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高野房太郎とその時代 (82)




6. 労働運動家時代

横浜で共働店を経営

明治10年、横浜見分地図、公園の上に赤く囲ったところが横浜鉄工共営合資会社のあった翁町1丁目

 1898(明治31)年12月、房太郎は妻キクとともに横浜に移り住みました。翌年3月4日には長女の美代が生まれ、一家3人での新たな生活が始まっています。この横浜移住の目的は、生活協同組合運動に専念するとともに、高野家の生活基盤の安定をはかる意味合いがあったであろうことは、前回検討したところです。
  ただ、同じ共働店を経営するにしても、なぜ東京で開業しなかったのでしょうか? 東京の方が、基盤とする労働組合員の数が多いだけに、成功の可能性は高かったでしょうし、他支部や他組合への影響力も大きかったと思われます。また、生計の面からみても、これまで通り母と同じ家でいっしょに暮らした方が有利だったに相違ありません。しかし、房太郎はなぜか、横浜への移住を選びました。おそらく少年時代から馴染みのある土地で、旧友のいる横浜に惹かれるところがあったからでしょう。また期成会創立に先立つ横浜船大工のストライキなどを介して個人的に親しい労働者が数多くいて、彼らに誘われたのかも知れません。

  もっとも、あえて臆測を逞しゅうすれば、これとは全く別個の理由も考えられないわけではありません。それは、房太郎の妻キクと、母マスとの間がかならずしもしっくり行っていなかったらしい点と関わっています。キクは1914(大正3)年、32歳の若さでこの世を去りました。その折、マスはキクの最後の願いを拒み、遺骨を高野家の墓に納めることを認めませんでした*1。その主たる理由は、房太郎没後間もなく、キクが中国人外交官と駆け落ち同様に高野家を離れたからだと推察されます。しかしこの嫁姑の冷たい間柄は、当初から存在していた可能性があります。女手ひとつで、高野家を長年支え続けてきたマスの目に、16歳の稚妻おさなづまが頼りなく映ったのは当然でした。またキクの方でも、義母マスとの同居を好まず、水入らずの新婚生活を望んだとしても不思議ではありません。出産を控えた新妻の希望を受け、房太郎も、東京にいながら母と別居するのは角が立つが、横浜に移住するなら、この嫁姑間のトラブルも自然な形で解決すると考えたのではないでしょうか。史料的な裏付けを欠く推測にすぎませんが、横浜移住の要因のひとつとして、あり得なかったことではないと思います。もっとも長女の美代は、東京市本郷区西片町10番地のマスの家で生まれており*2、喧嘩別れによる別居といったものでなかったことは明らかです。

 房太郎の新しい肩書きは「横浜鉄工共営合資会社・業務担当社員」でした。房太郎のほかに15人の社員がおり、各人が312円50銭を出資し、総額5000円の資本金で「米薪炭酒醤油味噌其他日用品販売」にあたることになっていました*3。もっとも、この資本金の全額が一時に払い込まれたわけではなく、当初はその10分の1の500円で発足したようです。房太郎だけが「業務担当社員」として無限責任を負い、他の15人は出資金だけの有限責任でした。社員はいずれも鉄工組合第3支部の組合員で、組合役員の多くが名を連ねています。また間もなく鉄工組合第3支部会計の有馬万次が「業務担当社員」として名を連ねました。
  新たな店舗の所在地は横浜市翁町1丁目1番地で、1898(明治31)年12月22日に開店しました。土蔵造りの二階家で、もちろん房太郎一家もこの店に住み込み*4、2階には鉄工組合第3支部の事務所が設けられました。それまで支部事務所は寿町3丁目127番地にあったのですが、開店を機に引っ越して来たのでした。この横浜共働店開業の様子を『労働世界』は、次のように報じています*5

 横浜鉄工共営合資会社の名称の許に同市の鉄工共働店を開業したるは去月廿二日の事なりしが、其の営業は各組合員の待設けたる事とて非常に繁栄に赴きつヽあり。又同共働店は全市の中央最便利の地に位し建物は倉作りの上等にして、店の楼上は支部の事務所となし兼て『労働世界』が説きたる理想的共働店とは横浜の如きと云ふも可

 翁町1丁目1番地は、冒頭に掲げた地図に赤い矢印で示してあります。店の前の大岡川は、外国人居留地をふくむ関内かんないを囲んで出島状態にしていた川ですが、今は埋め立てられて首都高速道路が走っており、昔の面影はまったくありません。ただ横浜スタジアムの隣接地ですから、共働店の跡地はすぐ分かるでしょう*6
  店の前の通りを元町方向に向かって行くと突き当たりに製鉄所の名が見えます。これは幕府が横須賀造船所とほぼ同時に設立した横浜製鉄所跡で、のちに石川島造船所分工場になるなど、その後も工場として使われていました。周辺の堀川沿岸には船舶修理工場など数多くの鉄工場が建ち並んでおり、翁町は鉄工組合員の多くにとってまさに至便の位置でした。また、横浜最大の金属機械工場であった横浜船渠ドックは、今の「みなとみらい」地区にありましたから、工場周辺に住む労働者にとっても、この店はそれほど遠くはない距離にありました。「同共働店は全市の中央最便利の地に位し」という『労働世界』の記事のとおり、共働店としては絶好の立地でした。

 これより先、1898(明治31)年3月に、東京砲兵工廠を基盤に組織された鉄工組合第7支部の組合員の間で共働店経営の動きが始まり、次第に各支部にも広がる様相を見せました。こうした動きを見て、房太郎は共働店の組織と運営のモデル規約を『労働世界』に発表しています*7。このモデル規約を見れば、横浜共営合資会社がどのように運営されていたかが分かります。これについては、英文通信「日本の協同組合売店」の説明の方が分かりやすいので、こちらを紹介しておきましょう*8

 その計画は、一、二の点をのぞき、ロッチデール・プランにならって作成したもので、その基本的な特徴はつぎのとおりです。
 (1) 組合員は鉄工組合各支部の組合員に限定されており、部外者の参加は認めない。
 (2) 出資金は1株2ドル50セントとし、毎月2回、10回払いで払い込むものとする。
(3) 病気や失業などの場合をのぞき、出資金の支払を怠った者は罰金を課せられる。
 (4) 店で売る品物の価格は、経営委員会で決定するが、いかなる場合でも市場価格を上回らない。
 (5) 店で品物を購入した組合員は、毎月15日と30日に支払いをおこなうこと。
 (6) 四半期毎に決算をおこなうこと。
 (7) 必要経費を差し引いた後、利益の10パーセントは予備基金にまわし、30パーセントは払込済み資本金への配当とする。2.5パーセントは組織活動のみに使われる基金とし、残りは購入高に応じて組合員に配分される。
 (8) 持ち分の払込みを終えていない組合員は、購入高に応じて支払われる利益配当の2分の1を、株式の払込みが完了するまでそれに充当する。この原則は、株式をもたない組合員に対しても、株式払込1回分に相当する金額まで保証金として適用されるものとする。
 一見して明かなように、この方式は重要な点、つまり現金支払いをとらない点でロッチデール・プランと違っています。この現金支払のルールは、ロッチデール組合やその後継者たちの多くが重視した点であり、この賢明な条項こそ、その成功に寄与すること大でした。私たちもこの重要な原則を取り入れようと懸命に努力してみましたが、今はまだ実行不可能であることが分かりました。生活協同組合の制度そのものが日本の労働者にとってまったく革新的なものである上に、他人に対する不信の念がきわめて強く、もしこの原則を取り入れると、円滑な運営が困難に陥ることが懸念されたからです。
 それに私たちは、掛け売りをしても、店が損失をこうむる危険はないと考えました。それというのも鉄工組合の各支部は同じ職場の職工だけでつくられているので、支払を怠ればすべての職場の仲間から村八分にされるからです。こうした自然の歯止めがあるので、ここ当分の間は掛け売りでも安全であると思われます。しかしながら、労働者の多くがこのシステムの長所を認識するようになれば、私たちは掛け売りをやめて現金売りに切り替えたいと思います。

 この現金販売のルールを採用出来なかったため、多くの共働店は売掛金の増大を防げず、結局は失敗に終わったようです。しかし横浜共営合資会社の場合、房太郎の懸命な努力もあって、しばらくの間、営業成績は順調でした。そのことは、『毎日新聞』と『労働世界』に次のように報じられている点からも分かります*8

 横浜共働店の好成績
 高野房太郎、有馬万次両氏の尽力に依りて横浜共働店は着々好成績を収め、最近三ヶ月間の売上高三千四百九円に出で、この中五百七円の利益ありて、一割四分に当たる。之を年分にせば五割二分の利益ある計算なり。消費組合の成立は我国にては全く昨年来の事実なれば、成績如何あらんと憂ひつつありしに、此報道を得たるは誠に喜ぶべし。(『毎日新聞』明治32年5月5日)
 横浜共働店の好成績
 鉄工組合横浜第三支部員の組織せる横浜鉄工共営会社は去月〔7月〕三十日総会を開き第二期決算報告を協定せる由なるが、第二期三ヶ月間の売上高は三千七百余円にして純益金は六拾余円に達せりと云ふ。是に前期の純益金を合し本期の配当は株金一円の払込に対して一銭九厘及び購買高一円に対して九厘の外に国民貯金銀行より株金に対し年七分の貯金利息を付することなれば仝会社員の収益は少なからざる額に達すべしと云ふ。(『労働世界』第42号、明治32年8月15日)。

【注】

*1 1980年3月14日、大島清氏が宇野マリア氏から電話で聞き取りをされたメモによれば、「キクは房太郎の墓に埋めて欲しいと生前岩三郎に頼んでいた。しかしマスが反対し、結局墓前の石の下に埋めた。後に原田美代さんがそれを房太郎の骨のわきに移した」という。

*2 1964年11月2日、原田みよ氏から大島清氏が聞き取りをおこなった際の「談話メモ」による。

*3 『横浜貿易新聞』第2691号(1898年12月22日付)の第一面に次のような「商業登記広告」が掲載されている。

 「社名 横浜鉄工共営合資会社 
営業所 横浜市翁町一丁目一番地
会社ノ種類及本店又ハ支店 合資会社本店
会社ノ目的 米薪炭酒醤油味噌其他日用品販売
資本総額 金五千円
会社設立ノ年月日 明治三十一年十二月十八日
会社存立時期 明治四十年十二月十七日迄
業務担当社員 高野房太郎以上一名
各社員ノ氏名住所出資額及責任 金三百十二円五十銭無限武蔵国翁町一丁目一番地高野房太郎○金三百十二円五十銭有限同国久良岐郡中村千四百六十七番地久保田由太郎○三百十二円五十銭有限同国横浜市松影町一丁目三十七番地山田弥左衛門○三百十二円五十銭有限同国同市石川仲町四丁目六十五番地富岡吉太郎○三百十二円五十銭有限同国久良岐郡中村千五百十六番地有田源一○三百十二円五十銭有限同国横浜市石川仲町一丁目一番地森田長吉○三百十二円五十銭有限同国同市元町四丁目百五十三番地山本勘造○三百十二円五十銭有限同国同市扇町三丁目百三十四番地所沢春吉○三百十二円五十銭有限同国同市不老町二丁目百九十二番地藤井重蔵○三百十二円五十銭有限同国同市万代町三丁目五十二番地秋葉春吉○三百十二円五十銭有限同国同市元町二丁目百八番地梅津宗之助○三百十二円五十銭有限同国同市桜木町五丁目二十五番地川上又五郎○三百十二円五十銭有限同国同市戸部町六丁目百八十二番地竹村為次郎○三百十二円五十銭有限同国同市松影町一丁目十七番地有馬万次○三百十二円五十銭有限同国同市元町五丁目二百十一番地石渡太郎吉 ○三百十二円五十銭有限同国久良岐郡戸太町吉田九百二十一番地永沢半次以上十六名
 右明治三十一年十二月二十一日合資会社登記簿第五冊第五十二号へ登記ス
           横浜区裁判所」

 なお1898(明治31)年6月現在の第三支部役員氏名33人のうち、つぎの6人が合資会社社員として名を連ねている。久保田由太郎、富岡由太郎、有田源一、山本勘蔵、所沢春吉、秋葉春吉(『労働世界』第15号、P.151)。
1899(明治32)年6月改選の第3支部役員23人中のうち、合資会社社員は次の9人。森田長吉、久保田由太郎、田中市太郎、有馬万次、山本勘蔵、所沢春吉、藤井重蔵、富岡吉太郎、永沢半次。うち前年と重複するのは久保田、山本、所沢の3人。

*4  房太郎が、この店舗に居住したことは、注3で紹介した横浜鉄工共営合資会社の「商業登記広告」に、「金三百十二円五十銭無限武蔵国翁町一丁目一番地高野房太郎」とある点から明らかである。また、第3支部の組合員がこの店舗からさほど遠くない地域に住んでいたことも、この「商業登記広告」に名を連ねている社員の住所からうかがえる。

*5 『労働世界』第27号(1899年1月1日付)。

*6 マップファン・ウエッブの地図で、現在の横浜市中区翁町1丁目1番地の位置を確認して置きましょう横浜市中区翁町1丁目1番地

*7 高野房太郎「東京だより」『労働世界』第14号(1898年6月15日付)。『明治日本労働通信』(岩波文庫、1997年刊)381〜387ページ。

*8 『明治日本労働通信』(岩波文庫、1997年刊)190〜195ページ。

*9 日本労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第1巻466ページ参照。 





法政大学大原社研            社会政策学会


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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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