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高野房太郎とその時代 (76)




6. 労働運動家時代

期成会の東北遊説

東北遊説に房太郎らと同行した高橋定吉、『日本の労働運動』口絵写真より

 1898(明治31)年7月23日から8日間、房太郎は期成会の同志とともに東北各地を遊説して回りました。都会っ子の彼には初めて訪れる土地ばかりで、しかも行く先々で盛大な歓迎を受けるなど、忘れがたい旅となったようです。彼としては珍しくこの旅の詳細を書き記して『労働世界』に連載しています*1。一行は4人、房太郎のほか片山潜、それに鉄工組合創立委員の高橋定吉と小笠原賢太郎でした。高橋定吉〔右上写真〕は東京砲兵工廠の鍛冶工で、『労働者の心得』をひとりで40部も買い入れるなど、期成会創立時からの熱烈な会員でした。また労働組合期成会内に「青年演説隊」を創設したり、演説会にしばしば出演するなど、労働者弁士としても良く知られていました。小笠原賢太郎は鉄工組合第6支部の組合員ですから、本所地域の工場労働者です。期成会では会計をつとめていました。
  この東北遊説の訪問日と訪問地は次の通りです。最終日以外は演説会の開催地でもあります。7月23日大宮、24日福島、25日一ノ関、26日盛岡、27日青森、28日尻内、29日仙台、30日宇都宮、31日帰京。今の感覚では、それほどの強行軍には見えませんが、当時の列車の所用時間を見ると、かなり厳しい日程です。たとえば、今なら1時間10分前後で着く大宮・福島間は、午前6時発の列車に乗って午後4時半到着、なんと10時間半かかっています。それも房太郎の言葉によれば、「熱天の下に汽車の客室に閉じ込められ、風通し宜きかと思へば砂風遠慮なく身辺に群がり来たり、顔、手、足、肉体の現るる所砂ならざるはなく、黒烟ならざるはなしという有様」でした。冷房などない時代ですから、窓を開けざるをえず、開ければ石炭の燃え殻まじりの煤煙が遠慮なく吹き込んできたのです。しかも現地到着後は、出迎えてくれた各地の鉄工や日本鉄道の機関士らとの懇談会、演説会、さらには懇親会と、ぎっしり予定が詰まっており、すべてが終わると深夜になりました。それが8日間続いたのです。

 この東北遊説は、労働組合期成会がこの年5月に開いた月次会での提案に端を発しています。その模様を『労働世界』第14号はつぎのように報じています*2

 労働組合期成会は去月〔明治三十一年五月〕廿九日夜第十一回月次会を日本橋呉服町柳屋に於て催し会務拡張案について討議せるが満場大多数の賛成を以て有志会員中より寄付金を募集し之を運動費に充て盛んに労働運動を試むることに一決せり。聞く所に依れば同会席上にては地方遊説の必要盛んに主張せられたる由なるが〔後略〕

 この決議にもとづいて、地方遊説などのための運動費の寄附金募集が呼びかけられ、同年暮までに168円42銭の募金が集まっています(『労働世界』第26号、復刻版262ページ)。一方、「東北遊説費用」としては、汽車賃、宿賃、演説会費などとして76円18銭5厘が支出されました*3

 期成会は当初から全国組織を目指していましたから、地方遊説はいずれは実施しなければならない、いわば懸案事項でした。しかし、なぜ、最初の地方遊説の目的地に東北を選んだのでしょうか。遊説の効果を考えれば、むしろ工業化がすすんでいる東海・阪神地域を選ぶべきだったのではないでしょうか。実は、これにはそれなりの理由がありました。ほかでもありません、この年2月にあの「日鉄機関方争議」がおきていたのです。
日鉄機関方争議、第一回上京陳情委員、『日本の労働運動』口絵写真より
  「日鉄」とは日本鉄道会社の略称です。民営ですが、国鉄をしのぐ1万人を超える労働者が働く日本最大の鉄道会社でした。現在のJR東北線、高崎線、常磐線などの前身です。その日本鉄道の機関方や火夫が、「我党待遇期成大同盟会わがとうたいぐうきせいだいどうめいかい」と称する秘密組織をつくり、待遇改善運動を展開したのでした。要求は、1)社内身分の改善〔書記同等の待遇〕、2)職名改称〔機関方を機関士に、火夫を乗組機関生になど〕、3)賃金引き上げ、などでした。各機関庫の労働者が会社に宛てて、郵便でこれらの要求を一斉に「嘆願」することを呼びかけ、争議手段として「服務規程第333条」を厳格に守る「遵法闘争」を開始したのでした。「服務規程第333条」とは、列車の遅延が生じた場合でも急行してはならないとする規定で、到るところで列車の遅延が生じました。
  こうした動きに対し、会社側は最初強圧策で臨みました。首謀者とみなした石田六二郎、安居彦太郎らを解雇し、運動を潰そうと図ったのです。これに対し機関士たちは電信で連絡をとりあい、2月24日夜一斉にストライキに突入し、上野から青森まで全線で運転が止まる事態になりました。争議が他の鉄道会社にも波及する兆しをみせたため、会社側が折れ、最終的には、団体交渉に応じ、労働者側の要求はほぼ容れられたのでした。しかも日鉄の機関士たちは、争議後に「日本鉄道矯正会」という労働組合的な組織を残すことにも成功したのでした*4
  これは、労働組合期成会にとって絶好の機会でした。もし、日本鉄道矯正会を期成会に加盟させることが出来れば、組織はいっきに拡大します。そうしたことを念頭において『労働世界』は、全国の鉄道機関士に向け「全国機関工諸氏に一大組合の設立を希望す」と題する論説を掲げ、さらに房太郎も「随感録」で矯正会が日本全国鉄道機関士の大団結に向けて進むことを呼びかけています*5。一方、矯正会の側にも期成会や鉄工組合との提携を重視する人びとがいました。その一人が、ストライキの首謀者だった石田六二郎らでした。片山潜が『労働世界』を彼に送って、提携を呼びかけたのに対し、石田はつぎのような手紙を返して来ています*6

 拝啓、初めて御書面拝呈す。主の恩寵おんちょうの下に益々御清福奉大賀候。て過日は労働世界御恵与被成下誠に有難く奉謝候。のぶれは、我等多数の者より依頼を受けたる事を多々有之候へば、出京の上には是非御面会の栄をかたじけなふし、御相談仕度したき心算こころづもりに候へば、何卒御拝顔の栄を得度えたく、予め御願置き候。去る二十五日尻内出発、一ノ関一泊、仙台三泊、其他福島黒磯宇都宮等の諸汽車部所在地諸氏を尋ね、今回の件に付打ち合はせ上京の筈之処、各所にて予定以外の日限を費やさヾるを得ざる場合とは相成、上京は多分来月五六日頃に候(後略)。

 さらに「機関方」の争議は、日本鉄道の他職種の労働者にも影響を及ぼしていました。なかでも、各機関庫の修理工らは、すでに組織されていた鉄工組合へつぎつぎと加入して来ました。もっとも早く動いたのは、福島、黒磯、仙台の鉄工で、5月25日に、鉄工組合第23支部を結成しています。房太郎らの東北遊説は、こうした各地機関庫の修理工や機関士の要望に応える形で実現したものでした。

 この東北遊説については、片山潜が面白いエピソードを書き残しています*7。後年の記録ですが、それだけ印象深いものがあったのでしょう。

 此旅行中青森で経験したことであるが、我が一行に対する労働者諸氏の心理状態を忖度そんたくする機会を得たることを喜んだ。我等が青森の停車場に下車するや、多数の労働者諸氏は歓迎してくれた。沿道到る所の停車場でも、我が一行を送迎することは同じく盛んであった。我々が宿屋に案内される其途中、一人の機関工が私に私語した。
  「諸君は今日三等汽車に乗って来られたことを非常に喜ぶ」と。「何となれば、もし諸君が中等又は上等で来られたならば我々は諸君を待遇することは出来なかった。名士の遊説と云えば、往年民権運動の盛んな頃、自由党、改進党の名士が地方遊説に来た時には、何処でも一等の宿屋、一等の料理屋を占領して贅沢ぜいたくを極めたものだ。此時の待遇のかかりは、無論其地方の有志家、富豪の支弁であった。我々は賃銀取りの労働者である。富豪の真似は出来ない。当地方機関庫在勤の機関工及び職工等の間には如何なる等級の鉄道切符もて来らるるかに関して議論があった。もしも前申した如く上等の切符で来られたならば我が労働運動の首領としての待遇は出来ないから諸君の自由行動に一任すると云うことに一決していたが、幸い諸君は赤切符で来られたので、我々は面目を保ち、我々は諸君を我が階級の友人として、斯く宿屋に案内して心から歓迎することが出来る」と。
  余は此機関工の見識ある言辞と、其平民的且つ労働者たる身分に背かざる態度に感服した。余は日本に於て、曾て二等列車に乗ったことはない。

 今では死語になっていますが、文中の「赤切符」というのは三等の切符が薄赤色の用紙を用いていたことによる「三等切符」の俗称です。ちなみに二等は「青切符」でした。
  なお、この遊説旅行がそれなりの成果をあげたことは、その直後の8月5日に日本鉄道青森工場を組織する鉄工組合第25支部が、ついで翌6日に同盛岡工場に第26支部が結成されていることからも判明します。



【注】

*1 高野房太郎「東北めぐり」『労働世界』第17〜19号(1898年8月1日〜9月1日)。『明治日本労働通信』(岩波文庫)403〜412ページ。

*2 『労働世界』第14号(1898(明治31)年6月15日)、復刻版139ページ。

*3 『労働世界』第20号(1898(明治31)年9月15日)、復刻版200ページ。

*4 日鉄機関方争議については、青木正久「日鉄機関方争議の研究」(労働運動史研究会編『黎明期日本労働運動の再検討』労働旬報社、1979年所収)参照。

*5 『労働世界』第13号(1898(明治31)年6月1日)、復刻版126〜127ページ参照。

*6 『労働世界』第10号(1898(明治31)年4月15日)、復刻版97ジ。

*7 片山潜『わが回想』上(1967年、徳間書店)288ページ。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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