高野房太郎とその時代 (77)6. 労働運動家時代工場法案修正運動
1898(明治31)年秋、房太郎は工場法案の修正運動に全精力を傾注し、ゴンパーズの手紙に返事も書けないほどの忙しさでした*1。農商務省が第十三帝国議会へ提出する「工場法案」を策定し、同年10月、これを第3回農商工高等会議に諮問したからです。 1898年9月、農商務省は農商工高等会議への諮問に先だって法案を公表し*2、全国の商業会議所に諮問しました。かねてから労働組合法とともに工場法の制定を要求していた労働組合期成会は、9月23日、第15回月次会を開き、同法案に対して全面的な検討を加えました。工場法案については一般会員の関心も高く、月次会には傍聴者もふくめ多くの会員が出席し、盛会でした。会議はまず高等会議の議員でもある評議員・佐久間貞一から工場法案に関する講演を聞いた後、法案を逐条審議しました。その結果いくつか修正を要する点があるとの結論に達し、房太郎以下5人の陳情委員を選出し、修正運動にあたらせることにしました。期成会が要求したのは次の8項目です。 1) 工場衛生や長時間労働などの弊害は小工場に多いので、工場法施行の範囲を50人の職工徒弟を使役する工場から、諸種の原動力を用い若しくは5人以上の職工徒弟を使役する工場にまで広げること。 修正項目の多くは説明を要しないと思いますが、最終の第8項についてはコメントが必要かもしれません。職工證は、職工の引き抜き防止策として一部の資本家が要求していたものです。具体的には、特定の職種の労働者に「職工證」の所持を義務づけ、それを所持しない者の雇い入れを禁止するというものでした。職工證は雇用期間中は雇い主が保管し、解雇の際に職工に返還することになっていました。それでは、労働者の意思による自由な移動を妨げる結果になるとして、期成会はこれに反対したのでした。成人男子労働者中心だった期成会の会員、とりわけ鉄工組合の組合員間では、この「職工證」問題に関心が高く、『労働世界』にはこれに反対する発言が数多く見られます。 修正運動の陳情委員に選ばれたのは房太郎の他、小沢辨蔵、永山栄次、片山潜、沢田半之助の5人でした。しかし、実際の活動状況を見ると、全員が一致して行動しているわけではなく、房太郎だけが飛び抜けて活発に動いています。『労働世界』に掲載された記録から、房太郎らの工場法案修正運動の様子を見ておきましょう。 10月3日(月) 第1回運動。有賀工務局長を農商務省に訪問して陳情。ついで島田三郎をその麹町の自宅に訪問し、修正意見を各箇条ごとに説明。つぎに志村源太郎宅、堀田連太郎宅を訪問するがともに不在。ついで佐久間貞一を自宅に訪問。重い病の床にあったが、修正意見に関する説明を聞いてくれ、陳情委員が激励された。田口卯吉を経済新報社に訪問するが、不在。板垣退助内務大臣を内務省に訪ねるが退庁の前であるとして、代わって松井事務官に説明した。東京商業会議所に渋沢栄一、中野武営を訪問。渋沢は病欠、中野は会議中であったため、萩原源太郎東京商業会議所書記長に説明。また居合わせた美濃部俊吉農商務省参事官に陳情。
こうした、期成会の運動はある程度の成果をあげました。11月2日、農商工高等会議は原案を何箇所か修正した委員会案を採決に付しました。その結果、出席総員28人中15人の賛成、13人の反対と、辛うじて工場法案の修正案は可決されたのでした。そこには、期成会がもっとも重視した項目である職工證の規定は削除されていました*4。 しかし、農商工高等会議での議決に先立ち、法案を諮問した第一次大隈内閣は事実上崩壊していました。「共和演説」で詰め腹を切らされた尾崎行雄文相の後任をめぐるポスト争いで、大石正己農商務大臣も辞表を提出していたのです。その後を受けた第二次山県内閣は、工場法案を議会に提出しませんでした。せっかく農商工高等会議で期成会の要望が多少は反映された修正案が通ったのに、議会に提案されなくては法律にはなりません。房太郎が全力を傾けた工場法案修正運動も、最終的には法律として実現することなく、運動は無意味に終わったかに見えます。しかし、農商工高等会議に集まった人びと──日本を代表する資本家や労働問題にかかわる官僚、学者──に、この国にも労働組合が存在し、労働政策について発言する力量を備えている事実を知らしめたことは明らかです*5。それだけでも、この工場法案修正運動は無駄ではなかったと言えましょう。 【注】*1 1898年12月4日付でゴンパーズに送られた手紙は、次のように述べています。工場法案修正運動の経緯についても要領よく説明しています。 9月15日付のお便りを、工場法案に対する反対運動のさなかに受け取りました。私に負わされたこの大きな任務のために、他の問題を顧みる余裕もなく、ただひたすら要求貫徹のため全力を傾けてきました。もっと早くご返事すべきでしたのに遅れたのはこのためです。 *2 工場法案の全文は『労働世界』第22号(1898年10月15日付)復刻版218〜219ページ。 *3 この決定は、『工場法案に対する意見書』として10月31日に秀英舎で印刷され、11月3日日付で発行された。編輯兼発行者は労働組合期成会、代表者として高野房太郎の名が記されている(奥付参照。)なお、注5の後半で分かるように、この意見書は奥付の発行日付前の11月1日に農商工高等会議の議員全員に配布されている。 *4 農商工高等会議における審議経過については、速記録が残されており、国会図書館の近代デジタルライブラリー『農商工高等会議議事速記録 [第2冊]』以降で読むことが出来る。 *5 11月2日の農工商高等会議最終日の席上で、金井延は「工場法案ヲ労力者ニ諮問スル義ニ付建議案」を提出し、鉄工組合や労働組合期成会の名をあげて、工場法に関して労働団体に諮問をすることを求める提案をおこなっている。その主要部分は以下の通り。 当局者ハ曩ニ全国商業会議所ノ意見ヲ徴シテ、今又本会議ノ議ヲ求ムト雖モ是レ或ハ裁判官ガ原告弁論ノミヲ聴キ、被告ノ答弁を求メスシテ判決ヲ下スノ類タラザルナキヲ得ンヤ。何トナレバ商業会議所ハ利害関係者ノ一方タル資本家ト企業家トノミヲ以テ成リ、本会議ノ如キモ議員中多少利害関係ノ外ニ超然タルモノナキニシモアルズト雖モ、多クハ資本家企業家ヨリ成リ、労力者ノ代表ハ殆ト一人モ之アルコトナシ。故ニ商業会議所ト本会議トノ意見ノミヲ徴シテ労力者ノ意見ヲ聴カザルハ、公平ノ所置ト謂フヲ得サルベシ。現今吾邦ニ東京工業協会、鉄工組合、労働組合期成会ノ如キ歩武整々秩序ノ十分立テル労力者ノ団体存在スルハ之ニ諮問ヲ為スニ於テ毫モ不便ヲ感ズルコトナシ。 一方、工場法の制定に反対していた高橋是清もまた次のように述べたという。 昨日労働者の一団体たる労働組合期成会より工場法案に対する意見書なる者を議員に配布し来たれり。採って是を読めば是等職工は十四歳未満の職工の労働時間は八時間に制限せんことを求む。然るに原案は是を十時間に制限せんとす。原案は一ヶ月二日以上の休暇を与へんとするに彼等は毎日曜日の休暇を求む。其他職工の請求と原案と異なる所多し。是れ全たく当局者が事実調査の詳密ならざりし為めに起りたる者なれば、本法は宜しく事実の調査充分なりし后ち始めて制定すべし この発言を紹介した『労働世界』第24号(1898年11月15日付)は、つぎのようにコメントしている。 労働組合期成会の名称を農商工高等会議の議事録に上らしめ、期成会をして世人の公認を受けしむるに至りたるは、高橋氏其人に採りては藪を突いて蛇を出すの嫌いなきにあらざるべけれと、期成会としては大いに同氏の厚意を謝すべからざるなり。 なお、なお、高橋是清の発言は《近代デジタルライブラリー》で読むことができます。ここをクリックすれば当該ページへとびます。 |
|
||
|
||
Wallpaper Design © あらたさんちのWWW素材集 先頭へ |