高野房太郎とその時代 (79)6. 労働運動家時代金子堅太郎の労働運動激励演説
『労働世界』の《佐久間貞一追悼号》(1898年11月15日付)は、数多くの追悼記事の後に、来る11月20日に、前農商務大臣の金子堅太郎が「職工の前途」と題して、期成会会員のために「学術講演」を行うことを予告していました。 曾て農商務省に次官たりし時、工業論を唱へ、職工保護法制定の要否を調査諮詢せられたる金子堅太郎氏は、今や新たに農商務大臣に就職せられたり。少なくとも吾輩は、職工の同情論者として又工場法制定の発起者として、氏が農商務大臣に就かれたことを賀せざるべからざるなり。 これほど期待されたにもかかわらず、金子が農商務大臣として在任したのは、わずか2ヵ月、政変のためすぐ退任せざるをえませんでした。とはいえ、工場法案を策定した農商務省は、内務省とともに、労働運動、労働問題を所管する官庁で、その省の次官を3年余にわたって務めた後、短期間とはいえ大臣であった人物が、期成会主催の会合での講演を引き受けてくれたのです。それだけでも、日本の労働組合運動にとっては画期的な成果だと、房太郎は大喜びだったことでしょう。
当日、会場となった神田青年会館に集まった聴衆は700〜800人でした。決して少ない数ではありませんが、鉄工組合の発会式に1200人もの人びとが集まったことを考えると、期成会の一般会員は、房太郎が期待したほどには、金子に強い関心をもっていたわけではないようです。 職工と云うものは文明開化の原動力であります。鉄道局は日清戦争で大変な大輸送をした。皆鉄道に乗って横浜へ行き外国へ行く。この鉄道は皆職工が作り運転している。労働者があればこそ鉄道も動く。故に文明的工業は皆職工の力である。日本鉄道があの改革が出来たのは、労働者が同盟罷工して、鉄道は動きませぬぞと言うたから改革したではないか(拍手大喝采)。 当時の工場労働者が、ともすれば「下層社会」と同一視されがちな、自らの社会的地位に強い不満をいだいていたことは、すでに述べたところです。金子は、こうした職工の心情を理解し、職工こそが日本国の経済を支える原動力であると強調し、世の人びとから尊敬される存在になるには、自尊心をもつことが大事だと説いたのでした。雄弁家として知られた金子が、聴衆の心をたくみにとらえる力量をもっていたことが、これだけでもよく分かります。 次に金子は、日本の職工が「宵越しの金はもたない」といった、貯蓄心に欠けるところが職工の欠点であると指摘し、その改善を呼びかけた上で、第3の「職工の団体」、つまり労働組合について論じています。 職工がチリヂリバラバラでは、職工の勢力は弱い。政治家も職工をいっこうに取り合わない。また資本家もあまり恐れはせぬ。また世の中の人も職工を認め、国家経済の一分子としても見ますまい。しかし職工が団体をつくり百人なり、二千人なり一万人なり集まりますと、強くなるというのは事実である。今日のヨーロッパでは、職工の勢力が資本家を左右し、ひいて一国の経済を左右するのは職工の団体であります(ヒヤヒヤ)。 この箇所は、その論点のひとつひとつが房太郎の持論と合致しており、まさに「我が意を得たり」と、講演に聞き入ったと思われます。とくに房太郎を喜ばせたのは、金子が「日本に、職工の団体を禁じた法律はひとつもない。職工はなるべく団体を作って、鞏固に国を富ますようにしたいということは、明治維新以来政府の方針」だと言い切ったことでしょう。帝国憲法の制定に参画し、東京帝国大学法科大学で行政法を講じたこともある、「法律の専門家」としても著名な金子がこのように断言したことは、自分たちの運動にお墨付きを得たも同様だ、と感じたに違いありません。 第4の「職工の首領」では、労働者の団体が成立したとなれば、その団体を統轄し、労働組合の意見を社会に向けて、また政治家に対して働きかける代表者がなければならぬことを指摘し、さらに国会へ代表者を送る必要性を強調しています。 すでに日本の国会の組織をご覧なさい。農業者の代表者じゃたいそう出ておる。また資本家の代表もずいぶんある。しかしながら労働組合を代表する衆議院議員は誰かあるか。あるか知らぬが、あの人が労働者のために十分その意見を代表する人びとであるという人は未だ見当たらない(拍手喝采)。職工というものは国家の経済にたいそう必要である、また国を富ますには職工で無からねばならぬという地位に今日はおりながら、未だ進んで衆議院に代表者を出すまでのご決心がつかぬと考える。是は実に職工のために方針を誤っておると私は思います。この東京に何千職工があるならば、その中から代表者を出すように願いたい(拍手喝采)。とても工場法案を農商務大臣が高等会議にかけて通過したといって喜ぶようなことではいかぬ。あれは行政官の諮としてのご下問だけだ。これから上院と下院を通さねばならぬ。通すには職工の代表人が議院のなかにおって、これは我々の代表する何十万の職工の意見である。是が我々が国を富ますの目的である、決して職工自身の利益を取るためではない、という代表人が衆議院に出るにあらざれば(拍手喝采)、いかほど工場法案が高等会議において可決されたところが、私は何の詮もないと思う。是は諸君が職工の前途を十分お考えになって、その職工の首領となる人を衆議院なり貴族院に送り込むようにご準備なさることを希望する(拍手大喝采)。 この金子の呼びかけは、期成会に対して、長期的な目標を示したという点では意味はありますが、制限選挙制度のもとでは、いささか現実離れした提案でした。まして、職工の首領を貴族院に送り込むことなど、現実にはありえない夢物語でしょう。とはいえ、工場法案を高等会議で修正させるだけで喜んでいてはならないという指摘は、房太郎の胸に応えるものがあったとと思われます。 〔佐久間貞一の逝去という〕この時に当たりて、 ところで、この金子堅太郎の演説を『労働世界』に掲載するについては、高野房太郎と片山潜とのあいだで、ちょっとした対立があったようです。後年の回想で片山はつぎのように述べています*5。 然れども予は『労働世界』の主筆として、期成会及び鉄工組合の指導者として、単なる経済主義を以て満足するものではない。にも拘わらず一度も高野其他と衝突したことはない。唯一度金子の一人演説を掲載する時に予は余り重きを置かず、後回しにせんと云うに対し、鉄工組合会計部長の永山栄次は組合幹部、高野は『労働世界』記者として、即時掲載を主張したのに対して予は快く譲歩した。 片山がなぜ金子堅太郎の演説に重きを置かなかったのかといえば、「英雄崇拝を感服せぬから」だったという。 十月には前農商務大臣を勤め、それ以前に次官たりし時代に工場法案の起草に与って力ある金子堅太郎男が期成会の為に労働問題の演説をしてくれた。一人演説ならしてやると云うことで、無論其注文に応じてして貰った。金堅の如き知名の人が我が期成会の為に演説するようになった一事は、我が運動に多少の威勢を与えたことは争われない。予はあまり英雄崇拝を感服せぬ。「人も人なり」と云う考え方が強いので、金堅の演説を『労働世界』に載せることで高野と衝突した位であることは既に記した。演説会は成功であった。七八百の聴衆があった。併し演説は平凡なもので、今読んで見るとくだらない。 コミンテルン指導者となってからの回想なので、これだけでは同時点で片山が金子演説にどのような評価をくだしていたのか分かりません。すでに社会主義的傾向を強めていた片山と高野の間には、運動が置かれている政治的状況に関する認識にかなりの差があり、それがこうした金子演説に対する評価の違いを生んだことは考えられないことはありません。しかし、「今読んで見るとくだらない」という片山の断定は、共産主義者となってからの判断で、実際には、片山潜も一時は金子堅太郎に対して、かなり高い評価をあたえていたのでした*6。 【注】*1 『労働世界』第12号(1898年5月15日付)、復刻版113ページ。 *2 『労働世界』第25号(1898年12月1日)〜第28号(1899年1月15日付)。 *3 以下の引用では読みやすさを優先させ、句読点を加えたり、漢字を仮名にしたり、旧仮名を新かなに改めたりしている。また抜粋に際し省略箇所をひとつひとつ記すことはしていない。また、原稿なしのいわば即興的演説であることを考慮し、一部ではあるが言葉をおぎなっている。もちろん文意はもとのままである。
*4 高野房太郎「金子堅太郎君の演説に付いて」(『労働世界』第25号)。なお文中の「 *5 片山潜『我が回想 上』(徳間書店、1967年)280ページおよび295〜296ページ。 *6 たとえば、片山は『労働世界』1901(明治34)年10月1日付、第92号の巻頭で「金子男に属す」と題して、金子堅太郎に宛てた書簡と覚しき一文を掲載しています。「属す」は「嘱す」つまり「期待する」の意味で、内容もつぎのように始まっています。 我尊敬する所の金子男は今や東京市参事会員となり大いに都市改良に尽瘁せらるゝ処あり。吾人の深く感謝する所なり。 片山潜が、金子堅太郎に対して、この時点では『我が回想』における否定的評価とはまったく異なった考えをいだいていたことは明らかです。 |
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