高野房太郎とその時代 (96)7. 終 章青島に死す 1904(明治37)年3月12日、房太郎はこの世を去りました。終焉の地は、中国は山東半島の港湾都市・ 房太郎の訃報を祖国にいる人びとが知ったのは、その死から2ヵ月近い時日が経ってからでした。同志であり、親友でもあった横山源之助が、1904(明治37)年5月4日付と9日付の『毎日新聞』に、2回に分けて追悼の記事を書いています*2。「労働運動卒先者の死」と題するその一文は、房太郎の経歴と労働運動および消費組合運動における業績を記した上で、次のような弟・岩三郎の言葉を紹介していました。 令弟、高野大学教授、 房太郎は「失敗の人」だった、との思いは、岩三郎だけでなく高野家の人びと ── 母マス、姉キワ、義兄井山憲太郎ら ── に共通するものでした。幼くして父を失い、戸主となった房太郎に、高野家の面々は大きな期待を寄せて来ました。一方、小学校・高等小学校を通して優等生で失敗を知らなかった房太郎自身、実業界での成功はすぐ手が届くところにあると考え、希望に燃えて渡米したのでした。
なお、これより少し前、高野家の人びとを大喜びさせる出来事がありました。1903(明治36)年4月、高野岩三郎が、4年のドイツ留学から帰国し、同年5月に「帝国大学法科大学教授」に任ぜられたのです*3。この知らせは、父親代わりの房太郎にとっても誇らしく、嬉しいことでした。長い間、貧しい生活のなかから学費を送り続けて来た弟が、ついに日本唯一の最高学府で統計学の教授となったのですから。しかし喜びの反面で、学問一筋に精進することが出来た弟に、ある種の妬ましさも感ぜずにはいられなかったと思われます。房太郎自身、経済学になみなみならぬ関心を抱き、経済学書を買い集めていました。岩三郎が経済学を専攻するようになったのも、房太郎の影響が小さくありませんでした。こうした岩三郎の出世を人びとが讃えれば讃えるほど、房太郎は「失敗者」としての自分を意識せずにはおられなかったでしょう。自尊心が高い房太郎にとって、この落差は、心を乱すもとになったに違いありません。肉体的な苦痛にさいなまれる病の床にあって、こうした気持ちの乱れが加わったのですから、晩年の日々の辛さが思いやられます。
房太郎の葬儀は青島で営まれ、現地で 労働運動の卒先者にして、兼て鉄工組合を創立し、消費組合を創設したる労働社会の明星、高野房太郎君が、清国山東省に逝けるは、既に三ヶ月の前に経過す。数日前、遺骨東京に到着し、明二十六日午前九時を以て、駒込吉祥寺に其埋骨式行はると聞き、感慨の湧起するを禁ずる能はず。 『毎日新聞』の訃報からほぼ1ヵ月後、『労働世界』の後継誌『社会主義』も房太郎の死を伝えました*5。1904(明治37)年6月3日付で、次のような短信を掲載しています。 故高野房太郎氏 三月十二日清国山東省に於て病没されたる同氏は労働運動の率先者にして嘗て米国にありて靴工組合の創設に尽力し、沢田半之助城常太郎諸氏とともに職工義勇団を組織し帰朝後片山潜鈴木純一郎の両氏と共に労働組合期成会を起し其の後横浜及東京八丁堀に消費組合を設け自ら番頭と成りて尽瘁したるも時期の可ならざる者ありて失敗に終り暫く運動を中止し清国に渡りて雑貨業を営みつつありしに不幸其の訃に接するに至れり又同氏は当社会主義と改題せる雑誌労働世界の創立に一方ならざる尽力を与へられ且つ鉄工組合にも少なからさる助勢者たりしといへば知るも知らぬも我労働界の為めに其の死を惜しまざるは無し。 この時期、片山潜は日本を離れていましたから、この記事は『社会主義』編集部の山根吾一か西川光二郎が執筆したものでしょう。横山源之助の真情あふれる2本の追悼文にくらべると、いかにも素っ気ないものです。筆者が友人ではありませんから事務的になるのは仕方のないことですが、問題は「職工義友会」を「職工義勇団」としたり、鉄工組合における房太郎の役割を「助勢者」とするなど、歴史的な事実について不正確な点が多い点です。とくに労働組合期成会の創立に関して、房太郎を片山潜・鈴木純一郎と並べて、これを「起し」た一人と位置づけていますが、期成会の創立者としては誰よりも高野房太郎をあげるべきで、片山の役割は、房太郎と比べればはるかに小さなものでした。この一文は、片山派の「我田引水」的なもので、公正を欠いていると言わざるをえません。これについては、すでに「労働組合期成会の創立者は誰か?」で詳しく述べたので繰り返しません。ただ、『日本の労働運動』をはじめ、この種の偏りを含む記録を無批判に使用してきたことが、明治労働運動史の実像を歪める結果を招いている点を、この機会に指摘しておきたいと思います。 【注】*1 以上は主として『大日本人名辞書』所収、高野岩三郎稿「高野房太郎」による。 *2 横山源之助「労働運動卒先者の死」『毎日新聞』1904(明治37)年5月4日付、および5月9日付。なお、全文を別ファイル〈横山源之助「労働運動卒先者の死」〉に翻字しているので参照されたい。また、立花雄一編『横山源之助全集』第4巻(法政大学出版局、未刊)に収録予定である。 *3 大島清著『高野岩三郎伝』(岩波書店、1968年刊) 39〜57ページ。 *4 天涯茫々生「高野房太郎君を憶ふ」『東洋銅鉄雑誌』第1巻第1号(1904年6月号)。後に横山源之助『凡人非凡人』(新潮社、1911年刊)に小改訂の上「労働運動者」と改題して採録。立花雄一編『横山源之助全集』第4巻(法政大学出版局、未刊)に収録予定。 *5 『社会主義』第8年第8号、1904(明治37)年6月3日付。 |
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