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高野房太郎とその時代 (87)




6. 労働運動家時代

共営社開業

「共営社」看板

 房太郎が本部常任としての活動を再開した1899(明治32)年なかば、鉄工組合は最盛期を迎えていました。関東から北海道までの各地に37の支部を擁し、組合員数は3700人から3800人に達しています*1。新築ではありませんが自前の事務所を購入し、有給の本部役員も2名に増やし、「関西運動」の基金を募集するなど、全国組織をめざして積極的に運動を展開する姿勢を示していました。

 ただ、組合費納入人員の推移から見る限り、鉄工組合の発展は、それほど順調ではありませんでした。たとえば、横浜地域の鉄工場を組織していた第3支部の支部員数は、1898(明治31)年前半では400人を超えていました。しかし同年後半以降、200人を割り込んでいます。これは本部庶務部長に選出されていた横浜ドックの職長・平井梅五郎が、会社の圧迫によって組合を脱退した事実と関連しているものとみて間違いないでしょう。さらに創立から1年も経たない1898(明治31)年9月には、新橋鉄道局を基盤とする3つの支部のうち、仕上げ工を組織していた第15支部が事実上消滅しています。同じ新橋鉄道局を基盤とする第12、13支部でも、創立当初は50人を超えていた組合員は、支部成立の最低人員である25人を割り込む10人台に減少しています。また、第18支部(甲武鉄道)、第19支部(東京砲兵工廠)なども支部成立要件を満たさず、翌99年9月には消滅状態になっています。これに対し、発足時を上回る勢力を維持し得ていたのは第1支部(東京砲兵工廠)、第2支部(日鉄大宮工場)、第17支部(横須賀海軍工廠)、第20支部(石川島造船所)などごく一部で、大半の支部は創立当初より組合員数を減少させていたのでした*2
  もっとも、東京砲兵工廠や日鉄大宮工場、横須賀海軍工廠、石川島造船所はいずれも日本有数の巨大経営で、そうした職場で組織を維持・発展しえていた事実は軽視するわけには行きません。また、その後も支部の新設は続いています。1899(明治32)年7月には沖電気と東京砲兵工廠小銃製造所銃床場、同年9月には王子製紙、10月には日鉄大宮工場の木工などが新たに支部を結成しています。つまり、鉄工組合は相次いで支部を結成することにより発展する一方で、一部の支部では発足時の勢力の維持さえままならない状況でした。

 いずれにせよ、組合結成から1年半経つか経たないうちに、組合員の間に創立当初のような熱気が薄れはじめていたことも、また確かでした。「関西運動」に対する基金募集の不成功は、それを物語っています。さらに『労働世界』第34号は「本部委員の責任」と題する論説でつぎのような事実を伝えています*3

 鉄工組合本部委員は重要の地位に在る者、而して此本部委員より成立つ所の本部委員総会は組合に取りては実に大切なる集会なり。然るに去る〔明治三十二年〕三月廿六日の本部委員総会及本月〔四月〕二日に招集したる臨時委員総会は、出席者少数の為めに成立せずと。

 組合の最高意思決定機関である本部委員会が、総員44人の3分の1、つまり15人以上という、会議成立要件としてはかなり低い水準の定数にさえ達しえない事態が、2度も続いて起きているのは、組合役員の熱意の低下、ひいては組合の活力が弱まっていた事実を示しています。

鉄工組合の収支状況
期  間組合費収入経常支出差し引き
年月〜年月納入人員
(1ヵ月平均)
収入額本部費
支部費
共済費
1897.12〜98. 21,288772.80461.60-461.60311.20
1898. 3〜98. 51,636985.40560.57134.20694.77290.63
1898. 9〜98.111,497898.40531.38299.00830.3868.02
1899. 3〜99. 51,6981,019.00873.82400.251,279.07260.07
1899. 6〜99. 82,0921,255.00884.50684.401,568.90313.90
1899. 9〜99.111,8311,098.60487.69832.251,319.94221.34
1899.11〜00. 2 925554.80425.88123.43549.315.49

 ところで、房太郎が本部に復帰した頃から、鉄工組合の財政は急速に悪化して行きました。右に掲げる表で明らかなように、組合費納入人員が伸び悩む一方で、財政支出は増加の一途をたどっていたのです。自前の事務所を所有するようになったこと、有給の常任2人制により本部費が増大したのに加え、傷病者に対する共済給付が急激に増加傾向をたどり、組合財政を圧迫していました*4

 こうした事態を打開するため、鉄工組合はさまざまな手を打ちました。1899年8月20日に開かれた本部委員総会では、次のような決定がなされています*5

1) 収入増方策、
  i) 組合員個人の組合費納入期日、支部から本部への納入期日を定めるなど、徴収方法の整備。
  ii) 未納組合員に対する共済給付の停止、『労働世界』配布の停止。
2) 支出削減策、
  i)  鉄工組合から期成会に一括して支払う会費を、組合員1人当たり5銭から2銭5厘へ半減し、『労働世界』の無料配布を月1回とする。
  ii) 支部費も組合員1人当たり5銭を3銭に減らす。
  iii) 本部費は組合員1人当たり3銭の範囲内で賄うこと。

 これらの対策は一時的には効果をあげ、同年9月の組合費納入人員は過去最高の2418人を記録しました*6。しかし、支出面では共済給付が増加の一途をたどり、累積赤字はさらに増大したのでした。このため、鉄工組合は、10月8日に開いた本部委員総会で、次のように共済給付の削減を決定しました。

1) 救済金の1日20銭を15銭に減額し、罹患日から21日だった支給開始日を30日に延長する、
2) 葬式費用を20円から15円に減額し、支給対象者を組合加入6ヵ月以上から1年以上に限定する、
3) 遺族給与金を10円から5円に減額し、支給対象を組合加入1年以上から2年以上とする。
        
鉄工組合組合費納入人員の推移
1898年 9月1,360
1898年10月1,315
1898年11月1,815
1899年 3月1,754
1899年 4月1,191
1899年 5月2,200
1899年 9月2,418
1899年10月1,544
1899年11月1,509
1899年12月942
1900年 1月850
1900年 2月963
  

 しかし、こうした共済給付金の削減や『労働世界』無料配布の半減といった消極策は、組合の活力をさらに減退させる結果となったようで、組合費納入人員は、1899年10月には1544人、11月には1509人と減少し、さらに12月になると942人とついに組合発足時の数さえ割り込んでしまったのでした。
  こうなると、有給役員である房太郎の家計も、いずれはその影響を受けざるを得ないことが容易に予想されました。おそらくそうした事態に対応する意味もあってでしょう、房太郎は、本部からさほど遠くない京橋区八丁堀で「共働店」=生協売店の経営を始めました。1899(明治32)年11月1日付の『労働世界』第47号に、つぎのように報じられていますから、開店は10月中のことでしょう。

 高野房太郎氏 同氏は京橋区本八丁堀二丁目四番地に卜居せらる。

 これでは、単なる転居通知のように見えますが、同紙の英文欄には、転居の理由が報じられています。

 Mr. F. Takano opens today his grocery store based partly upon the Rochdale scheme, for he will share the profit with his customers.
(F.タカノ氏は、本日、顧客と利益配分をおこなう点でロッジデール方式を部分的にとりいれた雑貨店を開業した)

 冒頭に掲げた挿絵は、房太郎が八丁堀で開業した共働店「共営社」の店頭に掲げられていた看板です。現物は、現在、法政大学大原社会問題研究所が所蔵しています。この看板は、筆者が大原社研の柏木にある土蔵の地下部分で発見したものですが、おそらく戦災を避けるため、大原社会問題研究所の初代所長であった房太郎の弟・高野岩三郎がここにしまったものと推測されます。
  この共営社は、石川島造船所や沖電機工場(後の沖電気株式会社)で働く鉄工組合員を対象に作られたものであることは、以下のような『労働世界』の雑報記事や広告から明らかです*7

「高野氏の共働店
  は開業後日尚ほ浅きも頗る大繁盛を極むと。其購買会員は浦和にも出来たと。高野氏の精密と熱心は信用と利益を得るに間違ひないと思ふ。氏の店は実にプロフィットシエヤリング即ち利益分配店の始めである故に其の成功は我々が渇望する所だよ」〔第50号〕
「●石川島の労働倶楽部は高野氏の共働店の二階に設け立て、頗る立派に造作が出来た」〔第51号〕
 「謹啓本社開業の際は御厚志に預り多謝仕候。一々拝趨御礼可申述之処業務多端之為其意を得ず依って乍略儀本紙を以て御礼申し述べ候也。
 東京市京橋区本八丁堀二ノ四
 共営社  高野房太郎
石川島造船所・沖電機工場有志諸君」 〔第51号〕

 石川島造船所には鉄工組合第20支部、21支部、31支部、32支部の4支部がありましたが、そこでは、職場で支配的な力をもつ親方労働者が同時に組合の中心的な活動家であるという、日本鉄道などとはまったく異なる、組合にとって有利な条件が存在していました。第20支部が設立されたのは1898(明治31)年4月24日のことですが、その事実を告げた組合本部の報告には、支部の所在地として「京橋区霊岸島新船松町13番地小沢辨蔵方」と記されています*8
  この小沢辨蔵は、幕末期に鍛冶職人から鉄工に転じた日本の「洋式鉄工」の草分けでした。労働者ではありましたが直接国税15円以上を納め、紳士録にも載るほどの有力者でした。それというのも、数多くの配下の労働者を擁し、石川島造船所内で職工長的な地位を占めていたからでした。小沢はまた、鉄工労働運動の先駆者でもありました。鉄工組合が誕生する10年ほど前に、彼は弟の國太郎らと鉄工の組合結成を図つたのでした。この時は不成功に終わつたのですが、2年後「同盟進工組」と称する組織を結成し、「積立金を蓄積して共同資本となし、以て工場を設立」しようと企てています。もっとも「同盟進工組」は積立金が浪費されているとの噂がたち、間もなく解散に追い込まれてしまったのですが。こうした体験をもっていた小沢辨蔵は、鉄工組合の結成を知るとに率先してこれに加入し、本部参事会員、救済部長を歴任していました。
  また沖電機工場の第36支部は、1899(明治32)年7月ころ結成されたばかりでしたから、まだ草創期の活力にあふれていたに違いありません。房太郎が、八丁堀に共営社を開き、同時にその二階を開放して「労働倶楽部」を設けて組合員交流の場としたのも、単に自分の生活のためではなく、石川島など組織的に安定している支部を基礎に共働店を成功させ、鉄工組合の再活性化を図ろうとしたものと思われます。
  しかし、共営社の運営と本部委員としての活動とは、なかなかに両立が難しい問題でした。妻のキクはまだ乳飲み子をかかえていましたから、共働店の経営には房太郎自身がかなりの時間を割かざるを得なかったからです。一方、有給の常任としては、組合本部に常に出勤せざるをえなかったからです。房太郎は、八丁堀の共営社と本石町の鉄工組合本部の間を自転車をとばして行き来する毎日を送つていたのでしょう。



【注】

*1 1899年半ばに、片山潜は次のように語っている。

 吾々の労働組合期成会に今日入会した所のものは四千人にもなつて居ります。其内で四五百人位は止めた所のものである。併しながら残る所の三千七八百人は悉く今日掛け金をして居る。即ち会費を月々弐拾銭掛ております。

 ここで片山は「労働組合期成会に今日入会した所のもの」と述べているが、実際は、鉄工組合への加入者を念頭に置いていたことは明らかである。すなわち「会費を月々弐拾銭掛て」いるのは期成会員ではなく鉄工組合員だからである。(「日本に於ける労働」、『社会』第1巻4、5、6号、明治32年6月、7月、8月。〔岸本英太郎編『明治社会運動思想(上)』青木文庫、1955年、88ページ〕)。
 なお、第32支部までの各支部がどこを組織基盤としていたか等の一覧はすでに掲載済みであるので、以下にそれ以降に結成された支部名を掲げよう。

鉄工組合支部一覧(3・完)
支部名組織基盤発足日
第33支部東京・王子1899年2月
第34支部北海道・旭川4月
第35支部札幌製麻会社5月
第36支部沖電機工場7月頃
第37支部東京砲兵工廠小銃製造所銃床場7月頃
第38支部東京・王子製紙9月
第39支部日鉄大宮工場木工10月
第40支部水戸11月
第41支部横浜西洋家具工1900年7月
第42支部石川島造船所(浦賀仕上工場)9月 

   鉄工組合支部一覧(1)
    鉄工組合支部一覧(2)

*2 『労働世界』各号に掲載されている鉄工組合の会計報告には、支部ごとの会費納入状況が記されている。その数値を追えば、支部ごとの会費納入人員の推移が明らかになる。

*3 『労働世界』第34号、1899(明治32)年4月15日付、復刻版344ページ。

*4 兵藤釗『日本における労資関係の展開』(東京大学出版会、1971年刊)173ページ。なお、1898年6月〜8月、同12月〜1899年3月は『労働世界』に会計報告の記載がない。また収入には、組合費以外に入会金、寄附金などがあるが、これは除外されている。

*5 『労働世界』第43号(1899年9月1日付)、復刻版419ページ。

*6 『労働世界』第55号(1900年2月15日付)、復刻版521ページ。

*7 『労働世界』第50号(1899年12月1日付)、復刻版468ページ。同第51号(1899年12月15日付)復刻版477ページ。広告は『労働世界』第51号(1899年12月15日付)、復刻版481ページ。

*8 『労働世界』第11号(1898年5月1日付)、復刻版111ページ。なお、小沢辨蔵の経歴などについては片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』、それに『職工事情』、岩波文庫版(下)に収録されている「明治三十三年十一月、某鉄工場職工の談話」252ページ以下参照。





法政大学大原研究所        社会政策学会


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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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