高野房太郎とその時代 (80)6. 労働運動家時代生協運動への転身1898(明治31)年11月29日、あの金子堅太郎の演説会から10日もたたないこの日、房太郎は周囲の人びとをビックリさせるような行動をとりました。労働組合期成会常任幹事および鉄工組合常任委員の役職辞任の意思を表明したのです。発足してまだ1年半の期成会、それにようやく創立1周年を迎えるところまで来た鉄工組合、この2つの組織の責任者、トップリーダーの地位を退くことを決断したわけです。この事実を、『労働世界』紙は以下のように報じています*1。 ○労働組合期成会 幹事会 を去月二十九日事務所の楼上に於て開く。議決左の如し。 このように、自らの組織のトップリーダーの交代という重要事項を、『労働世界』は一面ではなく七面の「組合彙報」欄で小さく伝えただけでした。いささか事務的に過ぎる印象はぬぐえません。おそらく、組合員の間ではさまざまな臆測が飛び交ったものと思われます。 もっとも、期成会と鉄工組合の責任者の地位を去ったといっても、房太郎は運動から身を引いたわけではありません。これまで未開拓だった新たな活動分野に転身したのです。その新分野とは「共働店」、つまり消費組合運動でした。それも、なぜか組合運動の中心地・東京ではなく、横浜に店を開きました。共働店の名称は「横浜鉄工共営合資会社」、つまり鉄工組合第三支部の組合員を対象とする共働店経営を始めたのでした。年の暮も迫った12月22日、横浜市翁町1丁目1番地に開業したのです*3。
房太郎はなぜ、この時期に、このような決断をしたのでしょうか。始めたばかりの労働組合運動が軌道にのったとはいえないこの時期に、しかし決して前途が暗いわけでもないこの時期に、房太郎はなぜ運動のトップリーダーの地位を捨て、共働店経営に身を投じたのでしょうか。
まず第1に考えられるのは、房太郎が共済機能に重点をおいた労働組合運動の限界を感じ、活路を生活協同組合的機能の充実に求めたのではないか、ということです。すでに見たように、1898年中、鉄工組合は順調に組織をのばしていたのですが、同時に組合費未払い者の増大という問題点も明らかになりつつありました。組合員数は増大しているのに、組合費を納入する者の数はいっこうに伸びず、停滞かむしろ下降気味だったのです*4。 どこの国でも、労働運動がまだ幼く、働く人びとの知的水準が低いところでは、労働組合の通常の機能は大多数の労働者にとって、かならずしも興味あるものとはなりません。たとえば、団体行動によって高賃金を獲得するといったことは問題になりません。そうした企てを実行するには、あまりに組織的に弱体ですから。組合の共済機能も、健康な人たちを組合活動に熱心にすることには役立ちません。労働組合が提供する教育機能を喜ぶ労働者は、ごく少数です。要するに、こうした国で労働組合が成功するには、組合に参加する人びとに直接的な利益を提供することが重要なのです。その意味で、労働組合の補助的な機能として、生活協同組合こそ、こうした要求をもっともよく満たすものですので、私たちは鉄工組合が創設に関わる業務を終えるとすぐに、協同組合の設立に向けて宣伝を始めたのです。 しかし、房太郎がこのような認識をもっていたからと言って、彼自身で協同組合売店の経営に乗り出さなければならない訳ではないでしょう。現に東京砲兵工廠をはじめ、各地で共働店の経営は始まっていたのです*6。むしろ、共働店の活動を全体的に広げるためには、横浜の一支部の組合員を対象に共働店を経営するより、期成会や鉄工組合のトップリーダーの地位にとどまり、すでに始まっている各地の共働店を活発化し、他支部に広げるような指導をおこなう必要があったのではないでしょうか。あるいは、彼の目から見ると各地の共働店の経営がうまく行っていないと感じられた点でもあったのでしょうか。 いずれにせよこれだけで、彼の転身の理由は説明しきれないと思われます。私はむしろ、そこには彼の私生活に関わる問題があったのではないかと想像しています。これについては、次回で、あらためて検討することにしましょう。 【注】*1 『労働世界』第26号(1898年12月15日付)、復刻版261ページ。 *2 高野に対する期成会と鉄工組合の感謝状は次のようなもので、50円で購入した記念品が添えられていました。 回顧すれば三十年七月労働組合期成会が初めて其呱声を挙ぐるや君は 『労働世界』第28号、1899年1月15日付、復刻版289ページ。 *3 1898(明治31)年12月15日付『労働世界』につぎのような記事が掲載されている。 横浜鉄工共働店は既に発起総会を開き会員三百余名にて五百株の第一払込も殆んど結了し其開店は晩くも本月廿日頃に在りと云へは横浜鉄工の将来は実に有望なることなり又其の創立事業に熱心に尽力されつつある人々の言に依れば同共働店は高野氏大に参与の力を加へらると又同共働店の方針なるものを聞くに第一節倹を主とし店費の掛らざるを旨とし第二は同店と会員の集会所即ち倶楽部となし又全浜の中央となすにありと。 さらに同年12月22日付の横浜貿易新聞の第一面に「横浜鉄工合資会社」の商業登記広告が掲載されている。 *4 兵藤釗『日本における労資関係の展開』(東京大学出版会、1971年刊)173ページ「第I-11表 鉄工組合の収支状況」参照。 *5 高野房太郎「日本の協同組合売店」1898年6月16日執筆。(『明治日本労働通信』190〜191ページ。) *6 1898年3月に東京砲兵工廠の第7支部が共働店を開設したのをきっかけに、砲兵工廠の鉄工は3つの共働店を設置していた。(奥谷松治『改訂増補 日本生活協同組合史』民衆社、1973年。) なお、第7支部の共働店については高野房太郎「東京たより」(『明治日本労働通信』400〜402ページ)参照。 |
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