高野房太郎とその時代 (95)7. 終 章動乱の中国へ 房太郎が移住した当時の清朝中国は、貪欲なシャチの群れの襲撃を受けて、傷つき衰えた「老鯨」といった様相を呈していました。世界の列強は競って中国に進出し、戦略上の重要拠点を「租借」の名のもとに実質的な領土としたほか、鉄道敷設・鉱山開発など種々の利権獲得を、虎視眈々と狙っていたのです。これに対し、摂政・西太后と光緒帝を中心とする清朝は、なす術もなく譲歩を重ねていました。実のところ、阿片戦争、アロー号戦争、清仏戦争、日清戦争と相次ぐ戦争に敗れた清国には、こうした列強の進出に有効な手だてをとる力は残っていなかったのでした。 房太郎が渡清したのは、まさにこの「北清戦争」終結直後の時期でした。移住地の天津は、戦争で最初の主戦場となった山東半島の港湾都市で、戦火の跡もなまなましい状態だったことでしょう。
高野房太郎氏は去る五日天津より帰り、直ちに北清貿易会社を設立し、再び渡清せしよし。 土地不案内な海外にいきなり家族を同伴したとは考え難いので、おそらくこの一時帰国は、キクと美代を連れて行くことを主目的としたものだったのでしょう。なお、すでに紹介した英文通信では、「he will start a store with his old chum Jo Tsunetaro.」と報じられていました。これを前回は「旧友の城常太郎と一緒に商店を開くとのことである」と訳したのですが、「a store」は「商店」ではなく「商館」か「商会」を意味していたようです。設立した会社の名「北清貿易会社」から推して、日中貿易を企てていたことは明らかですから。ただ、城常太郎が天津に渡ったのは1901(明治34)年2月のことで、二人が共同で事業を始めることはなかったようです*2。北清貿易会社の経営はすぐに行き詰まったらしく、開業後2、3ヵ月しか経たない同年暮に、房太郎は北京に移住しています。『労働世界』第69号英文欄は、つぎのような短信を載せています*3。 Mr. F. Takano has moved from Tensing to Peking where he will start a store.(F.タカノ氏は天津から北京に移住した。同地で商売を始めるようである。) ただし、この記事のうち、北京移住の目的についての報道は不正確で、北京に移ると同時に、房太郎は貿易業とは無関係な仕事についています。『労働世界』第70号英文欄には、以下のような消息が掲載されているのです*4。 Mr. F. Takano has returned to Bakan on business and sent to us a happy new year. He will be in Peking after few days stay at Bakan. He is in a German army. ここで問題となるのは、この「ドイツ軍にいる」という言葉の意味です。当時北京は、義和団事件鎮圧のために進攻した列国連合軍の占領下にありました。なかでもドイツ軍は、事件鎮圧後に到着した2万4000人という連合軍中最大の兵力を有し、連合軍の総司令官も出していました。房太郎が加わったのが、この北京駐留中のドイツ軍であったことは、まず間違いのないところです。ただこのように多数の兵を擁していたドイツ軍が、房太郎を単なる一兵士として雇う必要がなかったことは明瞭です。仮に必要があったとしても、30歳を過ぎた小兵の房太郎を兵隊として雇おうと考える軍隊などないでしょう。 明治三十四年六月廿七日北京退去前四日 この時期、ドイツ軍をはじめ列国連合軍は、まだ北京に留まっていました。清国政府と責任者の処罰と賠償金の支払い等について交渉中だったからです。交渉がほぼまとまり、連合軍が北京から撤退を開始したのは同年7月のことでした。一方、房太郎が北京を去ったのは1901年7月1日のことなのです。さらに、房太郎が北京を去って赴いた青島は、言うまでもなくドイツの租借地である膠州湾の拠点都市で、ドイツ軍はここに常駐していました。 この従軍行〔新聞『日本』の特派員として義和団事件の報道に従事〕は、彼〔竹川藤太郎〕の後半生を決定的なものとした。すなはち、彼は戦塵も収まらぬ裡に、はやくも近衛篤麿の斡旋によって、天津に同利洋行を設立し、卅四年には大連に転じて、露国経営の桟橋建設事業に従ひ、更に青島に移って、在米当時からの友人高野房太郎と共に、貿易を営む様になったのである。けれども、これらの事業は、何れも失敗に終った。殊に、この方面に於ける邦人の進出を好まぬ独露両国の圧迫は意外にも強く、卅五年には、九州唐津から青島に廻送した汽船の積荷石炭一千噸を、独逸官憲の為に押へられ、揚陸を阻止される様な事態が発生した。幸ひ、この時は、ドイツ国籍にあった日本女性矢島ハルの助言によって、辛うじて事無きを得たが、この時よりして竹川は、北清の知に見切りをつけ、同年のうちに、次弟昌信その他を従へて、上海に移った。 竹川藤太郎が房太郎のサンフランシスコ時代からの知己であることは、すでに第41回で見たとおりです。房太郎も寄稿している『遠征』の編集者でした。中村忠行氏が上記のような説を述べる上で根拠としたのは、主として『東亜先覚志士記伝』および『対支回顧録』*6に収められた竹川藤太郎の経歴だと思われます。ただ、前者では「在米時代の友人高野房太郎等と画策する所あつた」と記されているだけなのです。ただし『対支回顧録』にある「九州唐津から」石炭を輸入した事実は、房太郎の関与を推測させます。ほかならぬ姉キワと義兄・井山憲太郎が住んでいたのは、九州唐津だったからです。
いずれにせよ青島における2年半余は、それまで「転々流浪」を続けた房太郎の生涯のなかで、比較的落ち着いた日々だったのではないでしょうか。アメリカ時代はもとより、日本に帰ってからも、房太郎は単に忙しいと言うだけでなく、たえず引っ越しを繰り返す、何とも慌ただしい暮らしぶりでした。ことによると、青島でも何回か転居しているかもしれませんが、運動から離れ、生まれて初めてのんびりと落ち着いた生活を楽しんでいたと想像されます。海に面し、ドイツ風の建築が建ち並ぶ青島の風景は、サンフランシスコでの青春時代を思いおこさせたことでしょう。もっとも、青島はまだ都市建設が始まったばかりでしたから、サンフランシスコよりはタコマを想起したかもしれません。 【注】*1 『労働世界』第67号(1900年11月1日付)、復刻版616ページ。 *2 牧民雄著『ミスター労働運動──労働運動のパイオニア・城常太郎の生涯』(未刊の稿本)による。 *3 『労働世界』第69号(1900年1月1日付)、復刻版644ページ。 *4 『労働世界』第70号(1901年1月15日付)、復刻版652ページ。 *5 中村忠行稿「『重慶日報』の創始者竹川藤太郎」(1)『天理大学学報』40輯、1963年3月、18ページ。
*6 国龍会編『東亜先覚志士記伝』(下)301〜302ページ。原書房《明治百年史叢書》復刻版(1966年刊行)による。 |
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