高野房太郎とその時代 (81)6. 労働運動家時代独身生活に終止符房太郎が期成会と鉄工組合のトップリーダーの地位を退き、共働店経営へと転身した背景には、なにか彼の私生活上の問題があったからではないか、これが前回の最後に提起しておいた疑問でした。今回はこの問題を取り上げたいと思います。
この時期、彼の私生活面で生じた大きな変化といえば、長年の独身生活に終止符を打ったことでした。妻となった横溝キクは、日本橋呉服町の貸席兼料理屋の「柳屋」横溝新兵衛の長女で、まだ満16歳でした*1。今の感覚からすれば年端も行かぬ幼妻ですが、数え年で18歳、当時ならすでに適齢期といってよく、けっして若すぎることはありませんでした。ただ、29歳の房太郎とでは、かなり年の離れたカップルではありましたが。
看板娘と会のトップリーダーの結婚ですから、期成会員の間にいろいろな噂が飛び交ったであろうことは容易に想像されます。そうした口さがない噂の中に、「鉄工組合が衰退した原因は、房太郎が柳屋の娘と恋愛関係になり、それが労働者の反発を招いたからだ」というものがあります。これは、生活協同組合史の研究者である山崎勉治氏が、東京砲兵工廠の村松民太郎から聞いたこととして伝えられているものです。しかし、これは事実ではないと考えます。もっとも、キクに岡惚れしていた活動家が、この結婚を機に組合運動から離れて行くといった出来事はあり得たでしょう。しかし鉄工組合の衰退を、彼らの結婚と結びつけて考えるのは、時期的な点で無理があります。キクが高野家に入籍したのは1898(明治31)年7月14日、さらに言えば二人が実際に結ばれたのはそれ以前のことでした。翌年3月4日には長女・美代が誕生しているのですから。一方1898年中は、鉄工組合が支部数でも組合員数でも増加を続けていたことは、すでに見たとおりです。
私は、常任を退かざるを得なくなった主原因は、高野家の生活問題にあったのではないかと考えています。一家を構え、しかも間もなく子が生まれるとなれば、房太郎が家計の安定を考慮せざるを得ない立場に置かれたことは明らかです。前にも述べたことですが、職工義友会時代から、房太郎は無報酬で活動を続けて来ました。それどころか、初期には運動のために少なからぬ私費を投じています。労働組合期成会や鉄工組合が多数の会員や組合員を組織し、かなりの会費を集めるようになっても、房太郎自身は一銭の給与も受け取っていませんでした*4。このように無報酬のボランティアとして活動したことは、運動の出発点では、賢明な選択だったと思います。なぜなら、過去にもいくつかの労働団体が「指導者たちは労働者を食いものにしているのだ」といった噂によって、失敗に終わっていたからです。 私は、運動の第一歩をやり通すのに必要な資金を自分で稼ぎ、さらに自分自身の生活を支えるためにも、英語を日本語に、また日本語を英語に翻訳する仕事に従事して、元気に過ごしております。この翻訳の仕事を運動の余暇にすることで、何とか生活が成り立つだけの収入は得たいと考えているのです。できればなるべく多くの収入を得たいので、あなたのご尽力によって、御地の労働新聞あるいは労働雑誌に、毎月、日本の産業あるいは産業生活に関する小論を寄稿し、それに対し多少なりとも一定の報酬を得ることが考えられないかどうか、お伺いする次第です。もし、あなたの友人諸氏に宛てて、この問題についてお尋ねくださり、できるだけ早い機会にお知らせいただければ、ご恩は終生忘れません。 この手紙に対する返事が来なかったので、その半年後、1897年5月2日付の手紙でさらに催促しています*6。 お便りを拝見して、12月11日付の手紙でお願いしたアメリカの労働新聞雑誌への寄稿についておふれになっていないので、少々落胆しました。前便でも申し述べましたが、運動継続のための資金を確保する必要は緊急のものです。月1回公開の集会を開くには、最低限1カ月30円はかかると見積もられ、そうした集会は、わが日本の労働者の間に連帯と団結の考えが十分に目覚めるまでは続けられなければなりません。労働者の間から、あるいはその他の階級の間からでも、そのための資金を募ることはまったく問題になりません。そこで、この資金をアメリカの新聞雑誌への寄稿によって集める必要があるのです。私が直面しているこの状況と私の無力感を、ご理解くださるよう切望いたします。お手数ですが、御地の労働新聞の編集者たちに手紙を書いてくださり、どなたか日本の産業と労働者状態についての私の論稿を取り上げてくださる方がいらっしゃらないか、確かめていただくことを切にお願いする次第です。あなたにこのような面倒なお願いをすることの身勝手さはよく承知しており、しかもご尽力になにひとつお報いすることができないのですが、ご海容のほどお願い申し上げます。この件について、できるだけ早い機会にご返事いただけるならばまことに幸いで、伏して懇願いたす次第です。 房太郎の熱意に動かされたゴンパーズは、大組織のリーダーとして多忙をきわめた生活のなかで、寸暇をさいて数多くの労働組合機関誌に手紙を書き、房太郎の英文通信1本につき1ドルを支払うシンジケートに参加するよう働きかけてくれました*7。そればかりか、毎回受け取った原稿のコピーを作成して配布することや集金までも引き受け、さらには集まった金を日本に送金する雑務まで担ってくれたのでした。その結果、1897年8月には16組合がこのシンジケートに参加するようになり、毎月15ドル余の金が送られて来るようになりました。送金額は徐々に増えて、9月には20ドルを超えています。1898年4月には52ドルが送金されていますが*8、おそらくこれは2本分でしょう。 以上の推測を裏付ける事実があります。それは、この退陣からわずか半年後の1899(明治32)年6月25日、房太郎はふたたび労働組合期成会と鉄工組合の常任幹事、常任委員として、元のポストに復帰するのですが、その際、毎月25円の給与の支給が決定されているのです。鉄工組合から20円、期成会から5円を出すことが、鉄工組合の委員総会と期成会の月次会で承認されています。この事実は、前年11月に「常任幹事高野君常任を辞任せらるヽに付、審査の上事実止むを得ざる者に付、承諾を為し」た際、「事実止むを得ざるもの」として承諾した理由が、無給のボランティアでは、生活が成り立たない点にあったことを裏書きしています。 【注】*1 「柳屋」が貸席だけでなく料理店を兼ねていたことは、片山潜が『わが回想』(上)のなかで述べている(同書、265ページ)。また房太郎の結婚相手のキクが柳屋の娘であったことは、水沼辰夫が『明治・大正期自立的労働運動の足跡──印刷工組合を軸として』(JCA出版、1979年)のなかで、次のように記している(同書42ページ)。 期成会は月次例会を日本橋呉服橋外の貸席柳屋で開いていたが、そのうちに高野は柳屋の娘さんと意気投合して結婚するに至った。 ただ水沼は当時の運動の直接体験者ではなく、これは伝聞による記述である。また、キクの身元については、高野岩三郎の長女マリアが1980年3月14日に大島清氏に伝えた談話メモがあり、それには「キクは日本橋の米屋の娘で、京橋の菊屋(料亭)に出ていた」と記されていたため、私も一時は水沼談話の信憑性には疑念を抱いていた。
「父 亡横溝新兵衛/母 不詳/長女/家族トノ続柄 亡父房太郎妻/出生明治拾四年拾二月九日。 ここに記されている横溝家の住所「日本橋区呉服町1番地」は他ならぬ労働組合期成会や鉄工組合の住所そのものである(参照 労働組合期成会『工場法案に対する意見書』奥付)。以上から、キクが柳屋の娘であったことは間違いないと考える。
*2 当時の住所は東京市日本橋区呉服町1番地、といっても分かり難いであろう。現在の住所は東京都中央区八重洲1丁目2番1号である。東京駅八重洲口を出て、外濠通りを左につまり北に向かって行き、永代通りと交差する呉服橋交差点角のみずほ信託銀行本店の所在地である。詳しくは、高野房太郎の旧跡探検その5を参照。 *3 房太郎の1897年の『日記』12月20日の項には「柳やヘ泊ス」と記されている。 *4 房太郎が無報酬で運動に従事していた事実は、1897(明治30)年の『高野房太郎日記』の金銭出納欄を仔細に見るだけで明らかであるが、ほかにも片山潜の証言がある。すなわち、片山が房太郎の後任の常任幹事となった直後、1899(明治32)年2月10日に開かれた社会政策学会の例会で、次のように述べている(『国家学会雑誌』第145号所収「社会政策学会記事」)。 而して此の期成会の創立者とし、整理者とし、労働者運動の首領として功ある者は、実に高野房太郎氏なり。氏は卅年六月より昨年十月迄一日の如く組合運動に万般の事務に尽瘁せられたり。而かも全然無報酬を以て其全身を犠牲に供して斯の運動に従事せられたるは、労働運動の盛運今日有るを致したる所以なり。 *5 高野房太郎『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、1997年)37ページ。 *6 高野房太郎『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、1997年)46〜47ページ。 *7 ゴンパーズから房太郎宛て書簡、1897年7月7日付参照。 *8 ゴンパーズから房太郎宛て書簡、1897年10月27日付、同1897年10月28日など参照。 |
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