高野房太郎とその時代 (83)6. 労働運動家時代本部常任に復帰横浜に移住し共働店経営を始めて僅か半年余しか経たない1899(明治32)年7月、房太郎はまた東京に舞い戻りました。もっとも今度は母の家ではなく、日本橋区本石町1丁目12番地に引っ越したのです*1。引っ越し先は、鉄工組合が購入したばかりの事務所の建物でした。右の写真がそれですが、ご覧のとおり新築ではなく中古の民家で、労働組合期成会もここに本部を置いていました。房太郎がなぜここに引っ越したのかといえば、期成会の常任幹事、鉄工組合の常任委員という、元のポストに復帰することが、6月25日に開かれた2つの組織の役員会で決まったからです*2。以前との違いは、手弁当のボランティアではなく、「有給役員」になったことでした。鉄工組合から月20円、期成会から月5円と、毎月25円の手当が支給されるようになったのです。またどちらの常任ポストも増員され、片山潜が引き続き選任された点も従来とは違った点でした。
いったい何故、こうした人事が行われたのでしょうか。おそらく、この背景には、房太郎の後任として本部常任となった片山潜に対する不満、批判が役員の間にあったからだと思われます。 まず何よりも、あなたが総同盟の会長に選出されたことにお祝いを申し述べたいと存じます。アメリカの労働者運動にとってあなた以上に適任な方はいないと確信しており、先の大会が社会主義者の提案をすべて否決し、力量、判断力ともに論議の余地のない人物を選出したことを、心から支持いたします。総同盟がこのうえない成功をおさめ、あなたの名声がますます高まるように、これが極東にいる一友人の心からの願いです。
また、『職工諸君に寄す』でも、「左れば我輩は諸君に向つて断乎として革命の意志を拒めよ、厳然として急進の行ひを斥けよ、尺を得ずして 運動内部にこのような亀裂が存在することは、同年4月の『労働世界』紙上に、労働組合期成会の名で「労働世界に警告す」と題する論稿が掲載されたことで、いっきに表面化しました*4。この文書の全文は別ファイルで掲載しておきますが、そのポイントはつぎの2点でした。 1) 労働世界は会員が働いている工場に対し、激烈な論調で攻撃を加えたり、労働者の悪風を誇張して論じることで労働者の感情を害している。その結果、期成会の会員は不利益を蒙っている。 第1の批判点は、『労働世界』を読み通しても、それほど問題となるような記事は見当たりません。もっとも「労働世界に警告す」を掲載した第34号には「鉄工組合に告ぐ」「本部委員の責任」「鉄工組合は規約を修正すべし」など鉄工組合に対する名指しの批判に多くの紙面を割いています。いずれにせよ『労働世界』が期成会の機関紙というより、片山潜が個人としての責任で編集している新聞という色彩がしだいに濃厚になり、これに不満を抱いた期成会員や鉄工組合員は少なくないでしょう。 もっとも、こうした思想上の対立だけが、房太郎を本部常任として復帰させる原因となったわけではないと思われます。片山に対する不満のひとつには、彼が前任者とくらべ本部事務所に詰めている回数が少なく、時間も短いこともあったと推測されます。房太郎が毎日勤務していたのに対し、片山は週3日、それも午後だけでした*5。実のところ、片山が期成会や鉄工組合の活動に専念出来ないのも無理からぬところがありました。なにしろ片山潜はキングスレー館館長として、幼稚園や夜学校を経営し、さらに職業紹介、渡米案内などさまざまな事業や会合を主催していたのです*6。その上『労働世界』の主筆としても、編集や論説の執筆に相当な時間をかけねばならぬ立場にありました。期成会と鉄工組合役員として割きうる時間が限られるのも当然で、房太郎が自身の生活を支えることさえできれば、残りの時間はすべて期成会と鉄工組合のために使えたのとは、大きな違いでした。
いずれにせよ、房太郎が本部常任へ復帰した理由を、片山との思想的対立だけで説明することは一面的にすぎるでしょう。なにより房太郎の常任復帰により、片山が本部常任の座を追われたわけではありません。常任の数を増員し、二人でいっしょに活動することになったのです。
話は飛びますが、左の写真は冒頭に掲げた口絵の一部を拡大したものです。上の写真をちょっと眺めただけでは見落としがちなのですが、右手の二人の人物の後ろに自転車が写っていたのにお気づきでしたでしょうか。この自転車は、ほかならぬ高野房太郎の持ち物だったようです。すでに本書の第5回「自由奔放な性格」で紹介しましたが、房太郎の長女の原田美代さんは、父親の思い出のなかで、房太郎が「日本ではじめて自転車を買った」と述べておられます。日本で最初に自転車に関する記録があるのは、明治初年のことですから、私はこの思い出は何か記憶違いではないかと考えていました。しかし、この労働組合期成会事務所の看板のそばに置いてある自転車の写真を見れば、房太郎がごく早い時期の自転車乗りの一人であったことは確実のようです。1880年代までの自転車は前輪が大きい「ダルマ型」と呼ばれるタイプであったのに対し、ここに写っているのは両輪の大きさが同じ「安全型自転車」です。このタイプの自転車が発明されたのが1884年、空気入りタイヤの発明が1889年、これが日本で使われるようになったのは、1890年代のことでした*7。房太郎は、「日本ではじめて」ではないものの、当時はまだ珍しかった、最先端の乗り物で、労働運動のオルグ活動をしていたことは間違いないようです。 【注】*1 『労働世界』第41号(1899年8月1日付)雑報欄は、以下のように報じている。 ◎高野房太郎氏 *2 房太郎の常任復帰をきめた役員会の模様を、『労働世界』第40号《組合彙報》欄は次のように報じている。 △六月廿五日 午後三時月次会開会 *3 1896年2月5日付、高野房太郎よりゴンパーズ宛て書簡。『日本労働運動通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、1997年)25ページ。 *4 『労働世界』第34号(1899年4月15日付)《寄書》欄、復刻版349ページ)。なお、この文書は、その論旨だけからみれば、房太郎の執筆としても不自然ではない。現に大河内一男氏は、これを房太郎の執筆としている〔大河内一男『幸徳秋水と片山潜』(講談社現代新書、1972年)36〜37ページ〕。しかし、この論稿を房太郎の署名論文とくらべると、文体に明らかな違いがある。たとえば結びの一文「労働世界は其の激烈なる為めに其尻が期成会に来ぬよう注意せられんことをタノム」と言った表現は房太郎のものではない。これはあまり文章を書き慣れていない人のものであろう。 *5 『労働世界』第28号(1899(明治32)年1月15日付)《組合彙報》欄に、「常任幹事任常任委員片山潜君は毎週火木土の三日午後より事務所へ出勤し会務を裁決せらる」と記されている。復刻版289ページ。 *6 片山潜はキングスレー館で幼稚園や大学普及講演、職工教育会、日曜の楽しみなど各種の会合を開いたほか、「帝国交詢社」と称する組織を設けて、職業斡旋、外国渡航の紹介、翻訳者・通訳者の紹介、内外諸学校への入学の周旋などを行っており、そのための事務員も雇っていた。 *7 Science of Cycling: Timeline。日本最初の空気入りタイヤ付きの自転車が製造販売されるようになったのは 1893(明治26)年のこと。宮田製銃所の製作による。明治時代における日本の自転車製造・販売の系譜参照。 *8 東京都公文書館(白石弘之・執筆)都史紀要『東京馬車鉄道』1989年。 |
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