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高野房太郎とその時代 (86)




6. 労働運動家時代

関西運動

中央が高野房太郎、左は城常太郎、右はおそらく平野永太郎。1900年11月1日、神戸池上写真館で撮影

 1899(明治32)年7月30日夜10時、房太郎は神戸行きの夜行列車に乗り込みました。城常太郎からの依頼で「清国労働者非雑居期成同盟会」の演説会に参加するためでした。
  この頃、サンフランシスコ時代からの同志である城常太郎は神戸に住んでいました。城は再建された職工義友会の代表者を引き受けるなど、1897(明治30)年7月の労働組合期成会の発足までは、房太郎、沢田半之助とともに運動の中心人物でした。ところが期成会創立時に仮幹事に選ばれただけで、その後はいっさいの役職に就任していません。おそらく、彼の宿痾となった結核の病状が悪化しためではないかと推測されます。その後、たぶん転地療養の意味もあったのでしょう、神戸に移り住んでいます。神戸では、靴工の後輩であり、職工義友会の会員・平野永太郎が製靴所を経営していましたから、彼を頼っての移住だったのでしょう。移転の時期は明らかではありませんが、1898(明治31)年2月以前であったことは確実です*1
  神戸に移り住んだ城は、同年暮ごろ労働組合研究会の設立を計画し、『労働世界』第26号に呼びかけ文を、同27号に規約を掲載しています。また1898年12月10日に開かれた労働組合期成会幹事会は彼を名誉会員に推挙しています*2。期成会も鉄工組合も 本来は全国組織を企図していたにもかかわらず、現実の組織基盤は関東以北に限られていましたから、関西以西に組織を拡大する上で、城に対する期待は大きかったものと思われます。

 すでに見たとおり、房太郎を本部常任として復帰させた鉄工組合や期成会は、「関西運動」を重点目標に掲げていました。房太郎のこの神戸出張は、まさにその第一着手とも見えます。もちろん、そうした目的をもつ旅だったことは確かですが、実のところ、あまり計画的な行動ではありませんでした。神戸在住の城から7月30日に電報で翌日開かれる講演会への出演を頼まれ、その日のうちに取るものも取り敢えず汽車に乗り込んだのでした。
  そのことは、房太郎が『労働世界』に寄せた報告「清国労働者非雑居期成同盟会の演説会に臨む」をみれば明らかです*3

 七月三十日午後、在神城常太郎氏より飛電あり、曰く三十一日夜を以て開くべき演説会に出席せよと。余は蒼惶(そうこう)旅装を整え、同夜十時発の汽車に塔ず。
 時盛夏の候、夜行列車に便乗する人甚だ多かりければ余の短躯(たんく)さえ()ばすこと由なく、終日終夜群客喧騒(ぐんきゃくけんそう)(うち)に一睡をも貪るを得ずして、神戸に着せるは三十一日午後七時、停車場より城氏に導かれて、直ちに当夜の演説会場と定められたる楠公社前の劇場大黒座に至る。聴衆已に場に満ちその数無慮二千五百余名。聞く、当夜の演説会は清国労働者非雑居期成同盟会の発企に成り、神戸市における各種労働者間の輿論を喚起せんがために開かれ、更に進んでは全国の労働者と連合し歩武を一致し以て清国労働者排斥の実を収めんとすと。而して期成同盟会の中堅としては神戸海陸仲仕三万人余を以て成れる沖仲仕及び陸仲仕両組合のあるあり、その前途や誠に好望といいつべし。
  当夜出席せる弁士は神戸沖仲仕組合副組長吉井鉄四郎、同組合事務長最上熊夫、監督長中西制剛、神戸中央陸仲仕組合事務長前川秀輔、河野嘉吉、八木某、河南薫、期成同盟会幹事平野芳吉の諸君、客員としては大阪弁護士中侠骨稜々の士として聞こえたる河谷正鑑君、和歌山実業新聞社主にしてかねて社会問題の解釈に熱心なる小笠原誉周夫君及び余の三名、皆均しく清国労働者の有害無益なるを論じ、支那人雑居制限勅令の不備を説きて余裕なかりき。
  演説会終了后来賓のために慰労会を開かれ、席上最上熊夫、小笠原誉周夫両君の演説あり。快談、快食ほとんど夜を徹す。
  翌八月一日、仲仕組合の有志諸君及び城氏らと会晤(かいご)、大いに神戸における労働運動について協議する所あり。城氏は切に余の滞在を希望せられ、余またその有益なるを了せりといえども、如何せん八月二日、東京青年会館において開かるべき洋服裁縫業組合の演説会に出席せざるべからざるが故に、やむなく午後六時の列車に塔じて、帰京の途に就けり。

 真夏の旅行シーズンで、満員列車に20時間も揺られ、騒がしくて一睡もできないまま翌日の夕方神戸に着くと、その足で楠公社前の劇場大黒座で開かれた演説会に参加したのです。その夜は歓迎宴でほとんど夜も眠れなかったようです。翌日は城常太郎や沖仲仕組合の人びとと関西労働運動の可能性について語り合い、その日の夕方には東京へとって帰しています。とても関西において組織の拡大を図る時間的余裕のない旅でした。

  せっかく高い運賃を払い*4、ほとんど1日かけて神戸まで出張したのに、じっくり腰をすえたオルグ活動をせず、文字どおりの「とんぼ返り」ですぐ帰京した理由は明らかです。帰京したその日の夕方には、「東京洋服裁縫業組合」の創立演説会が神田青年会館で開かれ、房太郎は出演を約束していたからでした。この東京洋服裁縫業組合は、他ならぬ沢田半之助が、前々から創立準備を進めていたものでした。沢田は演説会の前日付で発行された『労働世界』第41号の巻頭に「洋服業者及職工諸君に檄す」なる一文を掲げ、組合結成を呼びかけています。おそらく、この一文は事前にチラシとして作成され、同業者の間に配布されていたものと思われます。
  神戸行きが、長年の同志からの依頼で、断わるわけには行かなかったと同様、この演説会への出演の約束も反古にする訳には行きませんでした。二人の親友の双方に義理をたてた結果が、今回のとんぼ返りの旅となったのでした。真夏に往復40時間もの汽車の旅をし、ふたつの演説会で講演を行い、さらに間では、夜を徹しての歓迎の宴会にも付き合ったのでした。おそらく、洋服裁縫業組合の創立集会では、へとへとだったに相違ありません。

 これほど無理をしての神戸行きでしたが、この旅が労働組合期成会の組織を広げる効果はあまりなかったようです。もともと「清国労働者非雑居期成同盟会」は労働団体というより、仲仕業者が中心になって組織した団体だったと推測されます。短期間で3万人もの会員を擁する団体となっていることが、その何よりの証拠です。こうした業者主導の団体と提携しても、労働組合運動の拡大に繋がるはずもなかったのでした。
  なお、労働組合期成会の関西方面へのオルグ活動は、結局のところ、この演説会参加を除いては、なにひとつ実現しませんでした。『労働世界』には、関西で運動を毎号のように関西運動のための寄附金募集の呼びかけが掲載されたのですが、その反応は思わしいものではありませんでした。その実情を示す一文が掲載されたのは、それから半年後のことでした。その内容は以下のようなものでした。

 昨年夏以来、関西運動の義に付、寄附金募集致し居り候処、夫々御賛成御送金被成下候向も不少(すくなからず)候処、総計金は其時々新紙を以て御広告申候通り、未だ所定の額に達せず。勿論其間鉄工組合へ交渉する処ありしも是又事情の許さゝる所ありて、今日に至り候。乍去(さりながら)強て為さんと欲すれば不可能事には無之候得共、夫にては到底素志の徹底を期する能はざる而己(のみ)ならず、進退節を失し反つて寄送諸君の芳志を荒廃するの嫌ありて、遂に今日迄遷延致居り候次第御諒察被下度。就ては右応募額にして予定の額に達し候得者(そうらえば)、蹶然起つて運動の途に上り候存意に御座候間、此段御承引相成度、茲に事情陳謝候也。
   二月一日             労働組合期成会

 房太郎の本部復帰を決めた際の意気込みはなかなかのものでしたが、現実には、労働組合期成会も鉄工組合も、著しくその力を失っていたことが、この関西運動の結末からも明らかです。



【注】

*1 『労働世界』第6号(1898年2月15日付)には、「城常太郎氏はその仕事先なる神戸より数日前〔より上京〕中なり。前日の同会月次会には出席して有益なる小談ありたり」と記されている(復刻版60ページ)。これでは月次会の開かれた日時が定かではないが、それが2月13日であったことは「労働組合期成会成立及発達の歴史」(『明治労働通信』岩波文庫、394ページ)に記されている。

*2 『労働世界』第27号(1899年1月1日)《組合彙報》欄(復刻版272ページ)。

*3 『労働世界』第42号(1899年8月15日付、復刻版407ページ)
 なお同号の《期成会記事》には、以下のような記事がある(復刻版409ページ)。

 △七月三十日 常任幹事高野房太郎君新橋駅を発し、翌三一日神戸市楠公社畔大黒座に於て開会する清国労働者非雑居期成同盟会の演説会へ出張せらる。
 △八月二日 〔前略〕神戸市へ出張中の高野常任幹事は午後一時新橋の列車にて帰京せらる。同夜神田美土代町青年会館に於いて開会する東京洋服裁縫業組合創立演説会に片山、高野の両幹事出席演説せらる。

*4 当時の新橋・神戸間の片道運賃は上等で11円28銭、下等でも3円76銭しました。
 ちなみに、東海道線の新橋・神戸間が全通したのは、ちょうど10年前の1889年7月1日のことでした。当初は、所要時間22時間5分だったそうです。1896(明治29)年9月には急行列車の運行が始まり、所要時間は17時間22分に短縮されていました。しかし、房太郎の旅は20時間余かかっていますから急行ではなかったようです。

*5 『労働世界』第56号(1900年3月1日付、復刻版528ページ)。




法政大学大原研究所        社会政策学会


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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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