高野房太郎とその時代 (90)6. 労働運動家時代治安警察法公布
鉄工組合が苦境に陥っていた時、これに追い打ちをかける形になったのは、1900(明治33)年3月10日に公布され、同月30日から施行された治安警察法でした。労働組合期成会が制定を強く要望した「工場法」が、法案策定から成立・施行まで20年近い歳月を要したのとは対照的に、治安警察法は2月13日に衆議院に上程され、僅か11日間の審議で両院を通過し、法律第36号として公布されたのでした。 其ノ次ニ第十八条〔議会における修正により一条削除されたため、法律では第一七条となった〕。之ハ詳シク申シ上ゲマスルマデモアリマセヌ、ゴ一読下サリマスレバ御了解下サルコトデアラウト存ジマス、之ハ追々近来工業ガ発達致シマスルニ付キマシテハ、雇主ト労働者ノ間ニ随分確執ヲ生ジ易クナッテ居ルノデゴザイマス。御承知ノ通労働者ノ共同ノ組合即チ団結モ、大阪或ハ東京其外今日デハ九州ノ方ニモ起リカケテ居リマス、ソレカラ労働契約ノ条項変更若クハ賃銀ヲ上ゲテ貰ヒタイト云フコトニ付キマシテハ、同盟罷工ヲナスノ風ガ追々盛ンニナッテ参ルノデゴザイマス。〔中略〕 「或鉄道会社ノ労働者ガ同盟罷工ヲ為シ」以下の発言は明らかに日鉄機関方ストを指しており、「砲兵工廠ノ労働者ガ同盟罷工」と言った時に念頭にあったのは、東京砲兵工廠を組織基盤とする鉄工組合の存在であったに違いありません。 ところで、この治安警察法こそ、生まれたばかりの労働組合運動を圧殺したものであるとする主張が、これまで何回となく繰り返されてきました。大河内一男・松尾洋『日本労働組合物語』をはじめ、労働運動史や日本近代史の通史の多くに共通する見解です。しばしば治安警察法は「労働組合の死刑法」「団結禁止法」だったと論じられています。しかし実際には、治安警察法の公布前に鉄工組合は衰退傾向をたどっていたのでした。また法律の文言を見るかぎり、同法に労働組合の団結を禁止する条項はありませんでした。それどころか、法案の趣旨説明では、次のようなことさえ言われているのです。 大体政府ニオキマシテハ労働者ノ共同団結シ、若クハ賃銀ノ値上ゲ其他ニツキマシテノ同盟罷工ヲナスト云フコトハ、労働者ノ権利ト認メテ居ルノデゴザイマス。ソレ故ニ とはいえ、同法の第17条は1926(大正15)年に廃止されるまで、労働組合運動を抑圧する効果をもったことも、また確かな事実でした。では、治安警察法第17条は、どのような規定だったのでしょうか。まず条文を見ておきましょう。 左ノ各号ノ目的ヲ以テ他人ニ対シテ暴行、脅迫シ若ハ公然 「 一方、鉄工組合は創立以来、ストライキについてはきわめて慎重な態度をとってきました。もちろん労働者の権利としてのストライキを否定はしませんでしたが、ストライキにいたる前に組合が「紛議の仲裁」をおこなって解決をはかるという姿勢をとり続けて来ました。1899(明治32)年におこなった講演「日本に於ける労働」のなかで、片山潜は次のように述べています*2。 吾々の組合は今日まで一度も同盟罷工はしない。如何さま度々同盟罷工をしなければならぬといふやうなことは無きにしもあらず。又支部間に於ては是非同盟罷工をやるからと言つて来たこともございます。併しながら組合の規約上、若し資本家と労働者との衝突が起つたならば、それは直ちに支部の幹事に通知して、支部の幹事が仲裁の労を執つて、それで行かなければ本部に持つて来て本部が仲裁の労を執る。本部が仲裁の労を執って、それでも行けなければ、本部が許す以上は同盟罷工をしても宜い。若し本部が許さなければ退会した以上でなければ同盟罷工は出来ないと云ふことになつておりますからして同盟罷工は中々出来ない。 このように、鉄工組合は、本部が直接傘下の労働者の賃金引き上げ運動や待遇改善運動を組織することはありませんでした。支部が争議を起こした場合でも、本部は「紛議の仲裁」という形で支援するにとどめ、極力ストライキを避けようとして来たのです。とは言え、治安警察法が制定されれば、運動の今後に大きな障害となりうることは、容易に予想されました。 該法第十八条〔制定された法の第17条は、原案では第18条であった〕は、従来本会の為し来りたる運動に及ぼす影響如何と云ふ問題は、敢て該法に触るゝ所なしと信ず。然れども紛議仲裁の場合に於て極力職工者の利益を主張する時は、為に不測の禍を招くやの虞あり。就ては公布の上は早速、警保局長、商工局長、警視総監を訪問して意見を聞き、然る後に組合の態度を定むべし。依って議長は左の三氏を委員に指名せし。 最盛期には、あれほど熱烈な工場法制定運動を展開した鉄工組合でしたが、治安警察法という、組合により直接的な影響が懸念される立法に、組織的な反対運動を展開する力は、もはや残っていなかったのでした。もっとも、法案上程から僅か11日後の議会通過では、仮にその力量があったとしても、反対運動を組織する時間的余裕はなかったと思われますが。 いずれにせよ、治安警察法の公布によって、直ちに鉄工組合が解散に追い込まれるといった事態にはなりませんでした。組織の実勢を示す会費納入状況は、1900年2月を最後に『労働世界』に掲載されなくなっていますから、治安警察法公布後の変化を知るのは困難です。しかし、それに代わるデータとして「大宮事件」に関する臨時会費徴収の結果が『労働世界』第62号(1900年6月1日付)に公表されています。同年4月現在の数値ですから、治安警察法制定直後の鉄工組合の組織実勢をうかがい知る手がかりにはなります。支部別の人数も分かっており、以下の通りです*4。
見られるとおり、19支部、542人の組合員がこの臨時会費徴収に応じています。すでに見た2月の組合費納入人員963人と比べると、ほとんど半減に近い数です。しかし他支部の解雇労働者を支援するための臨時会費ですから、その納入人員は、通常の組合費納入人員より少なかったであろうことも当然予想されます。組織の実勢はこの人数よりは多かったと見てよいでしょう。つまり1900年4月時点では、鉄工組合はまだ大衆組織として存続しており、壊滅状態に陥っていたわけではない、と考えられます。
【注】*1 労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第1巻、745ページ。 *2 片山潜「日本に於ける労働」(岸本英太郎編『明治社会運動思想』(上)、99ページ)。 *3 『労働世界』第56号(1900年3月1日付)、復刻版528ページ。 *4 『労働世界』第62号(1900年6月1日付)、復刻版578ページ。 なお、元の史料では、第27支部の納入人員は23人、納入金額は1円20銭、第40支部は納入人員3人、納入金額1円90銭となっている。臨時会費は1人当たり5銭であったから、組合員数は金額によって逆算した24人と38人に改めた。 |
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