していた事実は、彼が当時の日本では、抜群の「英語の達人」であったことを証明しています。また、これらの通信が残っているので、当事者の手で記録された草創期の日本の労働運動の状況を知ることが出来ます。
私生活において、より重要な出来事は、この年の前半に横溝キクと結婚し、7月に入籍していることです。これについては、いずれ回を改めて述べることにしたいと思います。
公的な活動面では、前年に引き続き労働組合期成会と鉄工組合の組織化に全力をあげ、大きな成果をあげました。一年を通じて東京、横浜、横須賀など京浜の各地で演説会に出演したのをはじめ、夏には東北に遊説旅行をしています。秋には工場法案修正運動に全力をあげ、さらに年末には横浜で「鉄工共営合資会社」と称する生活協同組合を新設し、その専従となるなど、精力的に活動しています。
今回は、そうした活動のなかでも、房太郎がもっとも力をいれた鉄工組合の発展の様子を見ておきましょう。前年暮に組合員1180人で発足した鉄工組合は、1898年中は、きわめて順調に組織を拡大して行きました。毎月のように支部が新設され、半年余で創立時の2倍を超える2500人、98年末には32支部2717人の組合員を擁する組織に成長しています*1。第二次大戦直後のように、職場単位で全従業員を組合に一括加盟させ、組合費は給料から天引き、といった時代ではありません。組合に加入させるには、労働者一人ひとりを説得し、個別に入会金をとり、毎月組合費を徴収しなければならなかったのですから、この組合員増加のテンポは驚異的と言ってよいでしょう。
まずは、創立以降約1年間に新設された支部名、および各支部が基盤とした企業名を一覧しておきましょう*2。
鉄工組合支部一覧(2)支部名 | 組織基盤 | 発足日 |
第14支部 | 芝浦製作所 | 1898年2月11日 |
第15支部 | 新橋鉄道局(仕上工場) | 1898年2月11日 |
第16支部 | 石川島造船所(錬鉄部) | 3月1日 |
第17支部 | 横須賀海軍工廠 | 3月3日 |
第18支部 | 甲武鉄道会社工場 | 3月13日 |
第19支部 | 東京砲兵工廠精密工場 | 3月20日 |
第20支部 | 石川島造船所 | 4月24日 |
第21支部 | 石川島造船所錬鉄部 | 5月1日 |
第22支部 | 赤羽海軍工廠 | 5月10日 |
第23支部 | 日本鉄道福島、黒磯、仙台 | 5月25日 |
第24支部 | 東京湾内汽船会社 | 7月9日 |
第25支部 | 日本鉄道青森工場 | 8月5日 |
第26支部 | 日本鉄道盛岡工場 | 8月6日 |
第27支部 | 東京砲兵工廠精密工場仕上工 | 8月13日 |
第28支部 | 東京砲兵工廠小銃旋工場 | 10月 |
第29支部 | 北海道官設鉄道工場(滝川) | 10月 |
第30支部 | 東京砲兵工廠銃身場 | 10月 |
第31支部 | 石川島造船所(車両工場) | 10月 |
第32支部 | 石川島造船所(仕上工場) | 10月 |
発足時の1897年12月現在の支部一覧は、すでに掲載してありますから、ご参照ください。この2つの一覧表で明らかなように、発足時の13支部に加え、この1年足らずの間に19の支部が新設され、計32支部が結成されています。創立時と変わらず東京砲兵工廠が鉄工組合最大の組織基盤で、総計10支部に達しています。砲兵工廠の支部は共同して神田三崎町2丁目2番地に城北聯合支部事務所を設けて組合費の徴収などをおこなっただけでなく、鉄工の就職を斡旋し、さらに共働店を設立し、火災にあった支部員に対する寄附を募るなど、支部レベルでも活発に活動しています。
また注目されるのは従業員4000人を擁し、東京砲兵工廠とならんで関東地域における最大規模の金属機械工場であった横須賀海軍工廠*3の組織化に成功している事実です。もっとも発足時の組合員数は約250人で*4、組織率はあまり高くはありませんでしたが。
さらに、日本最初の民営洋式造船所である石川島造船所にも、新たに5つの支部が作られています。石川島造船所の従業員数は600人余ですから、事業所としては東京砲兵工廠や横須賀海軍工廠よりはるかに小規模でした。しかし、そこに5支部ですから、組織率は東京砲兵工廠より高かったと推測されます。このほか、芝浦製作所、新橋鉄道局、日本鉄道の各地工場など、京浜を中心に東日本の主要金属機械工場の大部分の組織化に成功しています。
ではなぜ、金属機械工場の労働者が、このように房太郎らの呼びかけに積極的に応え、組合を組織したのでしょうか?
かつては、こうした疑問を労働者の経済的窮乏から説明する傾向が根強くありました。「労働組合とは労働条件の維持・改善のための組織である」という先入観が強かったからでしょう。当時の労働者がいかに過酷な労働条件のもとにあったかを論証し、その改善のために労働組合に結集したのだと論じられて来ました。
もちろん、当時の日本の労働者の多くが、貧しい暮らしにあえいでいたことは事実です。しかし、期成会や鉄工組合の中心になって活動した人びとが、食うや食わずの生活を送っていたわけではありません。むしろ、中心になって活動したのは、相対的には高い賃金を得ていた人びとでした。たとえば、労働組合期成会において幹事として活躍した村松民太郎は東京砲兵工廠の助役という、労働者としては最高の職位の者であり、労働者が経営する独立工場を設立する運動の中心人物でもありました。また同じく期成会の「常置委員」であった間見江金太郎、松田市太郎らは、演説会費用として30銭、1円など、少なからぬ額の寄附を繰り返しています。また、鉄工組合の初代庶務部長に就任した平井梅五郎は横浜船渠の職長でしたが、鉄工組合発会式の費用として、一人で3円もの寄附をしているのです。彼の後任である森田長吉は、横浜の第161番鉄工所の職工長であり「手下に多くの職工を有し仲間の間に頭分として推さるる有力者」でした。さらに、石川島造船所の組織化の中心になり、鉄工組合の救済部長に就任した小沢辨蔵は、幕末からの西洋鍛冶の親方で、紳士録にも載るような人物でした。つまり鉄工組合の中心的な活動家は、いずれも労働者としては、かなりの高収入を得ていた熟練労働者だったのです。
もちろん、こうした事実を高野や片山らも認識していました。すでに引用した文章ですが、片山潜は鉄工組合がまだ活発に活動していた1899(明治32)年に、つぎのように述べているのです*5。
殊に労働問題に賛成して殊に尽力でもしやうと云ふやうな職工は我々の意想外に出た。それはちよつと考へて見ると労働運動を賛成して集まつて来るところの職工は多くは軽薄であつて
マア御饒舌りでもすると云ふやうな者でありさうなるに決してさうでない。工場内で第一に賛成して来た職工は重に上等職工であつて往々工場内に於て職工の上に全権を取つて人の上に立つ者故に其工場内に運動をするに於ても大に都合が宜い。それだからして工場主もそれ程反対を為ない。〔強調は引用者〕
では、何故こうした相対的には高賃金を得ていた「上等職工」が期成会や鉄工組合に積極的に参加して来たのでしょうか?
彼らの仕事場である工場は、幕末に誕生したばかりの、日本人にはなじみのない職場でした。一般に、工場労働は、ほかに生活の手段がない人びとがやむを得ず選択した職業で、大工や左官といった職人に比べても、社会的に認知されていませんでした。ともすれば、いわゆる「下層社会」の一部として一段低くみられていたのです。また企業内においても、現場労働者は、企業の正規の構成員とは認められず、単なる「労働力」として扱われていました。たとえば、『横須賀海軍船廠史』における在籍人員記録を見ると、「定員」に定められているのは、「造船科主幹」「造船科工場掛」「機械科主幹」「機械科工場掛」などの管理職と、雇員である「筆生」「工夫長」「監護」「用使」「給仕」だけでした。「職工」は、在籍者とはみなされず、1年間の実働延人員として、いわば原材料と同じ扱いを受けていたのです。同じことは『陸軍省統計年報』にも見られます。明治30年中を記録した『陸軍省第十一回統計年報』によれば、東京砲兵工廠の職員は軍人65人、軍属128人と人数で記録されていますが、職工は1年間の延人員でしか記録されていないのです。
「職工」は、労働条件の劣悪さ以上に、こうした社会的地位の低さ、企業内において一人前の構成員として扱われていないことに、強い不満を抱いていたのでした。そうした不満は、入職したばかりの低賃金の労働者より、勤続年数が長く、相対的に高賃金を得ていた「上等職工」の間で、より強く意識されていました。収入面では大工や左官などの「職人」より高賃金を得ている*6にもかかわらず、「職工」は彼らより社会的には見下されていたからです。こうした事実が、「上等職工」らが、現状を改革し、社会的地位を向上させなければならないと考えさせる要因として働いていたのです。
とくに砲兵工廠や海軍工廠の労働者は、日清戦争の際に、軍事作戦に動員されて高収入を得ただけでなく、不可欠の人材として高い評価を受け、なかには勲章を得る者も出るなど、一時的ながら従来とは異なった処遇を受けました。こうした体験は、平時に戻った時に、従来どおりの処遇に対し、強い憤りを感じさせずにはおきませんでした。
房太郎は『職工諸君に寄す』のなかで、「諸君は一方に於ては、地位実益の上進拡張を務むると共に、亦正道を踏むの勇気あること必要なり」と、労働者の社会的地位の向上を訴えていました。そして「労働は神聖にして結合は勢力なり。神聖なる労働に従事する者にして勢力ある結合を造る。羽毛能く船を沈め得べくんば、諸君の熱血の迸る所何事かを為し得ざるべき者あるべき」と呼びかけたのでした。この「労働は神聖なり」「結合は勢力なり」との呼びかけは、いわば『職工諸君に寄す』のキーワードで、房太郎は自分の名刺の裏に、次のように刷り込んでいました。
労働は神聖なり、結合は勢力なり、神聖の労働に従ふ人にして勢力の結合を作らんか、天下亦何者か之に衝る者あらんや。我が日本の職工諸君の為すべきこと唯夫れ結合を為すにあるのみ、組合を設くるにあるのみ。
これこそ、房太郎が日本の労働者に対してもっとも訴えたかったポイントであり、また工場労働者の心をとらえた点だったのでした。さらに期成会の機関紙『労働世界』も毎号、「労働は神聖なり」と「団結は勢力なり」の2つのスローガンを第一面の欄外に掲げていました。おそらく「職工諸君に寄す」の数千言より、この「労働は神聖なり」というひとことが、鉄工らの心を強く打ち、期成会や鉄工組合に参加させる大きな力となったに違いありません。
【注】
*1 半年後の組合員数は『労働世界』16号、1898年7月15日付、「京央便り」(『明治日本労働通信』397〜399ページ)による。1898年末の組合員数は片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』(岩波文庫版)79ページ。
*2 片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』、兵藤釗『日本における労資関係の展開』(東京大学出版会、1971年150ページ)、『労働世界』などから作成。
*3 横須賀海軍工廠は、1895年中に延べ人員で132万5815余の職工を使役していた(横須賀海軍工廠編『横須賀海軍船廠史』自明治二十一年紀 至明治三十年紀、211ページ)。就業日数353日であるから、1日平均の実働職工数は3756人ということになる。全労働者が353日出勤しているはずはないから、在籍労働者数は4000人を超えていたことは確実である。1898年5月15日現在の組合員数は280人で、一支部としては鉄工組合の中で最大の規模である。
*4 『労働世界』第11号(1898年5月1日)、復刻版107ページ。
*5 片山潜「日本の労働」(『社会』第1巻第4,5,6号、1899(明治32)年6月〜8月)。引用は岸本英太郎編・解説『明治社会運動思想』(上)、青木文庫、87ページ。
*6 『陸軍省第十二回統計年報』には、1898年12月31日調べの東京砲兵工廠の職工の賃金が記録されている。それによれば、賃金額の最高は1円75銭である。1円以上の賃金を得ている職工数は39人、75銭から96銭の職工数は225人である。この数は、労働者全体からみればごく少数ではあるが、平均40銭〜50銭台であった一般職人より高給を得ている工場労働者が存在していたことは明らかである。
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