高野房太郎とその時代 (99)7. 終章拾遺(2) 遺された人びと房太郎が世を去った時、遺された妻キクはいまだ22歳の若さでした。独り身を通すには前途にあまりにも長い日々が残されていたのです。間もなく高野家の戸籍からキクの名は抹消され、届出事項欄には以下のような記述が書き加えられました*1。 明治参拾八年拾壱月弐拾弐日日本橋区呉服町壱番地平民横溝龍太郎方へ入家届出。同日日本橋区戸籍吏大庭知栄受付。仝年拾弐月弐日届書及入籍通知書発送。仝月四日受付除籍 要するに、房太郎が亡くなって1年半ほど後に、キクは実家の横溝家に戻る形をとって高野家を離れたのでした。こうした事態がなぜおきたのか、その実情は外部からは容易にうかがい知ることが出来ないものです。ただ幸いなことに、関口正俊氏がいろいろ調べた上で、情報労連の機関誌に発表された「その後の房太郎 ── 二人の子供を残して高野家を去った妻・菊の人知れぬ後日談」があります*2。この話をふくめ、房太郎についてしばしば触れられた関口氏のコラム《労働組合の社会学》は、以前はオンラインでも読むことが出来たのですが、今は残念ながら消えているようです。そこで、以下にこの「後日談」の主要部分を紹介して置きましょう。 房太郎の死後には人知れぬ後日談がある。彼の死によって妻菊(23歳)と、みよ(5歳)、ふみ(1歳)の2人の女の子が残されることになる。 なお、キクのその後については大島清氏も心にかけ、1980年3月14日に岩三郎の長女・宇野マリア氏から「聞き取り」をされています。その折、大島氏が作成した「談話メモ」*3が残っていますが、その回想にあるキクの姿は、関口氏の調査結果とはいくつかの点で異なっています。マリアの話は、幼い頃の聞き覚えもまじり、細部の信憑性には疑問もあります。ただ、キクに関する記録はほとんどないので、この機会に紹介しておこうと思います。 キクは日本橋の米屋の娘で、京橋の料亭菊屋で働いていた。房太郎の死後、キクは中国領事館の領事次官と仲良くなって、パリへ行った。キクはその愛人に捨てられて日本に帰り、本郷神明町の家に来たことがある。宝石を沢山もっていた。おばあさんは金を貰い、美代やマリアに矢がすりの銘仙を買ってくれた。その人は家に2、3泊して日本橋の実家へ帰って行った。 キクが亡くなったのは1914(大正3)年1月22日のことでした。夫の死からちょうど10年後のこと、享年33歳、満年齢では32歳と2ヵ月余、房太郎よりさらに薄命でした。マリアの談話にもあるように、キクは高野家の墓に入ることを望んでいたのですが、房太郎の母マスは、これを拒み通しました。後家を通して高野家を支え続けたマスにとって、貞節を守らなかった嫁を高野家の墓にいれることなど、心情的に許せなかったに相違ありません。しかし後年、美代の切なる願いをうけ、岩三郎は、房太郎の隣にキクの遺骨を納めました。おそらく地下の房太郎もこれを喜んだのではないでしょうか。
かくて長女の美代は、父を失い、母に去られ、妹とも死別するという、文字通り天涯孤独の身の上となったのでした。しかし美代は、高野家の一員として、マスや岩三郎の庇護のもとに育てられました。実をいうと、戸籍上では美代が房太郎の後を継ぎ、高野家の戸主となっているのです。もちろんマスが後見人となってのことですが。したがって、「高野みよ」を戸主とする戸籍の末尾に、親代わりの叔父・岩三郎の名が記され、岩三郎の結婚を美代が承認するという、形の上では逆転した時期さえあるのです。
高野一家のなかでもっとも頑健だったのは母のマスです。32歳で夫に先立たれてからは、宿屋や学生下宿を営なみ、女手ひとつで息子を育て、次男は帝国大学の大学院まで学ばせたのです。長男・房太郎からの仕送りがあったとはいえ、月10ドル、日本円にして20円程度では、暮らしをたてた上に息子を最高学府で学ばせるには、とうてい足りない額でした。それを「面倒見のよい下宿のおばさん」として働きつづけ、家計を支えたのです。息子が東大教授となってからも学生下宿を続けたほどですから、人の世話をするのが好きだったのでしょう。下宿生や息子の友人、さらには親類縁者からも慕われ頼られる存在だったようです*4。 姉・キワは、肥前唐津在、現在の佐賀県唐津市浜玉町平原の旧家井山家に嫁ぎました。夫となった憲太郎は、かつて長崎屋に下宿していた学生でした。医学を志し東大医学部に学んだのですが病に倒れ、郷里で小学校の訓導として働いていました。その傍ら村会議員となり、村人に柑橘栽培を勧め、玉島村農会長、郡園芸会長などを歴任し、この地方を蜜柑栽培の先進地としたのでした。病弱な夫が対外的な活動に専念する間、家業の農業は都会育ちのキワが守りました。作男、作女を監督しつつ、自らも農具を手に働き、村人から「とても東京から嫁に来た人とは思えない」と言わしめたほどでした。夫憲太郎は1922(大正11)年3月1日に亡くなりましたが、キワは戦時下を生き抜き、1953(昭和28)年9月14日に逝去しました。1866年8月27日(慶応2年7月18日)の生まれですから享年88歳、満87歳でした。 最後にようやく弟・岩三郎を取り上げる番になりましたが、詳しく語れば、これだけで数回分にはなってしまうでしょう。ここは、回を改めて述べるほかありません。 【注】*1 明治39年7月27日付で発行された高野家の戸籍謄本による。本籍地は、東京市本郷区駒込西片町十番地、戸主は高野みよ。 *2 『情報労連リポート』2001年4月号所収、「労働組合の社会学」第53回。 *3 この「談話メモ」は大島清先生のご遺族から二村がいただいた資料のなかにあった。 *4 大内兵衞「社会政策学会と高野先生」(『かっぱの屁』(法政大学出版局、1961年刊、所収)27〜30ページ。
*5 なぜか大島清著『高野岩三郎伝』(岩波書店、1968年)は、この岩三郎の結婚の経緯についてまったく触れていない。大島清氏が収集された書簡などから、このふたりが結ばれ、長女が生まれたのは、留学中であることが判明する。すなわち、マリアの誕生日は1902年3月であり、岩三郎とカロリナが結ばれたのが1901年中であることは明らかである。
なお、岩三郎は、留学を終えて1903(明治36)年4月に帰国した際、カロリナもマリアも同伴しなかったものと推測される。岩三郎帰朝記念撮影と思われる右の写真に、カロリナ、マリアが写っていないことが、これをうかがわせる。ちなみに、この写真で最前列にいる少女は高野美代である。二女ふみの出産時に青島に赴いたマスが、帰国時に美代を連れ帰り、日本で教育を受けさせようとしたものであろう。 *6 高野岩三郎より12年前、ドイツ留学を終えて帰国した森林太郎の跡を追う形で、現地で親しくなったドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日した。この女性こそ、鴎外の「永遠の恋人」であったこと、この女性との結婚には鴎外の母が激しく反対し、鴎外は一時は軍医の辞表を出してまでその意を貫こうとして果たさなかったこと、この体験が鴎外文学に色濃く陰をおとしていることなどについては、小平克『森鴎外論──「エリーゼ来日事件」の隠された真相──』(おうふう、2005年)および林尚孝『仮面の人・森鴎外──「エリーゼ来日」三日間の謎』(同時代社、2005年)を参照。 |
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