高野房太郎とその時代 (98)7. 終章拾遺(1) 日記から読み解く房太郎の日常 これまで、公的な活動を中心に房太郎の足跡を追って来ました。しかし人ひとりの生涯を明らかにするとなれば、公的な側面だけでなく、どのような日常生活を送っていたのかについても知りたいと思います。いや、知らねばならないでしょう。ただ、一般にそうした日常生活に関する情報は残りにくいものです。肉親や周囲の人びとの思い出でもあれば良いのですが、房太郎に関する岩三郎の回想は、私生活についてはまったくふれていません。伝記小説なら、むしろこうした情報の欠如はイマジネーションをふくらませるのに好都合なこともあるでしょうが*1、歴史研究の場合には困ります。史料的な裏付けなしにものを言うことは出来ませんから。 ちなみにこの年、房太郎は2回転居しています。1月下旬まで横浜に住み、神奈川県久良岐郡戸部町の下河辺家に下宿していました。下宿料が5円だったことも、支出欄から分かります。その後も横浜へ赴いた折には、しばしばこの下河辺家に泊まっています。横浜には2人の伯父が始めた高野屋、糸屋という2軒の宿屋があり、房太郎の従兄弟の代でも繁昌していた様子ですが、そこに立ち寄った形跡はありません。どうやら、伯父たちが亡くなった後、横浜の親戚とはやや疎遠になっていたようです。 もう一度、日記に戻りましょう。毎日の記述はごく簡単なものばかりですが、日々の行動を記しており、これによって初めて分かる事実がいくつかあります。その中でちょっと面白いのは、彼が職工義友会を再組織する直前、夜間に「柔術」を習っていることです。先ずは関連した記述を抜き書きして見ましょう。 3月15日(月) 此日ヨリ八木原先生ニ付柔術ヲ学ブ。 なぜ柔術を習おうなどと考えたのかは、分かりません。労働運動を始めるとなれば、なんらかの暴力沙汰に出会うおそれがあり、それに備えるためだったのかもしれません。ただ、中断しては再開するの繰り返しで、あまり熱心に練習している様子はありません。 8月14日「午后四時沢田氏方ニ至リ后八時帰宅ス。此夜非常ニ腹痛シテ遂ニ眠ラズ」 この6、7年後には肝臓を患って夭折しますが、この時の腹痛は、これとは無関係でしょう。2日ほどで治まっていますし、「肝臓膿瘍」という病気は急性のもののようですから。
ところで、いま引用した箇所で、もうひとつ目につくのは「沢田氏方ニ至リ」です。これは、この時だけでなく、6月下旬以降頻出します。それ以前には「城氏ヲ訪ヒ」が良く出て来ますが、6月21日を境に消え、以後「沢田氏方ニ至リ」がこれに代わります。初めは「職工義友会の三人組」の関係に何か変化があったのかと疑ったのですが、どうやらそうではなく、事務所が城常太郎の家から沢田半之助の店に移ったことによると思われます。房太郎は、職工義友会ただ一人の専従活動家であり、また労働組合期成会の幹事長として、しばしば事務所に詰めていたことが分かります。 本会事務所ヘ幹事長出張ノ時間左ノ通リ改正致候間此段御通知申上候也 この時には、期成会の事務所はすでに沢田洋服調進所から、貸席・柳屋に移っていましたが、房太郎の勤務はなんと1週間7日、つまり年中無休です。ところで、この「出勤」の際はいつも人力車に乗り、その都度20銭前後の「車代」が支出されています。片道10銭ということでしょう。ごくたまに馬車も利用しています。馬車代は4銭程度ですから、これは「乗合馬車」でしょう。これらの記録から、この時期には、まだ自転車を使っていなかったことが分かります。路面電車開通前のことですから、人力車を使うことがとりたてて贅沢というわけではありません。ただ少し歩けば馬車鉄道を利用するルートもあったはずですが、そうはしていません。
日記のなかで貴重な情報源は収支欄です。そこからは、他の記録からは知り得ない房太郎の日常生活をかいま見ることが出来ます。 此日午前十一時上野ニ至リ、三堀、河合、猪飼、角田ニ面会シ、岩三郎ノ来ルヲ待チ、一同相携ヘテ春陽楼ニ至リ昼食ヲナシ、終リテ鉄道馬車ニテ浅草ニ至リ公園内写真ニテ撮影シ、更ニ歩ヲ推シテ亀戸ニ至リ□□ヲ見ル。帰途、舟ニテ隅田川ヲ下リ、両国橋際ニ着シ、歩シテ木挽町萬安ニ至リ入浴后飲食ス。 ここに名があがっている三堀〔為吉〕、河合〔順三郎〕、猪飼〔熊三郎〕、角田〔虎之助〕は、いずれも横浜在住の人びとで、講学会時代からの友人です。横浜を離れる際に送別会を開いてくれた旧友を、上野・浅草に招いて、房太郎がお返しをした形です。この日の支出欄には「西洋料理5円4銭、萬安5円43銭」と記されており、金額から見て、この日の会食はすべて房太郎の「奢り」だったと思われます。
この時期房太郎は定職をもたず、収入も決して多くはなかったのですが、先ほどみた横浜時代の友人を招いた例のように、金遣いは派手です。外出の際にはよく人力車を使っていますし、庶民はまず口にしなかったコーヒーとミルクに61銭、ビスケットに20銭といった、当時としては極めて高価な食品を買っています。タバコも25銭のシガー、つまり葉巻を買っています。いずれもいわゆる「舶来品」に違いありません。アメリカでの生活を思い出すよすがといったところでしょうか。 4月1日(木) 「此日后六時半大沢君来ル。共ニ携ヘテ中金ニテ飲ミ、直ニ車デ千住ニ向フ。世界楼ト云ヘル家ニ至リテ宿ス。」 大沢竜吉は下谷区山伏町に住んでいた友人で、房太郎の遊び仲間です。彼も恐らくアメリカ帰りでしょう。鈴木純一郎は東京工業学校の講師であり、農商務省の嘱託として房太郎に翻訳の仕事を発注したり、辞書の出版に際し書店を紹介するなど、公私両面で有力な支援者でした。 こうした派手な金の使い方は、房太郎が長年のあいだの一人暮らしで、気ままに過ごした間に身につけた習慣という側面があるに相違ありません。しかしそれと同時に、あるいはそれ以上に、お祭りが好きで、「着倒れの町」として知られた長崎の商家が培ってきた贅沢な生活文化を、房太郎も受けついでいたからではないかと思われます。左の写真をご覧ください。父を失った後なのに、房太郎・岩三郎の兄弟は、その頃の子供としてはきわめて異例なことに、高価な洋服と靴を身につけさせられているのです。しかも高野家は少し前まで、和服の仕立てを家業とする家だったのです。身だしなみに金を惜しまない生活感覚が、房太郎の育った家にあったことは明らかです。房太郎がいつもおしゃれに気を使っていたことは、残された何枚かの写真から十分にうかがえます。どれをとっても、その場所にふさわしい、いつもTPOを考えた服装をしているのです。
一方、これと対照的なのは片山潜の場合です。都会育ちだった房太郎と異なり、片山は中国地方の山村の生まれでした。それと、同じように、アメリカ暮らしが長かったとは言え、二人の環境はまったく違っていました。片山の場合は、大学のキャンパス内で学僕をしながら学び、夏休みには学費を稼ぐアルバイト生活を続けていましたから、倹約はごく普通のことでした。 ついでまでに片山のことを云ふと、彼の洋服姿といふものはついぞ筆者は見た事がないといつていゝ程で、彼は何時も短い紺飛白に駒下駄の格好で、ビラと墨汁入れのブリキ缶と筆とを提げて、渋い顔をして朝家を出てまた渋い顔をして夜も遅くなつてから帰つて来る。そして黙りこくつたまゝで挽割飯へ水道の水をジャブジャブ注ぎ掛け、生味噌か沢庵でいつも食事を済ませてゐる」 こうした粗末な衣服、粗末な食事は、片山家の経済状態が逼迫していたから、やむを得ずしていたと言うわけではありません。片山は家賃を払う必要のない家を持っており、米問屋をしていた亡妻の兄がときどきは米俵を差し入れてくれていたとのことです。質素な暮らしぶりは、貧しさのためというより、長年のあいだに彼の身についた生活習慣によるものでしょう。
話はいつの間にか片山潜の日常に逸れてしまいましたが、もう一度房太郎の方に戻りましょう。つぎは房太郎の収入源についてです。 いずれにせよ、無報酬で労働運動を続けることは容易ではありませんでした。安定した収入の基盤がないこと、これが房太郎の最大の泣き所だったと言えるでしょう。しかもいったん有給役員になったのに、会の財政が困難と分かるとすぐに手当を返上しています。こうした姿勢は、爽やかではありますが、専従活動家としては無理がありました。金銭面できわめて現実的であった片山潜にくらべ、房太郎の方は、いささか非現実的で夢想家的な性格だったことは否定できないように思われます。もっとも、だからこそ単なる啓蒙家ではなく実践家になりえたとも言えるのですが。 【注】*1 ショートショートの名手として知られた星新一は、父や祖父についての伝記作者でもあった。その彼が『祖父・小金井良精の記』のなかで、つぎのような感懐を洩らしている。 祖父のことを書く気になった時、私は気楽に考えていた。断片的な資料をできうる限り集め、あとの空白部分を想像で埋め、私のいだいている祖父の人物像を再現すればいいと思っていた。空白部分を埋める作業には、パズルを解くような面白さもある。〔中略〕 歴史家からすると、ずいぶん贅沢な悩みだと思うが、作家としては当然の思いなのであろう。 *2 『労働世界』第4号(1898年1月15日付、復刻版41ページ)。 *3 1887年7月31日付の高野房太郎より高野ます・同岩三郎宛書簡に、「此頃ニテハ日本ニ居リシ時の之如ク決シテ寝坊ニテハ無之候」と記されている。 *4 「n.q.」のほか「北ニ至ル」と記されていることもある。北が吉原を指しているであろうことは、日本橋辺を起点とした地理的関係からも推測されるが、6月1日の項に「此夜大沢君来ル。相伴フテ北ニ至ル、河内楼。」と記しているので、確認できる。また「サウス」と記されている日もあるが、これは新橋か品川であろう。 *5 吉川守圀『荊逆星霜史──日本社会主義運動裏面史』(青木文庫、1957年)160ページ。 *6 6月21日、大倉書店から商業英会話の原稿料が50円入った時には、それまでの母からの借金10円を返すと同時に20円を預けている。手許にまとまった金をもっていては、すぐ使ってしまう性癖をマスが懸念し、本人も自覚していたからであろう。 |
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