二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(八一)

独身生活に終止符

高野キク、1902(明治35)年、中国青島にて撮影した家族の記念写真より。20歳前後。

 房太郎が期成会と鉄工組合のトップリーダーの地位を退き、共働店経営へと転身した背景には、なにか彼の私生活上の問題があったからではないか、これが前回の最後に提起しておいた疑問でした。今回はこの問題を取り上げたいと思います。

 この時期、彼の私生活面で生じた大きな変化といえば、長年の独身生活に終止符を打ったことでした。妻となった横溝キクは、日本橋呉服町の貸席兼料理屋の「柳屋」横溝新兵衛の長女で、まだ満一六歳でした*1。今の感覚からすれば年端も行かぬ幼妻ですが、数え年で一八歳、当時ならすでに適齢期といってよく、けっして若すぎることはありませんでした。ただ、二九歳の房太郎とでは、かなり年の離れたカップルではありましたが。
 柳屋は、ほかならぬ労働組合期成会と鉄工組合が本部事務所を置いていた貸席で、東京市日本橋区呉服町一番地にありました*2。キクは、この柳屋の「看板娘」だったに相違ありません。房太郎は、その柳屋へ毎日通勤しており、時には柳屋に泊まることもあった*3ようで、二人はすぐに親しくなったものでしょう。見合いではなく恋愛結婚だったことも、また確かです。伝聞ながら当時の関係者の話が残されていますから。上の写真は結婚後四年を経た二十歳前後のキクですが、利発で勝ち気な下町娘といった印象を受けます。都会生まれの都会育ち、しかもアメリカでハキハキものを言う女性を見慣れてきた房太郎にとって、好ましいタイプと映ったものでしょう。キクの方も、洋行帰りで英語が出来る知識人、しかも運動のリーダーとして多くの人びとに尊敬されている房太郎に、年の差など気にならないほど惹きつけられたものと思われます。

 看板娘と会のトップリーダーの結婚ですから、期成会員の間にいろいろな噂が飛び交ったであろうことは容易に想像されます。そうした口さがない噂の中に、「鉄工組合が衰退した原因は、房太郎が柳屋の娘と恋愛関係になり、それが労働者の反発を招いたからだ」というものがあります。これは、生活協同組合史の研究者である山崎勉治氏が、東京砲兵工廠の村松民太郎から聞いたこととして伝えられているものです。しかし、これは事実ではないと考えます。もっとも、キクに岡惚れしていた活動家が、この結婚を機に組合運動から離れて行くといった出来事はあり得たでしょう。しかし鉄工組合の衰退を、彼らの結婚と結びつけて考えるのは、時期的な点で無理があります。キクが高野家に入籍したのは一八九八(明治三一)年七月一四日、さらに言えば二人が実際に結ばれたのはそれ以前のことでした。翌年三月四日には長女・美代が誕生しているのですから。一方一八九八年中は、鉄工組合が支部数でも組合員数でも増加を続けていたことは、すでに見たとおりです。
 あるいは、この結婚をめぐって何らかのスキャンダルがあり、そのために房太郎が常任を辞任せざるをえない事態に立ち至ったことも、考えられないわけではありません。しかし、仮にこの臆測が事実であるとすれば、期成会と鉄工組合が高野房太郎に感謝状と記念品を贈り、肖像写真を本部に飾るといった謝意を示すことはありえないでしょう。いずれにせよ、鉄工組合の衰退や房太郎の常任委員からの辞職を、彼らの結婚問題と直結させるのは無理だと考えます。

 私は、常任を退かざるを得なくなった主原因は、高野家の生活問題にあったのではないかと考えています。一家を構え、しかも間もなく子が生まれるとなれば、房太郎が家計の安定を考慮せざるを得ない立場に置かれたことは明らかです。前にも述べたことですが、職工義友会時代から、房太郎は無報酬で活動を続けて来ました。それどころか、初期には運動のために少なからぬ私費を投じています。労働組合期成会や鉄工組合が多数の会員や組合員を組織し、かなりの会費を集めるようになっても、房太郎自身は一銭の給与も受け取っていませんでした*4。このように無報酬のボランティアとして活動したことは、運動の出発点では、賢明な選択だったと思います。なぜなら、過去にもいくつかの労働団体が「指導者たちは労働者を食いものにしているのだ」といった噂によって、失敗に終わっていたからです。
 しかし、無報酬での活動は、房太郎個人には、肉体的にも精神的にも非常な負担を強いました。彼には自分の生活と運動を支える資産はなく、金銭的な余裕もなかったのです。その点では、片山潜とも違っていました。もちろん片山もそれほどの金持ちというわけではありませんが、アメリカ時代の友人から二五〇ドル、日本円にすれば五〇〇円ほどの寄附を得て、キングスレー館という住居と社会活動の拠点を兼ねた建物を所有していました。キングスレー館があったからこそ、片山は家賃を払うことなく幼稚園や夜学校など、一定の収入を確保しうる事業を営むことが出来たのでした。さらに労働運動に熱中するようになってからは打ち切られたとはいえ、毎月二五円の補助をキリスト教界から得ていました。
 そうした条件のない房太郎が、運動に専念しつつ生活を支える手段として選んだのは、アメリカの労働組合機関誌へ有料の通信を送って収入を得ることでした。そのため、房太郎は早い時期からゴンパーズに向けて何回も依頼状を出しています。その最初は、実際に運動を始める以前の一九八六(明治二九)年一二月一一日付の手紙で、労働運動開始の決意を固めたことを報告すると同時に、次のような依頼をしているのです*5

 私は、運動の第一歩をやり通すのに必要な資金を自分で稼ぎ、さらに自分自身の生活を支えるためにも、英語を日本語に、また日本語を英語に翻訳する仕事に従事して、元気に過ごしております。この翻訳の仕事を運動の余暇にすることで、何とか生活が成り立つだけの収入は得たいと考えているのです。できればなるべく多くの収入を得たいので、あなたのご尽力によって、御地の労働新聞あるいは労働雑誌に、毎月、日本の産業あるいは産業生活に関する小論を寄稿し、それに対し多少なりとも一定の報酬を得ることが考えられないかどうか、お伺いする次第です。もし、あなたの友人諸氏に宛てて、この問題についてお尋ねくださり、できるだけ早い機会にお知らせいただければ、ご恩は終生忘れません。

 この手紙に対する返事が来なかったので、その半年後、一八九七年五月二日付の手紙でさらに催促しています*6

 お便りを拝見して、一二月一一日付の手紙でお願いしたアメリカの労働新聞雑誌への寄稿についておふれになっていないので、少々落胆しました。前便でも申し述べましたが、運動継続のための資金を確保する必要は緊急のものです。月一回公開の集会を開くには、最低限一カ月三〇円はかかると見積もられ、そうした集会は、わが日本の労働者の間に連帯と団結の考えが十分に目覚めるまでは続けられなければなりません。労働者の間から、あるいはその他の階級の間からでも、そのための資金を募ることはまったく問題になりません。そこで、この資金をアメリカの新聞雑誌への寄稿によって集める必要があるのです。私が直面しているこの状況と私の無力感を、ご理解くださるよう切望いたします。お手数ですが、御地の労働新聞の編集者たちに手紙を書いてくださり、どなたか日本の産業と労働者状態についての私の論稿を取り上げてくださる方がいらっしゃらないか、確かめていただくことを切にお願いする次第です。あなたにこのような面倒なお願いをすることの身勝手さはよく承知しており、しかもご尽力になにひとつお報いすることができないのですが、ご海容のほどお願い申し上げます。この件について、できるだけ早い機会にご返事いただけるならばまことに幸いで、伏して懇願いたす次第です。

 房太郎の熱意に動かされたゴンパーズは、大組織のリーダーとして多忙をきわめた生活のなかで、寸暇をさいて数多くの労働組合機関誌に手紙を書き、房太郎の英文通信一本につき一ドルを支払うシンジケートに参加するよう働きかけてくれました*7。そればかりか、毎回受け取った原稿のコピーを作成して配布することや集金までも引き受け、さらには集まった金を日本に送金する雑務まで担ってくれたのでした。その結果、一八九七年八月には一六組合がこのシンジケートに参加するようになり、毎月一五ドル余の金が送られて来るようになりました。送金額は徐々に増えて、九月には二〇ドルを超えています。一八九八年四月には五二ドルが送金されていますが*8、おそらくこれは二本分でしょう。
 しかし房太郎にとって、多忙な運動のさなかに毎月一本の英文通信を書くことは、容易なことではありませんでした。その精神的・肉体的な負担はしだいに耐え難いものになって行ったに相違ありません。また、船便での通信送付は、時として締め切りに間に合わない事態を招き、そうなると一ヵ月間無収入ということもあったようです。あるいは通信の材料が種切れ状態になったのかもしれません。いずれにせよ、一八九八年一〇月二〇日の通信を最後に、房太郎の論稿は『アメリカン・フェデレイショニスト』誌にあらわれなくなりました。この最後の英文通信を執筆した直後に、房太郎は期成会と鉄工組合の常任辞任を決断したのでした。英文通信の収入で家計を安定的に支えるのは不可能だと考え始めたことが、運動の第一線から退く以外に道はないと決意させたのではないでしょうか。
 しかし、すでに述べたように、彼はこの時に運動から離脱したわけではありません。労働運動を続けながら一定の収入を得る手段として選んだのが、共働店経営だったのです。もちろんそれは、高野家の生活安定だけを目指したものではなく、それまでの鉄工組合に欠けていた一般組合員に実利をもたらし、労働組合の積極的な意味を実感させる狙いもあったのです。その意味で、前回の答えも、まったくの的はずれではなかったと言うべきでしょう。

 以上の推測を裏付ける事実があります。それは、この退陣からわずか半年後の一八九九(明治三二)年六月二五日、房太郎はふたたび労働組合期成会と鉄工組合の常任幹事、常任委員として、元のポストに復帰するのですが、その際、毎月二五円の給与の支給が決定されているのです。鉄工組合から二〇円、期成会から五円を出すことが、鉄工組合の委員総会と期成会の月次会で承認されています。この事実は、前年一一月に「常任幹事高野君常任を辞任せらるヽに付、審査の上事実止むを得ざる者に付、承諾を為し」た際、「事実止むを得ざるもの」として承諾した理由が、無給のボランティアでは、生活が成り立たない点にあったことを裏書きしています。




*1 「柳屋」が貸席だけでなく料理店を兼ねていたことは、片山潜が『わが回想』(上)のなかで述べている(同書、二六五ページ)。また房太郎の結婚相手のキクが柳屋の娘であったことは、水沼辰夫が『明治・大正期自立的労働運動の足跡──印刷工組合を軸として』(JCA出版、一九七九年)のなかで、次のように記している(同書四二ページ)。

 期成会は月次例会を日本橋呉服橋外の貸席柳屋で開いていたが、そのうちに高野は柳屋の娘さんと意気投合して結婚するに至った。

 ただ水沼は当時の運動の直接体験者ではなく、これは伝聞による記述である。また、キクの身元については、高野岩三郎の長女マリアが一九八〇年三月一四日に大島清氏に伝えた談話メモがあり、それには「キクは日本橋の米屋の娘で、京橋の菊屋(料亭)に出ていた」と記されていたため、私も一時は水沼談話の信憑性には疑念を抱いていた。
 しかし、高野みよを戸主とする明治三九年七月二七日付の高野家の戸籍謄本には、キクについて次のように記載されている。これは、写真以外でキクについて知ることのできる唯一の史料である。

「父 亡横溝新兵衛/母 不詳/長女/家族トノ続柄 亡父房太郎妻/出生明治拾四年拾二月九日。
明治参拾壱年七月拾四日、東京市日本橋区呉服町壱番地平民横溝龍太郎亡養父新兵衛長女入籍。明治参拾八年拾壱月弐拾八日、日本橋区呉服町市番地平民横溝龍太郎方へ入家届出。同日日本橋区戸籍吏大庭知栄受付。同年拾弐月弐日届書及入籍通知書発送。同月四日受付除籍。」

 ここに記されている横溝家の住所「日本橋区呉服町一番地」は他ならぬ労働組合期成会や鉄工組合の住所そのものである(参照 労働組合期成会『工場法案に対する意見書』奥付)。以上から、キクが柳屋の娘であったことは間違いないと考える。
 キクの母が不詳となっていることは、彼女がごく幼いうちに母と別れていたであろうことを示唆している。また横溝新兵衛のあとを継いだのが養子の龍太郎であることは、キクに男の兄弟がいなかったであろうことをうかがわせる。跡取りの男子のいない家の長女でありながら、婿をとらず房太郎と結ばれたことも、この結婚に対するキクの強い意思をみてとることができる。いずれにせよ、キクは家庭的にはあまり恵まれてはいなかったに相違ない。それも、彼女が比較的若くして房太郎と結ばれたことの背景となっているのではなかろうか。

*2 当時の住所は東京市日本橋区呉服町一番地、といっても分かり難いであろう。現在の住所は東京都中央区八重洲一丁目二番一号である。東京駅八重洲口を出て、外濠通りを左につまり北に向かって行き、永代通りと交差する呉服橋交差点角のみずほ信託銀行本店の所在地である。詳しくは、高野房太郎の旧跡探検その五を参照。

*3 房太郎の一八九七年の『日記』一二月二〇日の項には「柳やヘ泊ス」と記されている。

*4 房太郎が無報酬で運動に従事していた事実は、一八九七(明治三〇)年の『高野房太郎日記』の金銭出納欄を仔細に見るだけで明らかであるが、ほかにも片山潜の証言がある。すなわち、片山が房太郎の後任の常任幹事となった直後、一八九九(明治三二)年二月一〇日に開かれた社会政策学会の例会で、次のように述べている(『国家学会雑誌』第一四五号所収「社会政策学会記事」)。

 而して此の期成会の創立者とし、整理者とし、労働者運動の首領として功ある者は、実に高野房太郎氏なり。氏は卅年六月より昨年十月迄一日の如く組合運動に万般の事務に尽瘁せられたり。而かも全然無報酬を以て其全身を犠牲に供して斯の運動に従事せられたるは、労働運動の盛運今日有るを致したる所以なり。


*5 高野房太郎『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、一九九七年)三七ページ。

*6 高野房太郎『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、一九九七年)四六〜四七ページ。

*7 ゴンパーズから房太郎宛て書簡、一八九七年七月七日付参照。

*8 ゴンパーズから房太郎宛て書簡、一八九七年一〇月二七日付同一八九七年一〇月二八日など参照。



『高野房太郎とその時代』目次  第八二回



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