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高野房太郎とその時代 (78)




6. 労働運動家時代

佐久間貞一の死

『労働世界』佐久間貞一追悼号

 工場法案修正運動で飛び回っている間にも、房太郎の心に重くのしかかっていた問題がありました。ほかでもありません、佐久間貞一の病状がきわめて深刻な段階を迎えていたことです。佐久間貞一は、言うまでもなく労働組合期成会の有力な後援者でしたが、同時に、問題の工場法案を審議しつつある第三回農商工高等会議の議員でもありました。工場法案の修正要求を実現する上で、誰よりも頼りにしていたのが、この佐久間貞一だったのです。しかし、若いときから肺を病んでいた佐久間の健康は、このころ急激に悪化し、高等会議への出席さえ危ぶまれる状況でした。
  房太郎は、病状を悪化させた原因が自分にあると感じていました。なぜなら、佐久間は房太郎の願いをいれ、病をおして9月23日に開かれた期成会月次会に出席し、「工場法案について」講演しています。さらに10月3日には、主治医が面会を禁じていたにもかかわらず、房太郎ら期成会の訪問委員を病室に招き入れ、工場法案について論議をかわしていたのです。この日を境に、佐久間の病状が急速に悪化したようです。それを知つた鉄工組合は、10月17日に開いた参事会の席で佐久間の病気見舞いを決め、2日後の19日、房太郎が長文の慰問状に葡萄酒をそえて病床を訪れています。期成会が、いかに佐久間に頼るところ大であるかを切々と述べた「慰問状」でした。重病の床にありながら、佐久間は自ら筆を執って、この慰問状に対する礼状をしたため、組合員を感激させています。

 しかし、高等会議が工場法修正案を可決した日から4日後の11月6日、佐久間貞一はついに帰らぬ人となったのでした。享年50歳。11月9日、下谷金杉の西蔵院で開かれた葬儀には5000人もの会葬者が集いました。朝野の名士多数の間に、労働者の集団が草鞋わらじ履きで葬列に参加する姿が人目を惹きました。労働組合期成会や鉄工組合の組合員が、幟を掲げ、東京ばかりか横浜、横須賀などからも参列していたのでした。

  『労働世界』はその11月15日号を佐久間貞一追悼号とし、その冒頭に、労働組合期成会の名で佐久間の霊前に捧げた弔辞を掲げました。個人の名は記されていませんが、おそらく高野房太郎の筆になるものと思われます。もっとも、弔辞としての形を整えた言い回しから見て、房太郎単独で書き上げたものではなく、誰かの助けを借りている可能性は高いと思われます。100年以上前のものである上にかなりの長文で、しかも弔辞独特の表現を用いており、決して読みやすい文章ではありません。しかし、房太郎の佐久間に対する心情が窺える弔辞ですので、ここでは現代語に訳して全文を紹介することにします。なお、原文は別ファイルにしておきますので、ご参照ください。

  明治31年11月6日、労働組合期成会評議員・佐久間貞一君は逝去されました。君は先月上旬、気分がすぐれぬと病床に臥し、名医数人の診療を受けておられましたが、天命がつきたのか、再起されることなく、突然あの世に旅たたれました。悲しく身をきられる思いです。
  いまや労働者保護の声は全国に広がり、政府もまた工場法制定に向けて動き始めました。これを君は大いに喜び、この好機を失してはならないと、病をおしてこの問題の研究につとめておられました。
  君はまた労働者が師としてうやまう友人であり、労働者の守り役でした。工業の発達のためには、法律による規制保護が必要であるというのは君の平素からの持論でした。そこで去る9月23日の労働組合期成会の月次会にご出席くださり、工場法案に対するご意見を述べられたのでした。その説かれるところは、ひとつひとつが問題の要点をつき、まさに工場法案修正運動のお手本となすべきものでした。しかし何とこれが、君の最後の言葉となってしまったのです。
  さらに10月19日には、私ども数名が期成会の陳情委員として、農商工高等会議の議員を歴訪し、期成会としての修正意見を述べた際、君もまた議員のお一人であられただけでなく、以前から「身命を賭しても工場法案の制定を期す」と言い切っておられましたので、私どもはあえて君のご自邸もお訪ねしたのでした。すでに病は重く、主治医は面会禁止を命じておられたのに、君は私どもを病室に招き入れてその意見を聞こうとされ、病苦もお忘れになったように見えました。私どもがご病気を案じて、しばらくは黙ったままでいると、君はかえってもどかしく思われ、早く意見を述べよと督励されたので、やむなく私どもの意見を申し述べましたところ、仔細に問題点を指摘して批判を加え、指示を与えられるなど、たいへん役にたつご意見を聞かせてくださいました。
  君の熱意と誠実は、労働組合期成会の歴史に特筆大書し、後世につたえなければなりません。ただ、君の熱意が、病をおしての本会月次会での演説となり、期成会の訪問委員との面会となったことは、私どもが光栄とするところではありますが、そのためますます病状を悪化させ、ものも言えない重体に陥られたと聞きました。
 もしこのような事態になると分かっていれば、いかに君の強い要望であっても私どもは固辞して去ったことでしょう。しかし先見の明がない私どもは、君の求めに応じて自己の考えを述べ、それによって君の心労を増し、ついに再起不能の重症に陥れてしまったのです。まことに嘆かわしい次第です。加えて、君は農工商高等会議に参加することが出来なくなり、悔しい気持ちをおさえて病床で苦しんでおられました。その折の君の気持ちを推し量れば、まことに言いがたい思いがあります。ただ幸いなことに、高等会議には、君の気持ちを理解して努力された人びとがおられました。それによって、高等会議は君の意見を受け入れ、労働者が希望するような工場法案の修正を認めたのでした。この知らせを聞くと、君は目を見開き、「善し」と仰せられるや目を閉じ、そのまま人事不省に陥られたとのことです。そうと知って、私どももいくらか気持ちが休まります。
  わが労働組合期成会が誕生した折には、君の導きを得て辛うじて幾多の困難を乗り越え、 ようやく今日の状態にたち至ることができました。これはひとえに君の力によるものです。しかるに、医師や薬の効き目もなく、霜枯れの秋の候に君をあの世に送るとは、天命なのでしょうか。不肖愚鈍な私どもが君の後援を失ってしまうのは、灯り無しに闇夜を歩くことにほかなりません。これからどうして労働組合期成会を運営していったらよいのでしょう。君の死とともに、期成会も同時に墓穴に入ることになるほかありません。まことに残念です。
  春の花が開いたと思う間もなく雨によって散らされるように、人生はまことにはかないものです。嘆いても君は戻っては来ません。私ども期成会の会員は、ここに君の葬儀にのぞみ、涙をふるって棺を土で掩い、君を墓地に安置します。どうぞあの世から永く本会を守ってくださるよう、このつたない弔辞を捧げます。どうぞお受けください。 
 明治三十一年十一月九日
                     労働組合期成会

 佐久間貞一の死は、房太郎にとって計り知れない打撃となりました。房太郎は、早くから日本の労働者の現状では、有識者の協力なしに祖国に労働組合運動を根付かせることは出来ないと考えていました。しかし、アメリカから帰国して間もなく、日本には労働運動の意義を理解している有識者は少なく、まして運動に協力してくれる人を見出すのは容易でないことを思い知らされたのでした。そうしたなかで、一度話を交わしただけで、すぐ房太郎の意図に賛成し協力を惜しまなかったのが、ほかならぬ佐久間貞一だったのです。社会政策学会の研究会ではじめて顔をあわせた二人は、すぐ意気投合し、初対面からちょうど1ヵ月後に、佐久間の依頼による講演という形で、房太郎は日本の労働者に直接、労働組合運動の意義を訴える場をえたのでした。また、日本の労働者に呼びかけるパンフレット『職工諸君に寄す』を無料で印刷してくれ、演説会場でそれを配布するのを認めてくれたのも、また佐久間だったのです。
  しかも佐久間貞一は、単なる運動の一理解者ではありませんでした。秀英舎という日本を代表する大印刷工場の経営者であり、東京商業会議所の工業部門の責任者であり、東京市議会議員であり、小工業者の同業組合をひとつにまとめた東京工業同盟会の会長でもあったのです。
  佐久間はその社会的影響力を使って、労働組合期成会の活動を助けてくれました。たとえば、期成会の演説会のビラは、佐久間が会長である東京工業協会の組織を通して配布されました。また衆議院の副議長で、労働者に好意的な立場をとる『毎日新聞』の社長でもあった島田三郎は佐久間の古くからの親友でした。この島田に房太郎を紹介し、期成会の演説会に出演するよう働きかけてくれたのも佐久間でした。これをきっかけに島田三郎は労働組合期成会の評議員となり、さらには活版印刷工組合の会長に就任することになったのでした。
  さらに、日本で労働組合運動をすすめる際に、大きな妨げとなったのは警察による干渉だったのですが、その際もっとも頼りになるのが佐久間貞一でした。房太郎はゴンパーズに宛てた手紙で、警察が演説会に干渉してきた事実を報じたすぐ後に、つぎのように述べているのです*1

 この手紙と一緒に私の第2回の通信を送りますが、同時に佐久間氏の写真も同封いたします。貴誌にこの写真が掲載されれば、同氏の良き行いを励ますことになると考えますので、ぜひ掲載くださるようお願いします。彼は、今のところ、警察がわれわれの活動に干渉しはじめた時に、なんらかの実質的な援助を期待できる唯一の人物なのです。

 実際、1898年春、労働組合期成会がメーデー代わりに計画した大運動会に禁止命令が発せられた際、佐久間は、わざわざ警視庁まで出向いて警察幹部と面談し、期成会のために弁ずることを厭わなかったのでした。

 こうした人物が、房太郎にとって、また労働組合期成会にとって、文字どおり「余人を以て代え難い」存在であることは明かでした。そうした後援者を失ったのですから、これがどれほど大きな痛手であったか、想像に難くありません。
  ただ、その喪失感を癒し、いくらか房太郎の心を休めたのは、農商工高等会議が工場法案の職工證に関する規定を削除した上で承認したこと、さらに労働組合期成会主催の会合で前農商務大臣の金子堅太郎が労働運動支持の立場を鮮明にした演説をしてくれたことでした。金子演説については、次回でとりあげることにしましょう。


【注】

*1 1897年9月3日付書簡 

*2 房太郎は、1898年12月4日付ゴンパーズ宛ての手紙で、佐久間の死をつぎのように伝えています。

  つぎに皆さんにお伝えしなければならないのは、悲しい知らせです。われわれの敬愛する、そしてもっとも有力な支持者であった佐久間貞一氏が、宿痾の結核の再発により、11月6日に死去されました。これはわれわれにとって大打撃で、とくに今ほど彼の実際的な助言を必要とするときはないので、その逝去を深く悲しまずにはいられません。労働者の利益を守るために、彼ほど献身的かつ熱情にあふれた人を見いだすことは出来ないだろうと思います。





Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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